吉本隆明<言説集>記事一覧
酒鬼薔薇事件を読み解く
『超「20世紀論」上巻』アスキー、2000年9月 吉本は、「まえがき」で、次のように書いています――「もう、まともな話を聞いてくれる雑誌もなくなったし、まともな疑問をぶつけてくれる編集者も口を閉ざすほかなくなってしまった。これが、物書きとして心細くなったときのわたしの現状の社会認識だった」。「そんな...
ダイアナの死
ダイアナの死 ダイアナの死 吉本は、<ダイアナの死>に関することについて、出版社のインタビューに答えて、次のように述べています。1)イギリス王室は、離婚問題解決のために、ローマ・カトリックから離脱し、イングランド国教会・英国聖公会を成立させたヘンリー8世に代表されるように、離婚だけでなく浮気も平然と...
テレビの読み方
吉本隆明『超「20世紀論」』アスキーに基づく ここで吉本が語っていることは、<現在性>があることばかりですから、簡潔に整理してみました。1)エコロジー 西洋近代、科学主義の対極にある反文明主義、環境主義としてのエコロジーの根本的な誤謬は、進歩・発達を不可避的とする自然史の一部である世界史・人類史の自...
島尾敏雄論――その「原像」としての関係の異和
『吉本隆明全著作集 9』「作家論V」に基づく「<原像>」 「関係意識のちぐはぐさ」・「関係の異和」は、誰であれ遭遇するものです。賢治の『よだかの星』の、ほかの鳥から嫌がられ・悪口を言われ・いじめられて、しかしその自分自身も知らず知らずのうちに小さな虫を食べて生きている側にあることを痛感して、最後は泪...
オカルトの迷妄性
『超「20世紀論」 下巻』アスキーに基づく1)ノストラダムの1999年7月「大王降臨」預言の破綻 『ノストラダムスの大予言』を書いた五島勉も、未来の予言をする「幸福の科学」の大川隆法も、未来・現在・過去を「実体化」する絶対的な思考を前提としているのだが、時間は実体化できないから、その前提は根本的に誤...
インターネットの本質とその陥穽
『超「20世紀論」 下巻』アスキーに基づく インターネットは、情報科学や情報工学の発達に伴って発達してきたものである。その源泉は、記号論や情報論の軍事情報技術(例えば、「敵国に解読できない暗号を考え出す」)の発達を促した特に第二次世界大戦にある。大戦後におけるその情報科学や情報工学の元祖が、「メディ...
臓器移植の問題点
吉本隆明『超「20」世紀論 下』アスキーおよび吉本隆明ほか著『私は臓器を提供しない』洋泉社に基づく 平成9年10月16日臓器移植法施行に伴った臓器移植について、吉本は、次のように述べています。臓器移植に対する根本的な前提・原則1)人間の精神には、身体の「感覚や運動を司る『動物器官』」・「大脳の感覚的...
21世紀への視点
吉本隆明『超「20」世紀論 下』アスキーおよび『どこに思想の根拠をおくか』「思想の基準」筑摩書房等に基づく 「本当の革命」は尖端的な資本主義国(アメリカ)から始まる世界同時革命の形態にあるとしたマルクス自身の革命思想から言えば、1991年12月のゴルバチョフの辞任と、各連邦共和国の独立によるソ連の崩...
オウム真理教について――吉本隆明と村上春樹の考え方
吉本隆明『超「20世紀論」下』、村上春樹『約束された場所で』文芸春秋、吉本隆明『<信>の構造』「<石>の宗教性と道具性」春秋社、吉本隆明『心とは何か 心的現象論入門』弓立社、吉本隆明『人生とは何か』弓立社に基づく 先ず、村上は、『約束された場所で』において、次のように述べています――この本を刊行した...
「幸福論」について
吉本隆明『幸福論』青春出版社等々に基づく 根本的な・本質的な誤謬が蔓延した既存の秩序から対象的になって距離をとり、そこから、その考え方・その感じ方・その行動において超出していくことは、自己解放という幸福というものに出会える、ということを念頭において簡潔に整理してみれば、次のように言うことができます。...
吉本にとってのマタイ福音書
『<信>の構造PART2 吉本隆明全キリスト教論集成』「マチウ書試論」春秋社等々に基づく 神学者で思想家でもあるバルトはもちろんですが、キリスト者の私も、先ず以て聖書を、信仰の書として読みます。しかし、聖書は、思想の書としても、文学の書としても読めるように、いろいろな読み方ができます。なお、この機会...
迷妄性の只中から超出していく道程
吉本隆明は、迷妄性の只中から超出していく、私たち(彼自身)の道程について、正直に誠実に次のように述べている――1)太平洋戦争期に、「日本の社会が暗かったというのは、戦後左翼や戦後民主主義者の大ウソであって、日本社会は、非常に……明るく、ムダがなく、建設的だった」。家族には団欒もあった・笑いもあった...
吉本隆明『読書の方法 なにを、どう読むか』「批評と学問 西欧近代化をどうとらえる...
吉本隆明『読書の方法 なにを、どう読むか』「批評と学問 西欧近代化をどうとらえるか」光文社、に基づく 私に興味・関心があるところで私なりに整理してみれば、吉本は、次のように述べている。1)内(内部)なる西欧の典型 ラフカディオ・ハーンは、近代日本にある日本的特殊性の限界の近くにまで掘り下げて日本観を...
吉本隆明の超資本主義的段階(消費資本主義的段階)論について――思いつくままに
吉本隆明の超資本主義的段階(消費資本主義的段階)論について――思いつくままに 吉本は、講演「像としての都市」(日本鋼管主催、1992年)で、資本主義の高次化としての消費資本主義的段階(超資本主義的段階)における消費社会の指標を、個人所得の内の個人消費における選択的消費の割合に置いた。一方で、企業の設...
世界思想の水準に届く思想の在り方
カール・バルトの、神の側の真実=ローマ書3・22およびガラテヤ書2・16等の「イエスの信仰」の属格の主格的属格理解=「イエス・キリストが信ずる信仰による神の義」・救済(史)=啓示の客観的現実性にのみ信頼し固執する「超自然な神学」・キリスト教をキーワードにすれば、キリスト教を単純にしかし根本的にそし...
「アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ」(太宰治と吉本隆明とK・バルト)
鶴岡八幡宮には、実朝が受身の落命・覚悟の落命をした場所とされている石段がある。 私は、現在の社会における過ぎた明るさと元気さに異様さと不気味さを感じます。太宰は、1943年刊行の『右大臣実朝』で、「実朝的なもの」を、次のように描いています――「あのお方(右大臣実朝)の御環境から推測して、厭世だの自暴...
ミシェル・フーコーにおけるキリスト教
フーコーが解明しようとしたことは、「政治組織の典型としての国家」やその機構ではありません。それは、「個人の生活を構成するいくつかの要素を発展させ」、「しかもそうした発展が同時に国家の力をも強化するようなやり方で発展させる」政治的合理性の形態・近代的な統治技法についての歴史的批判的な調査・解明にあり...
ほんとうの祈りとは
神の側の真実=主格的属格としての「イエスの信仰」にのみ信頼し固執するほんとうの祈りついて、バルトは次のように述べています。私のような不信仰で無力な者は、ほんとうに救われます。 マルコ福音書の「信じます。不信仰な私を、お助け下さい」・「信じます。信仰のないわたしをお助け下さい」。イエス・キリストにお...
吉本隆明のマルクス論一つ
吉本は、次のように述べています。 科学・技術や生産様式の発達は、遅延させることはできても逆行させたりすることはできない。この意味で、エコロジーの極限に想定される天然自然主義は錯誤でしかないものである。と同時に、人間存在の総体性にとっては、「経済的範疇というものもまた部分」にすぎず、近代の宗教として...
太宰治『お伽草紙』「カチカチ山」
「カチカチ山」の舞台となった「河口湖畔、いまの船津の裏山」=天上山から富士山を望む この物語で、兎は「処女神」・「月の女神」「アルテミス型」の「十六歳の処女」で「いまだ何も、色気は無いが、しかし美人」の少女として、また狸はそのような少女に「思慕の情を寄せている」「三十七歳」の男として展開されている。...
太宰治『駈込み訴え』におけるイスカリオテのユダ
『駈込み訴え』で太宰は、イスカリオテのユダを、次のように描いています。1)ユダは、心の「美しい」・「子供のように慾が無」い「精神家」であるイエスを、独占したいほどまた嫉妬するほど、「ほかの弟子たち」とは「比べものにならないほど」、「深く愛している」・「純粋に愛している」。2)ユダは、自分の「寂しさ...
カトリック作家・小川国夫と吉本隆明の<対談>小論
『<信>の構造「対話篇」非知へ』春秋社による―― 吉本が、信仰の観点から言ってもキリストの実在はたいして重要ではない、と述べたことに対して、文学的な正直さ素直さをもって小川は吉本に媚びることなく、「いや、問題です」、と答えています。そして、「自分を神だと言」った「神性」を本質とするイエスを「信じられ...
吉本隆明にとっての「新約聖書」――『読書の方法 なにを、どう読むか』光文社
吉本にとって、「新約聖書」は思想としての書物であり、その作者は「人類の生んだ最大の思想家の一人」である。吉本が「新約聖書」を読んだ時期は、「敗戦直後の混迷した精神状態」の只中で、吉本が「すべてを白眼視」し、「現実の社会的動きに苛立って」いた時期である。吉本は、次のように書いている――「いまおもうと...
私たちにとって、キリストにある自由とは? 神の子供となるとは?
先ず以て、キリストにある自由とは、近代以降における、人間論や人間学的概念における、無媒介的な、自由な自己意識の無限性や人間に内在する神的本質という概念ではないでしょう。また、観念的な法的・政治的な自由という概念でもないでしょう。バルトは、神学における思想において、他在であって自在というヘーゲル哲学...
『福音と律法』の翻訳者・井上良雄と吉本隆明『感性の自殺――井上良雄について――』
井上良雄は、バルトの『教会教義学 和解論』の翻訳開始と同時に、『福音と律法』の翻訳も始めています。井上は、『福音と律法』の訳者「あとがき」で、この書物の「難解さは、ここに論じられている事柄そのものの重さとこれを論じるバルトの洞察の深さから来ている。この難解さに堪えて読まれる人には、それに報いて余り...
吉本隆明「宗教と自立」(『敗北の構造』)について
ほんとうは、キリスト教の神学者や牧師や著述家は、正当性のある根本的なフォイエルバッハやマルクスの宗教・キリスト教批判に、ニーチェの宗教・キリスト教批判に、また、ブルトマン(その学派)に対する「『今日まさにこのマールブルクでは、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大してい...
K・バルト、滝沢克己、そして吉本隆明の聖書論の場所
信仰を持たない、という文芸批評家で思想家の吉本の聖書論は、文学書・思想書としての聖書においてなされている。したがって、イエス・キリストの実在そのものは「たいして重要ではない」のであり、文学的思想的なマタイ論やマルコ論が展開されるわけです。また例えば、「ヨブ記」の旧約の神については、世界史・人類史に...
吉本隆明の言語論について一つ
『日本語のゆくえ』光文社に基づいて簡潔に述べれば、次のように言うことができます。 言語とは、「自己表出を縦糸とすれば、指示表出を横糸とする織物」である。そして、自分とほんとうの考え・ほんとうの世界・「理想を願望する自分」とを架橋する度合の「豊富」さが、「自己表出」の本質であり、「芸術的価値」の本質...
吉本隆明、C・G・ユングの「ヨブ記」論
なぜ、以下のような簡潔な整理が必要かと言えば、一切の近代主義、人間学、自然神学の系譜に属する信仰・神学・教会・キリスト教を包括し止揚し得る、信仰・神学の認識方法と概念構成が現在的に不可避だからです。バルトは、聖書に依拠した次にあるような良質な三位一体論と聖霊論等々の不可避性について、何度も述べてい...
吉本隆明「フロイトおよびユングの人間把握の問題点について」
私が、キリスト教についてはカール・バルトに、人間学については吉本隆明に、依拠し固執するのは、彼らの神学なり知識なり思想なりが、キリスト教の総体性を、人間の総体性を、世界の総体性を、世界史・人類史の総体性を、全く普通の私に対して、本質的に認識し理解する方向へと導いてくれる世界的な水準にあるものだから...
吉本隆明「自己とは何か――キルケゴールに関連して――」
『敗北の構造』「自己とは何か――キルケゴールに関連して――」弓立社キルケゴールのレギーネ体験と人間理解の位相 キルケゴールが好きになった女性は、身体を持った女性のレギーネではなく、自分の自己意識がつくりあげた理想像・マリア像としてのレギーネだった。このことは、キルケゴールが、身体を持ったレギーネとの...
「昭和天皇実録」公表と吉本隆明「天皇制(論)の難しさ」
(1)「昭和天皇実録」の新聞記事を読んで感じたこと・考えたことア)宮内庁は、「昭和天皇実録」の閲覧を今月の9日から11月30日まで行うということである。新聞報道によれば、研究者たちにとって、通説を覆すような記述はない、らしい。また、この実録の編集方針は、宮内庁のそれであってみれば至極当然のことと思う...