本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

太宰治『お伽草紙』「カチカチ山」


「カチカチ山」の舞台となった「河口湖畔、いまの船津の裏山」=天上山から富士山を望む

 

 この物語で、兎は「処女神」・「月の女神」「アルテミス型」の「十六歳の処女」で「いまだ何も、色気は無いが、しかし美人」の少女として、また狸はそのような少女に「思慕の情を寄せている」「三十七歳」の男として展開されている。「もともとこの狸は、何の罪とがも無く、山でのんびり遊んでいたのを、爺さんに捕えられ、そうして狸汁にされるという絶望的な運命に到達し、それでも何とかして一条の血路を切りひらきたく、もがき苦しみ、窮余の策として婆さんを欺き」、「婆さんに単なる引掻き傷を与え」て、「九死に一生を得た」だけである。しかし、その婆さんと爺さんの友達の兎は、その狸を、「一から十まで詭計」を弄して、先ず柴刈りに誘って背中に「大火傷」を負わせ、その「大火傷に唐辛子をべたべた塗」り「失神」させ、最後は「泥船」に乗せて「河口湖底に沈」めてしまう(狸は、兎に「惚れ直し」てもらうために、「苦心惨憺」、「一心不乱」、「半狂乱」、一生懸命、山で柴刈りをしたにもかかわらず)。兎に「思慕の情を寄せている」狸は、兎にとっては「招かれざる客」であり嫌悪と憎悪の対象でしかない。したがって、、太宰は、「とにかく招かれざる客というものは、その訪問先の主人の、(≪兎におけるような≫)こんな憎悪感に気附く事ははなはだ疎いものである。これは実に不思議な心理だ」・「他人の家に、憩いの巣を期待するのが、そもそも馬鹿者の証拠なのかもしれないが、とかくこの訪問という事に於いては、吾人は驚くべき思い違いをしているものである」と書くわけです。
 吉本隆明は、『「太宰治を」語る』で、友情物語とされている『走れメロス』の最後の数行――「メロス、君は、まつぱだかぢゃないか。早くそのマントを着るがいい。(≪「緋のマントをメロスに捧げた」≫)この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」 勇者は、ひどく赤面した――が、太宰にとっての文学・芸術である、と述べています。すなわち、最後の数行で、友情物語の流れを「塞き止め」、「そこで、少なくとも流れが緩められたり、よどみができたり、うず巻きができたり」させている、と述べています。このことは、太宰にとって文学の主題は、倫理や反倫理ではない、ということです。言い換えれば、太宰にとって文学・芸術は倫理だという意味は、友情物語への往相の流れと、それを「塞き止める」還相の流れとの同在性・構造にある、ということです。したがって、友情物語へと流れる一方通行的な往相的流れを「塞き止め」、最後の数行において還相的な娘の「嫉妬心」で終わらせるわけです。すなわち、この作品の主題は単なる倫理・単なる友情物語ではないわけです。
 また、吉本は、『悲劇の解読』で、『人間失格』から引用して、太宰は「あざむく、あざむかれるという関係からどんなに深傷を負ったのだろうか? 佇ちとまっているところはいつもおなじだ。太宰治の思考の順序をたどれば、存在しているということは虚偽なのだ。存在の関係から虚偽が生じるのではない。それなのに人々は何もいわずに『清く明るく朗らか』なのはおかしいと言うことになる」。なぜなら、「人々の考える順序は逆」だからである。「世のいわゆる<愛>とか<信頼>とかは限度の自覚と、利害の自覚からできている」から、そのことを「逸脱したり境を越えたりしたときは、背きあってもよいという<暗黙の約束>が成り立っている」。人間は、この「扉をたたけば開かれるという<暗黙の約束>がなければ」、「人の家を訪れることさえできない」。太宰にとっては、このことは「信じられない」ことだった。したがって、「ひとの家の門は疎遠な恐ろしいものにみ」えた。太宰が、『人間失格』で、「『訪問』の能力と呼んでいるものは、出来ないものからみれば神の能力にもひとしいものであった」。私は、この語りに首肯くことができます。