本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

ローマ3・22、ガラテヤ2・26等のギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(ピスティス イエスー クリストゥー)の属格の理解の仕方――バルト自身の立場について

ローマ3・22、ガラテヤ2・26等のギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(ピスティス・イエスー・クリストゥー)の属格の理解の仕方について――バルト自身の立場について(『福音と律法』、『ローマ書新解』、『教会教義学 神の言葉』、『福音主義神学入門』等による)

 

 カール・バルト自身のゼミの一学生として『教会教義学 神論T/2 六章 ~の現実(上)』「三十節 神的愛の完全性 二神のあわれみと義」まで論じてきたところで、『福音と律法』の「難解さは、ここに論じられている事柄そのものの重さとこれを論じるバルトの洞察の深さからきている。この難解さに堪えて読まれる方には、それに報いて余りある喜びが分かたれるにちがいない」と訳者「あとがき」で書いた井上良雄の正直で誠実な翻訳および解説(訳注)の仕方に即して、ローマ3・22、ガラテヤ2・26等のギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」の属格の理解の仕方に対するバルト自身の立場について、明確にしておきたいと考える。

 

 ローマ3・22、ガラテヤ2・26等のギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(ピスティス・イエスー・クリストゥー)の属格を、バルト自身のように、全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)に依拠して、換言すれば三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である・それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(啓示者である父なる神の子としての啓示、「啓示の実在」そのもの)、それ故にその第二の形態の神の言葉である預言者および使徒たちによる最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」(聖書的啓示証言、啓示の「概念の実在」)における「啓示の出来事」と聖霊の注ぎによる「信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)に依拠して主格的属格として理解するか、換言すれば聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち「顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間「イエス・キリストが信ずる信仰」として理解するか、あるいは伝統的解釈と言われるルターの目的格的属格(「イエス・キリストを信じる信仰」)として理解するか、あるいは目的格的属格理解に依拠して近代以降の「人間の時代」(『ヘーゲル』)において人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求、人間的契機の<直接性>、近代的な人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍、人間学を前景化するか、近代主義的プロテスタント主義的キリスト教のように「キリストの永遠のまことの神性の告白を信用しない」ところにまで行くか、という問題である。ここで先ず以て断っておかなければならないことは、ルターの場合の目的格的属格理解は、おそらくはルターの資質とあの時代性に強いられていたに違いないという点である。したがって、ルターの場合は、もしもルターが現在を生きているとするならば、そういう理解の仕方はしなかったかもしれないという可能性を持っている、すなわちバルトのように主格的属格として理解するかもしれないという可能性を持っている。しかし、人間の神化・神の人間化の原理を発見した「人間の時代」(『ヘーゲル』)を自覚した近代以降において、その目的格的属格理解は、その時代性そのものが強いる意識性(それ故に、無意識の裡にそうすることを強いられているそれ)であるから、そのことから対象的になってそのことを認識し自覚することができなければ、今後もそれを温存させ・それを決して手離すことはしないに違いないのである。何故ならば、その目的格的属格理解は、すなわち目的格的属格として理解されている文語訳聖書、口語訳聖書、共同訳聖書、新改定訳聖書は、近代主義的キリスト教(そういうキリスト教を志向し目指す人たち)に、総括的に言えば言わば自然神学の<原理>を、自然的な信仰・神学・教会の宣教の<原理>を提供しているからである。そうした近代以降の「人間の時代」の共同宗教としてのキリスト教の最後的形態は、観念の共同性(観念の共同的形態)を本質とする第一義性・価値性としての政治的近代国家である。

 

 さて、主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)は、神の側の真実としてある、それ故に「成就と執行」・「永遠的実在」・客観的現実性としてあるイエス・キリストにおける「律法の成就」・完了そのもの、「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、イエス・キリストにおける成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(平和の概念は、この救済概念に包括されたそれである)そのものである。このような訳で、われわれは、神のその都度の自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)に依拠して、初めて、神とは全く異なるわれわれ人間は、「『自分の(≪生来的な自然的な≫)理性や力(≪感情力、悟性力、意志力、自然を内面の原理とした身体的修行等≫)によっては』全く信じることができない」(『福音主義神学入門』)ということを、また「神に敵対し神に服従しないわれわれ人間は肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持ってはいない」(『教会教義学 神の言葉』T/1・2)ということを認識させられ自覚させられ・認識し自覚するのである。言い換えれば、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(神の側の真実からする、神の人間との架橋)であり、神の側の真実からする神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性である聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の~の「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち啓示者である父なる神の子としての啓示、起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰≫)に向かっての人間の用意が存在する」のである。

 

 このような訳で、バルト自身は、ギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」の属格に対する首尾一貫した立場(主格的属格理解)について、『福音と律法』で次のように述べている――「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けたということ――これが恩寵本来の業である。これこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。彼は全く端的に、信じ給うたのである(ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の「イエス・キリストの信仰」(≪ギリシャ語原典ピスティス・イエスー・クリストゥーの属格≫)は、明らかに主格的属格として理解されるべきものである」(このことが「福音と律法の真理性」における福音の内容である)・「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、(≪神の側の真実としてある主格的属格としての≫)神の子が信じ給うことに由って生きるのだということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(このことが、「今日に至るまで罪人の手に渡され・十字架につけられ・死んで甦られ給うたイエス・キリストにある『復活の力』」、「福音と律法の現実性」における勝利の福音の内容である)。したがって、バルトのドイツ語原典が「彼を信じる信仰」となっている場合、その意味内容は、徹頭徹尾神の側の真実としてある主格的属格として理解された「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「神の義、神の子の義、神自身の義」そのものである「イエス・キリストを信じる信仰」(ただそのイエス・キリストにのみ感謝をもって信頼し固執し固着する決断と態度)ということなのである。すなわち、神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もということではないのである。

 

 しかし、われわれは、バルト自身の主格的属格を「イエス・キリストが信ずる信仰」と正直に誠実に翻訳した『福音と律法』の翻訳者の井上良雄以外の、翻訳者や神学者や牧師やキリスト教的著述家たちが、近代主義を骨肉にまで受け入れたその分だけ、総括的に言えば自然神学を、自然的な信仰・神学・教会の宣教を志向し目指すその度合いの高低の分だけ、キリストにあっての神やキリストの啓示だけでなく、人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求も、人間的契機の<直接性>も、近代的な人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍も、人間学も、その現にあるがままの人間の生来的な自然的な人間性・人間理性・意志性・応答責任性・決断能力も温存させるために、それ故にその原理となる旧来訳聖書や新共同訳聖書等の訳を温存させるために、それ故にまたその訳に無理矢理合わせるために、バルト自身の首尾一貫した思惟と語り、その原理、その概念構成を正直に誠実に翻訳し伝えるのではなく、故意に180度捻じ曲げて目的格的属格として「イエス・キリストを信じる信仰」と翻訳している場面によく出会うのである、よく出会うというよりもほとんど全く故意に180度捻じ曲げて目的格的属格として翻訳し解説しているのである。例えば、卑近な例で言えば、そうした典型が、ウィキペディアの「カール・バルト」である。ファングマイヤー『神学者カール・バルト 「シュライエルマッハーとわたし」』加藤常昭・蘇光正訳、日本基督教団出版局の翻訳者の蘇が、「訳者あとがき」で、バルトの「第三項の神学(≪聖霊の神学≫)という発言について」、「これをバルトの『転向』と誤解する者」は、換言すれば「近代神学」への「回帰」・復古と「誤解」し曲解する者(この執筆者だけではないが、ウィキペディアの執筆者)は、「明らかにその前後数頁だけしか読んでいないのである」(おそらくはウィキペディアの執筆者もそうであると思われる、あるいは彼が誰かの意見をそのまま鵜呑みにしたかである)という指摘は、客観的に言って全く<正しい指摘>なのである。したがって、私もその蘇の指摘を全面的に首肯する者であるから、私自身は、バルト自身の著作に即して、その「ノート」の項目でそのことを証明し指摘したのである、何故ならば人々にバルトを誤解させることをして欲しくないからである、それ故に誤解と曲解のあるその記述内容の自己検証と修正を可及的速やかに行って頂くように切望したのである(ウィキペディアの「カール・バルト」の「ノート」の項目の最後の段落を参照されたし)。このようなことは、現存するマス・メディア界で枚挙にいとまがないことと言える。例えば、マルクスの重要な立場が論じられている『資本論』「第1版の序文」をきちんと読み理解していないために、自然史の一部である人類史の自然史的過程における自然史的必然としての自然史的成果である資本主義を、池上彰との対談『希望の資本論』で佐藤優は、偶然性という概念で述べていたのである。われわれ人間は、誰であれ、全く以て不完全な存在であり、誤解したり間違いを犯したりする存在である。したがって、的確に自己吟味し批判・修正していくことが大切なことなのである。したがってまた、われわれは、大学社会の神学者や教会の牧師やマス・メディア的キリスト教的著述家の思惟と語りをそのまま鵜呑みにしたり模倣したりしない方がいいのである――われわれは、「教授でない者も、牧師でない者も、彼らの教授や牧師(≪やキリスト教的著述家≫)の神学が悪しき神学でなく、良き神学であるということに対して、共同の責任を負っている」(『啓示・教会・神学』)。『ふしぎなキリスト教』で、橋爪大三郎が、「『キリスト教入門』みたいな本なら、山ほど出ている。でもあんまり、役に立たない」、「『信仰の立場』を後ろに隠して、どこか押しつけがましく、でもにこにこ語りかける。さもなければ、聖書学あたりの知識を、これならわかるかねと上から目線で教えをたれる。ひとびとが知りたい、一番肝腎なところが書かれていない。根本的な疑問ほど、するりと避けられてしまっている」と述べているが、キリスト者である私自身そのとおりであると思う。例えば、上目線で、軽薄に、何分で分かるキリスト教等とか語る牧師等々のその語りの内容はそのまま鵜呑みにしたり模倣したりしない方がいいのである、信じない方がいいのである。何故ならば、そのようなものは、聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯したバルトが論じた先行する神のその都度の自由な恵みの決断に基づく「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)ではないからである。言い換えれば、そのようなものは、キリスト教についてのあるいは神についてのその牧師の単なる知識であり、その牧師の自己意識が対象化した「存在者レベルでの神」(偶像)であり、そのような神の名と呼びかけによるものでしかないからである。バルト自身は、そしてその思惟と語りを私も首肯するのであるが、次のように述べている――「心を頑固にし福音を認めない人間」や「異教徒」に対して、われわれは、キリストにあっての神の「恵みから語り、恵みについて語るという以外のことをなすことはできない」。すなわち、われわれがそうした人々に呼びかけることができるのは、(1)「私がその人をその中に置くことによってではなく」、(2)聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の~の「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち啓示者である父なる神の子としての啓示、起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間「イエス・キリストがすでにその人をその中に置いてい給うことによってである」、それ故にわれわれは、「キリストにあるものとしての人間のために、努力し得るにすぎない」(『証人としてのキリスト者』)。信仰の認識としての神認識、すなわち啓示認識・啓示信仰には、徹頭徹尾全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」が必要なのである。それだけではない、われわれの思惟と語りと行動が、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、(≪先行する≫)神ご自身の決定事項であって、(≪後続する≫)われわれ人間の決定事項ではない」のである。したがって、教会の宣教は、その一つの機能としての神学は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』(マルコ9・24)という(≪後続する≫)この人間的態度に対し(≪先行する≫)神が応じて下さるということに基づいて成立している」のである。