本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

神学者・佐藤司郎「カール・バルトのエキュメニカルな神学への道」論の、陥穽について

神学者・佐藤司郎「カール・バルトのエキュメニカルな神学への道」論の、陥穽について
@佐藤司郎のサイトにある資料に基づく。
A(≪≫)書きは、私が加筆したものである。

 

 

 「私から見ればきわめて重要なテーマの一つである、バルトとエキュメニズムの関わりという問題について(≪時系列的に≫)お話したいと思います」、と述べているのは、東北学院大学教授で神学者の佐藤司郎である。そして、佐藤は、「エキュメニズムという言葉はオイクメネーという聖書のギリシャ語から来たものです。オイコスというのが家という意味で、それと関連するオイクメネーは、人の住んでいる土地、つまり世界、を意味します。エキュメニズムとはエキュメニカルな運動とほぼ同義で、一九世紀の海外伝道の経験をふまえて二十世紀に入ってとくに盛んになった、世界教会を目指す、世界の教会の一致を目指す思想、あるいはその運動を指します」、と述べている。

 

 私たちは、このことを首肯したうえで、佐藤の「バルトとエキュメニズム」論の、陥穽について、述べてみたいと考える。佐藤は、バルトの信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成を論じないままに、「バルトとエキュメニズム」について形而上学的抽象的皮相的一面的空論的に論じている。そのため、私たちは、以下の<序論>から展開していきたいと考える。もちろん、(1)から読みはじめても分かるようになっているので、(序論)を飛ばして(1)から読んでもらっても結構である。

 

(序 論)バルトの説教論とルドルフ・ボーレンの聖霊論的説教論とを比較考量すれば、バルトのそれに正当性があることは、一目瞭然のことであるにもかかわらず、この「バルトとエキュメニズム」論を論じている佐藤は、<自然神学>的なボーレンの「聖霊論的説教論」に依拠して、神学における思想の課題や状況論を捨象してしまって、それゆえに一方で中世的思考に停滞しながら、他方で時流や時勢に即自的に対応した人間の経験や人間論や人間学の後追い知識としての神学・混合神学・人間学的神学を目指しているのである。すなわち、佐藤は、「聖霊論的出発」は、「人間的なるものと、(人間が)なしうることの新しい強調を可能とする」とか、ボーレンの「聖霊論的出発」は「神学の優位性を否定することなく」「人間学的局面にもその位置を正しく与える」とか、と述べているのである(拙著198−204頁あるいはホームページ参照)。

 

 さて、バルトの信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成を根本的包括的に原理的に理解するためには、八つの事柄(詳細は、拙著21−60頁あるいはホームページ参照)を理解し、その事柄を自覚的に扱っていく必要があるのである。その事柄を、簡単に整理をしてみる。それは、三位一体論的――キリスト論的な立場からする、次の事柄にある。
@神と人間との無限の質的差異――「私が『方式』なるものをもてっているとすれば、……時間と永遠との『無限の質的差別』……、をあくまで固守した、ということである。『神は天にいまし、汝は地に在り』。私にとっては、この神とこの人間との関係、ないしはこの人間と神との関係が聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」 (『ローマ書』)
A神の側の真実としてのみある「本源的な客観性」、「われわれが何かを考察するより先にわれわれを考察する(≪われわれを考察し認識し理解し規定する≫)ところの」根本的包括的総体的永遠的な客観性である、主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」・神の義そののもとしての「イエス・キリストの名」(啓示の実在そのもの、啓示の客観的実在、啓示の客観的現実性、その死と復活、その啓示・和解、その内容であるインマヌエル、完了された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和)――◎「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けたということ――これが恩寵本来の業である。これこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。彼は全く端的に、信じ給うたのである(ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の「イエスの信仰」は、明らかに主格的属格として理解されるべきものである)」、◎「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである )』」(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである(『福音と律法』)。
B「聖霊は、人間精神と同一ではない」・「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」(『教義学要綱』)。したがって、聖霊によって更新された理性も、聖霊と同一ではない。
C神の言葉は、それ自体が聖霊の業である三位一体論の唯一の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」(啓示の主観的可能性としての、不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)、すなわち人間に向かって語られる神の自己啓示である「イエス・キリスト」――啓示の客観的実在、啓示の客観的現実性、「啓示の実在」そのもの、この啓示はイエス・キリストにおける啓示の出来事とキリストの霊である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰を授与する(啓示の主観的実在、啓示の主観的現実性)という啓示に固有な証明能力を持つ――と、また「聖書」の証言・証しおよび「教会」の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」においてある。したがって、啓示に固有な証明能力、具体的には「神の言葉の三形態」への信頼と固執と連帯を通して、「聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程の包括的研究において『教義そのもの』を尋ね求め」なければならないのである。こういう仕方で、バルトは、一方において、個性や時代性を刻んだのである。啓示に固有な証明能力、具体的には「神の言葉の三形態」に信頼し固執し連帯したバルト自身の信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成においてならば、私自身も生きられるし救われることも確信できるから、それゆえにすべての人間も生きられりし救われることも確信できるから、また私自身は、二、三流の百冊や百語よりも、一流の一冊や一語といううことを確信しているから、私自身は、私の信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成については、バルトを媒介・反復する、という仕方で行っているのである。因みに、人間学においては、私自身が信頼して依拠してもいいと考えている人たちは、吉本隆明であり、ミシェル・フーコーであり、ドストエフスキーであり、宮沢賢治であり、太宰治であり、ヘーゲルであり、マルクスであり、等々である。
 また、バルトの場合、その信仰・神学・教会の宣教における原理・認識方法と概念構成(神学理論)それ自体が、教会や神の子供たち・キリスト教的人間の、その個体性においても・教会共同性においても、それが社会的な事柄であれ政治的な事柄であれ、何であれ、かつて語った言葉が、「かつて語った説教(≪「きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」イエス・キリストにおける福音の言葉≫)の一貫した繰り返し」のその言葉が、「(ある状況下において、その状況に抗するそれとして)おのずから実践に、決断に、行動になって行」くという行為・行動・業・実践を惹き起こす、というは質のよさを持っているのである。バルトの場合、言葉と行為の関係は、ボンヘッファーのような言葉だけでなく行為・行動も、理論だけでなく実践も、という在り方にではなく、「神の言葉の三形態」に信頼し固執し連帯したところで自ら発した・発し続けた、その言葉自体が、その説教の言葉自体が、その理論自体が、「(ある状況下において、その状況に抗するそれとして)おのずから」必然的に、行為・行動・業・実践に駆り立てていくという在り方に、「実践に、決断に、行動になって行った」という、在り方にあるのである(拙著37・38頁および140−143頁あるいはホームページ参照)。
D私たち人間の、その類・歴史性と個・現存性の生誕から死までのすべてを見渡せ、それゆえに人間的な実在と人間的な可能性に偏向・偏在した<宗教>そのもの、<自然神学>的な信仰・神学・教会の宣教における福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」・「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」・「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎ」ない「神秘主義へと変わって行く」ことも見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所は、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の子、神の言葉、性質・行為・働き・業)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示の場所だけである。なぜならば、神性を本質とするイエス・キリストが、私たち人間に対して、啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力に基づいて、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ことになるからである。したがって、私たちは、その啓示に固有な証明能力に基づいて、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として認識し承認し確認するのである。すなわち「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定(≪「裁き」≫)、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界(≪究極的限界、終末論的限界≫)の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけであることを認識し承認し確認するのである。
E『教会教義学』に関して言えば、佐藤は『はじめての宗教論』において、恣意的独断的に、「『教会救義学』のうち「第三巻第四部(邦訳『創造論IV』全四冊)だけはぜひ読んだほうが良い」と述べているのであるが、この読み方では、バルトを根本的包括的に原理的に認識し理解することはできないのである。このことは、事実的に、バルトを根本的包括的に原理的に認識し理解していないところの、佐藤の論述を読んでみれば、すぐに分かることである。バルトの<自然神学>論を高校の倫理レベルの知識で述べていた冨岡幸一郎もその類である。したがって、神学における思想の課題も状況論も持たない彼らは、バルトの信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成からは決して出て来ようがない、権威としての天皇制的国家主義(佐藤)を標榜し、またA級戦犯が合祀されている靖国神社参拝推進論(冨岡)を標榜してしまうのである。
 さて、バルト自身は、『バルト自伝』において、明確に、「イエス・キリストにおける私の恩寵の神学として組織だてる」という「私の仕事に生じた変化の意義を見かつ理解するためには、一九三二年と三八年に現われた私の『教会教義学』の最初の二冊を、ある程度研究する必要がある」と述べている。すなわち、教義学的頂に向かうバルトを根本的包括的に原理的に認識し理解するためには、邦訳の『神の言葉』T/1、T/2、II/1、II/2、II/3、II/4を読む必要があるのである。このことは、ほんとうのことなのである。
F「(≪私たちは、神の側の真実としてのみある「本源的な客観性」である啓示の客観的実在そのもの、すなわちイエス・キリストの名、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示、その啓示に固有な証明能力、この≫)一つの事柄に仕えなければならないのであって、ひとつの党派(≪党派性・党派的共同性・党派的多元主義・学派・教派・思想傾向・社会構成・支配構成・文化構成・民族・人種・時流や時勢・社会的政治的な言説や運動≫)に仕えなければならないことはない……、一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……」(『教会教義学 神の言葉』)。
G神学における思想の課題としては、ほんとうは、自らの信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成それ自体において、信と信にある不信、信・知・キリスト者(教)と不信・非知・非キリスト者(教)の、両者を架橋し、その枠組を取り除き、信・知・キリスト者(教)を、その現にあるがままの不信・非知・非キリスト者(教)・大多数の被支配としての一般大衆に、完全に開かなければならないのである。バルトにとって、神の側の真実としてのみある「本源的な客観性」である主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」、神の義そのもの、「イエス・キリストの名」、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト(啓示・和解、死と復活)における「『神われらと共に』という言葉」・「キリスト教使信の中心」は、教会共同性・教団共同性のような「狭い共同体」から「その事実をまだ知らぬ」「すべての他の人々」「広い共同体」に向かっての運動において、その現にあるがままの不信・非知・非キリスト者(教)、大多数の被支配としての一般大衆、全人間・全世界・全人類、に対して完全に開かれているのである(『カール・バルト教会教義学 和解論 T/1 「和解論の対象と問題」』)。

 

 これらの事柄を念頭に置いてバルトを読み理解し論じない場合、根本的包括的な原理的な誤謬に陥るのである。すなわち、その場合、バルトを形而上学的抽象的一面的皮相的空論的にしか読み理解し論じることしかできないのである。それが、大学神学者であろうが、教会牧師であろうが、キリスト教的メディア的著述家であろうが、そうなのである。したがって、バルトは、次のように述べている――@「あらゆるキリスト者の生が、意識するにせよ、しないにせよ、やはりひとつの証しである」限り、「教会とその信仰を基礎づけている神の言葉から、提起される」「真理問題はあらゆるキリスト者に向けられている。この証しにおいてこの真理問題に対する責任を負う限り、いかなるキリスト者も彼自身がまた、神学者としても召されている」(『福音主義神学入門』)。A「教授でないものも、牧師でないものも、彼らの教授や牧師の神学が悪しき神学でなく、良き神学であるということに対して、共同の責任」を負っている(『啓示・教会・神学』)。B「教義学は、決して信仰と、その認識のより高い段階を意味しない」、なぜならば、「最も単純な福音の宣教も、それが神のみ心である時には、最も制限されない意味で、真理の宣べ伝えであることができるし、最も単純な聞き手に対しても、この真理を完全な効力をもって、伝えてゆくことができる」、「教義学者は、信仰者としても、知識を持つ者としても、神がここでなし給うことに関しては、教会の誰か一人の会員よりも、よりよい状況にあるわけではない」。教義学者とは「ただ単に教義学を専攻する大学教員や著述家だけ」のことではなく、「広く一般に、今日および昨日の教義学的問いによって突き当てられ動かされる者たち」のことである(『教会教義学 神の言葉』)。

 

(1)佐藤は、「2 エキュメニズムとバルト」において、バルトは「エキュメニズム、ないしエキュメニカル運動」に対して「『あらゆるたぐいの批判を口にしてきた』人でもあったのです」が、そのバルトが「『私の関心は、いつも、エキュメニカルな神学、つまりある特定の教派の狭い範囲の中に包摂されない神学を教えることでした』(一九六二年一一月,インタビュー)」と語ったことを引用している。しかし、佐藤の論じ方は、ただそれだけなのである。そのバルトの神学における思想の課題については、論じることをしないのである。このような論じ方が、最後まで続くのである。ほんとうは、「一九六二年一一月、インタビュー」のバルトの言葉を引用するのであれば、バルトの神学における思想の課題であるところの、今回の(序論)のFとGの事柄について述べるべきなのである。しかし、佐藤は、このFとGの事柄を語らず、ただ引用したバルトの言葉だけを形而上学的抽象的一面的皮相的空論的に取り出しているだけなのである。

 

 バルトは、「過去のエキュメニズムと、評価すべき『新しい形態』のエキュメニズムを区別」し、過去の「古いタイプのエキュメニズム」においては、「形式的な」教会の一致を「『自己目的』として理解されていたために、後から立ち現れてきた啓蒙主義的、浪漫主義的な平等主義を越えられなかったと指摘」した、と佐藤は論じている。それに対して、「新しい形態」のエキュメニズムは、「教会の一致ということが、目的論的・動的に」、すなわちバルトによれば、「相互的、市民的寛容の理念」によってではなく、「イエス・キリストに基づく一致において、彼のための一致として、すなわち、世における世のための彼の御業の証しのための一致として」「理解され始めたときに起こった」、と続けて論じている。
 ここで、イエス・キリストにおける一致が述べられているのであるが、バルトの場合、そのイエス・キリストにおけるの一致は、ローマ3・22、ガラテヤ2・16等の「イエス・キリストの信仰」の属格の主格的属格理解(『福音と律法』)に基づいた三位一体論的――キリスト論的なイエス・キリストにおける一致なのである。この理解は、『教会教義学』においても貫かれている。(序論)の@からGまでの事柄すべて、「イエスの信仰」の主格的属格理解(『福音と律法』)に根拠づけられているのである。言い換えれば、バルトのエキュメニズムの根拠・原動力は、この主格的属格としての「イエスの信仰」にあるのである。したがって、バルトは、(序論)のGで述べたように、確信を持って、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける「『神われらと共に』という言葉」・「キリスト教使信の中心」は、教会共同性・教団共同性のような「狭い共同体」から「その事実をまだ知らぬ」「すべての他の人々」「広い共同体」に向かっての運動において、その現にあるがままの不信・非知・非キリスト者(教)、大多数の被支配としての一般大衆、全人間・全世界・全人類、に対して完全に開かれているのである、ということを告白し、証しし、宣べ伝えることができたのである。

 

 しかし、佐藤は、バルトのエキュメニズムを論じながら、こうした論述をしないで、ただ形而上学抽象的一面的皮相的空論的に、バルトはこう語った、とだけ紹介しているだけなのである。せいぜい、「教会の一致はすでにイエス・キリストにおいて与えられているということです。それは、諸教会がその実現を目指さなければならない目標ではありません(自己目的にはならない!)。その上で諸教会の一致は、この世におけるイエス・キリストの証しのために目的論的かつ動的に追求されるべき課題なのです。そして彼によれば、その一つの『良い実例』が、バルメン会議(告白教会の第一回教会総会)であり、そこで採択された『バルメン宣言』にほかなりませんでした」、としか言わないのである。因みに、バルト自身は、「バルメン宣言」について、一面的固定的に「良い実例」とは述べていないのであって、次のように述べているのである――@バルメン宣言の「本文は、福音主義教会がその信仰告白という形で(≪「あらゆる」≫)自然神学の問題と対決した出来事の初めての記録」であった、A「ユダヤ人問題を『決定的に重要なものとして組み込まなかった』ことを、『重大な失敗』だと考えるようになった」、と(『カール・バルトの生涯』)。「イエスの信仰」の属格理解(佐藤の場合、明らかに目的格的属格理解の立場に立脚している)を含めて、ボーレンの「聖霊論的説教論」の評価からも分かるように、佐藤自身は<自然神学>の立場に立脚しているから、自己矛盾を抱えたまま、「バルメン宣言」を論じているのである、バルトのエキュメニズムを論じているのである。したがって、この佐藤は、「教会の一致はすでにイエス・キリストにおいて与えられている」――この根拠については、すなわちバルトの「イエスの信仰」の主格的属格理解については、論じないのである、またその途上性にある信仰・神学・教会の宣教における過渡的課題と究極的課題については論じないのである。これでは、全く何も言わないのと同じことなのである。「何らかの抽象をもってはじめられ何らかの空論に終わるところの」形而上学的抽象的一面的皮相的空論的な「大学社会の神学」でしかないのである。したがって、橋爪大三郎に、「ひとびとが知りたい、一番肝腎なところが書かれていない」(『ふしぎなキリスト教』)、と揶揄されてしまうのである。橋爪だけでなく、私たちキリスト者も、そう実感するし、そう考えるのである。佐藤の論述の仕方は、最後までそうなのである。なぜ、佐藤の論述がそうなってしまうかは、簡単なことで、佐藤が、(序論)の@からGまでの事柄を認識し理解していないからである、言い換えれば、バルトを根本的包括的に原理的に認識し理解していないからである。その証左を示すことも簡単なことであって、佐藤は、状況論も神学における思想の課題も持たず、一方で近代主義者として他方で中世的思考に停滞して、「聖霊論的出発が、人間的なるものと、(人間が)なしうることの新しい強調を可能とする」とか、近代主義の洗礼を受けた即自的な人間の感覚と知識を内容とする経験を尊重するとか、「聖霊論的出発」は、「神学の優位性を否定することなく」「人間学的局面にもその位置を正しく与える」、と述べているからである。近代主義の洗礼を受けた人間の経験の尊重、人間論や人間学の後追い知識でしかない神学、すなわち非自立的で中途半端な神学・混合神学・人間学的神学が、人間学に対して「優位性」を確保できることは全くあり得ないのである。そのような<自然神学>的な神学・混合神学・人間学的神学は、ヘーゲルが、人間学的領域において、人間に内在する神的本質、すなわち人間の対自的で対他的・他在であって自在・自由な自己意識・理性・思惟の無限性の原理を発見して以降は、事実的にそうなのである、事実的にそうなってしまうのである。このことは、前期ハイデッガーの哲学原理を第一次化したブルトマンを、そのハイデッガー自身が揶揄・批判している事実をみても明らかなことなのである。

 

(2)佐藤は、「3 『教会と諸教会』」において、「教会の一致を問うことは、教会の具体的な首(かしら)であり主でありたもうイエス・キリストを問うことと同一でなければならない。……神と人間のあいだのただひとりの仲保者としてのイエス・キリストがまさに教会の一致、あの一致であり、その一致においてたしかに教会(キルヘ)内にゲマインデ・賜物・個人の多数性は存在する、しかしその一致によって諸教会の多数性は排除されている。われわれは一致の理念を考えることは許されない――たとえどんなに美しくかつ道徳的な一致の理念であっても許されない。われわれは、一つの教会が存在するということが教会の委託の中に含まれることを認識し、それを口に出す時、彼〔イエス・キリスト〕を考えなければならない」(佐藤私訳)、というバルトの言葉を引用して、それは「キリスト論的一致論とでもいったらよいのでしょうか」、と述べている。この場合も、(序論)の@からGまでの事柄におけるイエス・キリストが問題である。なぜならば、そうでないなら、<自然神学>的な、形而上学抽象的皮相的一面的空論的な論述としかならないからである。にもかかわらず、佐藤の場合は、明らかに「イエスの信仰」の目的格的属格理解の立場に立脚した「キリスト論」なのである。したがって、佐藤の論述は、曖昧である。
 佐藤は、「イエス・キリストが教会の一致」の根拠であるならば、「『諸教会の多数性』とは、御心にかなった何らかの『豊かさ』なのではなく、危機であり、罪以外のものではないのです」、と述べているのであるが、この意味での「諸教会の多数性」とは、党派性、党派的共同性、党派的多元主義のことなのである。したがって、バルトが「イエス・キリストにおいてすでに実現されている教会の一致への従順」と「教会へと諸教会が一つとなることが一つの課題、詳しく言えば、教会の主によって立てられた課題、一つの命令」であるということを述べている時、それは、(序論)のCとFの重要性を述べているのである。しかし、佐藤には、この事柄の論述が全くないのである。

 

 また、佐藤は、バルトの「教会の一致へ向けて諸教会が一つとなることについて――われわれは思い違いをしてはならない。それはただたんに、諸教会が互いに忍耐し尊敬し合い、時には一緒に働くこともあるということを意味するものではないであろう。ただたんに互いに知り合う、お互いの言うことに耳を傾けるということではないであろう。ただたんに何らかの口では言い表せない交わりの中で一つであることを感じ取るということではないであろう。それはまたただたんに、諸教会が、信仰において、愛において、そして希望において現実に一つとなる、したがって同じ気持ちになって礼拝を行うことが出来るようになるということを意味することでもないであろう。それは、就中、次のことを意味するであろう――そしてそれこそが自余の真正さの決定的な試金石であるであろう、それはすなわち、諸教会が共に信仰を告白することを、つまり共に、外に向けても語る、この世へと語る、そうすることによって教会を基礎づけるイエスの命令を遂行することができるということを意味するであろう」、という言葉を引用している。そして、佐藤は、ただ「ここには、信仰告白へ向けての一致、すなわち、エキュメニズムに関するバルトの目的論的・動的理解がはっきり示されています」、とだけ述べて、それで論述を終わらせている。それだけである。ほんとうは、この言葉の内容は、次の事柄を意味しているのである――恩寵が「告知」・「証し」・「宣教」される時、「私は私のものではなく、私の真実なる救い主イエス・キリストのものだ」、イエス・キリストにのみ固着せよ、という福音の形式である律法が建てられる。なぜならば、この律法(神の人間に対する要求・要請)がなければ、私たち人間は、現実的に福音を所有することができないからである。この意味で、律法は、本来的には「生命に導くべきもの」・「神の恩寵を証しするもの」という事実において、福音を内容とする福音の形式である。したがって、この神の律法(神の人間に対する要求・要請)は、人間はただの人間でしかない以上、単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストを模倣することではないし、イエス・キリストが信じたように信ずるということでもない。すなわち、それは、「福音の中核」であるイエス・キリストが、「律法を満たし・すべての誡めを遵守し給うたという事実」から考えられなければならないから、キリストにあっての神に対する素直な感謝の応答、あのイエス・キリストにおける死と復活の出来事――インマヌエルの出来事の告白・証し・宣べ伝えにあるのである。したがって、それは、
@主格的属格としての「イエスの信仰」・神の義そのもの、にのみ信頼し固着すること、すなわちその神の義としての「十字架につけられ甦り給うたイエス・キリスト」に信頼し固着すること、そしてその告白と証しと宣べ伝えにある、
A「われわれには絶対に実現出来ぬイエスの代理的な信仰を、承認し受け入れる」ということにある、
B「われわれの生命がキリストと共に保管されている」ことを承認し受け入れるということにある。これら@からBまでの事柄が、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」なのである(『福音と律法』)。

 

 また、佐藤は、バルトが「最後の講義『諸教会の中での教会』で,『諸教会』と『教会』の関係について」、「『諸教会の一致の課題は、本質的かつ必然的に、あらゆる教会的行為の前提でもあるあの具体的な実践的課題、すなわち、キリストに聞くことに合流し、重なる』」と語ったことを引用し、「このことは、簡単にいえば、教会の行為の基礎も、教会一致のための働きの基礎もキリストに聞くことにあるということです。とすれば,われわれはみな,具体的にわれわれの属する諸教会に戻されるということです。つまりわれわれ自身の教会においてキリストに聞くということが教会の一致の基礎だということになります。『諸教会』においてキリストに聞くということがなければ『教会』はないのです」、と述べている。ここでもそうであるが、やはり、これでは、何も語らないのと同じことなのである。ほんとうは、佐藤が引用したバルトの言葉の内容は、(序論)のCの事柄のことなのである。このCの事柄を語らなければ、何も語ららないのと同じなのである。啓示に固有な証明能力、具体的には啓示の主観的可能性としての不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性である「神の言葉の三形態」に信頼し固執し連帯しそれを媒介・反復しない限りは、「キリストに聞く」ということにはならないし、それゆえにそのことに基づく一致もないのである。少なくとも、せめて、これくらいまでは述べて欲しいものである。
 そしてまた、佐藤は、バルトの次の言葉も引用している――「われわれはわれわれの教会の中で本当にわれわれによって主張され理論的に代表された仕方で〔キリストに聞いているだろうか〕、われわれは、われわれが教会を取り囲む世界の諸現実と諸問題に対して取る立場と態度に関して、われわれ自身の伝統と信仰告白にしたがい本当にキリストに聞いているだろうか? たとえばわれわれは、国家とのわれわれの関係において・・・われわれ自身の、われわれの信仰告白にふさわしく語られ確定された仕方で、キリストの支配のもとにわれわれを置いているだろうか」。このバルトに言葉に対して、佐藤は、ただ「一つの教会における諸教会であるがゆえに、それら諸教会の『生活』において、『秩序』において、そして『教え』においてキリストに聞いているかと、われわれは問われるのです」、と説明しているだけなのである。やはり、これでは何も言わないのと同じである。このような訳であるから、佐藤は、一方で<自然神学>的な信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成を根本的包括的に原理的に止揚してそこから超出した「超自然な神学」者であり神学における思想家でもあるバルトの言葉を引用しながら、他方では<自然神学>的なボーレンの聖霊論的説教論を評価し人間の経験の尊重と人間学に対する神学の優位性という空想の下で非自立的で中途半端な混合神学・人間学的神学を主張してしまうのである。このことは、丁度、一方でバルトの『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』にある「人間の精神や良心や内面性だけを問題にする人は、本当に神を問題にしているのか、人間の神化を問題にしているのではないか、ということを問われなければならない」という言葉を引用しながら、他方ではその引用の内容とは全くベクトルが逆向きな道を歩んでいるヘーゲル主義者のエーバーハルト・ユンゲルを、「ユンゲルのバルト解釈は、バルト後を確定した」、「バルト後の誰もが無視できない一つの流れ、誰もがそこを回避出来ない一つの道を決定した」、「これは日本の知的読者の中にも新しい論議を発火させる焦点となるかも知れない」、と根本的包括的な原理的な「誤謬に普遍性や組織性の後光をかぶせて」、恣意的独断的に出鱈目な戯言を述べ評価をしていた神学者・大木英夫と同じである。
 バルトにおける「キリストに聞」くとは、具体的には「神の言葉の三形態」に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復する、ということなのである。(序論)のCに関わる事柄なのである(拙著53頁あるいはホームページ参照)。また、国家(政治的国家・政治的権力)との関係については、ほんとうは、次のようなバルトの言葉を必要とするのである――@「教会の存在と現状が、……福音から考え・行動し・処理されているということを語っていないならば、教会の説教も福音宣教も虚しいものとなるであろう。教会みずからが、……その行為と態度によって、自己の内なる政治をこの使信に合わせてゆくこと(≪教会・教団共同性にもある政治的権力を無化していくこと≫)を全然考えないとしたならば、どうして世は、王とその御国の使信を信ずるであろうか」(『キリスト者共同体と市民共同体』)、A「(中略)キリスト者は、政治生活において神の正義が人間によって誤認され・蹂躙される場合にも、神の正義は、……天地の一切の力が与えられているイエスの苦しみのゆえに、優越しているということを確信している。悪しき矮小なピラトが、結局は無駄骨折をするというように、配慮がなされているのである。その場合、キリスト者が、どうして、ピラト(≪一切の政治的国家・政治的権力≫)のともがらと成ることができようか」 (『教義学要綱』)。あの「イエス・キリストの名」にのみ信頼し固執したバルトは、その完了された救済と平和の場所において、一切の政治的国家・政治的権力の問題を不可避な過渡的問題として捉えると同時に、究極的永続的課題としてはそれの無化を構造化させているのである。すなわち、バルトは、終末、救贖・完成においては、政治的国家・政治的権力も無化されてしまうという観点を持っているのである。身近な例で言えば、このバルトのような観点を持たない典型が、佐藤優であり、冨岡幸一郎である。

 

(3)佐藤は、バルトのエキュメニズムとの関わり方について、次のように結論づけている。「教会の一致はイエス・キリストにおいてすでに与えられていること、したがって教会の多数性は罪であり、それは、それぞれの教会(つまり諸教会)が悔改めの心をもってキリストに聞くということを遂行しつつ、キリストの証しのために諸教会が共同の信仰告白において一つであることを求めること、そしてその時教会は出来事となる!――この『教会と諸教会』において示された、エキュメニズムないしエキュメニカル運動についてのバルトの考えは、その後、基本的に変わらなかったといってよいと思います」。これでは、(2)でも述べたように、やはり、何も言わないのと同じである。このことは、ほんとうは、もっと具体的には、(序論)のC・F・Gの事柄のことなのである。

 

(4)佐藤は、「バルトは、教派性は、見える一致の道の妨げとしてではなく、そのために必要な場として理解されなければならないと言っています」、なぜならば「異端に対して境界をはっきりさせる態度も、エキュメニカルな作業の構成要素であるからからです。しかしそうなると、そこには、信仰告白との関連で、さまざまに相違があらわれてこざるをえません。問題は、イエス・キリストにおいて一つなる教会が、見える・経験的な次元においても一致することです。対立の克服が、目標でなければなりません。その方法こそ,エキュメニカルな対話なのです」、この意味で「相違」は「『本当のところ一つの許された実り豊かな多様性』とすることができるのです」、と述べている。やはり、これでは何も言わないのと同じである。なぜならば、(序論)や特にC・F・Gの事柄を明確に提起しなければ、「異端に対して境界をはっきりさせる」ことはできないし、それゆえに「エキュメニカルな作業の構成要素」とはならないからである。佐藤の述べ方は、いつも何か曖昧なのである。こうなると、マクグラスと同じように、佐藤も、ほんとうは、バルトを、根本的包括的に原理的に理解していないのだ、と言うことができる。また、(序論)や特にC・F・Gの事柄を明確に提起することなく、通俗的に「エキュメニカルな対話」による「対立の克服」を主張する佐藤には、神学における思想性もないのである。神学においても、それが人間の観念を本質とする知識・思想である限り、「対立する双方に真理があるというような俗説が、世界史的に流布され、流通している」中で、自らの立場において、両者を包括し「止揚しなければならないということが思想的な問題」なのである(吉本隆明『思想の基準を巡って』)。
 佐藤は続けて、「バルトによれば」、「分裂の克服は」、「ただ『新しい熟慮』によってしか可能にならない」、と述べている。この「新しい熟慮」は、「われわれは、われわれが、われわれの教会の奇妙な建物の屋根の下で一緒にいる他の人も、他の人たちも、もしかしたら、彼らなりに、あのただひとりの必要な方、論議の対象にならない方の証人、一つのキリスト教会のひとりの主の証人であり、そのような者たちとしてわれわれに何かを語りたいと考えているのか、またどのように語りたいと考えているのか、それについてひょっとしていま十分考慮しなかったというかぎりにおいて、よりいっそうよく互いに耳を傾け合」う、ということである、この「新しい熟慮」によって、「相違を認識しつつも」自分の語りを「相対化することができるのです」、と述べている。しかし、このバルトの「新しい熟慮」の意味は、人間的な実在と人間的な可能性に依拠した「相違」の相互認識による相互的自己相対化を言っているのではない。なぜならば、もしそうであるのならば、「新しい熟慮」の概念は、<自然神学>的なそれの主張でしかなくなってしまうからである。
 すなわち、バルト自身の「新しい熟慮」とは、次のことを意味しているのである。聖書また教会の宣教において神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示する。したがって、この啓示が教会の宣教の客観的な信仰告白と教義である三位一体論の根拠である。この三位一体論は、神論の決定的に重要な構成要素であり、「啓示の認識原理」である。したがって、神の子供たち・キリスト教的人間の主張、「教会の宣教の批判と訂正」は、常にこの三位一体論に即して行わなければならない、ということを述べているのである。なぜならば、この三位一体論を啓示認識の原理としない場合、すぐに神性否定のキリスト論や半神・半人キリスト論や三神論、神と人間・神学と人間学との混淆論・共働論という<自然神学>的なキリスト論・聖霊論・神論に埋没していく以外になくなってしまうからである。さらに、バルト自身は、次のように述べている――@聖書は旧・新約聖書における預言者・使徒の言葉と霊としてのイエス・キリストの出来事の証しであり証言であり、子なる神、イエス・キリストに関わる。この聖書は、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての啓示の実在そのものであるイエス・キリストと共に、教会の宣教における原理である。なぜならば、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」である「聖書こそ」が、教会に宣教を義務づけているからである。したがって、「聖書が教会を支配するのであって、教会が聖書を支配してはならないのである」、A説教の無条件的な出発点と目的は、「新約聖書において聞く啓示、和解」であるイエス・キリストの死と復活の出来事の啓示、その内容である「インマルエル、神われらと共にいます」である。したがって、私たちは「キリストからすべてのことを期待しなければならない」。このことが「終末論」である。したがってまた、「キリスト教的終末論とは、キリスト論にほかならない」。ここで説教は、「感謝と確信と共に期待の態度と行動」である。「第一の来臨(≪誕生・死と復活≫)と第二の来臨(≪終末、救贖・完成≫)との間(≪聖霊の時代≫)に、説教と、また同時にキリスト者の生活全体」とがある。説教は、説教者の自由事項や独占事項ではないのであるから、自分自身の言葉から由来すべきではなく、どのような場合であれ、その形式と内容において、「聖書への絶対的信頼」に基づく、「聖書講解であることの義務」を負っている。したがって、「説教者が、実際の生活にはなお多くのことが必要であって聖書は生きるために必要なことを言いつくしていない(≪人間の感覚や知識を内容とする経験やさまざまな情報が不足している≫)、と考えるようなことがある限り、彼は、この信頼、信仰を持っておらず、真に信仰によって生き」ようとしていないのである。福音は、「われわれの思考や心情の中にあるのではなく、聖書の中にある」から、私たちは、「思想」、「最高の習慣、最良の見解、そのようなものいっさい」を、聖書に「聴従」することの前で、「放棄」しなければならない。すなわち、その「聖書は神の言葉となる」ところで、「聖書は神の言葉なのである」。すなわち、聖書に「聴従」するために、神のその都度の自由な決断に基づく啓示の出来事と信仰の出来事において、その神の言葉の「出来事」の運動の中において、聖書によって導かれなければならないのである。説教者にとって、「彼らに語らなければならない彼ら自身に関する真理」は、「神がすでに為した」「わたしの前にいるこの人々のために、キリストは死に、甦られた」――神、罪深きわれらと共に、ということである。そこにおいて、説教は、「会衆」、「特定の場所と時における全く特定の現在の人間」の生活、「彼らの生活がイエス・キリストの中に根拠と希望とを持つことを語ること」である。その場合、「ただ聴衆にだけ目をとめてはならない」のであって、その現にあるがままの不信・非知・非キリスト者(教)・大多数の被支配としての一般大衆にも眼をとめて語らなければならないのである。説教者は、神学における思想の往還において、「『貧しい、低きにいる民』に下っていかなければならない」のである。

 

(5)佐藤は、バルトのエキュメニズムとの関わり方について、「一九三四年のファネー会議で、ドイツ国内ではだれも語ることが許されなくなった平和の声を聞こえるようにする場としての世界教会会議を構想し、提案」している「ボンヘッファーとの一致も指摘しておかなければなりません」、と述べている。佐藤は、このように、形而上学的抽象的皮相的に一面だけを拡大鏡にかけて恣意的独断的に、出鱈目な戯言を平然と述べているのである。
 佐藤の評価とは違って、バルトとボンヘッファーには根本的包括的な原理的な差異性があるのである(拙著37・38頁および140−143頁あるいはホームページ参照)。
@ローマ3・22、ガラテヤ2・16等の「イエスの信仰」の属格について、バルトはそれを主格的属格として理解したのであるが、ボンヘッファーはそれを目的格的属格として理解していたことは『説教と牧会』を読むだけでも一目瞭然のことなのである。
Aバルトの場合、信仰・神学・教会の宣教における決断や実践や行動は、その主格的属理解(この理解に関わる事柄すべてを含めて)における、その言葉それ自体が、その理論それ自体が、自ずと必然的に、決断に実践に行動に駆り立てる、という在り方にあったが、ボンヘッファーの場合は、言葉だけでなく行為・行動も、理論だけでなく実践も、という在り方にあった。
Bバルトは、「もし革命は起こらなければならぬという確信をもっても、そのとき君は依然こう君自身に問わねばならない。君は状況を改善するために真の機会を持っているか。(中略)もしも君が革命の結果、よいことがおこるという確信がなければ、してはいけない。(中略)これがヒトラーを転覆する陰謀に対して私がもった留保だ。ボンヘッファーとその友人たちは、そのあとに何が起こるかについては明らかではなかった。あとの計画が具体的ではなかった。明瞭な積極的な立場がなかった」。明瞭な、革命の過渡的課題と究極的課題との構造的把握・構想を持っていなかった。「実際的な可能性についての明らかなヴィジョンが欠けていた。彼らは夢想家だった」(『バルトとの対話』)。

 

 このような訳であるから、私たちは、知識人や神学者や牧師やキリスト教的メディア的著述家たちの、知識や情報を、そのまま鵜呑みにしたり模倣したりしない方がいいのである。