本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

<自然神学>とは何か――バルトの、究極的包括的根本的な<自然神学>批判の、根拠・原理・原動力

<自然神学>とは何か――バルトの、究極的包括的根本的な<自然神学>批判の、根拠・原理・原動力

 

 

<まえがき>
 これは、前回の「バルトの生涯――『福音と律法』論への道程(自然神学<超克>のための根拠・原理・原動力<探求>の道程)」において述べた、バルトの、究極的包括的根本的な<自然神学>批判の、根拠・原理・原動力について、単純にしかし根本的にそしてトータルに理解するための付論である。前回のバルトの道程からも分かるように、バルトの、その究極的包括的根本的な<自然神学>批判は、キリスト教の歴史性から強いられた、現実と時代とから強いられた、神学における思想の課題としての<それ>なのである。すなわち、ただ単なる、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」・それに類する神学における、抽象的一面的皮相的<通俗的>な概念的<整理>の<それ>では、全くないのである。このことの認識、このことの自覚は、重要なことである。

 

 

1)バルトの、<啓示に固有な証明能力>に対する信頼と固執――

 

ア)ここで、<啓示に固有な証明能力>とは、「啓示の中」の体系のことである。その「啓示の中」の体系は、<神性>を本質とするイエス・キリストだけである。それは、次の事柄のことである。
 聖書また教会の宣教において神は、<イエス・キリスト>の父、<子>としてのイエス・キリスト自身、父と<子>の<霊>である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示する。ここに、神自身の自己認識・自己理解・自己規定がある。このように、聖書でイエス・キリストにおいて自己啓示された神は、「失われない差異性の中」で三つの「存在の仕方」(性質・行為・働き)において「三度別様」に父・子・聖霊なる神であって、その「存在」は「失われない」単一性・神性・永遠性を「本質」とする「一神」・「一人の同一なる神」である。したがって、「三神」・「三の対象」・「三つの神的我」ではなく、父、子、聖霊の三つの「存在の仕方」の、単一性・神性・永遠性を「存在の本質」とする「一人の同一なる神」、すなわち「三位一体」の神なのである。したがってまた、単一性・神性・永遠性を「存在の本質」とする神の完全さ・自由さは、父・子・聖霊の三つの「存在の仕方」の完全さ・自由さなのである。また、この、自在であって他在としての<自由>は、神自身においてのみ、「実在であり真理」である。これは、ヘーゲル哲学を紙一重で超えた、バルトの神学における思想の言葉である。「われわれに出会う神」である父、子、聖霊の三つの「存在の仕方」は、「啓示者、啓示、啓示されてあること」・「神の聖(≪隠蔽≫)、あわれみ(≪顕現≫)、愛(≪父・隠蔽と子・顕現の愛に基づく交わり≫)」・「聖金曜日、復活日、聖霊降誕日」・「創造主なる神、和解主なる神、救済者なる神」の三つの「存在の仕方」に対応している。この神は、「隠蔽」と「顕現」において、その啓示の弁証法において、その都度の自由な決断において、「人間に対して自己を伝達」・啓示する。したがって、神の自由な決断に基づく、この神自身の自己啓示が、教会の宣教の客観的な信仰告白・教義である三位一体論の根拠である。この三位一体論は、神論の決定的に重要な構成要素であり、「啓示の認識原理」である。したがってまた、「教会の宣教の批判と訂正」は、常に、この三位一体論に即して行わなければならないのである。なぜならば、この三位一体論を啓示認識の原理にしない場合、すぐに、<神性>否定のキリスト論や半神・半人キリスト論や三神論等々や、神と人間・神学と人間学との混淆論・共働論、という<自然神学>的なキリスト論・聖霊論・神論に埋没していく以外にないからである。

 

例示――
@佐藤優は、l『はじめての宗教論』で、「神学がなくても信仰は成立しますが、高等教育を受け、『天にいる神』をもはや素朴に信じることができなくなったわれわれには神学が必須です。われわれは『天にいる神』をほんとうに信じていませんが、ほんとに信じていないことを口にしてはいけないというのが、キリスト教信仰の第一の前提です。だからこそ神学が不可欠なのです。神学的な操作(≪非神話化等の操作≫)を経ない限り、われわれは古代の世界像をもっているキリスト教を信じることはできないということです」、と述べている。また、この佐藤が、馬鹿げた似非使徒として、『国家と人生』では、7,8世紀を起源とする「権威」としての天皇・天皇制を非論理で・無批判で信奉せよ、と天皇教的キリスト教を展開しているのである。神学における思想としてのバルトのア)の原理を認識し・理解することができない、この<自然神学>的な佐藤の語りに対して、このア)の原理の一貫性において、また後述する2)のア)の原理の一貫性において、根本的な批判を加えることができる。
A『神学者カール・バルト』の訳者である蘇光正は、その「訳者あとがき」で、外在的な<時系列的>判断に依拠して、「バルトが『聖霊』を口にする場合、それは『教会教義学』の第四巻(殊に第三部)以来ますます載然と、排他的にイエス・キリスト自身の霊的臨在またはその力をさし、したがって自然神学へのブルンナー的遡行(またはヘーゲル的哲学化)を許す『父の霊』は考えられていない」と断定的に述べているのであるが、バルトの三位一体論における神の「存在の本質」の概念から言えば、彼の言う「父の霊」への「排他」性は本質的に成立しないのである。それだけでなく、神と人間との無限の質的差異の原理の一貫性において、その神学の認識方法および概念構成を行っているバルトの場合は、「父ト子トヨリ出ズル御霊」としての「父の霊」に対して排他的にならなくても、「自然神学へのブルンナー的遡行(またはヘーゲル的哲学化)」を防ぐことはできるのである。このように、根本的な誤謬に普遍性や組織性の後光をかぶせたまま、バルトを論じ、しかも「父の霊」への「排他」性を論じている蘇に対して、このア)の原理の一貫性において、また後述する2)のア)の原理の一貫性において、根本的な批判を加えることができる。

 

イ)人間に向かって語られる「神の言葉」は、三位一体論の唯一の啓示の類比としての「神の言葉の三形態」――すなわち、その第一形態であり、神の言葉の直接性であり、「すでに来たり給うた」、また「再臨し給う」イエス・キリスト自身であり、「イエス・キリストにおいて起こった和解」であり、イエス・キリストにおけるインマヌエルとしての神の言葉である、<神性>を本質とするイエス・キリストにおける啓示の出来事(神の側の真実、啓示の客観的現実性、「啓示の実在そのもの」、教会の宣教に対して「先ず第一に優位に立つ原理」)と、また、その第二形態であり、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての啓示の実在であるイエス・キリストと共に「教会の宣教の原理」である聖書の証言・証し、および、その第三形態である教会の客観的な信仰告白・教義、においてある。したがって、「啓示の中」での体系は、<神性>を本質とするイエス・キリストだけなのである。また、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」である「聖書こそ」が、教会に宣教を義務づけているのであるから、「聖書が教会を支配するのであって、教会が聖書を支配してはならないのである」。
 このことに自覚的であった神学における思想家のバルトは、啓示の「概念の実在」(キリスト教に固有な類・歴史性)を媒介・反復するという仕方で、「聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程の包括的研究において『教義そのもの』を尋ね求め」るというふうにして、それと連帯したのである。また一方でバルトは、その信仰・神学に、現実と時代とから強いられて、個性や時代性を刻んだのである。

 

例示――
 このイ)における原理の一貫性から、バルトは『説教の本質と実際』において、説教は、説教者の自由事項や独占事項ではないのであるから、自分自身の言葉から由来すべきではなく、どのような場合であれ、その形式と内容において、「聖書への絶対的信頼」に基づく、「聖書講解であることの義務」を負っている、と述べたのである。また、「説教者が、実際の生活にはなお多くのことが必要であって聖書は生きるために必要なことを言いつくしていない(≪ルドルフ・ボーレンやその信奉者の佐藤司郎や小泉健の聖霊論的説教論のように、人間の感覚や知識を内容とする経験・情報が不足している≫)、と考えるようなことがある限り、彼は、この信頼、信仰を持っておらず、真に信仰によって生き」ようとしていないのである・福音は、「われわれの思考や心情の中にあるのではなく、聖書の中にある」から、私たちは、「思想」、「最高の習慣、最良の見解、そのようなものいっさい」を、聖書に「聴従」することの前で、「放棄」しなければならない、と述べたのである。そしてまた、説教の無条件的な出発点と目的は、「新約聖書において聞く啓示、和解」であるイエス・キリストの死と復活の出来事の啓示、その内容である「インマルエル、神われらと共にいます」である・したがって、私たちは「キリストからすべてのことを期待しなければならない」・このことが「終末論」である・したがってまた、「キリスト教的終末論とは、キリスト論にほかならない」・ここで説教は、「感謝と確信と共に期待の態度と行動」である・「第一の来臨(≪誕生・死と復活≫)と第二の来臨(≪終末・完成≫)との間(≪聖霊の時代≫)に、説教と、また同時にキリスト者の生活全体」とがある、と述べたのである。
 私たちは、このイ)の原理の一貫性から、<自然神学>的な、ルドルフ・ボーレンやその信奉者の佐藤司郎や小泉健の聖霊論的説教論に対して、根本的な批判を加えることができる。

 

ウ)啓示認識・啓示信仰は、<神性>を本質とするイエス・キリストにおける<啓示の出来事>と<神性>を本質とする「聖霊の注ぎ」による<信仰の出来事>に基づいて、人間が人間的に所有する人間の<それ>として、初めて、可能となる、そして授与され・現存する。また、その啓示認識に依拠した信仰の類比・関係の類比を通して、初めて、人間自身の自己認識・自己理解・自己規定は、可能となる。
 このように、バルトは、神と人間との無限の質的差異の下で、また終末論的限界の概念において、その自己相対化視座を持って、啓示に固有な証明能力――すなわち、イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて、初めて、可能となる、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与と現存、に信頼し固執する。また、その啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通して、初めて、可能となる、人間自身の自己認識・自己理解・自己規定、に信頼し固執する。
 例えば、「予定説」は、「イエス・キリストにある救いの自由な表現」そのものである。言い換えれば、それは、「真に罪なき、従順なお方」イエス・キリスト自らが、私たち人間に代わって、「見捨てられた人間となり、その罰を引き受け給うたということ」、すなわち神の恵みに対してイエス・キリスト自らが、私たち人間に代わって、「福音と律法の真理性」と「福音と律法の現実性」の構造において、端的に信じ給うたということである(『福音と律法』における、<主格的>属格としての「イエスの信仰」、神の側の真実、啓示の客観的現実性)。これが「神の最高の義」である。このことは、イエス・キリストを信ずるということ、イエス・キリストにのみ信頼し固執するということに関して、第一次的な契機は私たち人間には全く何もないということ――すなわち、神に敵対し神に服従しない私たち人間は、「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力」を全く持っていない、ということを意味している。したがって、イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与され現存する啓示認識・啓示信仰に依拠して、初めて、生来人間は、神の「恵みに敵対」し、「神の恵みによって生きようとしないが故」に、「このことこそ、第一に恵みが解放しなくてはならない人間の危急」であったということを、私たち人間に認識させるのである。このように、私たちは、イエス・キリストにおける啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて、初めて、「神の選び」を「イエス・キリストの復活」において啓示認識・啓示信仰し、「神の放棄」を「イエス・キリストの十字架」において啓示認識・啓示信仰することができるのである。そしてまた、「われわれが本当に神の啓示を認識する時、われわれは初めて」――すなわち、その啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通して、初めて、神に対する人間的反抗、「神の敵」、「神に相対して、自分の力を誇り、まさにそのことの中でこそ罪深い堕落した人間」としての自分自身を、またそのような人間の「世」を、それとして、正直に、自己認識・自己理解・自己規定できるのである(『教会教義学 神の言葉』および『カール・バルト著作集』「神の恵みの選び」)。逆に言えば、こうした啓示認識・啓示信仰、こうした自己認識・自己理解・自己規定というものは、人間の自己意識・理性・思惟・感情・意志・実存、人間学的な哲学原理・認識論・世界観、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍等々の<第一次化>(神の人間化、人間の神化、神学の人間学化、唯一無比の神性を本質とするイエス・キリストの啓示の自然啓示化、両者の混淆・共働)によっては――すなわち、「イエスの信仰」の<目的格的>属格理解と啓示の主観的現実性と「存在の類比」によっては、全く得られない、ということを意味しているのである。
 バルトは、徹頭徹尾、聖書に依拠して、神の側の真実にのみ、すなわち「イエスの信仰」の<主格的>属格理解(啓示の客観的現実性)にのみ立脚した。そして、キリスト教の歴史性、現実と時代から強いられて、神学における思想家のバルトは、次のように述べたのである――「(≪私たちは神性を本質とするイエス・キリストにおける啓示、この≫)一つの事柄に仕えなければならないのであって、ひとつの党派(≪党派性・党派的思想・党派的共同性・党派的多元主義・学派・教派・宗派・思想傾向・主義・時流や時勢・社会的政治的な言説や運動≫)に仕えなければならないことはない……、一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……」、と(『教会教義学 神の言葉』)。また、詩人・文芸批評家で思想家でもある吉本も、「対立する双方に真理があるというような俗説が、世界史的に流布され、流通している」中で、自らの立場において、両者を包括し「止揚しなければならないということが思想的な問題」である、と述べたのである(『思想の基準をめぐって』)。すなわち、前述したバルトの、一切の<自然神学>批判の、究極的包括的根本的な根拠・原理・原動力は、不可避的な、神学における思想の課題としてある、不信とむなしさと不安と不確かさの蔓延した現在を止揚して、現在から未来に生きる<方途>としてもあるのである。

 

例示――
 ブルンナーは、『自然と恩寵』で、「正しい自然神学の復帰こそが現代の神学世代の課題である」と主張した。バルトは、そのブルンナーに対して、その言説は、その最初から「誤謬が必然」なもの――すなわち、「存在ノ類比」というローマ・カトリック主義の根本的な誤謬と「危険」な陥穽に陥いることが必然なものである、と『ナイン!――エミール・ブルンナーに対する答え』で根本的な批判をした。なぜならば、ブルンナーのその理論は、教会に、<自然神学>に基づく根本的な誤謬を繰り返させるものでしかないからである。具体的には、中世スコラ神学が「キリスト啓示とならぶ自然啓示を認める自然神学を立てたことが、中世末期の人間の行為(業)による義認の考え方に道を開いた。宗教改革者たちは、この業による義認を批判攻撃したが、その神学的根底としての<自然神学>の批判にまで徹底しなかった。宗教改革者のこの非徹底が、ルター派的二元論を支えとしてドイツ・キリスト者の民族の神、『非ユダヤ的英雄』イエスの信仰の登場を可能とした」からである。したがって、ブルンナーのように、「キリストの啓示の外に人間の理性に『神と人間の結合点』としての役割を与えることは、『200年以上にわたって教会の荒廃を準備してきた』あの誤り(≪自然神学に基づいた誤り≫)を再びくりかえすことになる」、とバルトはブルンナーを根本的に批判したのである。「われわれはここでもまた、『自然神学』と『存在ノ類比』……の問題に対するバルトの強靭な対決に……に気づくであろう」。「啓示に先立つ『啓示能力』」としての『結合点』(罪人からも喪失してしまっていない「形式的な神の像」・残像)――人間的自然・人間的契機の直接性、「神的汝をあこがれ求めている」「自信過剰」の半減された「近代的精神」・人間的な理性・思惟――の「問題に対するバルトの強靭な対決に……気づくであろう」(『ナイン!――エミール・ブルンナーに対する答え』および『教会教義学 神の言葉』)。この<自然神学>的なブルンナーの言説に対しては、前述した原理、また後述する2)のア)とウ)の原理の一貫性において、根本的な批判を加えることができる。
 このバルトにとっては、観念的威力として伝統的な根強さのある、「自然神学」、「反キリスト」、「存在ノ類比」、に依拠するローマ・カトリック主義(もちろん、現存する、ローマ・カトリック主義的なもの、近代主義的プロテスタント主義的なもの、アジア的日本的な自然原理に基づくそれも含めて一切)は、まさしく、その<全>信仰・神学・教会の宣教・キリスト教・「プロテスタント教会」にとっての、「非常に強力な、深い、最終的には唯一の、真実に取り上げるべき」対象であり、究極的包括的根本的に、包括し止揚して、そこから<超>「自然な神学」へと超出していくべき対象、だったのである。したがって、バルトにおいては、キリスト教の信仰・神学・教会の宣教の系譜には、ほんとうは、本質的には、<自然神学>の系譜か、あるいは、バルトのように、その信仰・神学・教会の宣教の原理、その認識方法と概念構成それ自体において、その<自然神学>を包括止揚して、そこから<超>「自然な」信仰・神学・教会の宣教へと超出した<「超自然な神学」>か――このように、<自然神学>の系譜か、あるいは<超>「自然な神学」か、の二つの系譜しかないのである。

 

 

2)バルトの、その信仰・神学の原理、その認識方法と概念構成を、単純にしかし根本的にそしてトータルに把握するための三つの視座について――もちろん、この視座自体も、究極的包括的根本的な<自然神学>批判の、根拠・原理・原動力である。

 

ア)神と人間との無限の質的差異は「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」、という啓示認識・啓示信仰・信仰的神学的自覚の一貫性(『ローマ書』)
 バルトは、このア)の原理の一貫性において、ルートヴィッヒ・フォイエルバッハの正当性のある根本的な宗教批判の対象である、<自然神学>的な、ルターの信仰論や受肉説を、シュライエルマッハーの人間学的神学を、ヘーゲル哲学を、根本的に包括し止揚して、そこから超出したのである。
 また、バルトは、このア)の原理の一貫性において、ハイデッガーの正当性のある根本的な揶揄・批判の対象である、<自然神学>的なブルトマン(その学派)の「存在者レベルでの神」・その「神への信仰」を、根本的に包括し止揚して、そこから超出したのである。
 因みに、ハイデッガーのブルトマン(その学派)に対する揶揄・批判は、「『今日まさにこのマールブルクでは、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか』」、というものであった。
 また、因みに、バルトは、ヘーゲル哲学が観念論だから「受け入れ難く耐え難い」と言っているのではない。すなわち、ヘーゲルにおけるその神・啓示は、人間自身の自己意識が「捕えた虜囚」でしかないものとなってしまうから、「受け入れ難く耐え難い」と言っているのである。そして、バルトにとって「ヘーゲルの哲学的手法に対して」、「受け入れ難く耐え難い」「最も重大でかつ決定的なもの」は、「人間の自己運動を神のそれと取り違えるという混淆」、「神の自由を認識していないという事態」にあった。ヘーゲル哲学の、その原理、その認識方法および概念構成は、神と人間との無限の質的差異の揚棄に基づいた人間中心主義的な存在の比論にある。ヘーゲル哲学を支えているのは、自己への信頼としての「自信自恃の哲学」であり、「人間の時代」の哲学である。その原理は、自由な自己意識の無限性の原理、区別を包括した同一性の原理、思惟と思惟されたものとの等価性の原理において、「彼の思惟が思惟したものの中に彼の思惟が完全に現存」し、「彼の思惟の中に彼の思惟に思惟されたものが完全に現存」するという原理である。したがって、自己意識の思惟と思惟されたもの(自己意識によって対象化されたそれ)は、自己還帰して等価となる。このように、思惟に思惟を重ねて具体的普遍の頂へと高次化する思惟は、自然から超出した精神であるから、その頂を極めた「精神は、また精神自体としては神と全く同一である」。これを支えているものが、無限と有限との統一としての「究極的同一性」である。この「究極的同一性」において、「神の理性」のその属格理解における理性は、人間の理性が神を思惟する理性から、神の理性が思惟する理性に転化され、人間の理性の思惟は、神の理性の思惟と等価性を持つことになる。この事態は、人間の神化・神の人間化、神と人間との無限の質的差異の揚棄を意味するのである。「われわれは、シュライエルマッハー以外の他の人々の所でも、……〔この〕ヘーゲルの強力な痕跡に遭遇するであろう」――ヘーゲルについて、このように、バルトは述べた(『ヘーゲル』)。この<自然神学>的なヘーゲル哲学に対しては、前述した原理と、この2)のア)と、後述する2)のイ)におけるイエス・キリストの<神性>性と2)のウ)の原理の一貫性において、根本的な批判を加えることができる。
 バルトは、<自然神学>的なブルトマンの信仰・神学の原理、その認識方法と概念構成に対して、次のような根本的な批判を加えている――「新約聖書の釈義に役立つ新しい哲学的な鍵」を、前期ハイデッガーの哲学原理に見出したブルトマンは、神と人間との無限の質的差異における第一次的な啓示の実在そのものを揚棄し・無視し、また聖書の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」(キリスト教に固有な類・歴史性)も揚棄し・無視してしまって、逆に、人間学的な前期ハイデッガーの哲学原理によって対象化された人間の自己意識の意味的世界でしかない「存在者レベルでの神」・啓示を第一次的なもにとして、この第一次的なものに従事することにおいてのみ「イエス・キリストについてのケーリュグマ」・「宣教する」ことによって伝えられた宣教内容・新約聖書の使信の内容・イエス・キリストの出来事を知らせた宣教や説教を第二次的なもに形式変換してしまったのである。したがって、ブルトマンにおいては、イエス・キリストの十字架処刑も、イエス・キリストの死人からの甦り・復活も、「ケーリュグマと信仰の認識基礎命題ではなく」、単なる「説明文」にしか過ぎないものとなってしまったのである。すなわち、ブルトマン自身の対象化された自己意識の意味的世界でしかないものとなってしまったのである。このことは、ブルトマンが、<自然神学>的な、神と人間・神学と人間学との混淆論・共働論に基づいた、実際的には前期ハイデッガーの哲学原理に基づいた啓示認識を目指し、またその啓示認識に依拠した<存在の類比>を通した人間の自己認識・自己理解・自己規定を目指す、信仰・神学の原理、その認識方法と概念構成に立脚したことを意味するのである(『ルドルフ・ブルトマン』)。この事態は、人間の神化・神の人間化であり神学の人間学化を意味する。このブルトマンの<自然神学>的な在り方に対して、バルトは、『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』においては、私たち人間における「存在を問う問い」は、それは「考えることの対象である限り」、「対象そのものを」問う問いとして、対象を「考えられたものへと解消」(≪人間の自己意識によって対象化された存在・存在者へと解消≫)しないで、その「独立的に存在する」対象そのものとして問われなければならないと、1)の啓示の客観的現実性とその啓示に固有な証明能力の原理の一貫性において、根本的な批判を加えている。
 また、次に論じる2)のイ)の原理の一貫性から言えば、バルトは、「イエスの信仰」の<主格的>属格理解――すなわち、神の側の真実にのみ、啓示の客観的現実性にのみ、キリスト論的集中にのみ、立脚したのであるが、<自然神学>の系譜に属するブルトマンは、「イエスの信仰」の<目的格的>属格理解――すなわち、神だけでなく人間も、人間の自己意識・理性・思惟・実存も、人間の欲求・自己主張も、対象化された人間の自己意識の意味的世界(人間の自己意識によって恣意的に曲解された神・啓示)も、という神と人間・神学と人間学との混淆・共働、啓示の主観的現実性に立脚した、と言うことができる。

 

例示――
@このア)の原理の一貫性において、<自然神学>に立脚して、「権威」としての天皇、天皇制を信奉する天皇教的キリスト教を目指す佐藤優に対して、根本的な批判を加えることができる。
AWeb上で、バルトの「『神の人間性』に見る後期バルトの神観」について論じていた教会の牧師は、「バルトが語る〈神の人間性〉とは」、「たとえ人間が」「神を神とすることを止めて自らを神とし、神の敵として歩み始めたとしても、神は人間と関わりを持つことを決して拒まれないで、あくまでも苦難の中にうめいている人間と苦しみを共にすることを選ばれたということ」、と尤もらしく聞こえる言葉で、しかし根本的な誤謬に普遍性の後光をかぶせて述べていた。この牧師は、バルトの「神の神性において」(神の「存在の本質」としての単一性・神性・永遠性)という言葉を恣意的に揚棄し取り除いて述べているのであるが、バルトは、「神の神性において、また神の神性と共に、ただちにまた神の人間性もわれわれに出会う」と述べているので、バルトにおいては、確実に、神と人間との無限の質的差異を踏まえた上で、人間へと向かう神性を本質とする「神の神性」と「神の人間性」(「存在の仕方」)について述べているのである。こうした根本的な誤謬を犯すことがないように、バルトは、同じ『神の人間性』において、再度、念を押して、「神が神であるということがいまだに決定的となっていないような人は、今神の人間性について真実な言葉としてさらに何か言われようとも、決してそれを理解しないであろう」、という言葉を置いているのである。この言葉は、そうした根本的な誤謬に普遍性やある組織性の後光をかぶせて語る神学者や牧師や著述家がいるであろうことを予想して置かれているのである。このバルトの、紙一重の差を越えて形成される神学における思想を認識し・理解し・自覚していない、<自然神学>的なこのような牧師に対して、それに類する神学者・牧師・著述家に対して、このア)の原理の一貫性において、根本的な批判を加えることができる。
B近代の宗教的形態が科学<主義>にあるように、エコロジーの極限に想定されるものが宗教としての天然自然<主義>である。神と科学<主義>、神と天然自然<主義>は、神と<天皇教>と同じように、<自然神学>の系譜に属するものとして、それらに対して、このア)の原理の一貫性において、根本的な批判を加えることができる。この事例は、私の書いた「バルト対――倉松功」における、ルター<主義>者・倉松のルター擁護論にも見出すことができる。

 

イ)ローマ3・22およびガラテヤ2・16等の「イエスの信仰」の属格は「明らかに<主格的>属格として理解されるべきものである」・また、ガラテヤ2・19以下の「私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである」の属格も<主格的>属格として理解されるべきものである・「これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである」、という啓示認識・啓示信仰・信仰的神学的自覚の一貫性(『福音と律法』)
 この「イエスの信仰」の属格(所有格)の<主格的>属格理解――神の側の真実にのみ、啓示の客観的現実性にのみ、イエス・キリストにおける完了された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的救済・平和(史)にのみ信頼し固執する<それ>――は、信と不信、知と非知、キリスト者(教)と非キリスト者(教)の枠組の揚棄と両者の架橋を意味している。したがって、それは、党派性・党派的思想・党派的共同性、宗派、教派、学派、党派的多元主義の揚棄をも意味している。そしてまた、バルトのそれは、まさしく根本的包括的究極的に揚棄すべき対象としてある、アウグスティヌス、トマス・アクィナス、ルター、シュライエルマッハー、ブルトマン、モルトマン、エーバーハルト・ユンゲル、ルドルフ・ボーレン、……等々、ローマ・カトリック主義、近代主義的プロテスタント主義、アジア的日本的な自然原理に依拠する近代主義的プロテスタント主義、天皇教的キリスト教、キリスト教的カルト集団、……等々、を<自然神学>の系譜に属する信仰・神学・教会の宣教・キリスト教として<総括>することをも意味しているのである。すなわち、このことは、本質的には、キリスト教には、<自然神学>の系譜に属するそれと<超自然な神学>のそれ、という二つの系譜しかないことを、私たちに教えてくれるのである。言い換えれば、キリスト教の多様な分類化は、神学における思想の課題を持たない者たちの、非本質的な皮相的な<通俗的>な概念的整理のそれでしかないものなのである。
 その信仰・神学の原理、その認識方法と概念構成それ自体において、一切の近代主義を包括し止揚してそこから超出したバルトにとって、イエス・キリストにおいては、個と共同性は逆立し対立するのではなく――近代主義的概念におけるように個と共同性は逆立し対立するのではなくて、正立し平和なのである。それだけではなく、<神性>を本質とするイエス・キリストにおける「『神われらと共に』という言葉」・「キリスト教使信の中心」は、教会共同性・教団共同性のような「狭い共同体」から「その事実をまだ知らぬ」「すべての他の人々」「広い共同体」へ向かっての運動において、現にあるがままの不信・非知・非キリスト者(教)、全人間・全世界・全人類に対して、<完全に>開かれているのである(『カール・バルト教会教義学 和解論 T/1 「和解論の対象と問題」』)。したがって、バルトの場合は、多くの神学者・牧師・著述家たちのように、意味あり気に、声高に、エキュメニカル運動が必要だ、他宗教との対話が必要だ、などと言わなくても・叫ばなくてもいいのである。

 

例示――
@このイ)の原理の一貫性において、<自然神学>の立場から訳されている、<旧訳>の新約聖書および<新共同訳>の新約聖書に対して、根本的な批判を加えることができる。すなわち、一切の<自然神学>を根本的包括的究極的に包括し止揚して、そこから1)と2)の原理の一貫性に基づく<超>「自然な」信仰・神学・教会の宣教・キリスト教へと超出することができる。言い換えれば、ほんとうの、究極的包括的根本的な宗教改革へと向かうことができる。また、その時、キリスト教の信仰・神学・教会の宣教は、不信とむなしさと不安と不確かの蔓延した現在を止揚して、現在から未来に生きることができるものとなる。
Aこのイ)の原理の一貫性において、<自然神学>に立脚した、アジア的日本的な自然原理に依拠した滝沢克己の「根本的事実」・「インマヌエルの事実」の概念に対して、根本的な批判を加えることができる。
Bほんとうは、「福音と律法」理解の差異は、根本的包括的究極的な差異を惹き起こす事柄であるにもかかわらず、「イエスの信仰」の<目的格的>属格理解、啓示の主観的現実性、すなわち<自然神学>に立脚するクラッパートは、バルトの「福音を律法に先立てることは、ルターの律法と福音の前後関係を排除するのではなく、正当な仕方で内に含んでいる」というように、非論理的に、いい加減に、根本的な誤謬に普遍性や組織性の後光をかぶせて語っているのである。しかし、ほんとうは、両者には根本的包括的究極的な差異があるのである。すなわち、その差異は、「イエスの信仰」の属格理解の差異であり、それは、バルトの<主格的>属格理解とルターの<目的格的>属格理解の差異である。言い換えれば、神の側の真実にのみ信頼し固執したバルトにおける啓示の客観的現実性と、神と人間・神学と人間学との混淆・「共働」を目指したルターにおける啓示の主観的現実性との差異である。ここで注意すべきことは、このルターにおける啓示の主観的現実性の概念は、神の自由な恵の行為としての聖霊の注ぎによる啓示認識・啓示信仰の主観的現実化の概念とは全く違うものである、という点である。すなわち、ルターのそれは、少なくとも半分は対象化された人間の自由な内面の無限性(人間の対象化された自己意識の意味的世界や人間の管理するプログラム等)のことであって、それゆえに、それは、フォイエルバッハの宗教批判の対象そのものであり、ハイデッガーの揶揄・批判した「存在者レベルでの神」・その「神への信仰」そのものの位相にあるものなのである。言い換えれば、このルターに対して、2)のア)とイ)の原理の一貫性において、根本的な批判を加えることができるのである。
Cオットー・ヴェーバーは、『和解論』第13章「神わららと共に」を、次のように論じている(『カール・バルト教会教義学 和解論 T/1 「和解論の対象と問題」』)――「バルトは『客観的なもの』を重視あるいは絶対視し、ブルトマンは『主観的なもの』を重視あるいは絶対視するという風に、規定することは出来ない。その対立は、さらにいっそう深いところにある」。これではやはり、橋爪大三郎に「一番肝腎なところが書かれていない。根本的な疑問ほど、するりと避けられてしまっている」と書かれても仕方がないのである。このことは、次のように言うことができる――バルトは、神と人間との無限の質的差異の下で、「イエスの信仰」の<主格的>属格理解、<神性>を本質とするイエス・キリストにおける<啓示の客観的現実性>(神の側の真実)にのみ信頼し固執する<超>「自然な神学」の原理、その認識方法と概念構成に立脚したが、ブルトマンは、神と人間との無限の質的差異と啓示の「概念の実在」(キリスト教に固有な類・歴史性)を揚棄し無視して、神と人間・神学と人間学との混淆・共働に基づく、実際的には前期ハイデッガーの哲学原理の第一化に基づく啓示の主観的現実性に信頼し固執する<自然神学>的な原理、その認識方法と概念構成に立脚した、と言うことができる。したがって、ブルトマンの神・啓示・神学は、まさしく、<自然神学>的な<それ>として、フォイエルバッハの宗教批判の対象そのもの・ハイデッガーが揶揄・批判した「存在者レベルでの神」・その「神への信仰」そのものなのである。私たちは、この<自然神学>的なブルトマンに対して、1)と2)の原理の一貫性において、根本的な批判を加えることができる。と同時に、両者の根本的包括的究極的な差異性を理解し・自覚していないオットー・ヴェーバーに対しても、1)と2)の原理の一貫性において、同様の批判を加えることができる。

 

ウ)「聖霊は、人間精神と同一ではない」・「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」・聖霊は、自由な人間の自己意識の無限性ではない・ヘーゲルにおける人間に内在する神的本質の概念は聖霊の概念と同一ではない・聖霊によって更新された人間の理性も聖霊そのものではない、という啓示認識・啓示信仰・信仰的神学的自覚の一貫性(『教会教義学 神の言葉』および『教義学要綱』) 
 バルト論を書いた冨岡幸一郎は、『使徒的人間――カール・バルト』において、高校の倫理レベルの知識で、根本的な誤謬に普遍性やメディア的組織性の後光をかぶせて、アウグスティヌスはトマス・アクィナスと違って<自然神学>の系譜に属していないと平然と語っていたのであるが、バルトは、このウ)と2)のア)の原理の一貫性において、「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰である」とした「カントは、本源的であるゆえに、すでに前もってわれわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で、アウグスティヌスの教説と一致する」、とその<自然神学>性に対して根本的な批判を加えているのである。したがって、同じように、私たちは、このウ)の原理の一貫性において、根本的な誤謬に普遍性やメディア的組織性の後光をかぶせて語っているだけの冨岡に対して、根本的な批判を加えることができるのである。このように、冨岡は、その根本において・その総体において、バルトを全く理解していないのである。また、冨岡は、バルトの神学における思想も全く理解していないのである。この冨岡が、バルトを、単純にしかし根本的にそしてトータルに語れるわけがないのである。また、このような、根本的な誤謬に普遍性やメディア的組織性の後光をかぶせてしか語っていない冨岡が、いくら「未来の思想に関与することができればと願」ったとしても、未来の思想に関与できるわけがないのである。
 さて、この神学における思想家のバルトは、1)の原理の一貫性において、<自然神学>に立脚して「被造物ノ中デノ三位一体ノ跡」と語ったアウグスティヌスに対して、逆に、「三位一体ノ中デノ被造物ノ跡」と語って<自然神学>を紙一重で超えているのである。バルトは、このように、<自然神学>を根本的に包括し止揚して、そこから<超>「自然な神学」へと超出したうえで、「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」・「解釈する」とは、「別の言葉で同一のことを言うこと」である、と述べたのである。したがって、<自然神学>に立脚したまま、また今回述べたバルトの原理を根本的に理解しないまま、この言葉を語れば、根本的な誤謬を犯すことになるし・論理的矛盾の陥穽に陥ることになるのである。私たちは、こういう輩も、非常に多いことを知らされるのである。
 キリスト教の歴史性や、また現実や時代から強いられた、バルトの神学における思想を根本的に総体的に理解しないまま、すなわちバルトのその信仰・神学の原理、その認識方法と概念構成を根本的に総体的に理解しないまま、バルトの<一面や部分>を<全体化>し<絶対化>する場合、そのことこそが、バルト<主義>となることであり、バルト<主義>者となることである、ということを、ここに登場したバルト<主義者>たちは、またそれに類する神学者・牧師・著述家たちは、全く認識し自覚していないのである。

 

例示――
@私たちは、バルト共に、このウ)の原理と1)の原理の一貫性において、人間の感覚と知識を内容とする「人間の経験」と、状況論なき思想なき停滞した中世的思考に依拠して「神学の優位性を確保しつつ」、神学と人間学との共働・人間学的神学を目指す聖霊論的説教論者のルドルフ・ボーレンや佐藤司郎や小泉健の<自然神学>に対して、根本的な批判を加えることができる。
A私たちは、1)と2)の原理の一貫性において、バルトと共に、「終末論的」な『将来的なものの力』としての「御霊」の概念を語り、「終末論」と「歴史」・「特殊と普遍」・「救済史と普遍史」の交叉を語り、「律法・父の国・奴隷状態」、「恩寵・子の国・神の子供状態」、「自由・霊の国・神の友の状態」、という神学的な三段階的進歩史観において救済史を語るモルトマンやモルトマンに依拠してやはり神学的な進歩史観を展開している喜田川信の<自然神学>に対して、根本的な批判を加えることができる。
B小泉は、ボーレンの「神律的相互関係」の概念に依拠して、聖霊や聖霊の言葉を神学者や説教者の自由事項と考え、「聖霊が説教者に言葉を与え、語ることへと導く。説教者は聖霊の言葉を伝え、聖霊の言葉に導く」、というように聖霊や聖霊の言葉を実体化させて述べている。しかし、私たちは、その語り方に対してすぐに疑問が湧く。聖霊が説教者に与えたどのような言葉がそれで、どのような言葉がそれではないのか、説教者が伝えた言葉のどれが聖霊のそれで、どれが聖霊のそれではないのか……。この<自然神学>的な小泉の聖霊や聖霊の言葉は、フォイエルバッハの宗教批判の対象そのものであり、ただ単なる説教者自身の対象化された自己意識の意味的世界そのもの・恣意的プログラムそのもの、でしかないものなのである。私たちは、2)のア)とウ)の原理の一貫性において、このような<自然神学>的な小泉の言説に対して、根本的な批判を加えることができる。
 バルトは、聖霊や聖霊の言葉を神学者や説教者や著述家の自由事項と考えない、またそれらを実体的に考えない。バルトは、それが、神学者であれ、牧師であれ、著述家であれ、説教者が、説教として語る場合、聖霊や聖霊の言葉を説教者の自由事項や独占事項と考えて、「聖霊が(あるいは別の霊であっても)言葉を吹きこむこととか、あるいは一つの構想を持っていることなどあてにしてはならない」・「説教は語ることであるが、……一語一語準備し、書き記しておいたもののこと」である、と述べている(『説教の本質と実際』)。