<自然神学>あるいは<自然的な信仰・神学・教会の宣教>とは何か?(その2−2)
<自然神学>あるいは<自然的な信仰・神学・教会の宣教>とは何か?(その2−2)
再推敲・再整理版です。
自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階を根本的包括的に原理的に止揚し克服した、バルトの<非>自然神学あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階について
(1)神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>
「私が『方式』なるものをもてっているとすれば、……時間と永遠との『無限の質的差別』……、をあくまで固守した、ということである。『神は天にいまし、汝は地に在り』。私にとっては、この神とこの人間との関係、ないしはこの人間と神との関係が聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」(『カール・バルト著作集14』「ローマ書」「第2版序言」吉村善夫訳、新教出版社)。
さて、『神学者カール・バルト』の訳者である蘇光正は、その「訳者あとがき」で、外在的な時系列的判断に依拠して、「バルトが『聖霊』を口にする場合、それは『教会教義学』の第四巻(殊に第三部)以来ますます載然と、排他的にイエス・キリスト自身の霊的臨在またはその力をさし、したがって自然神学へのブルンナー的遡行(またはヘーゲル的哲学化)を許す『父の霊』は考えられていない」と述べている。しかし、処女作『ローマ書』「第2版序言」以降のバルトの徹底した一貫性から言って、バルトの内的・内在的な三位一体の神(「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」)における「父の霊」への「排他」性は本質的に成立しないのである。それだけでなく、神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の徹底した一貫性において、その神学のその原理およびその認識方法と概念構成を行っているバルトの場合は、「父ト子トヨリ出ズル御霊」としての「父の霊」に対して排他的にならなくても、「自然神学へのブルンナー的遡行(またはヘーゲル的哲学化)」を防ぐことはできるのである。すなわち、その神学における思想的武器が、神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>なのである。このような誤解と誤謬と曲解は、Web上の牧師も犯しているのである――ある教会の牧師が、バルトの神学をその処女作からの区別を包括した全体性・総体性において把握するのではなく、前期と後期のバルトを二元論的に対立させて、Web上でバルトの「『神の人間性』に見る後期バルトの神観」について論じ、「バルトが語る神の人間性とは」、「たとえ人間が」「神を神とすることを止めて(≪人間≫)自らを神とし、神の敵として歩み始めたとしても、神は人間と関わりを持つことを決して拒まれないで、あくまでも苦難の中にうめいている人間と苦しみを共にすることを選ばれたということ」であると、恣意的独断的にしかも尤もらしく聞こえるような言い回しで、しかし誤解と誤謬と曲解に普遍性と組織性の後光をかぶせて語っているのである。この牧師は、バルトの内的・内在的な三位一体の神のその「神の神性において」(神の存在の本質としての「失われない単一性」・神性・永遠性)という側面を恣意的独断的に取り除いてしまったのである。しかし、バルト自身は、「神の神性において」、「また神の神性と共に、ただちにまた神の人間性もわれわれに出会う」と述べているので、バルトにおいては、確実に、徹頭徹尾、神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>において、内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(神性)にしてまことの人間(人間性)イエス・キリストについて述べているのである。この「キリストのまことの神性の告白」、「キリストの神性についての教義」は、ヘーゲル哲学、一切の近代主義的神学(近代国家が自由国家と同じであるように、近代主義的神学は自由主義的神学と言ってもよい)、総括的に言えば自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教に抗することができる神学における思想的武器なのである。したがって、バルトは、Web上の牧師のように誤解と誤謬と曲解をする者があるであろうことを念頭に置いて、神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下での「神が神であるということがいまだに決定的となっていないような人は、今神の人間性について真実な言葉としてさらに何か言われようとも、決してそれを理解しないであろう」という言葉を置いているのである。したがってまた、「第二の方向転換」としての「神の人間性」の「主文章」化は、「第一の方向転換」の「神の神性」の「主文章」化と「対立」関係にあるのではなく、その「主文章化」と「副文章化」とのベクトル変容は、あくまでもある現実と時代から規定された言表なのである。したがってまた、この『神の人間性』も、時系列的に対立的に一面化させてはならず、「神の神性」と「神の人間性」との全体性・総体性において把握しなければならないのである。すなわち『神の人間性』は、ただ「神の神性において」、その神性を本質とする「神の人間性」が主文章化されたということであって、それ故にバルトの場合は、その背後に確実に「神の神性」が保存されているのである。
(2)聖書の主題である神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を持つことのなく、人間を先行させる目的格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストを信じる信仰)および先行する人間の側からする神との「混淆」論、神との「共働」・「協働」論、「神人協力説」ならびに神学と人間学との「混合学」――人間学的神学あるいは神学的人間学、二元論的な福音の宣教と社会的政治的実践との「混合宣教」論に対する根本的包括的な原理的な批判
聖書の主題である神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を持つことなく、先行させた人間の側からする、神と人間との「混淆」、神と人間との「共働」・「協働」、「神人協力」、さらに言えば神学と人間学との「混合」、二元論的な教会の福音の宣教と社会的政治的実践等々を目指す、また客観的に存在する「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における起源的な第一の形態の神の言葉を、それ故に具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りと行動の原理・規準・法廷・審判者・支配者とすることなく、人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された、彼自身の物語世界・意味的世界、人間学的な哲学原理・認識論・世界観、様々な原理や理念や主義・体制、人間化された神あるいは神化された人間にしか過ぎない「存在者レベルでの神」を「……独立的に現われ活動する神的実体として」、それには「あらゆることが可能であり、(中略)(≪またそれは≫)、人を義とする……、……愛と善き業を生み出す…、罪や死にも打ち勝ち、人を救う。(≪その「存在者レベルでの神への」≫)信仰と神とは『一団』をなし、(≪その「存在者レベルでの神への」≫)信仰は(心の信頼として!)神と偽神の両方を作り、ときには(ただ「われわれ自身の内部において」だけであるが)「神性の創造者」と呼ばれるということもあり得る。さらに重要なのは、……受肉説とそれに関連した事柄である。フォイエルバッハは、このキリスト教の教説を「神は人となり、人は神となる」という定式で簡明に表現し(≪たが、それは≫)……とくにルター的なキリスト論および聖餐論を前提とする場合には、まったく不可能とか無意味とかいうことはできない」――この問題の核にあるのが、伝統的なルターの目的格的属格として理解されたローマ3・22やガラテヤ2・16等のギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストを信じる信仰)による神の義、人間を先行させたところの人間の側からする、神と人間との「混淆」論、神と人間との「共働」・「協働」論、「神人協力説」である。総括的に言えば、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教を可能とするルターの目的格的属格理解である。このルターの目的格的属格理解に対して、バルトは、『ローマ書』「第2版序言」における聖書の主題である神と人間との無限の質的差異を固守するとい<方式>において、『福音と律法』で、ローマ3・22やガラテヤ2・16等のギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」は、主格的属格理解として理解されるべきものであると思惟し語ったのである。すなわち、バルトは、徹頭徹尾先行する神の側の真実としてある「イエス・キリストが信ずる信仰」による「律法の成就」・完了、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの(『ローマ書新解』)であるというように思惟し語ったのである。総括的に言えば、<非>自然神学あるいは<非自然的な信仰・神学教会の宣教>の段階へと向かい、それを目指したのである。いずれにしても、「ルター的なキリスト論および聖餐論」は、「天と地・神と人間を?倒する」ことにおいて、「神性を天上に求めず地上に求め人間の中に――(≪内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの<神>にしてまことに<人間>イエス・キリストにおける≫)人間イエスの中に求めることを教え、またかれにとっては聖餐式のパンは高く挙げられたイエスの栄光化されたからだであらねばならなかった(中略)。(中略)これらすべてのことは、……、……天と地・神と人間を?倒する可能性を意味しており(≪聖書の主題である神と人間との無限の質的差異の止揚、捨象を意味しており≫)、終末論的限界を忘れる可能性を意味している(≪何故ならば、復活されたキリストの再臨は、終末、「完成」の時を待たなければならないからである。現存するわれわれは、復活されたキリストと復活されたキリストの再臨の間の聖霊の時代を生きている≫)。(中略)ルターと初期ルター派の人々が、天を襲うようなキリスト論を説いて、その後継者たちを、たえず出現する思弁的・人間学的帰結に対しての一種の危険状態・無防備状態の中に置き去りにしたことは疑いない。神に対する関係があらゆる点で、原理的に?倒不可能な関係だということ(≪聖書の主題である神と人間との無限の質的差異を固守するという点に<方式>はあるということ≫)――そのことについて、人々は、フォイエルバッハを有効に防御するためには確信を持っていなければならない……」・「市民的啓蒙という観念、(中略)……社会民主主義の無神性は、教会にとって、(中略)現在でも警告であって、(中略)教会がフォイエルバッハの問いの前に晏如となることができるのは、教会の倫理が(≪宗教化され倫理化された≫)古いまた新しい実体やイデオロギーに対する崇拝から根本的に分かたれるときである」。何故ならば、例えば宗教化され倫理化されたイデオロギーは、その啓蒙において、他者に対して他律的な二者択一の善悪の判断としての倫理、賛成か反対かを強いるからである、ちょうど『共産主義世界における福音の宣教 ハーメルとバルト』によれば、「幼稚な反共主義」者のラインホルド・ニーバーがバルトに対して、「政治的強要」や「政治的陰謀」としての西側イデオロギーによる「啓蒙の恐喝」を行ったように、またちょうど性善説という人間の一面にだけに依拠した自己欺瞞に満ちた市民的観点・市民的常識は、特に完膚無きまでに裸形化されたこの現存する現実社会においては、宗教者、聖職者、牧師、政治家、官僚、大学知識人、評論家、医者、弁護士、裁判官、看護師、警察、教員、倫理家・道徳家等々であろうと誰であろうと、些細なことを含めて現実的な愛憎問題とか利害対立とか等々の不可避な契機さえあれば、自分が意志しなくとも、利己主義的に、他者を現実的に侵害したり、傷害事件を犯したり、殺人事件を起こしたりし得るし、戦争とかにおいては人一人だけでなく多数の人も殺し得るという究極的観点の側から、その自己欺瞞が暴露されてしまうように。「そのときにこそ人々は、教会の告げる神も幻想ではないのだという教会の言葉を信ずるであろう。そのときまでは、そのようなことを決して信じはしないのである」・「……(≪自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教における≫)神と人間を同一視する神学(中略)『人間の中なる神について』の議論が根絶されない限り、フォイエルバッハを批判する理由は、われわれにはない」。何故ならば、フォイエルバッハの根本的包括的な原理的なキリスト教批判および宗教批判は、客観的な正当性と妥当性を持っているからである。したがって、「われわれは、かれと共に『その世紀(≪総括的に言えば、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階で停滞と循環を繰り返す世紀≫)の忠実な子』なのである」、と(『カール・バルト著作集4』「ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ」井上良雄訳、新教出版社)。
「私は、福音宣教から独立し、それと接触しない、『自己決定の権利』を国家に与えている、いまわしいルター派の教説をこれまで決して承認しようとはしなかった。(中略)私の神学的思惟は、神の主権と、キリスト教の使信全体の終末論的性格と、キリスト教会の唯一の課題としての純粋な福音の宣教の強調に中心があり、またそれにこれまで中心をおいてきた」(カール・バルト『バルト自伝』佐藤敏夫訳、新教出版社)。このように述べているバルトの神学的実存は、二元論的に教会は福音の宣教だけでなくもっと社会的政治的実践も必要だと声高に叫ぶところには全くなかった、すなわち<非>自然神学あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教に段階へと移行したバルトのそれは、「私は……私がいつも語ろうと努力してきたこと(中略)われわれは神と並んで、いかなる神々をも持つことはできないということ、聖書の聖霊は、教会をあらゆる真理へと導くのに十分であること、イエス・キリストの恵みは、われわれの罪の赦しとわれわれの生活の秩序にとって十分であることを語った」・こうした「一貫した繰り返し」において「かつて私が語った教説」が、ある状況下において、必然的に「呼びかけ、要求し、戦いの標語、信仰告白にならざるをえなかった」、そして「おのずから実践に、決断に、行動になって行った」という点にあった(『カール・バルトの生涯』)。吉本隆明は、『カール・マルクス』で、「マルクスの完結した体系は、当時も(そしていまも)よく理解されていなかったが、(≪二元論的な理論と実践という通俗的なものではなくて、≫)理論がかれを実践のほうへ必然的につれていくようにできあがっていた」と述べている。世界的な思想家の世界的な理論(思想)の水準にあるものは、そのように構成されているのである。
(3)伝統的なルターの人間を先行させる目的格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」――換言すれば「イエス・キリストを信じる信仰」による神の義を否定的に媒介した、それ故に徹頭徹尾神の側の真実としてある主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」――換言すれば「イエス・キリストが信ずる信仰」による「律法の成就」・完了、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」、それ故に成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(平和の概念は、この救済概念に包括されているそれである――バルト「平和に関するバルトの書簡」寺園喜基訳)
先ず以てイエス・キリストにおいては福音と律法は二元論的に対立してはおらず、律法は、純粋なキリストの福音を内容とする福音の形式である、神の戒め・命令・要請・要求である。したがって、バルトは、「律法と福音」という順序で語るルターとは違って、「福音と律法」という順序で語りはじめるのである。しかし、まさに、ルターは、律法と福音を二元論的に対立させて「律法と福音」という順序で語っている――すなわち、ルターは、『キリスト者の自由』で、律法と福音とを対立させ、まずは「罪人を怖れさせ、その罪を暴露して、痛悔し且つ回心させるためには、誡めを説教すべきである」・しかし、それだけではいけないので、その次に「他の言、すなわち恩恵の呼びかけを説教して、信仰を教えるべき」である・「かようなときにはじめて他の言、すなわち神からの約束の告知が現われて、そして語る」、「さらばキリストを信じなさい」、「あなたが信じるならこれを得られるし、信じないなら得られない」、と。このようなルターの思惟と語りに対して、バルトは、『福音主義神学入門』において、素直に正直に、次のように思惟と語りをしている――「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり(≪われわれ人間に備わっている生来的な自然的な≫)『自分の理性や力(≪知力、感情力、意志力、禅的な自然を内面の原理とした身体的修行等々≫)によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」、と。このような訳で、われわれは、われわれに実現された神の恵みの出来事においてキリスト者として生かされているのであるから、イエス・キリストにのみある、罪のゆるし、きよめ、助け、救い、励まし、慰め、力づけ、導き、支えに感謝をもって信頼し固執し固着して生きていくという以外にはないのである、イエス・キリストにのみ依り頼み切って生きていくという以外にはないのである。このことは、あくまでも神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)、人間的主観に実現された神の恵みの出来事を通してやってくる自己認識・自己理解・自己規定である。
バルトの『福音と律法』は、徹頭徹尾神の側の真実としてある、その死と復活の出来事における主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・完了そのもの、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの(『ローマ書新解』)、イエス・キリストにおいて成就・完了された私自身を含めた個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済そのものを内容としている(平和の概念は、この救済概念に包括されたそれである)――「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けたということ――これが恩寵本来の業である。これこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。彼は全く端的に、信じ給うたのである(ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の「イエス・キリストの信仰」(≪ギリシャ語原典ピスティス・イエスー・クリストゥーの属格≫)は、明らかに主格的属格として理解されるべきものである」(神の側の真実としてある「律法の成就」・完了――このことが「福音と律法の真理性」における福音の内容である)・「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、(≪神の側の真実としてある≫)神の子が信じ給うこと(≪主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」≫)に由って生きるのだということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(このことが、「今日に至るまで罪人の手に渡され・十字架につけられ・死んで甦られ給うたイエス・キリストにある『復活の力』」、「福音と律法の現実性」における勝利の福音の内容である)。
(4)『教義学要綱』における神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>
「聖霊は、人間精神と同一ではない」、「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」。したがって、客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事、すなわち人間的主観に実現された神の恵みの出来事(信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰)は、聖霊によって更新された人間理性によって認識し信仰されるのであるが、その聖霊によって更新された人間理性も聖霊と同一ではないのである、人間理性は<常に>人間理性であり続けるのである。このバルトは、『説教の本質と実際』で、聖霊や聖霊の言葉は説教者の自由事項や決定事項では決してない、それ故に説教者は、「聖霊が(あるいは別の霊であっても)言葉を吹きこむこととか、あるいは一つの構想を持っていることなどあてにしてはならない」、「説教は語ることであるが、……(≪具体的には、「主よ、私は信じます。私の不信仰を助けてください」という祈りの中で、具体的には「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で≫)一語一語準備し、書き記しておいたもののこと」である、と述べている――これが、「教義学要綱」(『カール・バルト著作集10』井上良雄訳、新教出版社)における神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の適用である。したがって、自然神学の系譜に属する東京神学大学の実践神学者の小泉健のように、聖霊や聖霊の言葉を、人間の自由事項・決定事項として、「わがまま勝手に」実体化してはならないのである(Web上の資料――小泉健「R・ボーレンの説教学の教会論的基礎づけ」)。
(5)未完に終わったのであるが、また終末論的限界の下ではあるが、完成としての<非>自然神学あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階へと移行させた『教会教義学』
具体的には「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である啓示証言に信頼し固執し固着し依拠して思惟し語るならば、キリストにあっての「神の自由」は、聖書の主題である神と人間との無限の質的差異を固執するという<方式>と共に、「自己自身である神の自由」(ご自身の中での神の自由、「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内的・内在的な三位一体の神の自由)としての「自存性の概念(≪神の自由の概念の積極的側面≫)」と「神とは異なるものによって為されるすべての条件づけからの神の自由」としての「独立性の概念(≪神の自由の概念の消極的側面≫)」との全体性・総体性において定義されなければならない。このように、「神の自由」という概念は、その積極的側面を「強調」しつつ、その積極的側面と消極的側面との全体性・総体性において定義されなければならないのである。何故ならば、例えば「世界に対する神の関係」としての「神の創造と和解の概念」と「神の全能、遍在、永遠性の概念」は、「神とは異なるものによって為されるすべての条件づけからの神の自由」としての「独立性の概念(≪自由の概念の消極的側面≫)」に「言及することとなしに、把握し、展開することはできない」からである。しかし、キリストにあっての神は、内的内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における三つの存在の仕方(性質、働き、業、行為、行動)において三度別様に父、子、聖霊なる神であるから、「神とは異なるものによって為されるすべての条件づけからの神の自由」は、「ただ外に向かっての神の行為の本来的な積極性(≪独立性としての神の自由≫)であるばかりでなく」、「また、神ご自身の内的な本質の本来的な積極性(≪自存性としての神の自由≫)である」という「認識の下で起こる時にだけ、正しい仕方で為すことができるし、為す」のである。キリストにあっての「神についての聖書的な証言」は、「神とは異なるすべてのものに対して」持つところの神の「優位性」を、「神とは異なるものによって為されるすべての条件づけ(≪外的条件づけ≫)からの神の自由(≪独立性としての神の自由≫)として」の「神の相違性そのものの中でだけ見ているだけでなく」、「神がそれらを実証することによって」、それ故に「外的条件づけからの(≪独立性としての≫)神の自由」に「相対しても自由(≪自存性としての神の自由≫)であり」、この全き自由を放棄することなく、「創造主、和解主、救済主として」、「神とは異なった実在との交わりへと歩み入り、その交わりの中でその実在に対して忠実であり給うということの中で」、神の「真実を実証し、まさにそのようにしてこそ現実に自由(≪独立性としての神の自由≫)であり、ご自身の中で自由(≪自存性としての神の自由≫)である」ところの「神の自由」(神の自由の全体性・総体性)の中で見ている。
このような訳で、完全性・自由性におけるご自身の中での神としての、それ故に「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在」における神としての、すなわち聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方(全き自由の神の存在としての全き自由の神の全き自由の愛の行為の出来事)、すなわち啓示者である父なる神の子としての啓示(「啓示の実在」そのもの)、和解、起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示は、その啓示自身に固有な証明能力を、キリストの霊である証しの力を、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動を、全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)を与えることができる授与能力を、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的可視的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)を、換言すれば第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の宣教における、その思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、第一の形態の神の言葉(「啓示の実在」そのもの)を、それ故に具体的にはその第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」)を持っている。したがって、第三の形態の神の言葉に属する教会は、この聖書を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者とするという仕方で、この聖書に信頼し固執し固着し依拠した教会の<客観的>な信仰告白および教義を持っている。言い換えれば、そのような仕方で、純粋なキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(福音を内容とする福音の形式としての律法である「隣人愛」)を目指すというその連関の中にのみ、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」が存在するのである。
このような訳で、神の認識可能性についても、われわれ人間には、神の側の真実としてある先行する神の働きと導きを必要とするのである。したがって、われわれは、あくまでも神の側の真実としてある、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(神の側の真実からする、神の人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性である、内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいてのみ、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事≫)に向かっての人間の用意が存在する」と言わなければならないのである、すなわち先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」と言わなければならないのである。したがって、われわれは、さらに引き続いて次のように言わなければならないのである――「哲学、歴史学、心理学等は、この神学的問題領域のどれにおいても、事実上、教会の自己疎外の増大以外のなにものにも役立ちはしなかった」、「神についての教会の語りの堕落と荒廃以外の何ものにも役立ちはしなかった」、またその場合、「哲学は哲学であることをやめ、歴史学は歴史学であることをやめる」、キリスト教哲学は、「それが哲学であったなら、それはキリスト教的ではなかった」し、「それがキリスト教的であったなら、それは哲学ではなかった」、神学と人間学との「混合学」としかならなかった、換言すれば教会の宣教の一つの機能としての神学ではなくて、それ故に教会の宣教にとって役に立たない人間学に依存した人間学的神学あるいは神学的人間学としかならなかった。また、われわれは、第三の形態の神の言葉に属する教会の宣教、その一つの機能としての神学における思惟と語りと行動が、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」のであるから、第三の形態の神の言葉に属する教会の宣教、その一つの機能としての神学における思惟と語りと行動は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』(マルコ9・24)というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基づいて成立している」と言わなければならないのである(『教会教義学 神の言葉』および『教会教義学 神論』吉永正義、新教出版社)。したがってまた、われわれは、次のように言わなければならないのである――「われわれが哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、神学は哲学的試みが終わるところから始まる」、神学も理性的な知的営為ではあるが、「神学は方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」、と(ゴッドシー編『バルトとの対話』古屋安雄訳、新教出版)。バルトにおけるこれらの思惟と語りが、<非>自然神学あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階へと移行した思惟と語りである。何故ならば、これらの思惟と語りは、客観的な正当性と妥当性とをもって、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階を、根本的包括的に原理的に止揚し克服しているそれだからである。
最後に、われわれが、第三の形態の神の言葉に属する教会における、その信仰・神学・宣教における思想の問題を扱うとするならば、われわれは、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教のように、生来的な自然的なわれわれ人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能の無限性あるいは人間学的な哲学原理・認識論・世界観、様々な原理や理念や主義・体制等々何であれ、われわれ人間の側の恣意的独断的な欲求を先行させたりしてはならず、また人間を先行させた人間の側からする神と人間との「混淆」論、神と人間との「共働」・「協働」論、「神人協力説」、神学と人間学との「混合学」、二元論的な教会の福音宣教と社会的政治的実践との「混合宣教」等を標榜したりしてはならず、前述したような仕方で、そのような自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階を、根本的包括的に原理的に止揚し克服して、<非>自然神学あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階へと移行して必要があるのである。