本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

拙著に対する「批評と紹介」文


(先ず最初にお伝えですが、常時SSL化https://christianity-church-barth.info/ 完了しました)
 先ず以て私は、教会の宣教にとって最も良質な神学を展開したカール・バルト自身の『教会教義学』ゼミの一学生として、本当のカール・バルトを、本当のイエス・キリストの教会およびその一つの機能である教会教義学を、すなわちカール・バルト自身の信仰・神学・教会の宣教を勉強し研究している者です。そして、このサイトは、バルトの本を持っていない方でもバルト自身と接することができるように、あくまでもバルト自身が述べている言葉に即して論じ解説しています。したがって、後は、ただそれぞれの方自身の信仰・神学・教会の宣教における体験を思想化しつつ読んで頂ければよいように構成しています。
 このホームページは、次のような<場所>である――
 世界的な神学者であり牧師であり、そして近代以降においてただ一人の神学における思想家でもあるカール・バルトの信仰・神学・教会の宣教における、その認識方法と概念構成を、原理的に根本的に包括的に総体的に理解することを志向し目指す場所である。言い換えれば、<ほんとう>は単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方(性質・行為・働き・業、神の言葉、啓示・和解、「啓示の実在」そのもの、啓示の客観的現実性そのもの、神の子、完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和そのもの)であるイエス・キリストにあっての神を尋ね求めるところでのみ成立し得るキリスト教について、原理的に根本的に包括的に総体的に理解することを志向し目指す場所である。また、付言すれば、拙著によって<ほんとう>に、原理的に根本的に包括的に総体的にカール・バルトを理解することができるのかどうかということについて、実証的実験を行うための場所でもある。さらにもう一つ付言すれば、拙著における推敲不良等の修正とカール・バルトについての研究報告の成熟と完成を志向し目指す場所、すなわち現存するまた未来に生きる教会の宣教について共に考える場所、でもある。

 

先ず、拙著に対する「批評と紹介」文から――
拙著:全キリスト教、最後の宗教改革者カール・バルト(キリスト新聞社)2013年8月26日発行の
「本・批評と紹介」:関田寛雄せきた・ひろお=日本基督教団神奈川教区巡回教師(一般財団法人キリスト教文書センター『[月刊]キリスト教書評誌』「本のひろば」2014年2月号)――なお、さらに詳細な<書評>は、2014年3月20日発行の『基督教論集 第57号 木田献一先生・西田俊昭先生追悼記念号』(青山学院大学神学科同窓会基督教学会――「同窓会」という語句の付加は、1977年、大学理事会側の利害・都合によって、一方的に、文学部神学科が廃科されたため)にあります。
  著書は本書の「まえがき」で次のように述べている。「私に本書を出版することを決意させたものは……カール・バルトの総体像についての私自身の表現欲求である」。次いでバルトの言葉を引用し、「『教授でないものも、牧師でないものも、彼らの教授や牧師の神学が悪しき神学でなく、良き神学であるということに対して、共同の責任』を負っている」と語っている。この言葉の背後には、青学大での、いわゆる大学紛争の中で一学生としての著者が大学にも教会にも深く失望しつつ、唯カール・バルトとの出会いに必死に縋りつづけ、卒業後はひたすらバルトを読み続けて生きてきた斗いがあると思う。当時を顧みて教師としても牧師としても充分な対応ができなかった自らの負い目を想起するのみである。
 著者は先ずバルト理解の基本的視点として八つのポイントを掲げ、それによって「バルトのどのような書物であれその内容を、単純に根本的にそしてトータルに把握することができる」と主張している。その全てをここに紹介することはできないが、少なくとも次の三つの点の指摘は重要であり、著者の視座に注目したい。
 一、神と人間との無限の質的差異 著者はバルトの『ローマ書』の序文から次の引用をする。「私が『方式』なるものをもっているとすれば、……時間と永遠との『無限の質的差別』……をあくまで固守した、ということである。『神は天にいまし、汝は地に在り』。私にとっては、この神とこの人間との関係、ないしはこの人間と神との関係が聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」。
 二、神の側の真実=主格的属格としての「イエスの信仰」=啓示の客観的現実性 著者はバルトの『福音と律法』における、ローマ三・二二およびガラテヤ二・一六等の「イエスの信仰」の属格(所有格)を、「イエス・キリストが信ずる信仰による神の義」として、即ち主格的属格として認識し信仰したバルトの解釈を極めて重視する。そしてそれは「一切の近代主義、自然神学的な全キリスト教に対するアンチテーゼであり、また根本的かつ究極的な宗教改革の核となるものである」と主張する。従来多くの翻訳において「イエス・キリストを信ずる信仰」とされる理解を著者は鋭く拒否し、そこに神の側の真実だけでなく人間の自主性、人間的契機の直接性に基づく自然神学的な、神人協働論の立場が残されていると著者は見るのである。
 この点は著者のバルトから受けとった最も大切な見解であると言えよう。評者の言葉で言い換えれば信仰における認識は徹頭徹尾、神の側の真実と恩寵によるものであって、そこにおいて「神と人間との質的差異」は正に一貫されなければならないということであり、それこそが福音の事態であるというべきであろう。それは我々の不信をも無神をも包括してキリストが信じて下さったからこそ神の義は「何らの差別なし」に普遍的に人間を義とするのである。ここには神と人間との直接性(自然神学)は完全に排されている。
 三、聖霊は人間精神と同一ではなく、神と人間の質的差異を神の側から結ぶべく、賜物として「その都度の神の自由な決断による『聖霊の注ぎ』によって信仰の認識はもたらされる」。 このような視点から著者は著名な神学者たち、例えば大木英夫、佐藤優、滝沢克己、八木誠一、富岡幸一郎、寺園喜基、北森嘉蔵、吉永正義、倉松功、佐藤司郎、小泉健、喜田川信の諸氏及びドイツ系神学者たちとの鋭い対話を試みている。日本のバルト学会への一つの貢献と言えるのではあるまいか。(以上)

 

凡例:
1)このサイトにおいて、今回も今後も、引用文献の明記なき場合は、その引用文はすべて、拙著にある引用文献によったものです。また、引用文中にある(≪……≫)書きは、筆者が加筆したものです。そしてまた、引用に関して不備がないようにしたつもりですが、不備等があればご容赦願いたいと思います。
2)間違いを見つけた場合・間違いが分かった場合・分かりにくい部分・誤字脱字の部分は、それを見つけた時点で、その都度訂正していくという方法を採りたいと思います。