本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

このホームページの志向性と拙著に対する「批評と紹介」文

 先ず以て私は、教会の宣教にとって最も良質な信仰・神学・教会の宣教を構成し展開したカール・バルト自身の『教会教義学』ゼミの一学生として、本当のカール・バルトを、本当のイエス・キリストの教会およびその一つの機能である教会教義学を、すなわちカール・バルト自身の信仰・神学・教会の宣教を勉強し研究している者です。そして、このサイトは、バルトの本を持っていない方でもバルト自身と接することができるように、あくまでもバルト自身がその諸著作で述べている言葉に即して論じ解説しています。したがって、後は、ただそれぞれの方自身の信仰・神学・教会の宣教における体験を思想化しつつ読んで頂ければよいように構成しています。
 ところで、私は、2020年1月12日から、現在まで論じてきた論述内容を、さらなる<再推敲>と<再整理>を積み重ねることによって、簡潔明瞭なより良い形にしていくために、そのためだけの場所を、年毎の手続きが全く不要な無料のライブドアブログに開設することにしました。その場所の名は、「カール・バルト研究――その総体像へ向かって」です。<再推敲>し<再整理>した最初の論述である今回の論述は、<ローマ3・22、ガラテヤ2・26等のギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(ピスティス・イエスー・クリストゥー)の属格の理解の仕方について――バルト自身の立場について>です。そのトップページで、私は、次のように述べています――客観的に評価するならば、人類史の西欧近代の段階における西欧的な危機を自覚していたであろうカール・バルトは、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の宣教にとって、その一つの機能としての神学にとって、最善で最良の神学を構成した唯一の神学者であると言える。しかし、このバルトは、彼に肯定的あるいは否定的な神学者および牧師ならびにキリスト教的著述家たちによって、現在に至るまで多大な誤解と曲解に晒されている神学者でもある。その理由は、彼らが、バルトの諸著作をその著作に即しその総体性において読み理解し論じるのではなく、その一面・部分だけを全体化して読み理解し論じている点にある。例えば、卑近な例で言えば、ウィキペディア「カール・バルト」がその典型である(私は、その「ノート」の項目で、その論述内容にある誤解と曲解をバルトの著作に即して証明し、執筆者にその記事の検証と修正を切望した)。ファングマイヤー『神学者カール・バルト 「シュライエルマッハーとわたし」』加藤常昭・蘇光正訳、日本基督教団出版局の「訳者あとがき」における翻訳者・蘇の思惟と語りを、バルト主義者でも反バルト主義者でもないバルト者の私は全面的に首肯する者である(「ノート」の項目を参照されたし)。このような訳で、その総体性におけるバルトを、換言すれば現存する私のホームページで、今までも論じてきたし、またこれからも生命ある限りは論じるであろうバルトの諸著作に即した論述を、私は、少しずつでもさらなる<再推敲>と<再整理>を積み重ねることによって、今後により良い形で(出来得る限り簡潔明瞭なより良い形で)残して置きたいと考え、年毎の手続きが全く不要な無料のこのライブドアブログを開設することにした。なお、このホームページにおいても、<再推敲>および<再整理>が完了した論述については、その頭に◎が付いています。場所はここです:http://true-karl-barth-research.blog.jp

 

 2019年4月11日以降、このホームページは、カール・バルトの信仰・神学・教会の宣教について、バルト自身の著作に即して掘り下げ論じていく場所としたいと考えます(もちろん、バルトに関わるその他の神学等周辺事項については、このホームページに含めます)。したがって、それ以外の吉本隆明および様々な時評ならびに旅行等の記事については、ライブドアブログの方に移行させましたhttp://blog.livedoor.jp/lo_1_0o73xhd_5/(ブログURLは、サブドメイン名think-imagine-judge.blog.jp/となっています)

 

 さて、このホームページは、次のような<場所>である――
 先ず第一に、拙著によって<ほんとう>に、原理的に根本的に包括的に総体的にカール・バルトを理解することができるのかどうかということについて、実証的実験を行うための場所である。第二に、拙著における推敲不備等の修正とカール・バルトの著作に即しての論述内容の成熟と深化を目指す場所である。第三に、未来に生きる教会の宣教およびその一つの機能としての神学について共に考える場所である(このような訳で、バルト自身の著作に根拠づけられた批判や異議申し立てについては、誠実に受け止め対応します。「ご意見」用メールアドレス:christianity-church-barth@miyagi.zaq.jp

 

【凡例】
(1) 引用文中の(≪≫)書きはすべて、私が加筆したものです。
(2) 既出の引用については、その文献名を省略している場合があります。ご容赦ください。
(3) 十分に注意はしておりますが、それ故に見つけた場合には速やかに訂正をしておりますが、引用上の不備、勘違いによる不
  備、誤字脱字等々の不備について、もしもそうした箇所がありました場合にはご容赦ください。そうした箇所を見つけられた場
  合、教えて頂けると有難いです。
(4) 「indem」について、2017年3月12日以降、吉永正義訳の「……する間に」をすべて、井上良雄訳のように「……すること
  によって」と引用し直しています。何故ならば、その方がその文章内容をイメージし理解し易いからです。
(5) バルトの著作に即した論述を重ねるごとに、<バルト自身の信仰・神学・教会の宣教の内容>について、トータルに認識し、
  トータルに「整理の度合を充実」させ、トータルに「豊富化」させ、トータルに「深化」させていくことを志向し目指しています。

 

拙著に対する「批評と紹介」文から――
 拙著:全キリスト教、最後の宗教改革者カール・バルト(キリスト新聞社)2013年8月26日発行の
「本・批評と紹介」:関田寛雄せきた・ひろお=日本基督教団神奈川教区巡回教師(一般財団法人キリスト教文書センター『[月刊]キリスト教書評誌』「本のひろば」2014年2月号)――なお、さらに詳細な<書評>は、2014年3月20日発行の『基督教論集 第57号 木田献一先生・西田俊昭先生追悼記念号』(青山学院大学神学科同窓会基督教学会――「同窓会」という語句の付加は、1977年、大学理事会側の利害・都合によって、一方的に、文学部神学科が廃科されたため)にあります。
  著書は本書の「まえがき」で次のように述べている。「私に本書を出版することを決意させたものは……カール・バルトの総体像についての私自身の表現欲求である」。次いでバルトの言葉を引用し、「『教授でないものも、牧師でないものも、彼らの教授や牧師の神学が悪しき神学でなく、良き神学であるということに対して、共同の責任』を負っている」と語っている。この言葉の背後には、青学大での、いわゆる大学紛争の中で一学生としての著者が大学にも教会にも深く失望しつつ、唯カール・バルトとの出会いに必死に縋りつづけ、卒業後はひたすらバルトを読み続けて生きてきた斗いがあると思う。当時を顧みて教師としても牧師としても充分な対応ができなかった自らの負い目を想起するのみである。
 著者は先ずバルト理解の基本的視点として八つのポイントを掲げ、それによって「バルトのどのような書物であれその内容を、単純に根本的にそしてトータルに把握することができる」と主張している。その全てをここに紹介することはできないが、少なくとも次の三つの点の指摘は重要であり、著者の視座に注目したい。
 一、神と人間との無限の質的差異 著者はバルトの『ローマ書』の序文から次の引用をする。「私が『方式』なるものをもっているとすれば、……時間と永遠との『無限の質的差別』……をあくまで固守した、ということである。『神は天にいまし、汝は地に在り』。私にとっては、この神とこの人間との関係、ないしはこの人間と神との関係が聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」。
 二、神の側の真実=主格的属格としての「イエスの信仰」=啓示の客観的現実性 著者はバルトの『福音と律法』における、ローマ三・二二およびガラテヤ二・一六等の「イエスの信仰」の属格(所有格)を、「イエス・キリストが信ずる信仰による神の義」として、即ち主格的属格として認識し信仰したバルトの解釈を極めて重視する。そしてそれは「一切の近代主義、自然神学的な全キリスト教に対するアンチテーゼであり、また根本的かつ究極的な宗教改革の核となるものである」と主張する。従来多くの翻訳において「イエス・キリストを信ずる信仰」とされる理解を著者は鋭く拒否し、そこに神の側の真実だけでなく人間の自主性、人間的契機の直接性に基づく自然神学的な、神人協働論の立場が残されていると著者は見るのである。
 この点は著者のバルトから受けとった最も大切な見解であると言えよう。評者の言葉で言い換えれば信仰における認識は徹頭徹尾、神の側の真実と恩寵によるものであって、そこにおいて「神と人間との質的差異」は正に一貫されなければならないということであり、それこそが福音の事態であるというべきであろう。それは我々の不信をも無神をも包括してキリストが信じて下さったからこそ神の義は「何らの差別なし」に普遍的に人間を義とするのである。ここには神と人間との直接性(自然神学)は完全に排されている。
 三、聖霊は人間精神と同一ではなく、神と人間の質的差異を神の側から結ぶべく、賜物として「その都度の神の自由な決断による『聖霊の注ぎ』によって信仰の認識はもたらされる」。 このような視点から著者は著名な神学者たち、例えば大木英夫、佐藤優、滝沢克己、八木誠一、富岡幸一郎、寺園喜基、北森嘉蔵、吉永正義、倉松功、佐藤司郎、小泉健、喜田川信の諸氏及びドイツ系神学者たちとの鋭い対話を試みている。日本のバルト学会への一つの貢献と言えるのではあるまいか。(以上)