カール・バルト(その生涯と神学の総体像)を理解するためのサイト

このホームページの志向性について

 

(お知らせ)


 下記のKDDIが運営するJimdoを利用した新しいホームページにある<論稿>は、現在のホームページにある◎論稿および◎PDF版論稿をさらに再推敲し再整理した<論稿>ですしたがってJimdoを利用した新しいホームページにある<論稿>は現在のホームページにある論稿よりも文章構成に関しても内容に関しても整理されており断然読み易く分かり易くなっていますしたがってまたこのホームページの論稿を読むよりも、<最初から下記のJimdoホームページの論稿を読んだ方が大切な時間を有効に使えます
新しいJimdoホームページ:
「カール・バルト――その生涯と神学を<トータルに>把握するための<研究>」(その1)カール・バルトをトータルの把握するためのキーワード
「カール・バルト――その生涯と神学を<トータルに>把握するための<研究>」(その2)カール・バルトの生涯について
「カール・バルト――その生涯と神学を<トータルに>把握するための<研究>」(その3)『教会教義学 神の言葉T/2 神の啓示<上> 三位一体の神』について
「カール・バルト――その生涯と神学を<トータルに>把握するための<研究>」(その4)『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中> 言葉の受肉〔「新約聖書の中で聞くことのできる最後の言葉、イエス・キリストの<名>」〕』について

このホームページの志向性


 私は、バルト者ではあっても、バルト主義者でも反バルト主義者でも中立主義者でもない。ただバルト自身の主要著作に即してのみ論じて行くことを原則としているバルト者として、自分自身を自己認識し自己理解し自己規定している者である。何故ならば、論稿対象がカール・バルトである時、その論稿内容の客観的な正当性と妥当性を保証するものは、先ず以てはカール・バルト自身の主要著作の言葉(その思惟と語りの総体)に即したものであるかどうかという点にあると考えるからである。したがって、私は、バルトの<主要著作に即した論稿>を、すなわちバルト自身の<思惟と語りの総体>を、今後も<再推敲し再整理して行く>という仕方で、さらに深化させ豊富化させて行きたいと考える者である。文芸批評家でバルト翻訳者の井上良雄は、『福音と律法』の「あとがき」で、次のように述べている――「決して平易とは言い得ない……難解さは、……ここに論じられている事柄そのものの重さとこれを論じるバルトの洞察の深さから来ている。この難解さに堪えて読まれる人には、それに報いて余りある喜びが分かたれるにちがいない」。
 そして、このホームページは、「教会の宣教をより危険なものにしてしまう」のは、われわれキリスト者が、「正しい注釈を、最終的に……〔キリスト教的神学者、キリスト的著述家、教会指導層を含めた〕教会の教職の判決に、……間違うことはありえないものとして振る舞う歴史的――批判的学問〔人間学的神学〕の判決に、依存させてしまうところにある」(『教会教義学 神の言葉』)ことからして、またわれわれキリスト者は誰であれ、「教授でないものも、牧師でないものも、彼らの教授や牧師の神学が悪しき神学でなく、良き神学であるということに対して、共同の責任を負っている」(『啓示・教会・神学』)ことからして、われわれキリスト者が誰であれ、自分の出来得る範囲内において、その責務を果たして行くことができるために、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている啓示神学的な知識と方法(Tコリント3・11)を、第二の形態の神の言葉である「聖書への絶対的信頼」(『説教の本質と実際』)に基づいて第三の形態の神の言葉である教会の宣教にとって最善最良の神学を構成したカール・バルトのその生涯と神学を<トータルに>把握するという仕方で、提供する場所である。概念的な意味での本来的なバルトの処女作以降、すなわちその「序言」で「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を明確に提起した『ローマ書』(第二版)以降、徹頭徹尾「聖書への絶対的信頼」に基づいて、それ故に聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、<非>自然的なキリスト教的信仰・神学・教会の宣教の構成を目指したバルトの神学を総括的に言えば、類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟や際限なき人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された人間的自然(人間の観念的生産物)としての人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」、「存在者レベルでの神の啓示」、「存在者レベルでの神への信仰」――このような<自然的な>キリスト教的信仰・神学・教会の宣教を、根本的に原理的に包括し止揚して行ったところの神学と言うことができる。

 

 なお、私は、その当時においても、現在においても、これからにおいても、私を受け入れて育ててくれた母教会の戸田伊助牧師(2020年逝去)および教会員の皆さんに対して感謝の念を抱いている者であるし、退職後に移住した仙台市において私を受け入れてくれた教会の牧師および教会員の皆さんに対しても感謝の念を抱いている者である。このことは、ここに記しておきたいと思う。また、私は、私にもカール・バルトを読むことができる機会を与えてくれたところの、『福音と律法』および『教会教義学』(和解論)等を翻訳した井上良雄、『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』および『教会教義学』(神の言葉、神論、創造論)等を翻訳した吉永正義の誠実な翻訳者に対して、尊敬と感謝の念を抱いている者である。

 

ライブドアブログ「カール・バルト」および「吉本隆明」等 https://think-imagine-judge.blog.jp/
「ご意見」用メールアドレ c_k-b.think.b_k-c@jcom.zaq.ne.jp

 

【凡例】
1.引用文中の〔〕書きは、私が加筆したものである。したがって、その加筆に疑問を感じた方は、当該引用文献に即して自由に考えていただいて結構である。
2.専門書の神学書は高額であるので、蔵書家でない限り、購入しなくてもよいと考える。何故ならば、バルトの翻訳本および原書本は、旧帝大等の大学図書館ならば、すべて揃っているであろうから、最大限に大学図書館を利用された方がよいと考えるからである。実際に私は、東北大学の図書館を時々利用した。大学には学食もあるので、昼食にも困ることはない。3.既出の引用については、その文献名を省略している場合があるが、ご容赦願いたい。
4.十分に注意はしているが、引用上等の不備があった場合は、ご容赦願いたい。
5.「indem」について、2017年3月12日以降、吉永正義訳の「……する間に」をすべて、井上良雄訳のように「……することによって」と引用し直している。

 

拙著に対する「批評と紹介」――
 拙著:『全キリスト教、最後の宗教改革者カール・バルト』キリスト新聞社、2013年8月26日発行の「本・批評と紹介」:関田寛雄=日本基督教団神奈川教区巡回教師、青山学院大学名誉教授(一般財団法人キリスト教文書センター『[月刊]キリスト教書評誌』「本のひろば」2014年2月号)
 なお、拙著について正直に言えば、内容等々の推敲・整理<不足>を否むことはできない。したがって、私は、現在のホームページ「カール・バルト(その生涯と神学の総体像)」において、さらなる<再推敲>と<再整理>等を行うという仕方で、最善最良のトータルなカール・バルトについての論考を目指してきた。しかし、正直に言えば、まだ再推敲と再整理が<不足している>と考えている、さらなる再推敲と再整理が必要であると考えている。