本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

カール・バルトの『教会教義学 神の言葉』および著作全般を根本的包括的に原理的に理解するためのキーワードとその内容について――幾つかの註(2016年6月13日作成)

カール・バルトの『教会教義学 神の言葉』および著作全般を根本的包括的に原理的に理解するためのキーワードとその内容について――幾つかの註(2016年6月13日作成)

 

 バルトは、『バルト自伝』で、「イエス・キリストにおける私の恩寵の神学として組織だてる」という「私の仕事に生じた変化の意義を見かつ理解するためには」、『教会教義学 神の言葉』「序」・「教義学の規準としての神の言葉」・「神の啓示 三位一体の神」・「神の啓示 言葉の受肉」・「神の啓示 聖霊の注ぎ」・「聖書」・「教会の宣教」を「ある程度研究する必要がある」、と述べています。このことは、ほんとうのことなのです。ほんとうのことというのは、バルト研究者のものであれ、バルトに対して肯定的な立場のものであれ・否定的な立場のものであれ、実際的に、『教会教義学 神の言葉』を根本的包括的に原理的に理解していないバルト論やバルト解説書やバルト解説記事ばかりなのですが、そうした論や書や記事は、どれもこれも根本的包括的な原理的な誤謬に陥っているということです、陥るということです。言い換えれば、そうした論や書や記事は、バルトの一部分を拡大鏡にかけて全体化した形而上学的一面的皮相的固定的抽象的なものばかりなのです。例えば、キルシュバーム後バルトの身近にいてバルトの逝去後に『カール・バルトの生涯』を著わしたエーバーハルト・ブッシュでさえ、そうなのです。例示してみましょう――ブッシュの『バルト神学入門』の章ごとにある「理解を深めるために」における問いの内容について言えば、ブッシュは、バルト自身が認識し自覚し引き受けた一貫性のあるキリスト教の信仰・神学・教会の宣教における根本的包括的な原理的な課題との関係において論じることを全くしていないのです。言い換えれば、ブッシュは、信仰・神学・教会の宣教における思想的課題を持っていないのです。このことは、第1章の『ローマ書』に関わる「理解を深めるために」における問いの内容を読むだけで、すぐに分かります。すなわち、ブッシュのそれは、神と人間との無限の質的差異は「聖書の主題であり、哲学の要旨である」というバルトの『ローマ書』における課題を、同じように時代状況に強いられたところで聖書(預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言)に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して著わされたバルトの他の著作――『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』や『カント』や『ヘーゲル』や『ルドルフ・ブルトマン』や『福音と律法』や『教会教義学 神の言葉』等との一貫性の中で、根本的包括的に原理的に認識し理解しようとしていないものなのです。したがって、余りに質の良くない「理解を深めるために」における問いの内容になってしまっているのです。そこからは、キリスト教の信仰・神学・教会の宣教における、現在を止揚する言葉は何も生まれてはきません、現在から未来に生きる言葉は何も生まれてはこないのです。言い換えれば、教会(その成員)にとって現実性と妥当性を持った耳障りで厳しい根本的包括的な原理的な、マルクスの次のような批判――観念の共同性を本質とする政治的近代国家の死滅と共に死滅する共同宗教(自然神学の段階で停滞と循環を繰り返す共同宗教としてのキリスト教の最後的形態としての政治的近代国家に対する<批判>を、またフォイエルバッハの次のような批判――人間の自由な自己意識の類的活動における第一義化・価値化された類的本質に過ぎないキリスト教に対する<批判>を、またハイデッガーの次のような批判――ブルトマン等人間自身あるいは教会自身が対象化した「存在者レベルでの神への信仰」(偶像神信仰)に対する<揶揄・批判>を、それゆえにそうした宗教批判の対象そのものである<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返すだけの信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成を、バルト自身は聖書(預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言)に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通した信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成それ自身によって止揚し克服しているということ、換言すればバルト自身はそうした思想的課題を認識し自覚していたということ、バルト自身はそうした思想的な自覚的営為を行っていたということ――このことが、ブッシュには全く理解でき得ていないのです。したがって、ブッシュは、バルトの身近にいた神学に関わる一般的な知識人であったかもしれませんが、思想家ではなかったのです、せっかくバルトの身近にいたにもかかわらず思想家にはなれなかったのです。したがってまた、あの「理解を深めるために」における問いの内容におけるブッシュの知識は、学業的知識を得るためには役に立つかもしれませんが、現在を止揚し超えていくという思想的課題を扱おうとする時には役に立ちません。このような訳で、それ以外の章に関わる「理解を深めるために」も、御多分に洩れず余りに質の良くないものばかりなのです。したがって、ブッシュが語っているから・書いているから、正しいわけでは決してありません、質がいいわけでは決してありません。このようなブッシュですから、『カール・バルトの生涯』においても、バルトを根本的包括的に原理的に理解しないまま曲解したあるいは誤解した記述が何箇所かあったので、その箇所を、私は、自分のホームページの「カール・バルトの生涯(連載)」で指摘したことがありますが、その時、私は、バルトの身近にいたブッシュが語ったことも・書いたこともそのまま鵜呑みにしたり模倣したりしない方がいいということを、実感的に知りましたし、それゆえにそのことを肝に銘じました。ブッシュでさえこうですから、その下のさらに下の方にいる小さな島国のメディア的著述家の佐藤優や富岡幸一郎のバルト論は全く使いものにならないものでした(このことは、何度も書いています)。したがって、バルトを根本的包括的に原理的に理解しないまま一面的皮相的に論じたり発言したりした誤謬に満ちたバルト論やバルト解説書やバルト解説記事は、ただ「何らかの抽象を以て始められ、何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会」(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)やそれに類する教会共同性やそれに類するメディア的共同性でしか通用しないものなのです。したがってまた、そうした彼らに対しては、先ず以て吉本隆明の次のような言葉――「わたしは、個人がだれでも誤謬をもつものだということを、個性の本質として信じる。しかし、誤謬に普遍性や組織性の後光をかぶせて語ろうとするものをみると、憎悪を感じる。(中略)弱さは個人の内部に個性としてあるときにだけ美しいからだ」(『カール・マルクス』)という言葉、を置いておけばいいでしょう。いずれにしても、そのような抽象的空論的なバルト論やバルト解説書やバルト解説記事は、『バルト神学入門』の翻訳者でもある佐藤司郎のそれ(聖霊論的説教論、エキュメニカル運動論)の場合も全く同じでした。
 このような信仰・神学・教会の宣教の惨憺たる悲惨な状況のただ中で、パウロ→アンセルムス→バルトへと続くその信仰・神学・教会の宣教における<思想>性が、バルトにはあります。バルトには、一貫性を持って、多元主義それゆえに党派性・党派的思想・党派的共同性という党派主義を前提し固定することを決してせず、例えば、神と人間との無限の質的差異の下で、聖書(預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言)に連帯してそれを媒介・反復することを通して、神の側の真実としてのみある、それゆえに客観的現実性・客観的実在としてある、単一性・神性・永遠性を本質とする主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」にのみ感謝を持って信頼し固執するところで、信と不信、知と非知、キリスト者と非キリスト者、キリスト教と非キリスト教等の枠組みを取り除き、前者を後者に対して開き、両者を架橋する<思想>性、不信を包括し止揚し克服した信という<思想>性が、明確にあります。近代以降の信仰・神学・教会の宣教の領域においては、ただバルトだけが、そうした<思想性>を持っています。このことは、バルト研究者やバルト肯定者あるいはバルト否定者を含めて、他の人たちと比較考量してバルトを読めば、すぐに分かります――「(≪単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方、神の言葉、神の子、啓示・和解、完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和、まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、「イエス・キリストの名」、この≫)一つの事柄に仕えなければならないのであって、ひとつの党派(≪多元主義的な、党派主義的な、教派、宗派、学派、思想傾向、社会構成・支配構成、文明的・文化的傾向、大衆迎合や大衆啓蒙、社会的政治的な言説や運動≫)に仕えなければならないことはない……、一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……」(『教会教義学 神の言葉』)。人間学的領域においては吉本隆明も、次のように述べています――「対立する双方に真理があるというような(≪多元主義的、党派主義的な≫)俗説が、世界史的に流布され、流通している」中で、自らの立場において、両者を包括し「止揚(≪両者の枠組みを取り除き、両者を高次の段階において架橋≫)しなければならないということが思想的な問題」である(『どこに思想の根拠をおくか 思想の基準をめぐって』)。
 さて、前述したバルト自身の信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成を、根本的包括的に原理的に理解し易くするために、また理解し易くなるのではないかと考えて、現在まで()書きの説明や重複的論述等々を多用してきたのですが、今回、バルトの『教会教義学』だけでなく、その著作全般を読む時に手元に置いておくと便利な、<カール・バルトの『教会教義学 神の言葉』および著作全般を根本的包括的に原理的に理解するためのキーワードとその内容について――幾つかの註>、というものを整理して作成しました。今後の「和解論」まである『教会教義学』の展開過程で、加筆すべき事柄が(また誤字・脱字の訂正や文章構成の適正化も含めて)生じて来るかもしれませんが、現在までのところ、カール・バルトの『教会教義学 神の言葉』および著作全般について、下記の事柄を理解し、その事柄を自覚しながら読んでいけば十分に理解できると考えます。くれぐれも、神学者が述べているから、また聖職者や牧師が述べているから、また大学知識人が述べているから、またメディア的著述家――例えば自ら「高等教育を受けた」こと・エリートであることを誇張する佐藤優は、たかだか8世紀初めに編纂された『古事記』神話をそのあるがままに受け入れることが「もののあわれ」だと語って詩歌の起源を「八雲立つ……」に置いた本居宣長ぶって、キリスト教の「天にいる神」は「信じていない」が、「権威」としての天皇と「権力」としての国家という国家形態・天皇制国家形成のために、「権威」としての天皇をそのあるがままに信じろ、と支離滅裂な出鱈目なことを言う佐藤等々――が述べているから、また大手メディア――第二次世界大戦時、朝日新聞やNHKは、その上層が内閣情報局の総裁として、天皇制国家の情報宣伝活動や言論思想統制に加担して、一般民衆や一般民衆の家族や親族や友人たちを戦場へと駆り立て死に追いやったただけでなく、現在でも両者は、わざわざ日本の核兵器保有を推奨しているエマニュエル・トッドを招いて、その核兵器保有推奨に対する徹底的な批判もしないで巫女の御託宣を聞くようにインタビューを行っている両者等々――が介在しているから、それゆえにその市民的観点やその市民的常識やその政策的言語やその法的言語やその知識やその情報やその通説は<正しい>というように、それらをそのまま鵜呑みにしたり模倣したりしない方がいいので、たとえ拙くともあくまでも自分自身の考察に基づいてそれらが<正しい>か<正しくないか>の判断をした方がいいのです、またそうすべきなのです。このことは、今までも何度も書いてきましたが、バルト自身も、吉本隆明も、ミシェル・フーコーも言っていることです。例えば、バルトは『啓示・教会・神学』で、「教授でないものも、牧師でないものも、(≪キリスト教的著述家でないものも、≫)彼らの教授や牧師(≪やキリスト教的著述家等々の知識人あるいは似非知識人≫)の神学(あるいは知識)が悪しき神学(あるいは知識)でなく、良き神学(あるいは知識)であるということに対して、共同の責任を負っている」、と述べています。なぜならば、「人間の公私の生活においては、絶えず新たな支配が行われるような仕組みになって」おり、「国家は支配であり、文化は支配」だからです。言い換えれば、人間自身教会自身が対象化した共同宗教(キリスト教)の最後的形態である観念の共同性を本質とする政治的近代国家は、様々な体制的あるいは反体制的な政策的言語や法的言語を含めて、それゆえに様々な人間自身教会自身のそれらも含めて、すべてのそうした観念を包摂して、支配は被支配を鏡とする、という仕方で支配するからです。また人類は、<制度>としての一部支配上層、資本家・官僚・政治家のために存在しているのではないのですから、換言すれば人類はそれら「文明の進展やエリート層への<従属>のために存在しているのではない」のですから、大多数の被支配としての一般国民・一般市民が「歴史の主人公だとおもうためには、まだやること、創られるべき物語」――すなわち「意識のなかの転倒、知識のなかの転倒、政治のなかの転倒をふくめて、すべてひっくり返さなければいけない反物語」を必要とする訳です。したがって、知識(知識人あるいはエリート)は非知(非知識人あるいは非エリート)より優れていて「知識人が非知識人を導くというようなかんがえ方」、あるいは人が<現実的>に生き・生活し・喜怒哀楽し・思考し・思想し・意志し・行動している規模の大きい<現実的>な社会よりも、その市民社会における諸利害・諸矛盾を逆立的に止揚した疎外態でしかない観念の共同性を本質とする政治的近代国家(国家共同性)に第一義性・価値性を置いてそれを前提し固定して考える考え方、それゆえにその過渡的および究極的な課題を持たない国家主義的な考え方は、「絶対に転倒されなければいけないのです」(吉本『アフリカ的段階について 史観の拡張』および『大情況論』)、また権力は実体ではなく、ある価値基準ある時ある場所において、「聖なる者」と「俗なる者」、「教える者」と「教えられる者」、「正常な者」と「異常な者」、「支配する者」と「支配される者」等へと関係を規定する「政治的合理性の形態」ですから、政治的近代国家からの解放とその無化のためには、国民の個別化と「生活の隅々までを監視する全体主義」化という無意識の共同性を生み出す「司牧システム」そのものへの攻撃が必要となるのです(フーコー『全体的なものと個的なもの――政治的理性批判に向けて』)。

 

 

(1)聖書(預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言)によれば、<神と人間との無限の質的差異>――これが、「聖書の主題であり、哲学の要旨である」(『ローマ書』)、また「自由」・「主権」は、「神ご自身においてのみ実在であり真理である」(『教会教義学 神の言葉』)。「神は神である。これがドストエフスキーのただ一つの中心的認識である。この神がどんなに偉大な高みに坐していようとも、一つの人神としようとはせず、またどんなに理想的であるにせよ、人間の魂の現実あるいは世界の現実の一片としようとしないこと、それが彼の唯一つの努力なのである」(トゥルナイゼン『ドストエフスキー』)。
 前期バルトの『ローマ書』は、バルトにとってまさに処女作なのである。なぜならば、<神と人間との無限の質的差異>――これは、前期バルトから後期バルト(例えば『神の人間性』)に至るまで一貫性を持って貫かれているバルト神学の中心的な主題となっているからである。「個人の生涯の思想が、処女作に向かって成熟し、本質的にはそこですべての芽がでそろ」い、「生涯これを超えること」がないものが処女作である(吉本隆明『カール・マルクス』)とすれば、『ローマ書』は、バルトにとってまさに処女作なのである。したがって、前期バルトと後期バルトを区別しそれを前提し固定して論じるバルト論あるいはバルト解説書あるいはバルト解説記事は、形而上学的一面的皮相的固定的抽象的なそれでしかないものなのであって、それゆえにそれは、根本的包括的な原理的な誤謬のただ中にあるものなのである。したがって、それは、その最初から「誤謬は必然」でしかないものなのである。このことは、バルト自身の諸著作によって、明確な形で実証することができることである。言い換えれば、それらバルト論あるいはバルト解説書あるいはバルト解説記事は、バルト自身の考えでは全くないところの、「何らかの抽象を以て始められ、何らかの空論を以て終わるところの」「すべての大学社会の神学」あるいはそれに類する領域でしか通用しない、それゆえに抽象的空論的な駄弁でしかないものなのである。このことを、バルト自身の諸著作によって、明確な形で実証してみよう――
@前期『ローマ書』「第二版序言」(1921年9月、35歳)で、バルトは、次のように述べている――第二版への「前進ないしは転進を遂行せしめたものは、第一に、そして特に……パウロ研究の継続。(中略)第三にプラトンおよびカントの思想の真意図に関する知識の修正。(中略)新約聖書の理解のためにキェルケーゴルおよびドストエフスキーから学ばねばならない事柄に対する注意の増大。これについてはエドワルト・トゥルナイゼンの示唆に啓発された」。この第二版序言にある「カントの思想の真意図に関する知識の修正」によってバルトは、「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰である」とした「カントは、本源的であるゆえに、すでに前もってわれわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で、アウグスティヌスの教説と一致する」、という神と人間との無限の質的差異を後景に退け排除し除外したところで成立する<自然神学>の<段階>の本質について、根本的規定を得てくるのである(『カント』)・「一層重要なことは、二つの版の共通点に関する……根本的事柄である」・「本書の問いは万人の問いであるから、本書の内容(≪その内容の主題≫)は万人に関係する、と確信している」――「パウロはその時代の子としてその時代の人々に語った。けれどもこの事実よりはるかに重要な事柄は、いま一つの事実、すなわち彼は神の国の預言者ならびに使徒としてあらゆる時代のあらゆる人々に語っている、ということである。(中略)聖書の精神は永遠の精神なのである。かつての重大問題は今日もなお重大問題であり、今日の重大問題で単なる偶然や気まぐれでない事柄は、またかつての重大問題と直結している」・「理解を志すかぎり、私は文書自体に関する謎はもはやほとんど解消して、ただ主題的内容に関する謎だけが問題になる、というような境域(≪境位≫)にまで突進しなければならない」・「もしわたしが『方式』なるものを持っているとすれば、それはわたしがキェルケゴールのいわゆる時間と永遠との『無限の質的差別』なるものの否定的および肯定的意味をあくまで固守した、ということである。『神は天にいまし、汝は地に在り』。私にとっては、この神とこの人間との関係、ないしはこの人間とこの神との関係が聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」・「そのような仮定が実証されるかどうかは、すべての仮定と同様、……テキストを一節一節精密に探究し考量することによって、初めて明白になる。(中略)パウロはローマ書の中で本当にイエス・キリストのことを語ったのであり、それ以外の何かについて語ったのではない……。(中略)もしその仮説が間違っているなら、すなわち本当にパウロが時間と永遠との恒常的危機以外の何かについて語っているなら、パウロのテキスト自体が進展してゆくうちに、私はみずから不条理に陥ることであろう」・「また……もし人々がパウロの名のもとに、表面はイエス・キリストを説きながら、実は(≪人間自身教会自身が対象化した≫)絶対的な相対物や相対的な絶対物から成る全くの人智学的混沌を説くとすれば、それこそパウロを歪めるというものである……」・「人々はテキストに対する私のこの態度を聖書主義と呼んだ。(中略)私について指摘しうる『聖書主義』なるものは、『聖書は良書であり、聖書の思想を少なくとも自分自身の思想と同じほど真剣に取り扱う人はそれだけの利益を受ける』という先入見を私がもっているということに帰する、と言ってよかろう」、と述べている。
A『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』(1927年、41歳)では、バルトは、聖書(預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言)における神と人間との無限の質的差異という人間の「神に対する関係があらゆる点で、原理的に転倒不可能な関係だということ――そのことについて、人々は、フォイエルバッハを有効に防御するためには確信を持っていなければならない……」・聖書(預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言)における神と人間との無限の質的差異の原理は、「……神と人間を同一視する神学(中略)『人間の中なる神について』の議論」を「有効に防御」し「根絶」できる原理である、と述べている。
B「ボン大学において、一九三二年冬学期と一九三三夏学期」に行われた「説教演習の記録全体を収録した」『説教の本質と実際』(45〜46歳)で、バルトは、次のように述べている――説教の無条件的な出発点と目的は、神と人間との無限の質的差異の下で、神の側の真実としてのみある「新約聖書において聞く啓示、和解」(この啓示は、「われわれによって破壊された……神と人間との回復」、すなわち和解を意味しているから、啓示は和解と一致する)、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方である「イエス・キリストの名」、その内容である「インマルエル、神われらと共にいます」、である。したがって、単一性・神性・永遠性を本質とする「キリストからすべてのことを期待しなければならない」・このことが「終末論」である・「キリスト教的終末論とは、キリスト論にほかならない」・教会(その成員)は、「心を頑固にし福音を認めない人間」や「異教徒」に対して、「恵みから語り、恵みについて語るという以外のこと」をなすことはできない。すなわち、そうした人々に呼びかけることができるのは、「私がその人をその中に置くことによってではなく」、啓示・和解そのものである「イエス・キリストがすでにその人をその中に置いてい給うことによってである」。したがって、教会(その成員)は、「キリストにあるものとしての人間のために、努力し得るにすぎない」のである(『証人としてのキリスト者』)。ここに、神と人間との無限の質的差異の下で、終末論的限界の下で、聖書(預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言)に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すことで成立する、キリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、その「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」があるのである。なぜならば、人間が、聖書(預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言)における福音を現実的に所有することができるためには、前述したような「神の讃美」としての「隣人愛」、福音を内容とする福音の形式である律法(神の命令・要求・要請)――すなわち、その福音の告白・証し・宣べ伝えが必要だからである。ここで説教は、「感謝と確信と共に期待の態度と行動」である・「第一の来臨(≪誕生・死と復活・昇天≫)と第二の来臨(≪キリストの再臨、終末、完成・救贖≫)との間(≪聖霊の時代≫)に、説教と、また同時にキリスト者の生活全体」とがある・説教は、人間自身説教者の自由事項・決定事項・裁量事項ではないから、「自分自身の言葉から由来すべきではなく、どのような場合であれ、その形式と内容」において、その人間性と共に神性を賦与され装備された「聖書への絶対的信頼」に基づく、「聖書講解であることの義務」を負っている・「説教者が、実際の生活にはなお多くのことが必要であって聖書は生きるために必要なことを言いつくしていない(≪現存する人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍・情報が不足している≫)、と考えるようなことがある限り、彼は、この信頼、信仰を持っておらず、真に信仰によって生き」ようとしていないのである・福音は、「われわれの思考や心情の中にあるのではなく、聖書の中にある」から、人間的な「思想」、「最高の習慣、最良の見解、そのようなものいっさい」を、聖書に「聴従」することの前で、「放棄」しなければならない、と述べている。
C『知解を求める信仰、アンセルムスの神の存在の証明』(1931年、45歳)、『教会教義学 神の言葉T/1』(1932年、46歳)を経由した、『福音と律法』(1935年、49歳)では、バルトは、聖書(預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言)を通した、神と人間との無限の質的差異の下で、ローマ書3・22、ガラテヤ2・16等の「イエス・キリストの信仰」の属格を、明確に感謝と確信をもって、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方である「イエス・キリストご自身が信じる信仰」として理解した、すなわち主格的属格として理解した、換言すれば神の側の真実としてのみある事柄として、それゆえに客観的現実性・客観的実在として理解した――このキリスト論の完成によって、それゆえにキリスト論的集中三位一体論の完成によって、バルトは、その信仰・神学・教会の宣教における最高度に良い<質と深さ>を兼ね備えた成熟期を迎えたのである。かつては文芸批評家であり翻訳当時はキリスト者であり神学者であった井上良雄が、『福音と律法』は、「決して平易とは言い得ない。しかし、この難解さは、ここに論じられている事柄そのものの重さとこれを論じるバルトの洞察の深さから来ている。この難解さに堪えて読まれる人には、それに報いて余りある喜びが分かたれるにちがいない」、と述べていることは、ほんとうのことなのである。この本は、ほんとうに、徹頭徹尾、最高度に最質最深の、神学であり説教であり・説教であり神学である、と断言できるものである――神と人間との無限の質的差異の下で、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性の下で、自在であって他在の、対自的であって対他的の、全き自由の、単一性・神性・永遠性を本質とする神は、父(神の第一の存在の仕方)は子(神の第二の存在の仕方)として「自分を自分から区別」するのである、人間のために「人間に対して自己を伝達」するのである・自己啓示するのである。したがって、単一性・神性・永遠性を本質とする神は、自己啓示する神として自分自身が根源なのである。したがってまた、その区別された子は父が根源であり、愛に基づく父と子の交わりである「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊(神の第三の存在の仕方)は父と子が根源なのである。この単一性・神性・永遠性を本質とする神は、子の中で「創造主として、われわれの父」として自己啓示するのだが、父だけが創造主なのではなく、子と霊も創造主であり、同様に、父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもあるのである。このように、「まさにアラワサレタ神こそが隠サレタ神」なのである。「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における第三の形態である教会の客観的な信仰告白・教義である三位一体論の根拠としての神の啓示は、旧約聖書におけるヤハウェ・新約聖書における神(テオス)あるいは主(キュリオス)自身の自己啓示のことである。聖書(預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言)また教会の宣教において神は、「イエス・キリストの父」、「子としてのイエス・キリスト自身」、「父と子の霊である聖霊」であり、このような「三位一体の神」として自己啓示する。この聖書(預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言)における啓示が、教会の宣教の客観的な信仰告白・教義である三位一体論の根拠なのである。したがって、この三位一体論は、「神論の決定的に重要な構成要素」であり、「啓示の認識原理」であるから、「教会の宣教の批判と訂正」は、常に、この三位一体論に基づいて行わなければならないのである。したがってまた、佐藤優が、「『天にいる神』をほんとうに信じていません」と『はじめての宗教論』で書いた時、ほんとうは、その最初から、佐藤にはバルト論を書けるわけがないのであり、それゆえにそれを書いたとしても、それは、その最初から「誤謬は必然」のものでしかないのである、実際的にそうなのである、支離滅裂で出鱈目なのである。このことは、バルトの『カント』や『教会教義学 神の言葉』を読めばすぐに分かることであるが、高校の倫理レベルの知識で、支離滅裂で出鱈目なバルトの自然神学論を書き、また恣意的独断的な使徒的概念を使って『使徒的人間――カール・バルト』を著わした富岡幸一郎も全く同じである。
 さて、この『福音と律法』においてバルトは、単独者・主体性――この人間の側の真実を強調したキルケゴールの欠陥(否定的側面)だけでなく、「イエス・キリストの信仰」の属格を目的格的属格(イエス・キリストを信じる信仰)として理解して「律法と福音」という関係を強調し「……天を襲うようなキリスト論」および「聖餐論」を展開したルター(初期ルター派)の欠陥(否定的側面)を、根本的包括的に原理的に止揚し克服したのである(この点については、『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』参照)。この意味において、その信仰・神学・教会の宣教における最高度に良い質と深さを兼ね備えた成熟期を迎えたバルトは、後期バルトと呼び得る<段階>に突入したと言えるであろう――「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けたということ――これが恩寵本来の業である。これこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。彼は全く端的に、信じ給うたのである(ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の「イエスの信仰」は 、明らかに主格的属格として理解されるべきものである)」・「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば 、<私は決して神の子に対する私の信仰(≪私、人間の側の真実≫)に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うこと(≪主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」、神の側の真実≫)に由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その(≪単一性・神性・永遠性を本質とする≫)神であるということにおいてのみである」・「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」・「(≪人間自身教会自身が対象化した「存在者レベルでの神」・偶像神の名と呼びかけによる人間自身教会自身が支配し管理する奉仕や救いや平和の企て等々≫)律法を悪用する罪に対する神の勝利」は、イエス・キリストご自身が、人間を「罪と死との法則」である律法から解放した出来事のことである。なぜならば、人間の「不従順・不信仰に抗して、イエス・キリストにあって義とされている」がゆえに、律法は人間をその不従順・不信仰によって「罪に定めることは出来ない」からである。このように、神の律法が人間を「真に罪に定めない」のであるから、律法は「もはや絶対に『罪と死との法則』」ではないのである。したがって、ルターに強烈に存在したところの、人間が「律法に対して全体的に不従順であるという事実」における人間に生ずる「生の不安」は、イエス・キリストにおける神の勝利によって「克服された……慰められた……癒された不安、望みと喜びの確かな岸によって取りかこまれた不安にすぎない」のである。このことは、終終末論的限界と啓示の弁証法において語られており、それゆえにそれは、「生の不安」がなくなるということではなくて、イエス・キリストにおいて<完了>・<成就>された究極的包括的総体的永遠的な救済・平和、「克服」・「慰め」・「癒」し、「望みと喜び」の確かさに取り囲まれた「不安」ということなのである。このような訳で、神の側の真実としてのみある主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」――この福音を内容とする福音の形式である律法は、@人間に対して、「罪と死の法則」の律法・「汝斯く斯くなるべし」という要求から、「生命の御霊の法則」・「汝斯く斯くならん」という約束へと回復せしめられたそれなのである、A「遂行せよ」と求める要求から、「信頼せよ」と求める要求へと回復せしめられたそれなのである。したがって、その現にあるがままの現実的な人間存在である個体的自己としての全人間は、『生命の御霊の法則』である律法によって「イエス・キリストにあって解放された」のであるから、「われわれが己の解放を与えられるためには、彼に固着し得る」だけなのである。したがってまた、人間が現実的に福音を所有することができるために、キリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」を根拠とする「神の讃美」としての「隣人愛」――イエス・キリストにおける福音の告白・証し・宣べ伝えが、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理」、教会(その成員)が「教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」なのである(『福音と律法』)・「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり『自分の理性や力(≪意志や瞑想あるいは自力の計らいあるいは道元禅的な身心脱落や只管打座等≫)によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、(≪インマヌエルの下で、神の側の真実としてのみある主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」、の下で、≫)『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』、1962年、75歳)。
 さて、バルトは、「第三項の神学」――換言すれば彼の教会教義学で言えば未完に終わった終末論的な聖霊の業に関わる「救贖」論・「完成」論を展開することが「夢」であったし、「霊的に精神的(≪神と人間との無限の質的差異を認識し自覚した学識的≫)にきわめてしっかりした基礎を持つ人々」が聖霊論を書くことを衷心から切望したのであるが、その神学の動向は、実際的には、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」者やそれに類する者たちの抽象的空論的な聖霊論によって、バルトのそのような衷心からの切望は容赦なく打ち砕かれてしまったのである。そして、現在も打ち砕かれ続けているのである。例えば日本で言えば、ルドルフ・ボーレンのエピゴーネンたち(佐藤司郎や小泉健等)が、さらに悪いことには日本基督教団立神学校の実践神学者(小泉健)さえもが、聖霊や聖霊の言葉を人間自身説教者自身の自由事項・決定事項・独占事項として実体化する聖霊論を展開しているのである。彼らは言う――バルト神学においては人間の経験の位置づけが弱いから、人間の経験を尊重すべきである、と。言い換えれば、彼らは、神と人間との無限の質的差異を後景に退け排除して、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍を尊重すべきだ、と言うのである。最高度に最質最深の「第三項の神学」を志向し目指したバルトは、聖書(預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言)に信頼し固執し連帯して、例えばシュライエルマッハーの「絶対依存感情」(敬虔心)の概念との関わりの中で、それは「イエス・キリスト自身の霊的現臨またはその力」として首肯できるかどうかという「問いに弁証法的に答え」て、次のように述べている――そのシュライエルマッハーの概念は、人間の自由な自己意識の類的活動の働きとしてあるところの、ある対象を知覚作用によって対象化し、その内在化された対象を概念的対象として対象化(内在化された対象の了解化・時間化)する概念化作用、あるいは感情的対象として対象化(内観的作用・内在化された対象の空間化、快・不快の感情)する感情作用と同じものであるという点において、それは人間論的・人間学的概念であるから、「イエス・キリスト自身の霊的現臨またはその力」として首肯することはできない、というように。したがって、バルトは、シュライエルマッハーに対して、「最終的」に、「わたしは、事柄そのものにおいて、シュライエルマッハーと一致できないのだということを明言した(中略)わたしがシュライエルマッハーを今までに理解した限り、自分は、彼のそれとは全く違った道(≪シュライエルマッハーやブルトマン等々自然神学の段階の系譜に属する近代主義的プロテスタント主義の道ではないところの、それゆえにその自然神学の段階を根本的包括的に原理的に止揚し克服した「超」自然な神学あるいは<非>自然な神学の段階の道≫)に踏みこみ、それをあゆんでいかなければならないと思ったし、今もそう思っているのである」、と述べた(『神学者カール・バルト シュライエルマッハーとわたし 一九六八年』=『シュライエルマッハー選集への後書』、1968年、81歳)。
D『教義学要綱』(1946年、60歳)では、バルトは、神と人間との無限の質的差異の一貫性の下で、「聖霊は、人間精神と同一ではない」・「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」・人間が人間的に所有する人間の啓示認識(啓示信仰)において必要とされる聖霊によって更新された人間理性も、聖霊ではない、と述べたのである。
E後期バルトの典型とされ易い『神の人間性』(1956年、70歳)においても、バルト自身は、神と人間との無限の質的差異の概念を決して手離すことなく一貫性を持って踏襲している。その証左は、バルト自身が、この書においても、「神が神であるということがいまだに決定的となっていないような人は、今神の人間性について真実な言葉としてさらに何か言われようとも、決してそれを理解しないであろう」と述べているからである。したがって、バルトは、神と人間との無限の質的差異の下で、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性の下で、「神の神性において」、「また神の神性と共に、ただちにまた神の人間性もわれわれに出会う」、と述べたのである。このことは、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の言葉、神の子、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト(ナザレのイエスという「人間の歴史的形態、イエス・キリストの名」)、という表現と同じである。言い換えれば、バルト自身においては、「第二の方向転換」における「神の人間性」の「主文章」化(神と人間との無限の質的差異の下での「神の人間性」の強調)は、「第一の方向転換」における「神の神性」の「主文章」化(神と人間との無限の質的差異の下での「神の神性」の強調)と「対立」関係にあるのではなく、その主文章化と副文章化とのベクトル変容は、あくまでもある時代状況に規定された言表なのである。言い換えれば、バルトもある時代状況に強いられて生き生活し喜怒哀楽し思惟し思想し意志し行動し信仰し神学し宣教しているのであるから、あくまでも前期から後期まで<一貫性>をもって聖書(預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言)の主題である神と人間との無限の質的差異の認識と自覚を堅持しながら、ある時はその一方が「中心部から周辺へ、強調された主文章からさほど強調されない副文章へ」と退いたりしただけなのである。こういうことが、前期バルトと後期バルトとに分けることが一般的だとか通説だとかいう抽象的空論的な考え方に凝り固まった、換言すれば形而上学的一面的皮相的固定的抽象的な思考をするバルト研究者やバルト論者やバルト解説者やバルト解説記述者には理解できないのである。
 このような惨憺たる状況を目の当たりにして、バルト自身は、次のように述べたのである――「私は、福音宣教から独立し、それと接触しない、『自己決定の権利』を国家に与えている、いまわしいルター派の教説をこれまで決して承認しようとはしなかった。(中略)私の神学的思惟は、神の主権と、キリスト教の使信全体の終末論的性格と、キリスト教会の唯一の課題としての純粋な福音の宣教の強調に中心があり、またそれにこれまで中心をおいてきた。現実の人間を考慮しない(『神はすべてであって人間は無である!』)抽象的な超越神、現代にとっての意義を伴わない抽象的な終末の待望、この超越的な神にのみに専念し、深淵によって国家や社会から分離された同様に抽象的な教会――それらすべては私の頭に存在したものではなくて、私の本を読んだ多くの人々の頭のなかに、また特に私についての評論をしたり、一冊の本を書いたりした人々(≪バルトを根本的包括的に原理的に理解もしないで、それゆえに根本的包括的な原理的な「誤謬に普遍性や組織性の後光をかぶせて」全く質の悪い程度の低い出鱈目なことを語ったり書いたりする神学者・牧師・著述家たち≫)の頭のなかにのみ存在していたのである」(『バルト自伝』、1928年・42歳から1958年・72歳までの自伝)。
 さて、ヘーゲルは、人間の対自的で対他的な自在であって他在な自由な自己意識・理性・思惟の無限性、類的活動――この思惟に思惟を重ねて具体的普遍の頂きへと高次化する思惟は、最高度に自然から超出した精神であるから、その頂きを極めた「精神は、また精神自体としては神と全く同一である」という原理を、自由の原理を、人間の神化・神の人間化の原理を、発見し、この自由な人間の自己運動と、「自由」・「主権」は神自身においてのみ「実在であり真理」であるところの全き自由な神の自己運動とを「混淆」・「混合」させ、神と人間との無限の質的差異の下での神の全き自由を後景へと退け排除してしまったのである。この意味で、ヘーゲルは、自然神学の段階の系譜に属する信仰・神学・教会の宣教の<祖>なのである。したがって、バルトは、「われわれは、(≪自然神学の段階の系譜に属する≫)シュライエルマッハー以外の人々の所でも、……ヘーゲルの強力な痕跡に遭遇するであろう」、と述べたのである(『ヘーゲル』)。この意味で、総括的に言えば、アウグスティヌスも、トマスも、時代性に制約された「とくにルター的なキリスト論および聖餐論」も、シュライエルマッハーも、ブルトマンも、滝沢克己や八木誠一も、エーバーハルト・ユンゲルや大木英夫も、ルドルフ・ボーレンや佐藤司郎や小泉健も、モルトマンや喜田川信も、ベルトルート・クラッパートやパンネンベルクや寺園喜基や北森嘉蔵も、A・E・マクグラスやファン・ルーラー(あの牧師の知識が正しいとすれば)も、倉松功も、佐藤優や冨岡幸一郎も、歴史<主義>者も、ローマ・カトック主義も、近代主義的プロテスタント主義も、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に連帯してそれを媒介・反復することをしないで聖書(預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言)を除外しイエス・キリストとの関係の無媒介的な直接性を目指す熱狂<主義>やヘーゲルのように「神の自由」を除外して人間自身教会自身の自主性・自己主張を目指す自律<主義>も、カルト的キリスト教も、等々も、多かれ少なかれすべて自然神学の段階の系譜に属する信仰・神学・教会の宣教なのである。したがって、キリスト教、キリスト教界の根本的包括的な原理的な総括的な区分の方法は、換言すればトータルなキリスト教、キリスト教界の認識方法は、@自然神学の段階の系譜に属する信仰・神学・教会の宣教か、あるいはAその自然神学の段階の系譜に属する信仰・神学・教会の宣教を根本的包括的に原理的に止揚し克服した「超自然な神学」=<非>自然な神学の段階の系譜に属する信仰・神学・教会の宣教(両者には<段階>の差異があるから、この概念を疎外する以外に概念的矛盾を止揚することはできない。したがって、この場合、疎外は疎外の止揚である)か、にあるのである。言い換えれば、バルトによれば、キリスト教、キリスト教界は、根本的包括的に原理的には、前述した二つの段階の系譜しか存在しないのである。そして、「超自然な神学」=<非>自然な神学の段階の系譜に属する信仰・神学・教会の宣教は、「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異に信頼し固執し立脚する神学、神の側の真実にのみ信頼し固執し立脚する神学と規定してもよいものなのである。したがって、バルトは、『カント』において、自然神学の段階の系譜に属する信仰・神学・教会の宣教に対する根本的包括的な原理的な批判として、「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰である」とした「カントは、本源的であるゆえに、すでに前もってわれわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で、アウグスティヌスの教説と一致する」と述べたのである。このような訳で、フォイエルバッハの『キリスト教の本質』におけるキリスト教(宗教)批判は、現実性と妥当性があるのである。これにマルクスの『ユダヤ人問題によせて』における第一義化・価値化された観念の共同性を本質とする共同宗教の最後的形態としての政治的近代国家の批判を加味すれば、世俗<主義>化したキリスト教(総括的には、<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返す信仰・神学・教会の宣教、キリスト教、キリスト教界)に対する現実性と妥当性のあるトータルな批判となるのである。制度としての官僚を含めて、今話題になっている東京都知事・舛添要一や甘利明前経済再生担当相等々の問題は、<ざる法>の制約性から正義漢ぶって道義的責任を問う点にあるのではなくて、彼らがほんとうは大多数の被支配としての一般国民・一般市民に対して犯罪的な行為を犯しているにも拘わらず罰せられない仕組みそのものの分析とそのものへの攻撃をしなければならない点にあるのである。したがって、先ず以ては、経済社会構成における中心的主導的な産業の利害を優先する政治的合理性を得るための議会制民主主義(擬制民主主義)を介在させることで、第一義化・価値化された支配の側に属する「私意」・「私利」に基づく利己主義的な利害共同性に偏向した法の支配の下での法による行政という仕組みそのものの分析とそのものへの攻撃が必要なのである。したがって、現存する政治的近代国家における議会制民主主義(擬制民主主義)を第一義化・価値化してそれを前提し固定して議論したり発言した場合、「バカ話し」としかならないのである。なぜならば、現在的課題とは、現在を止揚し克服することであるから、例えばその過渡的課題および究極的課題を認識し自覚し持たないままに、そうした現存する、政治的近代国家、議会制民主主義(擬制民主主義)、法の支配、法による行政、を第一義化・価値化してそれを前提し固定して論じたり議論したりしたらならば、ただその表層面で停滞と循環を繰り返すだけになってしまうからである。したがって、例えばフーコーは、マルクスは資本主義の分析の際に、「労働者の貧困という問題に出くわして自然の希少のためだとか計画的な搾取のせいだとかといった、ありきたりの説明を拒」んだ・なぜならば、資本主義制度における生産は、制度的必然・「その基本的法則によって必然的に貧困を生産せざるをえない」ものだからである・すなわち、自然史の一部である人類史の自然史的過程における自然史的必然としての資本主義は、「何も働き手を飢えさせるために存在しているわけではないが、かといって彼らを飢えさせずに発展することもできない」ものなのである・したがって、「マルクスは搾取を告発するかわりに、生産を分析した」のである・「このマルクスのやり方にちょっと手を加えますと、ほぼわたしのしたかったことになります。(中略)問題は、……不幸な結果をもたらす積極的なメカニズムとはどんなものかをとらえること、それだけなのです」、と述べたのである(『セックスと権力』)。マルクス自身も、次のように述べている――「私の立場は、経済的な社会構造の発展を自然史的過程として理解しようとするものであって、決して個人を社会的諸関係に責任あるものとしようとするものではない。個人は、主観的にはどんなに諸関係を超越していると考えていても、社会的には畢竟その造出物にほかならないものであるからである」(『資本論』)。また、吉本は、自然史の一部である人類史の自然史的過程の生んだ資本主義は、肯定的側面と共に一方で制度的必然として否定的側面としての「悪」や「欠陥」を持っているのであるから、その資本主義の根拠を揺るがしそれを超えるためには、究極的課題としては国家の無化を念頭に置いた資本主義的生産様式(交換価値論)とは異なる新たな生産様式(新たな価値論)を構成すると共に、過渡的課題としては資本主義的な文明や文化(人類史において、経済的基盤を資本制に置いた西洋近代)を包括し止揚した新たな文明や文化を創造する必要がある(『マルクス――読みかえの方法』および『母型論』)、ということを述べたのである(このことは、現在を止揚する課題において述べられているのであるから、人類史のアジア的段階に復古・逆行すればいいとか、復古・逆行すべきであるというようなことを述べているのでは決してない。このことについては、今まで何度も述べているのでここでは省略する)。フォイエルバッハは、キリスト教(宗教)批判を、「人間は自分の本質を対象化し、そして次に再び自己を、このように対象化された主体や人格へ転化された存在者(本質)の対象とする。(≪人間の神化・神の人間化≫)これが宗教の秘密である」・「(≪対象化された人間の自己意識の類的本質、その第一義化・価値化された≫)神の意識は人間の自己意識であり、(≪第一義化・価値化された≫)神の認識は人間の自己認識である」・「(≪対象化された人間の自己意識の類的本質、その第一義化・価値化された≫)神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された(≪対象化された人間の自己意識の類的本質、その第一義化・価値化された≫)神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」、という仕方で行ったのだが、それは、根本的包括的な原理的な批判を構成しているのである、現実性と妥当性を持った批判を構成しているのである。したがって、バルトは、『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』で、信仰・神学・教会の宣教において、フォイエルバッハのキリスト教批判を止揚し克服する根本的包括的な原理的な方途として、神と人間との無限の質的差異、この「神に対する関係があらゆる点で、原理的に転倒不可能な関係だということ――そのことについて、人々は、フォイエルバッハを有効に防御するためには確信を持っていなければならない……」、と述べたのである。
 なぜ、このような認識と自覚が必要かと言えば、人間中心主義的なヘーゲルの自由の原理は、存在の類比の極限に想定されるから、この人間の自由についての自己認識・自己理解・自己規定に基づいて、神の自由が規定されてしまうからである。人間自身があるいは教会自身が中心になってしまうからである。人間の神化、神の人間化が、人間の手によって行われるからである。すなわち、この時、神の自由は、人間自身の支配と管理の下に置かれることになるのである。総括的に言えば、神と人間との無限の質的差異を揚棄し排除した人間の側から、人間の自己認識・自己理解・自己規定が、神の自己認識・自己理解・自己規定と同一化されるのである。このことを敷衍すれば、人間自身教会自身が対象化した「存在者レベルでの神」(偶像神)がキリストにあっての神と同一化されるのである、言い換えれば人間が神化されるのである、それゆえにその偶像神の名と呼びかけによる人間自身教会自身が支配し管理する奉仕や救いや平和の企てがキリストにあっての神のそれと同一化されるのである。したがって、バルトは、例えば自由の概念について、聖書(預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言)に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して、それゆえに神と人間との無限の質的差異の下で、神の言葉(啓示)の自己運動に基づいて、換言すれば神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて、終末論的限界の下で授与される人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通して、限界づけられた「間接的・相対的・形式的な自由」の概念を、人間の自由についての自己認識・自己理解・自己規定を得るのである。また、あるいは主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」(ローマ3・22、ガラテヤ2・16以下等)という啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通して、人間が「『自分の理性や力(≪意志等≫)によっては』……全く信じることができないこと」や人間が「全く不信仰で罪に汚れている」ことや人間が「神に敵対し神に服従しない」「そのままでは神に接するための器官や能力」を一切持っていないことや「人間の自主性と無神性」や人間が「喪われた者」であるということについての自己認識・自己理解・自己規定を得るのである、「神に対する人間的反抗」・「罪深い堕落した人間」・そのような人間の「世」についての自己認識・自己理解・自己規定を得るのである。このような訳で、ルドルフ・ボーレンの聖霊論的説教論に依拠して人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍の尊重を強調する佐藤司郎は、ほんとうは、バルトを根本的包括的に原理的に論じることなどできるわけがないのである。したがって、その佐藤のバルト論は、実際的に、バルトの一部分を拡大鏡にかけて全体化した抽象的空論的なバルト論でしかないものなのである。

 

(2)<終末論的信仰>――それは、先ず文学的なその典型を挙げれば、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性の下での、それゆえに終末論的限界の下での次のような告白――「ただ万人を憐み、万人万物を解する神様ばかりが、われわれを憐んで下さる」、「神さまは万人を裁いて、万人を赦され」、「最後の日にやって来て」、「……われわれに、御手を伸ばされる。その時こそ何もかも合点が行く!……誰も彼も合点が行く」。「主よ、汝の王国の来たらんことを」という、マルメラードフの告白(ドストエフスキー『罪と罰』)にある。吉本隆明の「あなたはキリストの復活、再臨を信じているのですか」という問いに対して、カトリック作家の小川国夫は、一面的皮相的に凝り固まった陳腐な発言を繰り返す近代<主義>にかぶれた者たちとは違って、「信じています」と答えた(告白した)時、この意味でそう言ったに違いないのである(『超「20世紀論」』)。そして、詩人・文芸批評家・思想家の吉本も、その小川の側の事柄を小川の切実な事柄として、全面的に受け入れているのである。したがってその二人の対談は、質の良い・質の高いものとなっているのである。
 さて、教会(その成員)における、終末論的限界の下での、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与の出来事は、神と人間との無限の質的差異の下で、それゆえに聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性の下で、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事、この神の言葉(啓示)自身の自己運動によるそれ自身が聖霊の業である三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における第一の形態、具体的には第二の形態である聖書(預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言)に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通してのみ可能なのである。したがって、教会(その成員)の信仰・神学・宣教における語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項」なのであって、人間自身教会自身の決定事項では決してないのである。このような訳で、教会(その成員)の信仰・神学・宣教の在り方は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基」づいてのみ成立しているのである、神の言葉(啓示)自身の自己運動に基づいてのみ成立しているのである、換言すれば全く人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍や人間論や人間学的な哲学原理・認識論・世界観に基づいて成立してはいないのである。
 聖書によれば、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第三の存在の仕方である聖霊は、私たち人間の「救済主」・「完成」主である。したがって、聖霊は、「救済主」であるだけでなく、単一性・神性・永遠性を本質とする聖霊として、「子とともに、子の霊として、また和解者」でもあり、また「父および子とともに創造主なる神」でもあるのである。このように、新約聖書の「イエスは主である」という「証言」は、単一性・神性・永遠性を本質とするイエスを、「事実の承認」として・「思惟の初め」として語っているのである。したがって、この「イエスは主である」・「子を通しての父を、父を通しての子」を信じるこの啓示認識・啓示信仰、神との出会いであるイエスとの出会い、「信仰の出来事」は、聖霊の注ぎによるのである。この出来事は、新約聖書において、「啓示の出来事の中での主観的側面」・「聖霊の注ぎ」による「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」、啓示認識・啓示信仰の主観的現実化のことである、啓示認識・啓示信仰の授与の出来事である。すなわち、私たちは、客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて、個体的自己としての全人間・全人間・全世界・全人類の救済・平和が、神の側の真実としてのみある、イエス・キリストにおいて<完了>・<成就>された究極的包括的総体的永遠的な救済・平和にのみあることを、聖霊により更新された人間理性によって啓示認識・啓示信仰することができるのである。この場合、「聖霊は、人間精神と同一ではない」・「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」・聖霊によって更新された人間理性も聖霊ではないという事柄の下で、その出来事は起こるのである(『教義学要綱』)。
 また、イエス・キリストにおける<完了>・<成就>された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和を「信仰の中で持つ」ことは、「約束として持つ」ことである。「われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる」。「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」。この「信仰の確実性」は、「希望の確実性」である。新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」・「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」のである。ここで、「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」にとっての、すなわち人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍にとっての、<いまだ>であり、神の側の真実としてのみある、それゆえに啓示の客観的現実性・啓示の客観的実在、「完了」・「成就と執行」、「永遠的実在」として<すでに>にということである。なぜならば、新約聖書においては、「完成」・「救贖」は、聖霊の業として、キリストの再臨、終末の出来事に属しているからである。

 

(3)「単なる知識」と「認識」(啓示認識・啓示信仰)との差異――バルトは、「単なる知識」と「認識」(啓示認識・啓示信仰)とを厳密に区別している。「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、神の自己啓示を通して、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる場合、すなわち啓示の客観的側面における啓示の出来事と啓示の主観的側面における聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起された場合、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示(神の言葉、単一性・神性・・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリスト、啓示・和解)に感謝を持って信頼し固執する「認識」(啓示認識・啓示信仰)である。その時初めて、神の言葉(啓示)は、その人間に対して「実在」となり、またその人間も人間的にそれを「実在として理解」することができるのである。したがって、人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的活動に依拠した人間学的な「単なる知識」に過ぎないある理念・ある概念の実体化・「最高存在」・「最モ完全ナ存在」としての啓示概念は、啓示(神の言葉)の「概念の実在」ではないのである。なぜならば、神の言葉(啓示)は、「人間の現実存在の内部」、人間の感覚と知識を内容とする経験普遍、感情や理性や意志、人間論、人間学的な哲学原理・認識論・世界観の中には存在しないからである。また、なぜならば、本来的に神に敵対し神に服従しない人間は、「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力」を一切持ってはいないからである。したがって、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性における神の言葉(啓示)は、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事、この神の言葉(啓示)自身の自己運動によって、終末論的限界の下で、「われわれのところに来」るのである。したがって、神の言葉(啓示)が「人間によって信じられる……出来事」――人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与(現実化)の出来事は、徹頭徹尾、人間「自身の業」ではなく、「神の言葉自身」の業――「神の言葉自身」(・啓示自身の出来事)と聖霊の注ぎによってのみ可能となるのである。すなわち、「言葉を与える主」は、同時に「信仰(≪啓示認識・啓示信仰≫)を与える主」なのである。したがって、教会(その成員)は、この神の言葉に仕えることができるだけなのである。言い換えれば、教会(その成員)は、「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すことで、キリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、その「神への愛」を根拠とした「神の讃美」として「隣人愛」を――すなわち、すべての人間が現実的に福音を所有することができるために、福音を内容とする福音の形式としての律法を、換言すればイエス・キリストにおける福音の告白・証し・宣べ伝えを、命じられているのである。ここに、聖書(預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言)からする、現在から未来に生きる教会(その成員)の果たすべき「神の讃美」としての「隣人愛」が存在しているのである。言い換えれば、聖書(預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言)からするここにしか、フォイエルバッハやマルクスやハイデッガーが根本的包括的に原理的に批判し・揶揄した、単なる宗教としてのキリスト教、単なる宗教としてのキリスト教界、単なる宗教としてのその信仰・神学・教会の宣教の<段階>を止揚し克服して超え出ていく方法はないのである。なぜならば、人間自身教会自身が対象化した「存在者レベルでの神」(偶像神)の名と呼びかけによる人間自身教会自身が支配し管理する奉仕や救いや平和の企て等は、聖書(預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言)に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復したものでないのであるから、また政治的近代国家の過渡的および究極的な課題を認識し自覚したものでないのであるから、それは、たとえ反体制を標榜していたとしても、現状批判を標榜していたとしても、それらすべての観念、知識、政策的言語、法的言語等々すべては、観念の共同性を本質とする政治的近代国家に包摂されていく以外になく、それゆえに結局は体制に加担し体制を補完していく以外にないからである。また、それ以前の問題としては、現存する意識されたキリスト教的な愛の奉仕・隣人愛が、明確に、人類史におけるアフリカ的あるいは縄文的段階、また次の段階のアジア的段階における例えば自然な相互扶助感情・意識よりも優れているとは言えない問題が横たわっている。そのことを、『日本奥地紀行』を書いたイザベラ・バードは、明治期の日本人たちを「見て感じるのは堕落しているという印象である」・「わが西洋の大都会に何千という堕落した大衆がいる――彼らはキリスト教徒として生れ、洗礼を受け、クリスチャン・ネーム名をもらい、最後には聖なる墓地に葬られるが、(≪自然な相互扶助感情・意識を持った≫)アイヌ人の方がずっと高度で、ずっとりっぱな生活を送っている」、というように表現している。バルト自身は、次のように述べている――「ドストエフスキーの書いたあの大審問官は、神と人間に対して、疑いもなく善意をいだいていたのであるが、彼が神と人間に仕えようと願ったのは、ただ彼の善意(≪例えば、彼自身が対象化した「存在者レベルでの神」・偶像神の名と呼びかけによる彼自身が支配し管理する奉仕や救いや平和の企て≫)によってに過ぎなかった。したがって、彼の奉仕は、最も洗練された支配行為に過ぎなかったのである。神と人間についての独断的な観念に基づく独断的に考え出された救いの計画と救いの方法が支配するところ、そのようなところでは、その意図がたとえどのように心から善いものであり、敬虔なものであっても、神に対しても人間に対しても、真に奉仕が行われることはないであろう。またそのようなところには、教会は存在しないのである。そのような救いの計画と救いの方法の独断性が、神(≪具体的には、聖書的啓示証言≫)に余りに僅かしか信頼せず、人間(人間や教会の自主性・自己主張)に余りに多く信頼するという点に現われるということは、疑いない」(『啓示・教会・神学』)。また、このことは、実際にあった話である――阪神・淡路大震災の時、ある牧師が「武器を持って神戸市役所かどこかに押しかけて行って、被災者の住めるような建物をすぐにつくってくれと、職員を脅かした」ことを話すために、吉本にわざわざ電話をかけたその行為に対して吉本自身は、その牧師は「じぶんがやったことを得々としゃべるわけです。ぼくは、ははぁ、戦前とちっとも変っていないやと思いながら聞いていた……。(中略)正義のために脅かしたのだと得々としゃべることは、ぼくらが戦争中に『お国のために』といわれたのとまったくおなじことで、そんなの、ちっともよくない」・「日本というか、あるいはアジアの特質かもしれません。ラジカルな人ほど、ほかの分野の人に対してじぶんを押し付けがちです。そういう傾向がとても強い」、と述べている(『「ならずもの国家」異論』)。
 このような訳で、神と人間との無限の質的差異の下で、聖書の中で証しされている教会の宣教の課題である啓示(啓示・和解、神の言葉)――単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける福音の告白・証し・宣べ伝えを目指すことのない自然神学の段階で停滞し循環する「単なる知識」としての形而上学的な教義学は、「それがどんなに考え深い才知豊かな、また首尾一貫した仕方」のものであっても、それは、「教義学としては非学問的」なのである(『教会教義学 神の言葉』)。その典型は、「何らかの抽象を以て始められ、何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」、それに類する神学、ある一部分を拡大鏡にかけて全体化する形而上学的一面的皮相的固定的抽象的空論的な神学である(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)。したがって、そのような学業的な「単なる知識」ではないところの、啓示認識・啓示信仰としての「認識」は、具体的に言えば、次のように言うことができる――
@ブルトマンは前期ハイデッガーの哲学原理を第一次化し、「神話的世界像と神話的人間像」は時代の経過とともに、「われわれの前から消え去ってしま」うし、私たちの「眼前存在」・現前性は「近代的な世界像、人間像」にあるから、「神話形式のままでは、新約聖書の言表」、すなわち「語られた内容の表現」は理解できないから、それは「非神話化されなければならない」、と学業的な「単なる知識」において語るのである。それに対して、バルトは、啓示認識・啓示信仰としての「認識」に立脚して、「聖書註解者」は、「だれに対して」、「誠実と真実をささげるべきなのか?」・「責任的応答をなすべき」なのか? 「同時代の人たちの思考の前提に対してか?」・「そこから形成された理解の規準に対してか?」――否である・私たちは、十字架につけられ、復活したイエス・キリストにおける私たちの「実存という場所」において、私たちの「信仰より以前にも、信仰なしでも、……不信仰に抗して」も、私たちのために「生きて、われわれを支配」し、私たちを「愛し給う」イエス・キリストを、「認識し、持つことができることを示すということ以外の何が問題となるのだろうか?」、と語るのである(『ルドルフ・ブルトマン』)。また、一面的皮相的固定的にそれに凝り固まった批判されるべき「形而上史学的な歴史の科学」(フーコー『ミシェル・フーコーとの対話』)としての歴史<主義>は、人間精神が生み出したものを問題とする限り、「啓示を問おうとしない」で人間精神の自己理解を第一義として「聖書の中でも神話を問う」ことをする。それに対して、バルトは、「啓示の証言としての聖書の理解」と、「神話の証言としての聖書の理解」は、相互排除の関係にある・したがって、聖書記事を歴史物語とみなし、聖書記事の「一般的な歴史性(Geschitlichkeit)を問題化すること」は、「証言としての聖書の実体を攻撃しない」・しかし、聖書記事を「神話として受けとること」は、「証言としての聖書の実体を攻撃する」・なぜならば、啓示は、人間の時間である「歴史の枠に、はめ込まれてしまうような歴史的出来事ではない」からである・したがって、聖書の歴史認識の方法は、その歴史を「一般的な歴史性」を含んではいるが史実史ではない歴史物語・古譚として受けとる点にある、と語るのである(『教会教義学 神の言葉』)。
A単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストが、私たち人間に対して、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを認識し承認し確認する。したがって私たちは、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として認識し承認し確認する。すなわち、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ことを認識し承認し確認する。したがって、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示の場所は、個体的自己としての全人間の、その類・歴史性と個・現存性の生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所なのである。また、<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返すキリスト教、キリスト教界、その教会(成員)の信仰・神学・宣教における福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」・「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」・「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎ」ない「神秘主義へと変わって行く」ことが見渡せる場所でもあるのである。したがって、例えば、近代以降の宗教的形態である科学<主義>の下で、啓示信仰だけでなく科学も、というようにその混合・協働・折衷を目指さなくてもいいのである、またエコロジーに媚を売らなくてもいいのである、ある民族に媚を売らなくてもいいのである、自由<主義>にあるいはマルクス<主義>に媚を売らなくてもいいのである。
 人間の自由な自己意識・理性・思惟の無限性は、どこまでも対象を遠隔化できるから、その対他性によって経済社会構成体に規定された政治的近代国家を構成することができる、また宇宙にも行くことができる、身体の細部にも行くことができる。さらに、科学・技術の進歩発達は身体の細部や宇宙空間にまで身体(目、手、足等)を延長させることを可能にしているから、それらに関する知識の発達や増大をもたらしている。すなわち、自然の人間化・非有機的身体化の拡大・高度化をもたらしている。しかし、それらは、神と人間との無限の質的差異の下で、あくまでも人間によって対象化された自然・身体・宇宙、すなわち人間的自然であるから、それゆえにそれらは、そうした天然自然や人間的自然には全く左右されることがないところの、聖書(預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言)における三位一体の神そのもの、その神の自己啓示そのものではないのである。「われわれのための」神の時間、啓示の実在そのもの、啓示の真理、神の自己認識・自己理解・自己規定、永遠、<超>歴史、救済史は、「常に」、聖書(預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言)によって否定的判決を受けた・喪われた・非本来的な人間の時間、世俗的真理、人間の自己認識・自己理解・自己規定、歴史の、「彼岸」・「外」にあるのである、「彼岸」・「外」に在り続けるのである(『教会教義学 神の言葉』)。したがって、停滞したり逆行したりすることはできない自然史的必然に属する現在話題になっているiPS細胞(人工多能性幹細胞)やヒッグス粒子の発見等々の科学技術の進歩発達およびその知識の増大は、人間によって対象化された自然、自然の人間化・非有機的身体化、人間的自然として、その拡大・高度化として、すなわち人間的世俗的真理として正直に受け取ることができるのである。
B(≪単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける神の自己啓示、この≫)一つの事柄に仕えなければならないのであって、ひとつの党派(≪ある、教派、学派、思想傾向、社会構成・支配構成・文明的――文化的構成、時流や時勢、社会的政治的な言説や運動≫)に仕えなければならないことはない……、一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……」(『教会教義学 神の言葉』)。このような訳で、バルト自身の信仰的神学的実存の在り方は、それが社会的な事柄であれ政治的な事柄であれ、「かつて語った(≪イエス・キリストにおける福音についての≫)説教の一貫した繰り返しが、(ある状況下において、その状況に抗するそれとして)おのずから(≪必然的に≫)実践に、決断に、行動になって行った」という在り方にあるのである。すなわち、福音を内容とする福音の形式としての律法(イエス・キリストにおける福音の告白・証し・宣べ伝え)――これ自体が、福音の繰り返しの言葉から湧出してくる行為であり、隣人愛なのである。なぜならば、人間が福音を現実的に所有できるためにはその福音の告白・証し・宣べ伝えが必要だからである。言い換えれば、教会(その成員)における信仰的神学的実存の在り方は、言葉だけでなく行為も、理論だけでなく実践も、説教だけでなくキリストを範型とした「行為」も、説教だけでなく正義の体現「行為」も、「宣教A」だけでなく「宣教B」も、等々という二元論的な在り方にあるわけではないのである。人間学的領域においても、マルクス自身の理論は、次のようにできあがっていたのである――「マルクスの完結した体系は、当時も(そしていまも)よく理解されていなかったが、理論が彼を実践のほうへ必然的に(≪おのずから≫)つれてゆくようにできあがっていた」(吉本隆明『カール・マルクス』)。

 

(4)三位一体の神――聖書でイエス・キリストにおいて自己啓示された神は、「失われない差異性の中」で三つの「存在の仕方」・「存在の様態」(性質・行為・働き・業)において「三度別様」に父、子、聖霊なる神であって、その存在は、「失われない」単一性・神性・永遠性を本質とする「一神」・「一人の同一なる神」である。したがって、「三神」・「三の対象」・「三つの神的我」ではなく、父、子、聖霊の三つの「存在の仕方」・「存在の様態」の、単一性・神性・永遠性を本質とする「一人の同一なる神」、すなわち「三位一体」の神なのである。このような訳で、単一性・神性・永遠性を本質とする神の完全さ・自由さは、父、子、聖霊の三つの「存在の仕方」・「存在の様態」の完全さ・自由さなのである。「われわれに出会う神」である父、子、聖霊の三つの「存在の仕方」・「存在の様態」は、「啓示者、啓示、啓示されてあること」、「神の聖(≪隠蔽性・秘義性≫)、あわれみ(≪顕現性≫)、愛(≪父――隠蔽性・秘義性と子――顕現性の愛に基づく交わり≫)」、「聖金曜日、復活日、聖霊降誕日」、「創造主なる神、和解主なる神、救済者なる神」の三つの「存在の仕方」・「存在の様態」に対応している。このようにして自己啓示する神は、隠蔽性・秘義性と顕現性において、またその都度の自由な恵みの決断において、「人間に対して自己を伝達」・啓示する。バルトは、この「三度別様」の「三つ」を、「他との関係なしにそれ自身で存在している」近代的な「個体」と区別させるために、「人格の名で呼ぶことを避け」て、「存在の仕方」・「存在の様態」と呼んだのである。
 このような訳で、ハイデッガーによって、それは人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」(偶像)としかならないから、それよりは「むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい」と揶揄・批判された前期ハイデッガーの哲学原理に依拠したブルトマン神学を皮相的一面的に引き寄せて、「高等教育を受け」た者は非神話化等の「神学的操作を得ない限り……古代の世界像をもっているキリスト教を信じることはできない」・「高等教育を受け」た「われわれは『天にいる神』をほんとうに信じていませんが、ほんとに信じていないことを口にしてはいけないというのが、キリスト教信仰の第一の前提です」・だからこそ前期ハイデッガーの哲学原理に依拠したブルトマン的な「神学が不可欠なのです」、と『はじめての宗教論』で述べた支離滅裂・出鱈目な佐藤優が、バルトを、根本的包括的に原理的に述べることなどできるわけがないのである。ただ本を売るためにセンセーショナリズム的に書いたり・語ったりしているメディア的キリスト教的著述家の佐藤の場合、バルト論も支離滅裂・出鱈目、マルクス論も、南島論も、国家論も、天皇制論も、支離滅裂・出鱈目なのである。したがって、佐藤のバルト論の場合、その最初から「誤謬は必然」のものなのである。このことは、ただ本を売るためにだけ書いたようなメディア的キリスト教的著述家・富岡幸一郎の『使徒的人間――カール・バルト』も、全く同じである。
 「われわれは「天にいる神」をほんとうに信じていませんが、ほんとに信じていないことを口にしてはいけないというのが、キリスト教信仰の第一の前提です」というセンセーショナリズム的なメディア受けを狙った佐藤の質の悪い語り方に対して、バルトは自分自身を含めたその現にあるがままの現実的な人間存在を念頭に置いて、その啓示認識・啓示信仰について、聖書(預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言)に依拠して、次のような素直で誠実な質の良い言葉で語っている――@「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』」その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり『自分の理性や(≪意志等の≫)力によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』)、A「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けたということ――これが恩寵本来の業である。これこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。彼は全く端的に、信じ給うたのである(ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の「イエスの信仰」は、明らかに主格的属格として理解されるべきものである)」、B「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)」(ガラテヤ二・一九以下)』。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(『福音と律法』)。
 聖書また教会の宣教において神は、「イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊」であり、このような三位一体の神として自己啓示する。したがって、この啓示こそが、教会の宣教の客観的な信仰告白と教義である三位一体論の根拠である。この三位一体論は、「神論の決定的に重要な構成要素」であり、「啓示の認識原理」である。したがって、「教会の宣教の批判と訂正」は、常にこの三位一体論に即して行わなければならないのである。なぜならば、この三位一体論を啓示認識の原理としない場合、すぐに神性否定のキリスト論や半神・半人キリスト論や三神論や神の人間化・人間の神化や神と人間との混淆・混合・共働・協働・折衷論という<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返すキリスト論や聖霊論や神論に埋没していく以外にないからである。

 

(5)「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性――それは、客観的な啓示自身(神の言葉自身)が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事、この神の言葉(啓示)の自己運動によるそれ自身が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての三位一体論の唯一の啓示(神の言葉)の類比――すなわち神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性のことである。この関係と構造・秩序性は、先ず以て、神の言葉(啓示)自身の自己運動による聖書(預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言)に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通した、次のような啓示認識・啓示信仰に依拠して認識され理解され規定されている。また、それは、その啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通して認識され理解され規定されている――
◎「最も単純な形」において客観的な「神の啓示の実在を問う」問いに対する「新約聖書の答え」――すなわち聖書(預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言)における答えは、「永遠なる神性」、単一性・神性・永遠性を本質とする「まことの神」にして「まことの人間」「イエス・キリスト」(神の第二の存在の仕方、神の言葉、啓示・和解、完了された究極的包括的総体的永遠的な救済・平和、神の子、客観的な「啓示の実在」そのもの、「イエス・キリストの名」)だけである。三位一体の根本命題に即して理解すれば、単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストは、「啓示の出来事においてはじめて神の子」「神の言葉」(啓示)となるのではなくて、「父を啓示するもの」、そして「われわれを父と和解させるもの」として、「イエス・キリストは神の子」、神の言葉、啓示・和解、神の第二の存在の仕方なのである。したがって、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるそのキリストの神性は、「啓示および和解におけるキリストの行為の中で認識」することができるのである。すなわち、神の第二の存在の仕方(神の言葉、啓示・和解)が「キリストの神性」の根拠ではなくて、単一性・神性・永遠性を本質とするその「キリストの神性」が「啓示と和解を生じさせる」のである。ここに一切合財があるのであって、「赦す神」はたとえその人が「まことの人間」であっても人間に内在することは決してないのである。この「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態であるイエス・キリストは、具体的には、その第二の形態である聖書(預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言)は、その第三の形態である教会の客観的な信仰告白・教義における「一切の思惟、洞察、解釈、省察の前提」である。したがって、教会の客観的な信仰告白・教義は、あくまでも聖書(預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言)に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して初めて「人間的な教育的な威厳」を持つのであって・持つことがゆるされるのであって、換言すればそういう仕方でのみ「間接的・相対的・形式的な」「威厳」を持つのであるから・持つことがゆるされるのであるから、本質的に、決して「いかなる神的な威厳」も持ってはいないし、それゆえに本質的に、決して「直接的な、絶対的な、内容的な」「威厳」も持ってはいないのである、そうした「自由」も持ってはいないのである。「イエス・キリストは主なり」という信仰命題は、すなわちイエス・キリストは神であるという「キリストの神性についての命題」は、「概念の最後的・究極的意味」において、単一性・神性・永遠性を本質とする「自分自身の中に基礎づけられ」た「唯一の」「もろもろの」「主」「主権」であるということを意味しているのである。したがって、この単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストの存在が、「イエス・キリストを直接に」「唯一の神である」「父の場所へと移す」のである。このことは、単一性・神性・永遠性を本質とするキリストは、「彼の父を啓示する」・「父を啓示するものは神を啓示する」ということを意味しているのである。このイエス・キリストは、啓示の中で、「主」として、「永遠の真理」および啓示の「実在自体」として、「降下突入してくる」のである。「われわれは、光よりの光、神よりのまことの神、造られずして生まれたものとしてのイエス・キリストを信ず」――この概念は、「キリストの神性についての三位一体神学の本来的にして決定的な規定」である。「造られずして、生まれ」とは、神の第二の存在の仕方(神の言葉、神の子、啓示・和解、完了された救済と平和、客観的な「啓示の実在」そのもの)であるイエス・キリストは、単一性・神性・永遠性を本質とする「神から由来する」ということを意味しているのである。したがって、神の第二の存在の仕方である「和解主としてのイエス・キリスト」は、「神ご自身」であり、換言すれば単一性・神性・永遠性を本質としているから、神の第二の存在の仕方におけるイエス・キリストのその「人間的『性質』」・「人間であること」・「神との和解者として、われわれに出会うところの人間」であることは、「啓示および和解として現実に有効」なのである、神の側の真実としてのみある啓示の客観的現実性・客観的実在として「現実的に有効」なのである。この「キリストの神性」の認識、換言すれば神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストの単一性・神性・永遠性の認識、またイエス・キリストの出来事における単一性・神性・永遠性を本質とする神われら罪人と共にという認識は、その承認・受認によってはじまるのである。したがって、自主性・自己主張、不信仰・無神性・真実の罪のただ中にあるその現にあるがままの現実的な人間存在における「われわれ人間」は、その<認識、承認、受認>において、神の言葉(啓示)自身の自己運動による、換言すれば神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事を必要とするのである。そして、その出来事に基づいて授与された啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通して、教会(その成員)は、人間が「義とされた罪人」であること・「人間的不真実の中で、神的真理」について語ることが許された者であること・神に「敵対」し「耳を傾けず」「耳を閉じて」聞こうとしない不信仰な真実の罪人であることについて、自己認識し自己理解し自己規定することができるのである。この啓示認識の「可能性の主観的側面」は、「聖霊論」と関わる事柄なのである。したがって、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍、人間論、人間学的な哲学原理・認識論・世界観をどれだけ駆使しても・介在させても、神の第二の存在の仕方である神の言葉(啓示、啓示・和解、イエス・キリスト)は単一性・神性・永遠性を本質としているということ、また人間は神と人間との無限の質的差異の下にあるということ、また人間は聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性の下にあるということ、それゆえに人間は終末論的限界の下にあるということ、総括的に言えば全き自由の神の言葉(啓示)自身の自己運動による「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性、について認識し承認し受認することはできないのである。したがってまた、これらの事柄は、近代以降の宗教的形態である科学<主義>、あるいは歴史<主義>によっても、本質的に否定することはできないのである。したがってまた、自由な人間自身あるいは教会自身の自己運動に立脚してこの事柄を否定するすべての言説あるいは教説は、ハイデッガーが述べたように、「存在者レベルでの神への信仰」(偶像神信仰)でしかないのであって、「それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』」というレベルのものでしかないのである。
◎単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの、神の子)であるまことの神にしてまことの人間「イエス・キリストにおける神の愛」(完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和、「神の現臨とご自分を知らせること」、啓示すること)は、「神ご自身の人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」(『ローマ書』)。言い換えれば、それは、「イエス・キリストにある救いの自由な表現そのもの」である「神の最高の義」、すなわち「われわれによって破壊された……(≪神の側の真実からする≫)神と人間の交わりの回復」を意味するのである(『神の恵みの選び』)。聖書(預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言)の本来的テーマは、三位一体の神の第二の存在の仕方である「子なる神、キリストの神性」・単一性・永遠性を問う問いの中に、「父を問う問い」と「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊を問う問いとが包括されている点にある。単一性・神性・永遠性を本質とする神は、イエス・キリストにおいて、すなわちインマヌエル――「神われらと共にいます」という神の第二の存在の仕方において、顕現・自己啓示したのである。このことは、単一性・神性・永遠性を本質とする「自己を覆い隠す」・隠蔽性・「聖性」・秘義性としての神が、その第二の存在の仕方において子として「自分を自分から区別」したことを意味するのである。したがって、その自己啓示は、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」・「イエス・キリストの名」・「第二の存在の仕方」において、その本質である単一性・神性・永遠性の啓示認識・啓示信仰を要求する啓示なのである。このように自己啓示する神は、「まさにアラワサレタ神こそが隠サレタ神」なのである。言い換えれば、このことは、その「神ご自身」が人間に対して自己啓示されないならば、すなわちその「神ご自身」が神と人間とを和解させ架橋されないならば、全く「不信仰」でそれゆえに「無神性」の中にある「真実の罪」に穢れた人間は、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰(啓示の概念、信仰告白、教義)をさえ持つことはできないことを意味しているのである。
 このような訳で、第一の形態であるイエス・キリストによって直接的に唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」(聖書的啓示証言)、客観的な直接的な最初の第一の啓示の「概念の実在」、その人間性と共に神性を賦与され装備された、それゆえに「直接的、絶対的な、内容的な」「権威」と「自由」を賦与され装備された第二の形態である聖書(預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言)こそが、第一の形態であるイエス・キリストと、第三の形態である教会(宣教)――第二の形態である聖書(預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言)に信頼し固執し連帯してそれを反復することを通したその聖書的啓示証言の模写としての客観的な信仰告白・教義、あくまでも第二の形態である聖書の「権威」と「自由」を通して「限界づけられている」「間接的・相対的・形式的な」「権威」と「自由」を持っている啓示の「概念の実在」――、との<仲介者>なのである。したがって、バルトも含めて誰であっても第三の形態である教会(その成員)は、第二の形態である聖書(預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言)に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して、第一の形態であるイエス・キリストに感謝を持って信頼し固執(固着)するのである。したがってまた、教会(その成員)の信仰・神学・宣教は、第二の形態である聖書(預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言)に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すことで、神と人間との無限の質的差異の下で、終末論的限界の下で、キリスト教に固有な類(啓示の「概念の実在」)の拡大・豊富化およびその時間累積(歴史性)をしていかなければならないのである、またこういう仕方でキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、その「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」――この「隣人愛」は、すべての人々が現実的に福音を所有することができるために、福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」であって、それは具体的にはイエス・キリストにおける福音の告白・証し・宣べ伝えのことなのである――を実践していかなければならないのである。この場合、教会(その成員)の宣教における福音(言葉)の「繰り返し」が、福音を内容とする福音の形式としての律法(行為)を、おのずから・必然的に生み出すのである。このようなまことの教会(その成員)は、あの神の命令・要求・要請を、人間自身教会自身が支配し管理する「自分で満足させ得る要求」に変じることはしないのであり、それゆえに、人間自身教会自身の自主性・自己主張において、言葉だけでなく行為も、説教だけでなく社会的政治的実践も、宣教Aだけでなく宣教Bも、というように声高に二元論的宣教論を吹聴したりはしないのである。このような訳で、聖書(預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言)からすれば、聖書を後景へと退け「除外」して、イエス・キリストとの関係の無媒介的な「直接性」を志向し目指す「熱狂主義」も、人間自身教会自身の自主性・自己主張を志向し目指す「自律主義」も、本質的に存在することはできないのである。したがって、そうした「熱狂主義」や「自律主義」は、その最初から「誤謬は必然」となるのである。実際的にそうなのである。このことも、明確に、実証することができるであろう。
◎第二の形態である聖書(預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言)を通して、イエス・キリストにおいて自己啓示された神は、「失われない差異性の中」で三つの「存在の仕方」・「存在の様態」(性質・行為・働き・業)において「三度別様」に父・子・聖霊なる神であって、「失われない」単一性・神性・永遠性を「本質」とする「一神」・「一人の同一なる神」である。この聖書的三位一体論(啓示認識・啓示信仰)に依拠して、バルトは、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉(啓示)の実在の出来事である「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性を論じているのである。このことについてもっと理解し易いバルトの論述は次のようなものである――「創造された世界」における「神の愛」と「われわれの世界」における「イエス・キリストの事実の中における神の愛」との間には差異がある。すなわち、後者の神の愛は、「まさしく神に対し罪を犯し、負い目を負うことになった人間の失われた世界に対する神の愛」である。したがって、イエス・キリストにおける「和解ないし啓示」は、「創造の継続」や「創造の完成」ではない。すなわち、その「和解ないし啓示」は、三つの「失われない差異性」における神の「第二の存在の仕方」である単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストの「新しい神の業」なのである。したがって、それは、「神的な愛の力」・「和解の力」である。イエス・キリストは、和解主として、創造主の<あと>に続いて、神の「第二の存在の仕方」において「第二の神的行為(≪性質・行為・働き・業≫)を遂行」したのである。この三つの「失われない差異性」における神の第一の存在の仕方に関わる「創造」と神の第二の存在の仕方に関わる「和解」のこの「順序」(関係と構造・秩序性)に、「キリスト論的に、父と子の順序、父(≪啓示者≫)と言葉(≪啓示≫)の順序」(関係と構造・秩序性)が対応しており、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方である「和解主としてのイエス・キリスト」は、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第一の存在の仕方である「創造主」・「父」に<先行することはできない>のである。しかし、この父・子は、単一性・神性・永遠性を本質としているから、この従属的な関係(関係と構造・秩序性)は、その「存在の本質」の差異性を意味しているのではなく、その「存在の仕方」の差異性を意味しているだけなのである。したがって、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストこそ――すなわち、「きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」連続性としてのイエス・キリストこそ――が、「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における第一の形態であり、それゆえに第三の形態である教会の宣教における「先ず第一義的に(≪第一次的に≫)優位に立つ原理」なのである。第一の形態である、単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストこそが、キリスト教に固有な類・歴史性の連続性の根拠であり源泉である。したがってまた、具体的には、その第一の形態であるイエス・キリストにより直接的に唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」(直接的な最初の第一の聖書的啓示証言、聖書)が、教会に宣教を義務づけている第二の形態として、教会の宣教における原理なのである。このような訳で、第三の形態である教会(その成員)の宣教は、その説教と聖礼典について、聖書を「規準」・「法廷」・「審判者」として、絶えず繰り返し自己吟味し・的確に「批判し、訂正」していかなければならないのである。したがって、「聖書が教会を支配するのであって、教会が聖書を支配してはならないのである」。これらの事柄は、聖書(預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言)に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通した啓示認識に依拠した信仰の類比・関係の類比によって得られる教会(その成員)の自己認識・自己理解・自己規定である。
 神の言葉(啓示)自身の「自己運動」により、神の言葉は、神のその都度の自由な恵みの決断による「神の口を通して語られて、同時的である」・「時の全く厳格な相違性の中で、(≪単一性・神性・永遠性を本質とする≫)神の言葉は一つであり、同時的である(イエス・キリストは、きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない)」――ここに、キリスト教に固有な類・歴史性としての「神の言葉の三形態」の連続性の根拠と源泉がある。したがって、「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」・「解釈する」とは「別の言葉で同一のことを言うこと」である(『教会教義学 神の言葉』)。このような訳で、バルトは、『ローマ書』では、「パウロはその時代の子としてその時代の人々に語った。けれどもこの事実よりはるかに重要な事柄は、いま一つの事実、すなわち彼は神の国の預言者ならびに使徒としてあらゆる時代のあらゆる人々に語っている、ということである。(中略)聖書の精神は永遠の精神なのである。かつての重大問題は今日もなお重大問題であり、今日の重大問題で単なる偶然や気まぐれでない事柄は、またかつての重大問題と直結している」、と述べたのである。このように、ここでも、バルトは、前期から後期までの一貫性を持って語っているのである。したがって、前期バルトと後期バルトに区別することが一般的だ・通説だという断定の仕方は、形而上学的一面的固定的な抽象的空論しか生み出さないのである、その最初から「誤謬は必然」となるのである。信仰・神学・教会の宣教におけるバルト自身は、個性や時代性、すなわち個体的自己の現存性や地域性、社会構成・支配構成・文明的――文化的構成の時代水準性、時代状況性、<特殊性>や<断続性>だけでなく、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるキリスト教に固有な類や歴史性、すなわち<普遍性共通性>や<連続性>も生きたのである。
@<「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における第一の形態>――それは、「直接的な、絶対的な、内容的な」「権威」と共に「直接的な、絶対的な、内容的な」「自由」を持つところの、教会の宣教における「先ず第一義的に優位に立つ原理」である。また、それは、単一性・神性・永遠性を本質とする神が肉となったのではなくて、その神の<第二の存在の仕方>(性質、行為、働き、業)における神の言葉が肉となったところの「具体的に肉となった神の言葉」、神の子、啓示・和解、<客観的>な「啓示の実在」そのものである。また、それは、「主辞」・主体としての単一性・神性・永遠性を本質とする<まことの神>であり、「賓辞」・客体としてのナザレのイエスという人間の歴史的形態・人間的性質を持った<まことの人間>である、「イエス・キリスト」・「イエス・キリストの名」である。また、それは、『福音と律法』によれば、主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」――すなわち神の側の真実としてのみある、それゆえに客観的現実性・客観的実在としてある、個体的自己としての全人間に代わって執行され<完了>・<成就>された「イエス・キリストご自身が信ずる信仰」、神の側の真実としてのみある、それゆえに客観的現実性・客観的実在としてある、イエス・キリストの死と復活の出来事において<完了>・<成就>された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和である。したがって、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」は、このイエス・キリストにおける福音の告白・証し・宣べ伝えにあるのである。なぜならば、人間がその福音を現実的に所有できるためにはその福音の告白・証し・宣べ伝え――すなわち、その福音を内容とする福音の形式としての律法が、換言すれば神の命令・要求・要請が、必要だからである。言い換えれば、そのためには、キリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」が必要だからである。
 このような訳で、バルトは、聖書(預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言)に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して、「(中略)確かに受肉は中心的にして重要なものではあるが……新約聖書の本来的内容であるというふうには言ってはならないのである。(中略)それはおよそすべての他の宗教世界の神話や思弁の中にも見出されるものである。(中略)人は、聖書が語っている受肉を、ただ聖書からのみ、換言すればイエス・キリストの名からのみ……理解することができる。……(≪経済的基盤を農耕に置いた人類史のアジア的段階において、非農耕民や天皇は神人と呼ばれたように≫)神人性それ自体もまた新約聖書の内容ではない。新約聖書の内容とは、ただイエス・キリストの名だけであり、そのイエス・キリストの名がたしかにまた、そしてとりわけ、彼の神人性の真理をその名に含んでいるのである。ただまったくこの名だけが、啓示の客観的現実を言いあらわしている」(『教会教義学 神の言葉』)、と述べたのである、また逝去の年、スイス放送で流された最後の言葉において、「私が……語るべき最後の言葉は、<恩寵>といった概念ではなく、一つの名前、イエス・キリストなのです。この方こそ恩寵であり、この方こそ、この世と教会のそしてまた神学との彼岸にある、究極のものなのです(≪神の側の真実としてのみある、終末論的な、<完了>・<成就>された、個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和なのです≫)。(中略)この名以外のいかなる名前にも、救いはありません。(中略)そこには仕事と闘いへと向かうはげましがあり、共同体と仲間と人たちとの交わりへと向かうはげましがあります。そこには、弱く愚かであった私が生涯において試みたすべてのことがあります。しかしそれらすべても、この名においてなのです」(『カール・バルトの生涯』)、と述べたのである。

 

A<「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における第二の形態>――それは、その人間性と共に神性を賦与され装備された聖書(預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言)である。それは、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストによって直接的に唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちの直接的な最初の第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」(啓示の「概念の実在」)である。また、第二の形態であるそれは、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリスト(第一の形態)共に、「直接的な、絶対的な、内容的な」イエス・キリストのまことの<神性>――「権威」性と「直接的な、絶対的な、内容的な」イエス・キリストのまことの<人間性>――「自由」性によって賦与され装備された「権威」と「自由」を持つところの、第三の形態である教会における宣教の原理である。したがって、教会に宣教を義務づけている「聖書こそ」が、「教会を支配するのであって、教会が聖書を支配してはならないのである」。言い換えれば、「聖書こそ」が、具体的な教会の宣教の「規準」・「法廷」・「審判者」なのである。また、「聖書こそ」が、その聖書を「規準」・「法廷」・「審判者」とする<まことの教会>の宣教を通して、この世の「規準」・「法廷」・「審判者」なのである。したがって、教会(その成員)自らが、聖書を「規準」・「法廷」・「審判者」として、絶えず繰り返しその宣教を自己吟味し、的確に「批判し、訂正」していかなければならないのである。また、教会における「権威」・「自由」は、あくまでも「直接的な、絶対的な、内容的な」イエス・キリストのまことの<神性>――「権威」性と「直接的な、絶対的な、内容的な」イエス・キリストのまことの<人間性>――「自由」性によって賦与され装備された「権威」と「自由」を持つところの第二の形態である聖書(預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言)の「権威」・「自由」に基礎づけられている「間接的・相対的・形式的な」「権威」・「自由」として、徹頭徹尾、「限界づけ」られているのである。言い換えれば、第二の形態である預言者および使徒たちと「イエス・キリストとの出会いの直接性」における「直接的、絶対的、内容的な」「権威」と、「自由」――すなわち「イエスの弟子たちがキリストの後に従う随従」は、直接的な唯一回的特別なそれであるから、「繰り返され得ないもの」なのである。言い換えれば、第二の形態である預言者および使徒たちと第一の形態である主なるイエス・キリストとの関係は、「啓示そのものが一回的であるのと同じように、一回的な関係」なのである。したがって、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第三の形態である「教会・その成員の現実存在」と、そうした第二の形態における「預言者および使徒たちの現実存在」とは、本質的に同一ではないのである、本質的に等価ではないのである。本質的に同一化することはできないのである。第三の形態である「教会・その成員の現実存在」を、第一の形態および具体的には第二の形態に「先行」させることはできないのである。したがって、第三の形態である「教会・その成員の現実存在」に属するバルトの現実存在に対して、使徒概念あるいは使徒的概念を適用することは本質的にできないことなのである。このような訳で、第三の形態である教会(その成員)と第一の形態である主なるイエス・キリストとの関係は、第二の形態(聖書、預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言)に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して関係することができる「間接的」な関係なのである。したがって、第三の形態である教会(その成員)は、アウグスティヌスであれ、ルターであれ、カルヴァンであれ、バルトであれ、誰であれ、単一性・神性・永遠性を本質とする第一の形態であるイエス・キリストによって直接的に唯一回的特別に召され任命された第二の形態である預言者および使徒たちと本質的に同一ではないのである、本質的に等価ではないのである、本質的に同一化させることはできないのである。
 このような訳で、第三の形態である教会(その成員)に現存していることを認識し自覚していたバルト自身は、「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における第二の形態の聖書(預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言)に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指したのである、すなわちキリスト教に固有な類の時間累積(歴史性)を志向し目指したのである、そうした仕方において初めて授与される「間接的・相対的・形式的な」教会の「権威」と「自由」に依拠しようとしたのである。言い換えれば、バルト自身は、「聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程の包括的研究において『教義そのもの』を尋ね求め」たのである、直接的な最初の第一の聖書的啓示証言、すなわち啓示の「概念の実在」における神の言葉を尋ね求めつつ、イエス・キリストにおける福音を告白し・証しし・宣べ伝えたのである、そうした福音の言葉の「一貫した繰り返しが、(ある状況下において、その状況に抗するそれとして)おのずから(≪換言すれば、言葉だけでなく行為も、説教だけでなく社会的政治的実践も、「宣教A」だけでなく「宣教B」も、という二元論的な仕方では全くなくて、福音の言葉の繰り返しが必然的に≫)実践に、決断に、行動になって行った」のである、そうした仕方において個性や時代性を刻んだのである。したがって、バルト自身は、「世界の救いを何かある国家的、政治的、経済的または道徳的な諸原理や理念や体制の内に求め」ようとしないで、「私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストを、いっさいのものにまさって恐れ、かつ、愛すること、神を、大きな問題においても、小さな問題においても、彼がかってあり、いまあり、やがてあり給う権威のままに肯定し、是認すること、私たちの個人的、社会的生活を敢えて律して、すべての善きものを神から、神からすべての善きものを期待」し、「不毛な反抗や反論を避けて」、「西でも東でも等しく通用し、西でも東でもひとしく稀であり、人々に好まれぬ福音に、無償の恩寵によって、素直に止ま」り、聖書的啓示証言におけるイエス・キリストにおける福音の言葉に感謝を持って信頼し固執し告白し証しし宣べ伝えるところで、闘うべき状況に強いられた場合には、最高度に質の良い仕方で、闘ったのである(『共産主義世界における福音の宣教 ハーメルとバルト』、『カール・バルトの生涯』、『バルトとの対話』等)。宮沢賢治の場合は、『農業芸術概論綱要』や『よだかの星』における、「世界が全体幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」・全体が幸福にならなければほんとうの幸福とはならない、という文学的信仰的課題の言葉が、賢治を、おのずから・必然的に、身近な農民のために身も心も尽くす行動へと向かわたのである。この時、人は、『はじめての宗教論』で、知ったかぶりして、神学研究の本質と教会の責務は、「個々人の救済、具体的な人間の救済です。人類という抽象的なものの救済ではありません」と述べた佐藤優の形而上学的一面的皮相的固定的抽象的空論的な言葉が、いかに質が悪いものか、いかにく陳腐なものかを実感的に知るであろう。このような佐藤に、バルトを根本的包括的に原理的に論じられるわけがないのである。バルトの論じたまことの教会(その成員)は、先ず以ては、例えばマタイ26・6−13やマルコ14・3−9やヨハネ12・3−8(聖書的啓示証言)に聞いて、個体的自己としての全人間の相対的部分的救済という緊急的過渡的課題――人間が現実的に福音を所有できるために、終末論的限界の下で、福音を内容とする福音の形式としての律法、すなわち神の命令・要求・要請である、あの「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」、すなわちイエス・キリストにおける福音の告白・証し・宣べ伝え――と、個体的自己としての全人間の包括的総体的救済という究極的永遠的課題――神の側の真実としてのみある、それゆえに客観的現実性・客観的実在としてある、あくまでも神の側からのみやって来る、キリストの再臨、終末、完成・救贖――とを、神の言葉(啓示)自身の自己運動による啓示認識・啓示信仰に基づいて、構造的同在的に自らに引き寄せ堅持しようとするのである。あくまでもその上で、さらに人間的な意識された相互扶助等々を目指そうとする人びとは、自ら現存する、「私利」・「私意」を精神とする市民社会のただ中で、それゆえに私的他者との対立・争いの生活や利害共同性との対立・争いの生活のただ中で、社会的現実的には諸利害や諸矛盾による対立や争いが現存するにもかかわらず、そうした対立や争いがあたかもないかのように擬制する第一義化・価値化された法的政治的な観念の共同性を本質とする政治的近代国家――人は社会的現実的に自由でなくても、観念の共同性を本質とする国家(国家共同性)は自由主義国家であり得る、人は経済的社会的現実的な地上の生活において様々な不平等や格差のただ中に現存しなければならないにもかかわらず、法的政治的観念的な天上の生活においては平等であり得る――を、第一義化し価値化し前提し固定するのではなくて、先ず以て直接民主制・重要法案に対する国民投票の拡大等によって大多数の被支配としての一般国民にどこまでも開いて行くことで、規模の大きい現実的な社会を第一義化して、現存する社会的現実的な諸利害や諸矛盾を社会的現実的に解決していく過渡的課題――観念の共同性を本質とする法的政治的な国家を第一義・価値とする国家主義的社会ではなくて、現実的な社会を第一義・価値とする社会主義国家への移行の課題・なぜならば、国家を第一義・価値とする国家主義国のロシアも中国も社会主義国家ではないし、自由主義国家・政治的近代国家あるいは修正資本主義・キリスト教も加担した新保守主義と結びついた小さな政府を目指す新自由主も国家を第一義・価値とする国家主義国であるから――と、最後的にはその国家の<無化>を伴う社会的現実的な個体的自己としての全人間の包括的総体的な解放という究極的永続的課題とを構造的同在的に持っていなければならないのである。したがって、先程の宮沢賢治の言葉は、全く質の悪い程度の低い陳腐な佐藤の言葉とは全く違って、現実性と妥当性を持っているのである。

 

B<「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における第三の形態>――それは、具体的には、「直接的」な最初の第一の啓示の「概念の実在」としての第二の形態である聖書(預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言)に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して初めて得られるところの、第三の形態である教会の宣教における聖書的啓示証言の「模写」・「間接的」な啓示の「概念の実在」、教会の客観的な信仰告白・教義、のことである。したがって、直接的な最初の第一の啓示の「概念の実在」としての第二の形態である聖書(預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言)と、その聖書的啓示証言を媒介・反復することを通して初めて得られる「間接的」な啓示の「概念の実在」である第三の形態である教会の客観的な信仰告白・教義とは、本質的に同一ではないのである、本質的に等価ではないのである、本質的に同一化させることはできないのである。言い換えれば、具体的に第二の形態である聖書的啓示証言によって限界づけられた第三の形態である教会における「間接的・相対的・形式的な」「権威」・「自由」は、あくまでも「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態である聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すところにおいて、成立するものなのである、そういう仕方においてキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、その「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請――イエス・キリストにおける福音の告白・証し・宣べ伝え)を志向し目指すところにおいて、成立するものなのである。なぜならば、神の側の真実としてのみある、それゆえに啓示の客観的現実性・啓示の客観的実在としてある、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の言葉、神の子、啓示・和解、個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和)であるイエス・キリストにおいては、個と共同性は、近代的に逆立し対立するのではなくて、正立し平和だからである・それだけでなく、そのイエス・キリストにおける「『神われらと共に』という言葉」・「キリスト教使信の中心」は、教会共同性・教団共同性のような「狭い共同体」から「その事実をまだ知らぬ」「すべての他の人々」「広い共同体」に向かっての運動において、その現にあるがままの現実的な人間存在における個体的自己としての全人間・全世界・全人類に対して、不信や非知や非キリスト者(教)に対して、完全に開かれているからである(『カール・バルト教会教義学 和解論T/1「和解論の対象と問題」』)。言い換えれば、その第三の形態である教会における「権威」・「自由」は、あくまでも「直接的な、絶対的な、内容的な」イエス・キリストのまことの<神性>――「権威」性と「直接的な、絶対的な、内容的な」イエス・キリストのまことの<人間性>――「自由」性によって賦与され装備された「権威」と「自由」を持っている第二の形態である聖書(預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言)の「権威」・「自由」に基礎づけられているところの、徹頭徹尾、「間接的・相対的・形式的な」「権威」・「自由」として、「限界づけ」られているのである。したがって、「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性からして、本質的に、第三の形態である教会は、決して、第一の形態になることはできないし、決して、第一の形態との無媒介的な関係の直接性を築くことはできないし、それゆえに決して、第二の形態(聖書)を後景へと退け排除し「除外」することはできないのである。したがって、第三の形態である教会が、もしも第二の形態である聖書(預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言)に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することをしないならば、また例えば聖書だけでなく人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍や人間論や人間学的な哲学原理・認識論・世界観も必要だと第二の形態である聖書を後景へと退けあるいは排除し「除外」してしまうならば、その教会の宣教は、人間自身教会自身が対象化した「存在者レベルでの神への信仰」(偶像神信仰)における宣教として、またその偶像神の名と呼びかけによる人間自身教会自身が支配し管理する奉仕や救いや平和の企てにおける宣教として、共同宗教(キリスト教)の最後的形態である政治的近代国家の死滅と共に死滅する自然神学の段階で停滞と循環を繰り返す共同宗教としてのキリスト教、その信仰・神学・教会の宣教、としかならないのである。
 このような訳で、イエス・キリストを主・頭とするまことの教会(その成員)は、「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における、第一の形態である単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリスト(客観的な「啓示の実在」そのもの)と、第三の形態である教会の客観的な信仰告白・教義(第二の形態である「直接的」な聖書的啓示証言の「模写」としての「間接的」な啓示の「概念の実在」)とを、同一化させたりしないのである、また第二の形態である聖書(預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言、「直接的」な最初の第一の啓示の「概念の実在」)と、第三の形態である教会の客観的な信仰告白・教義とを、同一化させたりしないのである。客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断による啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事、この神の言葉(啓示)自身の自己運動による、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性からして、その第二の形態とその第三の形態の関係は、常に、第二の形態である聖書が主辞・主体なのであって、第三の形態である教会は第二の形態である聖書の主辞・主体となることは、本質的にできないのである。また、第三の形態である教会(その成員)は、第二の形態である聖書(預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言)に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通してのみ、第一の形態である単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリスト(キリストにあっての神)と関係することができるのである。この場合、教会(その成員)においては、先ず以ては、神の側の真実としてのみある、それゆえに客観的現実性・客観的実在としてある、主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」の下で、「信じます。信仰のないわたしをお助け下さい」(マルコ9・24)という祈りが「先行」すべき「決定的な行為である」、またそれ自身聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性において全き自由の自己運動する神の言葉――客観的な「啓示の実在」そのもの、啓示・和解、<完了><成就>された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和――の「支配に対する感謝と、この支配が現実につづいておこなわれるようにと願う祈」りが、また「われわれの……主であり、……避け所であり……城であり、……神である」「われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主」「イエス・キリストの名」を通したこの祈りが、聖書の「注釈に先行しつつ」永続的行われるべき「決定的な行為である……」。
 このような訳で、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の言葉、神の子、啓示・和解)であるキリストの復活・「昇天と再臨の間の時間」(「聖霊の時代」)に現存する「信じる人間」は、すなわち第三の形態である「教会・その成員の現実存在」は、その「間接的・相対的・形式的な」「権威」と「自由」(服従の自由)において、第二の形態である聖書(預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言)を教会の宣教の「規準」・「法廷」・「審判者」として、「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すのである、またそうした仕方でキリストにあって神を尋ね求める「神への愛」と、その「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、イエス・キリストにおける福音の告白・証し・宣べ伝え)を行うべき「責任をもっている」・責任を課せられているのである。したがって、第三の形態である「教会・その成員の現実存在」は、「自律的ではない」・恣意的独断的ではないところの、「自由」な人間である。「彼は(≪そのような啓示認識・啓示信仰に基づいて≫)信じる人間としてキリストのからだ(≪キリスト教に固有な類・歴史性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第三の形態である教会≫)に属する肢体である」。その教会(その成員)は、あくまでも神と人間との無限の質的差異の下で、「自分のかしらを天上に持っている」。したがって、その教会(その成員)の宣教は、「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における第一の形態、具体的にはその人間性と共の神性を賦与され装備されたその第二の形態である聖書(預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言)の「自由」と「支配」の下にあるから、「教会の中に集められた人間の洞察と恣意にまかせられて」はいないのである。人間自身教会自身の「洞察と恣意にまかせられて」はいないのである。したがって、教会は、「徹頭徹尾人間から成り立っているものであるが、決して人間の王国ではない」のである。したがって、「教会に委託されたイエス・キリストを証しするという課題」が、それらの「人間たちの自由裁量にまかせられているところの君主政治的な王国でないし、貴族政治的な王国でもないし、民主政治的な王国でもない」のである。「そうではなくて、……(≪第三の形態である≫)教会」は、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断による啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事、この神の言葉(啓示)自身の自己運動によるそれ自身聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における神の言葉の実在、このように第一の形態である自己運動する「神の言葉を通して創造され、維持されているように、また(≪そのように自己運動する≫)神の言葉を通して支配される」のである。具体的には、第三の形態である教会(その成員)は、その人間性と共に神性を賦与され装備された第二の形態である聖書(預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言)、すなわち直接的な最初の第一の「イエス・キリストにあっての神の言葉の証しという(≪第二の≫)形態での神の言葉を通して支配される」のである。第二の形態である「聖書こそ」が第三の形態である教会に宣教を義務づけているいるのであるが、その人間性と共に神性を賦与され装備された「聖書こそ」は、具体的に、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性からして、「先ず第一義的に優位に立つ原理」、「規準」・「法廷」・「審判者」としての第一の形態である客観的な「啓示の実在」そのものであるイエス・キリストと共に、第三の形態である教会の宣教における「原理」、「規準」・「法廷」・「審判者」なのである。したがって、「聖書が教会を支配するのであって、教会が聖書を支配してはならないのである」。このような訳で、「われわれが、イエス・キリストは教会を支配するという時、聖書が教会を支配すると言うのと同じことを言っているのである」。言い換えれば、「その人間性の中で神の子」が、それゆえに「われわれに啓示された神としてのこの神の子が、啓示し給う働き(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方、性質・行為・働き・業、神の言葉、啓示・和解≫)がその支配についての預言者的――使徒的証言(≪第二の形態≫)の中で、自分の預言的な務めを続けるように、み子の支配は」、それゆえに第一の形態である「神ご自身の支配は、この(≪第二の形態である≫)証言の中で、この証言を通して、(≪第三の形態である≫)教会の身に及ぶ」ということなのである。単一性・神性・永遠性を本質とする神の第三の存在の仕方である「聖霊も、また、……まさにこの証言の霊である」・「この証言をまこととして証しする霊、この証言が心をかちとる霊である」。神と人間との無限の質的差異の下で、終末論的限界の下で、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰を授与する霊である。キリストの復活・「昇天と再臨の間の時間」、「中間時」、「聖霊の時代」は、(≪第二の形態である≫)「預言者的――使徒的証言の中での(≪第一の形態である≫)神の言葉を通して規定された時間」であるし、第三の形態である教会を支配する仕方は、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断に基づく客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事――人間的主観に実現された神の恵みの出来事、神と人間との無限の質的差異の下での、終末論的限界の下での、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与の出来事――、この神の言葉(啓示)自身の自己運動に基づく「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性にあるから、啓示の客観的側面であるイエス・キリストの支配を「形式的に……承認」しつつも、実際的には啓示の主観的側面である「直接的な霊の導き」の支配を強調し承認することは、一面的固定的で「すべて偽り」となるのである。この場合、「教会を掌握する場所として、誤ることのない教皇が指し示される……あるいは誤ることのない会議が、あるいは権威的な司教の役職が、あるいは実体化された牧師の務めが、あるいは何らかの自由な指導原理が、あるいは教会の中での霊感を受けた個人が、あるいは最後にそれとしての教会全体が指し示される……」こととなるのである。したがって、虚偽と誤謬を犯すことになるのである。それに対して、第二の形態である「聖書(≪預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言≫)を無視して通り過ぎ」て、すなわち聖書を後景に退け排除し「除外」して、「イエス・キリストの支配」を人間自身教会自身が支配し管理することができるように曲解し「曖昧」化した「欺瞞的なもの」は、「天国におけるイエス・キリストの支配について、それからあのイエス・キリストの支配が突然地上に侵入してくる出来事について、語る……熱狂主義……であり、最後的には結局人間的な信仰」における人間自身教会自身の「自律」主義であるのだが、「それ故にそのものはイエス・キリストの教会について語っていないのである」。総括的に言えば、それらすべては、<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返す信仰・神学・教会の宣教に過ぎないものなのである。言い換えれば、イエス・キリストを主・頭とするまことの教会ではないところの、政治的近代国家と共に死滅する人間自身教会自身が支配し管理する共同宗教としての教会としかならないのである。なぜならば、先にも述べたように、神と人間との無限の質的差異の下での、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性の下での、それゆえに終末論的限界の下での、神のその都度の全き自由な恵みの決断による、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の授与の出来事は、あくまでも、第一の形態である神の言葉(啓示)自身の自己運動、具体的にはその人間性と共に神性を賦与され装備された第二の形態である聖書(預言者および使徒たち、聖書的啓示証言)、すなわち<客観的>な啓示の出来事、と、聖霊の注ぎによる<主観的>な信仰の出来事、に基づく出来事だからである。 
 このような訳で、第三の形態である教会(その成員)が、第二の形態である聖書(預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言)を教会の宣教の「原理」、「規準」・「法廷」・「審判者」として「考察の対象」とする時、「はじめて」、第三の形態である教会(その成員)は、第一の形態であるイエス・キリストを主・頭とする「イエス・キリストの教会について語」ることができるのである、第一の形態であるイエス・キリストを主・頭とする教会となることができるのである。この「間接性こそが、それは主ご自身を通して設けられ、主の甦えりを通して力を奮うのである」。すなわち、「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における第一の形態であるイエス・キリストと第三の形態である教会(その成員)の「まこと」の関係性は、無媒介的な関係としての「直接性」にあるのではなくて、第二の形態である聖書(預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言)に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通した媒介的な関係としての「間接性」にあるのである。このような、第二の形態である聖書(預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言)を媒介した、第一の形態であるイエス・キリストと第三の形態である教会(その成員)との媒介的な関係性のことを、バルトは、「<まこと>の直接性」、「まこと」の関係性、と述べたのである。したがって、この「<まこと>の直接性」は、第一の形態であるイエス・キリストと第三の形態である教会(その成員)との無媒介的な関係としての「直接性」のことでは全くないのである。言い換えれば、第三の形態である教会(その成員)が、先ず以てその人間性と共の神性を賦与され装備された第二の形態である聖書(預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言)に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すという仕方で、キリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、その「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」――イエス・キリストにおける福音を感謝を持って告白し証しし宣べ伝える隣人愛、福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請――を行い、キリスト教に固有な類の時間累積(歴史性)をしていくという媒介的な関係としての「間接性」に、「<まこと>の直接性」、「まこと」の関係性、があるのである。このことは、媒介的な同一性、というように言うこともできる――全き自由においてそれ自身の仕方で自己運動する神の言葉・「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」・「解釈するとは別の言葉で同一のことを言うことである」。すなわち、神の言葉は、「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性において、そのように自己運動するのである。
 このように、「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性は、全き自由な自己運動する神の言葉(啓示)から規定されたそれであるから、人間自身教会自身が自分の自由事項・決定事項・裁量事項として恣意的独断的に「自分勝手」に「絶対化」し「硬化」させてしまうことはできないのである。したがって、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態である「聖書が(≪第三の形態である≫)教会の支配を実行に移すところ、そこでは」、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に関わる第一の形態である「神の言葉の自由を抑圧」するところの自律主義、第二の形態である「聖書を……除去する」ところの熱狂主義、に対しては「律法的に、禁止しようと欲することができる」のであり、「禁止」することを実行しなければならないのである。人間自身教会自身説教者自身の自由事項・決定事項・裁量事項として、聖霊や聖霊の言葉を実体化した日本基督教団立神学校の実践神学者の小泉健に対して、否、それは間違っている、と言うことができるのである、言うべきなのである。しかし、また一方で、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態である「聖書が(≪第三の形態である≫)教会の支配を実行に移すところ、そこでは」、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性には属さないところの、人間的教会的な組織的共同的社会的政治的な事柄については、具体的には「教皇と会議、司教と牧師、会議の主権と教会の主権、指導者と霊を受けた者たち、神学者の奉仕と教会の中にいるそのほかの者たちの奉仕、男たちの奉仕と女たちの奉仕」等の事柄については、その事柄を第一義化したり価値化したり前提したり固定したり主義化したり絶対化したりしない限りは、「その都度存在すること」、「あるいは存在しないでいることが、できる……」のである。言い換えれば、第二の形態である「聖書が(≪第三の形態である教会を≫)支配し、聖書によって(≪教会が≫)支配されること」を、教会が「実際に真剣に受けとる時」には、第二の形態である「聖書」(預言者および使徒たち、その聖書的啓示証言)は、@第三の形態である「教会と(≪第一の形態である≫)その主の間の関係の直接性を破壊することはないし(≪なぜならば、その場合、その関係性は、第二の形態である聖書を媒介した媒介的な関係としての「間接性」、すなわち「まことの直接性」、であるから≫)、Aまた(≪第三の形態である≫)教会に対して」、第二の形態である聖書に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すことでキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、その「神への愛」を根拠とする「神の讃美」としての「隣人愛」――「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」、すべての人間が現実的に福音を所有できるために教会(その成員)に課せられた神の命令・要求・要請、イエス・キリストにおける福音の告白・証し・宣べ伝えという福音を内容とする福音の形式としての「律法」以外の「律法を押しつけることもしない……」のである。