カール・バルト(その生涯と神学の総体像)

バルトの処女作の確定と『ローマ書』「第二版序言」における神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>

カール・バルトの著作に即した、その総体像を理解するためのキーワード――バルトの処女作の確定と『ローマ書』「第二版序言」における神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>
再推敲・再整理版です。

 

 バルトは、『バルト自伝』で、「イエス・キリストにおける私の恩寵の神学として組織だてる」という「私の仕事に生じた変化の意義を見かつ理解するためには」、『教会教義学 神の言葉』の「序」、「教義学の規準としての神の言葉」、「神の啓示 三位一体の神」、「神の啓示 言葉の受肉」、「神の啓示 聖霊の注ぎ」、「聖書」、「教会の宣教」を「ある程度研究する必要がある」、と述べている。このことを、カール・バルトの著作の翻訳者である井上良雄は知っていたであろうにも拘らず、彼は、『教会教義学 和解論』(1959〜88年)に翻訳を集中させている。ということは、井上自身は、すでにその『教会教義学 神の言葉』を読み終えていたように思われる。したがって、1952年に『福音と律法』(内容的に言って、バルトの成熟の書)を翻訳した井上は、次の作業として『教会教義学 和解論』の翻訳を自覚したように思われる。そして、井上の翻訳作業は、バルトが1921年に「私が『方式』なるものをもてっているとすれば、……時間と永遠との『無限の質的差別』(≪神と人間との無限の質的差異≫)……、 をあくまで固守した、ということである。『神は天にいまし、汝は地に在り』。私にとっては、この神とこの人間との関係、ないしはこの人間と神との関係が聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」と書いた『ローマ書』「第二版序言」との連続性において1927年に著わされた『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』の翻訳(1963年)へと続いている。このバルトの重要な立場は、起源としての前期著作の処女作『ローマ書』「第二版序言」から晩年の後期著作の『神の人間性』(1956年の講演)等々に至るまで一貫して、少しもぶれることなく貫徹されている(それ故に、バルトを<二元論的>に前期バルトと後期バルトに分離して理解する仕方は間違いなのであって、われわれは、その個とその個の時間性としての自己史においてあの時代を生き生活し喜怒哀楽し信仰し神学し思想し意志し行動し、その思惟と語りの内容の成熟の度合いを増して行ったバルトを、その総体性において理解しなければならないのである――この視点は、非常に重要で大切なことなのである)。しかし、現存する人類史の尖端性としてある西欧的段階における西欧的な危機(「西欧の合理性の歴史とその限界」、「西欧哲学の時代の終焉」、西欧的な「人間、社会という西欧概念の危機」)を認識し自覚していないような記述を行っていることがあるキルシュバーム後バルトの身近にいてバルトの逝去後に『カール・バルトの生涯』を著わしたエーバーハルト・ブッシュでさえ、そのバルトの重要な立場に無頓着であったと言える。その証左は、『バルト神学入門』の章ごとにある余りにも質の良くない「理解を深めるために」における問いの仕方の内容にある(何故ならば、その問いの仕方の内容は、バルトの処女作の確定から含めて、それ故に処女作の概念の確定を含めて、その前期の処女作から最晩年の後期までのバルト自身の主要著作に即して、バルトを総体として理解していなければ、その問いに答えられないような問いの仕方の内容であるからである。この時、ブッシュ自身はそのような作業をきちんと行ったうえでその問いを発しているのだろうかという疑問が、私には湧いてきたのである。このような疑問は、私のホームページでもすでに述べていることであるが、ブッシュの『カール・バルトの生涯』を読んだ時も、同じように、所々で湧いてきた疑問と同じものである。おそらくブッシュだけでなく大学社会のバルト研究者であっても、バルト自身の前期から後期までの主要著作に即してその問いに答えられる人はいないと思うのだが、ましてや入門者はさらにそうであると思う――詩人で文芸批評家で思想家の吉本隆明は、『源氏物語論』および『幸福論』で次のように述べている、すなわち「わたしは……『源氏』は原文で読まなければ判らないなどという迷信の世界を……無化したいと 思った。『頭をひねりながら判読』してみても、たった二、三行すら正確には判読できない。また『ある程度以上のスピードで読める(正確に)』ような『源氏』研究者が現存するなどということを、 まったくしんじていない」・「万巻の書を読んだという人もいるけれど、僕は全然そんなことはない。(中略)主な作品を読 んでいくだけでも、……こういう作家かとおもうわけで、それは間違いなくイメージは湧きます。 (中略)専門家といわれる人でも、誰か一人でもいいから全部ちゃんと読んだかと聞かれたら、それはあんまりいないと思います」、神学関係における大学神学者といわれる人でも、自分自身がほんとうに好きで尊敬していて研究対象としているバルトのような神学者の処女作からの著作を全部きちんと読んでいるのは、世界中でひとりかあるいは数人であるだろうと思われる、否、ひとりもいないかもしれない、そしてこの可能性の方が大であるように思われる、様々なバルト研究書を読んでいるとそのように思えてくる)。その『バルト神学入門』(ドイツ語原書のタイトルは、『バルト』である)の翻訳者でもある佐藤司郎のルドルフ・ボーレンに依拠した聖霊論的説教論やエキュメニカル運動論の論述も質の良くないものである(このことは、すでに私のホームページで論じている)。『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』に即して言えば、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会(≪それが神学大学、一般大学の神学部であろうが≫)の神学」は、必然的にそうならざるを得ないのである。バルトと同じように、西欧的な危機に自覚的であったであろう彼の友人のトゥルナイゼンは、『ドストエフスキー』で、強調されるべき積極的側面である「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」におけるご自身の中での神の自由、すなわち「自己自身である神の自由」としての「自存性の概念」と、消極的側面である「神とは異なるものによって為されるすべての条件づけからの神の自由」(≪人間的理性や人間的欲求やによって為される、命題、概念規定、定義からの神の自由≫)としての「独立性の概念」との総体性において存在する全き自由の「神は神である。(≪この神と人間との無限の質的差異≫)これがドストエフスキーのただ一つの中心的認識である。この神がどんなに偉大な高みに坐していようとも、一つの人神としようとはせず(≪神の人間化あるいは人間の神化の企ては行おうとはせず≫)、またどんなに理想的であるにせよ、人間の魂の現実あるいは世界の現実の一片としようとしないこと(≪キリストにあっての神を、その啓示を、人間の側からする人間的理性や人間的欲求やによって対象化された「存在者レベルでの神」や、その神の名と呼びかけによる救いや平和の企て等と同一化しようとしないこと、例えばヘーゲルの歴史哲学に依拠したと言えるモルトマンの神学的三段階的進歩史観と救済史とを同一化しようとしないこと≫)、それが彼の唯一つの努力なのである」。神の側の真実としてあるわれわれのための「神の時間」、「イエス・キリストの時間」、「啓示の時間」、「永遠」、「救済史」(平和史の概念は、救済史の概念に包括されて存在する、それ故にわれわれは、ドストエフスキーの『罪と罰』の登場人物・マルメラードフのように、終末論的信仰の中において、終末を、「完成」を、復活されたキリストの再臨を祈り求め待たなければならない)は、<常に>、神とは全く異なる「われわれ人間の時間」、「歴史」の、<彼岸・外>にある。

 

 さて、バルトの重要な立場は、『福音と律法』に即して言えば、神の側の真実としてある、それ故に「成就と執行」・「永遠的実在」・客観的現実性としてある、主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・完了、「神の義、神の子の義、神自身の義」、イエス・キリストにおける成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(平和の概念は、この救済概念に包括されたそれである)という点にあり、『教会教義学 神の言葉』に即して言えば、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち啓示者である父なる神の子としての啓示(和解)、起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト自身、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」である「イエス・キリストの名」にあり、それ故にわれわれは、その「一つの事柄に仕えなければならないのであって、ひとつの党派(≪多元主義的な、党派主義的な、教派、宗派、学派、思想傾向、社会構成・支配構成、文明的・文化的傾向、人種、民族、時流・時勢、大衆迎合や大衆啓蒙、社会的政治的な言説や運動≫)に仕えなければならないことはない……、一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……」という点にある。したがって、バルトは、次のように述べるのである――先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(神の側の真実からする、神の人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性である聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の~の「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち啓示者である父なる神の子としての啓示(和解)、起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰≫)に向かっての人間の用意が存在する」、換言すれば先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」、と。人間学的領域において吉本隆明は、次のように述べている――「対立する双方に真理があるというような(≪多元主義的、党派主義的な≫)俗説が、世界史的に流布され、流通している」中で、自らの立場において、両者を包括し「止揚しなければならないということ(≪両者の枠組みを取り除き・超え出て、両者を架橋すること、例えば神の側の真実としてある主格的属格として理解された「イエス・キリストの信仰」――イエス・キリストが信ずる信仰によって、イエス・キリスト自身によって、信と不信、信者と不信者の枠組みを取り除き・超え出て、信と不信を、信者と不信者を架橋すること≫)が思想的な問題」である(『どこに思想の根拠をおくか 思想の基準をめぐって』)。

 

 バルトの処女作とは何か? 先ず以て、一番最初に書いたそれであるから、その著作が処女作であるという訳ではない。詩人であり文芸批評家であり思想家でもある吉本隆明は、処女作について、『カール・マルクス』で、「個人の生涯の思想が、処女作に向かって成熟し、本質的にはそこですべての芽がでそろ」い、「生涯これを超えること」がないものが処女作である、と述べている。この原則に即して言うならば、バルトにとっての処女作は、『ローマ書』「第二版序言」(1921年9月、35歳の時)であると言うことができる。何故ならば、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を堅持するというこの立場は、『ローマ書』「第二版序言」の前期バルトから1968年の「シュライエルマッハー選集への後書」(邦訳「シュライエルマッハーとわたし」)の最後期バルトに至るまで、「講演」や「後書」を含めて『ローマ書』「第二版序言」以降の全著作に一貫性を持って貫徹されているからである。もっと例示すれば、バルトの成熟の書と呼ぶことができる『福音と律法』(1935年の講演)における思惟と語り――すなわちその死(≪「旧約」・「神の裁きの啓示」・「律法」、神の側の真実としてある福音・神の恵み本来の業における「古い時間」・「古い世」の終りに関わる≫)と復活(「新約」・「神の恵みの啓示」・福音、「勝利の福音」における「新しい時間」・「新しい世」のはじまりに関わる)の出来事における主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」におけるインマヌエルの出来事は、先行する神の側の真実として、われわれ人間からは「何ら応答を期待せず・また実際に応答を見出さず」とも、「神であることを廃めず」に、「何ら価値や力や資格もない」「罪によって暗くなり・破れた姿」のわれわれ「人間的存在を己の神的存在につけ加え、身内に取り入れ、それをご自分と分離出来ぬよう」に、「しかも(≪神と人間との無限の質的差異を堅持し≫)混淆(≪混合・共働・協働・折衷≫)されぬように、統一し給うた」ということを内容としているという思惟と語りだけでなく、『カント』(1932年から1933年に行われたボン大学での講義)における批判的な思惟と語り――すなわち宗教哲学における「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰である」とした「カントは、本源的であるゆえに、すでに前もってわれわれの(≪生来的な自然的な≫)理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で、アウグスティヌスの教説と一致する」という批判的な思惟と語りにも、また『ヘーゲル』(1932年から1933年に行われたボン大学での講義)における批判的な思惟と語り――すなわち「人間の(≪自由な自己意識・理性・思惟の≫)自己運動を神のそれと取り違えるという混淆」のただ中にある、また「自己自身である神の自由」としての「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」におけるご自身の中での神の自由と「独立性」としての「神とは異なるものによって為されるすべての条件づけからの神の自由」という二重の「神の自由を認識していないという事態」のただ中にある「シュライエルマッハー」や彼以外の「他の人々の所」には(近代主義を骨肉にまで受け入れた神学者・牧師・キリスト教的著述家たちの所には)、神の人間化あるいは人間の神化の原理を発見した「ヘーゲルの強力な痕跡」があることを見出すであろうという批判的な思惟と語りにも、また『教義学要綱』(1946年の講演)における思惟と語り――すなわち「聖霊は、人間精神と同一ではない」・「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」・聖霊によって更新された人間理性も聖霊と同一ではないという思惟と語りにも、またルターの信仰論と受肉論の問題点について論じた『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』(1927年)における思惟と語り――すなわち神と人間との無限の質的差異という「神に対する関係」は、「あらゆる点で、原理的に転倒不可能な関係である」、あるいは「神と人間を同一視する神学(中略)『人間の中なる神について』の議論が根絶されない限り」、『キリスト教の本質』で「人間は自分の本質を対象化し、そして次に再び自己を、このように対象化された主体や人格へ転化された存在者(本質)の対象とする。これが宗教の秘密である」・「神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」・「神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』」というようにキリスト教を根本的包括的に原理的に批判した「フォイエルバッハを批判する理由は、われわれにはない」という思惟と語りにも、また『神の人間性』における思惟と語り――すなわち「神が神であるということがいまだに決定的となっていないような人」は、換言すれば神と人間との無限の質的差異を認識し自覚していないような人は、「今神の人間性について真実な言葉としてさらに何か言われようとも、決してそれを理解しないであろう」という前提のもとで言われている「神の神性において、また神の神性と共に、ただちにまた神の人間性もわれわれに出会う」という思惟と語り等にも、一貫性を持って貫徹されているからである。「パウロはその時代の子としてその時代の人々に語った。けれどもこの事実よりはるかに重要な事柄は、いま一つの事実、すなわち彼は(≪その最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」、すなわち第二の形態の神の言葉に属する≫)神の国の預言者ならびに使徒としてあらゆる時代のあらゆる人々に語っている、ということである。(中略)聖書の精神は永遠の精神なのである。かつての重大問題は今日もなお重大問題であり、今日の重大問題で単なる偶然や気まぐれでない事柄は、またかつての重大問題と直結している」・「理解を志すかぎり、私は文書自体に関する謎はもはやほとんど解消して、ただ主題的内容に関する謎だけが問題になる、というような境域(≪境位≫)にまで突進しなければならない」・「パウロはローマ書の中で本当にイエス・キリストのことを語ったのであり、それ以外の何かについて語ったのではない……」・「パウロ」が、人間自身に人類自身に巣食う、そして特に近代以降に巣食う、すなわち神の人間化あるいは人間の神化の原理を発見したヘーゲル以降に巣食う「時間と永遠との恒常的危機」(≪神と人間との無限の質的差異の止揚・捨象・廃棄という危機≫)以外の何かについて語っているなら、「本当にパウロが時間と永遠との恒常的危機以外の何かについて語っているなら」、「パウロのテキスト自体が進展してゆくうちに、私はみずから不条理に陥ることであろう」・「また……もし人々がパウロの名のもとに、表面はイエス・キリストを説きながら、実は(≪第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯せずに、人間の側からする人間的理性や人間的欲求やによって対象化された≫)絶対的な相対物や相対的な絶対物から成る全くの人智学的混沌(≪換言すれば、人間学的神学的混沌あるいは神学的人間学的混沌、総括的に言えば自然神学的混沌、自然的な信仰・神学・教会の宣教的混沌≫)を説くとすれば、それこそパウロを歪めるというものである……」・「人々はテキストに対する私のこの態度を聖書主義と呼んだ。(中略)私について指摘しうる『聖書主義』なるものは、『聖書は良書であり、聖書の思想を少なくとも自分自身の思想と同じほど真剣に取り扱う人はそれだけの利益を受ける』という先入見を私がもっているということに帰する、と言ってよかろう」、と述べている(『ローマ書』)。作家として太宰治は、『正義と微笑』で、次のように書いている――「聖書を読みたくなって来た。こんな、たまらなく、いらいらしている時には、聖書に限るようである。他の本が、みな無味乾燥でひとつも頭にはいって来ない時でも、聖書の言葉だけは、胸にひびく。本当に、たいしたものだ」。また、詩人で文芸評論家で思想家の吉本隆明は、次のように述べている――「……<奇蹟> (中略)たとえば、お前は癒された、立てといったら癩患者が立ち上がった……。これは自分流(≪文芸批評あるいは思想≫)の言葉でいえば、比喩なんです。比喩の言葉というのは、あるばあいにはストレートな真実の言葉よりもっと真実を語るということがありうるわけで、これを実在論に還元してしまうと、田川健三はそうだとおもいますが、こんなのでたらめじゃないか、 こういういいかげんなことを書いてる本だという以外にないわけです。しかし言葉としての聖書というのは、信仰の書として読んでも、文学書として読んでも、あるいは思想の書として読んでも、どんな読み方をしょうと人間をのめり込ませる力があるとすれば、これは叡知じゃないとこういう ことは言えないという言葉が、そのなかに散らばっているからです。たとえばイエスが、『鶏が三度なく前に私を否むだろう』と言うと、ペテロはそのとおりなっちゃったみたいなエピソードをとっても、人間の<悪>というのが徹底的にわかっていないとだめだし、心というのがわかっていないとだめだし、同時にこれはすごい言葉なんだというのがなければ、やっぱり感ずるということはないとおもうんです」(吉本隆明『<非知>へ――<信>の構造 対話編』「吉本×末次 滝沢克己をめぐって」)。

 

 もっと言えば、処女作から連続している「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異という一貫したバルトの思惟と語りは、最晩年の『シュライエルマッハー選集への後書』(1968年、82歳、邦訳『神学者カール・バルト』「シュライエルマッハーとわたし」)においても貫徹されている。バルトは、「第三項の神学」(聖霊の神学)――換言すれば彼の教会教義学で言えば未完に終わった終末論的な聖霊の業に関わる「救贖」論・「完成」論を展開することが「夢」であったし、「霊的に精神的(≪神と人間との無限の質的差異を認識し自覚した学識的≫)にきわめてしっかりした基礎を持つ人々」が聖霊論を書くことを衷心から切望したのであるが、その神学の動向は、現実的には最初から今に至るまで「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」者やそれに類する者たちの人間学的神学の段階(総括的に言えば、自然神学の段階)で停滞した、それ故に教会の一つの機能としての神学としては非自立的で「非学問的な」聖霊論によって、バルトのそのような衷心からの切望は容赦なく打ち砕かれてしまったのである。そして、現在も打ち砕かれ続けているのである。例えば日本で言えば、「バルト神学においては人間の経験の位置づけが弱いから、人間の経験を尊重すべきである」、換言すれば近代的な人間の感覚と知識を内容とする経験を尊重すべきであると主張するルドルフ・ボーレンや彼の聖霊論的説教論に依拠した佐藤司郎や小泉健は、神と人間との無限の質的差異を捨象してしまって、聖霊や聖霊の言葉を神学者自身や説教者自身(人間自身)の自由事項・決定事項として実体化する聖霊論を展開している――小泉は、全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」における「聖霊の注ぎ」、聖霊の注ぎによる信仰の出来事ということを捨象してしまって、人間の側の恣意性独断性へと解体してしまうベクトルを持った言葉で、それ故に小泉の近代的な自己意識・理性・思惟あるいは人間的欲求が対象化したに過ぎない「聖霊が説教者に言葉を与え、語ることへと導く。説教者は聖霊の言葉を伝え、聖霊の言葉に導く」というようなことまで平然と述べている。最高度に最良・最善の「第三項の神学」を志向し目指したバルトは、聖書(預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」、第二の形態の神の言葉)に信頼し固執し連帯して、例えばシュライエルマッハーの「絶対依存感情」(敬虔心)の概念との関わりの中で、それは「イエス・キリスト自身の霊的現臨またはその力」として首肯できるかどうかという「問いに弁証法的に答え」て、次のように述べている――シュライエルマッハーにおけるその概念は、人間の自由な自己意識の類的活動の働きとしてあるところの、ある対象を知覚作用によって対象化し、その内在化された対象を概念的対象として対象化(内在化された対象の了解化・時間化)する概念化作用、あるいは感情的対象として対象化(内観的作用・内在化された対象の空間化、快・不快の感情)する感情作用と同じものであるという点において、それは人間論的・人間学的概念であるから、「イエス・キリスト自身の霊的現臨またはその力」として首肯することはできない、と。バルトにとって「聖霊は、人間精神と同一ではない」し、「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」し、聖霊によって更新された理性も聖霊と同一ではないのである。そのバルトにとって「聖霊の働きの本質的なもの」・「直接性」は、『教会教義学 神の言葉』に即して言えば、すなわち全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」における聖霊は、(1)「われわれが、一人の主なる神をのみ、主として持つ自由をわれわれに与えるがゆえにそのように告白することを要求する」、(2)「われわれ人間の中にも・中からも、純粋なもの、聖いものは何も出て来ないと告白することを要求する」、(3)われわれ人間の生来的な自然的な「理性や力ではイエス・キリストを主と信じることもできず、知ることもできないと告白することを要求する」、(4)われわれ人間の究極的限界性・終末論的限界を告白することを要求する【キリストにあっての神は、聖性・秘義性・隠蔽性において存在しているから、われわれ人間は「神の不把握性」の下にあるのである、それ故にあくまでも全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で信仰の認識としての神認識(換言すれば、啓示認識・啓示信仰)が与えられるのである――Tコリント13・8以下。また、新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」・「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」のである。ここで「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」にとっての、換言すればわれわれ人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍にとっては<いまだ>であり、神の側の真実としてある「成就と執行」・「永遠的実在」・客観的現実性として<すでに>ということである――『教会教義学 神の言葉』。また、われわれは「平和は戦争より善いものであるということを繰り返し断言せねばならない」が、「それらのことは究極的に何の助けをももたらさないことは明白である」。何故ならば、神の側の真実としてあるイエス・キリストにおいて成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済こそが、神の側の真実としてあるわれわれ人間によって「初めて完成されねばならないような和解ではない」ところの「神ご自身によって確立された和解」こそが、神の側の真実としてあるイエス・キリストにおいて「神ご自身が世界史のまっただ中に創造し見えるものとして下さった現実性」としての平和(平和の概念は、救済概念に包括されたそれである)こそが、究極的な助けをもたらすのである。したがって、われわれ人間が、「この事実に向かって、眼と耳を閉ざして生きているということが、悲惨なのである」――「平和に関するバルトの書簡」】。このような訳で、バルトは、シュライエルマッハーに対して、「最終的」に、「わたしは、事柄そのものにおいて、シュライエルマッハーと一致できないのだということを明言した(中略)わたしがシュライエルマッハーを今までに理解した限り、自分は、彼のそれとは全く違った道(≪シュライエルマッハーやブルトマン等々自然神学の段階あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階の系譜に属する近代主義的神学の道ではないところの、その近代主義神学の段階を・その自然神学の段階あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階を根本的包括的に原理的に止揚し克服した<非>近代主義的神学の段階・<非>自然神学の段階あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階の道≫)に踏みこみ、それをあゆんでいかなければならないと思ったし、今もそう思っているのである」、と述べたのである。このような訳で、ファングマイヤー『神学者カール・バルト 「シュライエルマッハーとわたし」』加藤常昭・蘇光正訳、日本基督教団出版局の翻訳者の蘇が、「訳者あとがき」で、バルトの「第三項の神学(≪聖霊の神学≫)という発言について」、「これをバルトの『転向』と誤解する者」は、換言すれば「近代神学」への「回帰」・復古と「誤解」し曲解する者(この執筆者だけではないが、ウィキペディアの執筆者)は、「明らかにその前後数頁だけしか読んでいないのである」(おそらくはウィキペディアの執筆者もそうであると思われる、あるいは彼が誰かの意見をそのまま鵜呑みにしたかである)という指摘は、客観的に言って全く<正しい指摘>なのである。