カール・バルト(その生涯と神学の総体像)

「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)について

カール・バルトの著作に即した、その総体像を理解するためのキーワード――「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)について(論述3)
再推敲・再整理版です。

 

 三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的・可視的に存在している「啓示されてあること」――すなわち「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性(下記の【注】を参照)について、バルトは、次のように述べている。

 

【注】
 このことは、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示の実在」そのもの、和解そのもの)を<起源>とするキリスト教に固有な類と歴史性の関係と構造(秩序性)についてということ、すなわち<客観的>な啓示自身(イエス・キリスト自身である起源的な第一の形態の神の言葉)が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、<起源的>な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」――この先行する神の側からする<客観的>な啓示の出来事とその<客観的>な「啓示の出来事の主観的側面」である「聖霊の注ぎ」による<人間的主観>に実現された神の恵みの出来事を<起源>としたところの、キリスト教に固有な類――すなわち預言者および使徒たちの最初の「直接的な」第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」(第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言、最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」)、それからまたその聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯した教会の<客観的>な信仰告白および教義(第三の形態の神の言葉)と、その時間性であるキリスト教に固有な歴史性についてということを意味している。したがって、この出来事が惹き起こされた場合、われわれ人間の側においては、その<客観的>な「啓示は、(≪人間的理性や人間的欲求やによって恣意的独断的に「わがまま勝手に」≫)例証されようとせず、(≪「神の言葉の三形態」の秩序性に基づいて≫)解釈されることを欲する」のであるから、 「別の言葉で同一のことを言うことである」ということになるのである。すなわち、ここで、「解釈する」とは、「別の言葉で同一のことを言うことである」のである。したがってまた、バルトは、『ローマ書』「第1版序言」では、次のように述べたのである――「パウロはその時代の子としてその時代の人々に語った。けれどもこの事実よりはるかに重要な事柄は、いま一つの事実、すなわち彼は神の国の預言者ならびに使徒としてあらゆる時代のあらゆる人々に語っている、ということである。 (中略)聖書の精神は永遠の精神なのである。かつての重大問題(例えば、人間の側からする、神と人間との無限の質的差異の止揚、廃棄、捨象という問題。キリストにあっての神を、その神の啓示を、人間の自己意識・理性・思惟が対象化し客体化した対象物と同一化してしまうという問題、それ故に「存在者レベルでの神への信仰」・偶像神信仰へと転落・退廃させてしまうという問題、神の側の真実としてある神の「救いの計画」・「救いの方法」を人間的理性や人間的欲求やにより「神と人間についての独断的な観念に基づく独断的に考え出された救いの計画と救いの方法」と同一化してしまうという問題等々)は今日もなお重大問題であり、今日の重大問題で単なる偶然や気まぐれでない事柄は、またかつての重大問題と直結している」。したがってまた、バルトは、『教会教義学 神の言葉』では、次のように述べている――終末論的限界の下でわれわれ人間に信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)を授与することができる出来事の自己運動を持つ起源的な第一の形態の神の言葉は、全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて、「偶発的な同時性」、すなわち「特定のアノトコロデアノ時ニが、特定のココデイマ」となる出来事を生じさせる。この神の言葉は、「その都度、全く特定の一回的な、独一無比な」言葉である。しかしまた、この神の言葉は、「神の口を通して語られて、同時的」である。このことは、神の言葉は一つであること、すなわち「きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」イエス・キリストにおける連続性を意味している。この「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるイエス・キリスト(起源的な第一の形態の神の言葉、「啓示の実在」・和解そのもの)の連続性における「同時性」が、「特定のアノトコロデアノ時ニが、特定のココデイマ」となる出来事の時間・ 空間のベクトル変容を可能とするのである。すなわち、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて、換言すれば聖書的啓示証言の中における<客観的>な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて、終末論的限界の下でわれわれ人間に信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)を授与することができる出来事の自己運動を持つ起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリストの連続性の中において、「特定のアノトコロデアノ時ニが、特定のココデイマ」となるのである。すなわち、「特定のアノトコロデアノ時ニ」のその連続性において、バルトの「特定のココデイマ」は、預言者や使徒たちの特定の時空と交点を結び得るのである。 「時の全くの厳格な相違性の中で、神の言葉は一つであり、同時的である(イエス・キリストは、きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない)」 。

 

(1)「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における<起源的>な第一の形態の神の言葉について
 この<起源的>な第一の形態の神の言葉は、「直接的な、絶対的な、内容的な」「権威」と共に「直接的な、絶対的な、内容的な」「自由」を持つところの、教会の宣教における「先ず第一義的に優位に立つ原理」・「規準」・「法廷」・「審判者」・「支配者」である。また、それは、内的・内在的な「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の、その「神性」が肉となったというのではなくて、その神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方である神の「言葉」(起源的な第一の形態の神の言葉)が肉となったところの「具体的に肉となった神の言葉」、啓示者である神の子としての啓示(和解)、<客観的>な「啓示の実在」そのものである。したがって、ここで受肉は、神性(存在の本質)の受肉ではなくて、言葉(われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方)の受肉である。また、それは、「主辞」・主体としての「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内的な・内在的な「ご自身の中での神」(「自己自身である神」)、すなわち聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「失われない差異性」における「三つの存在の仕方」における<まことの神>であり、「賓辞」・客体としてのナザレのイエスという人間の歴史的形態・人間的性質を持った<まことの人間>である、すなわち「イエス・キリストの名」である――「(中略)確かに受肉は中心的にして重要なものではあるが……新約聖書の本来的内容であるというふうには言ってはならないのである。(中略)それはおよそすべての他の宗教世界の神話や思弁の中にも見出されるものである。(中略)人は、聖書が語っている受肉を、ただ聖書(≪第二の形態の神の言葉、その最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」≫)からのみ、換言すればイエス・キリストの名(≪起源的な第一の形態の神の言葉、「啓示の実在」そのもの、換言すれば和解そのもの≫)からのみ……理解することができる。……(≪経済的基盤を農耕に置いた人類史のアジア的段階において、非農耕民や天皇は神人と呼ばれたように≫)神人性それ自体もまた新約聖書の内容ではない。新約聖書の内容とは、ただイエス・キリストの名(≪起源的な第一の形態の神の言葉、「啓示の実在」そのもの、換言すれば和解そのもの≫)だけであり、そのイエス・キリストの名がたしかにまた、そしてとりわけ、彼の神人性の真理をその名に含んでいるのである。ただまったくこの名だけが、(≪徹頭徹尾、神の側の真実としてある≫)啓示の客観的現実を言いあらわしている」(『教会教義学 神の言葉』)、(逝去した年に、スイス放送で流されたバルトの最後の言葉)「私が……語るべき最後の言葉は、恩寵といった概念ではなく、一つの名前、イエス・キリストなのです。この方こそ恩寵であり、この方こそ、この世と教会のそしてまた神学の彼岸にある、究極のものなのです(≪神の側の真実としてある、主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」――イエス・キリストが信ずる信仰であり、それ故に「神の義、神の子の義、神自身の義」であり、それ故に「律法の成就」・完了そのものであり、それ故に成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済そのものであり、それ故にその救済に包括された平和そのものである≫)。(中略)この名以外のいかなる名前にも、救いはありません。(中略)そこには仕事と闘いへと向かうはげましがあり、共同体と仲間と人たちとの交わりへと向かうはげましがあります。そこには、弱く愚かであった私が生涯において試みたすべてのことがあります。しかしそれらすべても、この名においてなのです」(『カール・バルトの生涯』)。

 

(2)「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉について
 この第二の形態の神の言葉は、内的・内在的な「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるイエス・キリスト自身によって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」(最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」、聖書的啓示証言、聖書)である(下記の【注】を参照)。また、「先ず第一義的に優位に立つ原理」・「規準」・「法廷」・「審判者」・「支配者」であるイエス・キリスト自身(起源的な第一の形態の神の言葉、「啓示の実在」そのもの)と共に、「直接的な、絶対的な、内容的な」イエス・キリストのまことの<神性>――「権威」性と「直接的な、絶対的な、内容的な」イエス・キリストのまことの<人間性>――「自由」性によって賦与され装備された「権威」と「自由」を持つところの第二の形態の神の言葉である聖書は、イエス・キリスト(起源的な第一の形態の神の言葉)をのみ主・頭とする第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の宣教における「原理」・「規準」・「法廷」・「審判者」・「支配者」である。したがって、教会に宣教を義務づけているこの第二の形態の神の言葉である「聖書こそ」が、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な「教会を支配するのであって、教会が聖書を支配してはならないのである」。また、第二の形態の神の言葉である「聖書こそ」が、その聖書を「原理」・「規準」・「法廷」・「審判者」・「支配者」とする第三の形態の神の言葉に属する<まことの教会>の宣教を通して、この世の「原理」・「規準」・「法廷」・「審判者」・「支配者」なのである。したがって、第三の形態の神の言葉に属する教会(その成員)は、具体的には第二の形態の神の言葉である聖書を「原理」・「規準」・「法廷」・「審判者」・「支配者」として、絶えず繰り返しその宣教を自己吟味し、的確に「批判し、訂正」していかなければならないのである。また、その教会における「権威」・「自由」は、あくまでも「直接的な、絶対的な、内容的な」イエス・キリストのまことの<神性>――「権威」性と「直接的な、絶対的な、内容的な」イエス・キリストのまことの<人間性>――「自由」性によって賦与され装備された「権威」と「自由」を持つところの第二の形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」)の「権威」・「自由」に基礎づけられている「間接的・相対的・形式的な」「権威」・「自由」として、徹頭徹尾、「限界づけ」られているのである(この認識と自覚が大切で必要なのである)。何故ならば、第二の形態の神の言葉に属する預言者および使徒たちと「イエス・キリストとの出会いの直接性」における「直接的、絶対的、内容的な」「権威」と、「自由」――すなわち「イエスの弟子たちがキリストの後に従う随従」は、直接的な唯一回的特別なそれであるから、「繰り返され得ないもの」だからである。言い換えれば、第二の形態の神の言葉に属する預言者および使徒たちと起源的な第一の形態の神の言葉である主なるイエス・キリストとの関係は、「啓示そのものが一回的であるのと同じように、一回的な関係」なのである。したがって、この「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第三の形態の神の言葉である「教会・その成員の現実存在」と、そうした第二の形態の神の言葉である「預言者および使徒たちの現実存在」とは、本質的に同一ではないのである、本質的に等価ではないのである、本質的に同一化することはできないのである、第三の形態の神の言葉である「教会・その成員の現実存在」を、起源的な第一の形態の神の言葉および第二の形態の神の言葉に「先行」させることはできないのである。したがって、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な「教会・その成員の現実存在」であった全く人間的なバルトの現実存在に対して、使徒概念あるいは使徒的概念を適用することは本質的にできないことなのである。したがってまた、この聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯したバルトの概念構成や概念規定からして、マス・メディア界のキリスト教的著述家の富岡幸一郎の『使徒的人間 カール・バルト』という本のタイトル自体が、概念的矛盾に陥った本ということになるのである。この富岡の場合、タイトルだけが概念的矛盾に陥っているというだけではなく、こういう概念的矛盾に対して平然としていることができる資質を持った富岡は、『カント』や『教会教義学 神の言葉』等も読み理解しようともしないで、バルトの自然神学論を高校の「倫理」資料集レベルで平然と述べていて、それ故にバルトの概念構成や概念規定の内容から大きく逸脱している自然神学論を平然と述べているのである――富岡は、その本において、高校の「倫理」資料集レベルで、自然神学とは「人間が生まれながらにもつ理性によって神の存在を捕えることができるという考え方」であると説明し、具体的にはトマス・アクィナスの神学がその典型であって、トマスは「アリストテレスの哲学を神学にもちこむことで、人間の理性では自然的に神を認識することはできず、神の啓示と恩寵によらなければ、神を知ることはできないというアウグスティヌス的な信仰理解をこえようとした」と述べている。これに対して、バルトは、例えば『カント』で、「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰である」とした「カントは、本源的であるゆえに、すでに前もって(≪生来的、自然的な≫)われわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で、(≪自然神学的な≫)アウグスティヌスの教説と一致する」と述べているのである。この『カント』における言葉は、バルトのアウグスティヌスにもある自然神学的な側面に対する根本的包括的な原理的な批判なのである。このようなアウグスティムスを、バルトは、『教会教義学 神の言葉』でも、根本的包括的に原理的に批判している――「存在するものそのもの」・「その純然たる造られた存在」に依拠したアウグスティヌスの「造ラレタモノヲトオシテ、知解サレタ創造主ヲ認識シテ、私タチハ三位一体ナル神ヲ知解スルヨウニシナケレバナラナイ、ソノ跡ハフサワシイカタチデ被造物ノウチニ顕レテイルノデアル」というアウグスティヌスの思惟と語りに対して、バルトは、そのような三位一体の跡は、「世界に対して超越する創造神の跡として理解することはできない」。何故ならば、それは、ただ単なる人間の自己意識・理性・思惟によって対象化され客体化された、人間自身の「内在的に理解」された「宇宙の諸規定・人間的な現実存在の諸規定」・「単なる宇宙論や人間論」でしかないからである。また、そのような三位一体論は、人間自身に基づく「人間の世界理解の、最後的には人間の自己理解」・「神話」に過ぎない位相にあるものだからである。

 

【注】
 したがって、バルトは、次のように述べたのである――「私は……『今日の神学的実存』誌の第一号において……何も新しいことを語ろうとしたのでは ……ない。すなわち、われわれは神と並んで、いかなる神々をも持つことはできないということ、(≪その人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」としての≫)聖書の聖霊は、教会をあらゆる真理へと導くのに十分であること、イエス・キリストの恵みは、われわれの罪の赦しとわれわれの生活の秩序にとって十分であることを語った。但し、私がまさにこのことを語ったのは、それがもはやアカデミックな理論などといった性格にはとどまりえず、むしろ、私がそういうものにしようともせず、また実際にそうしなかったのに、それが呼びかけ、要求、戦いの標語、信仰告白にならざるをえなかったという状況においてであった」、と(『カール・バルトの生涯』)。したがって、バルトは、教会の宣教(説教と聖礼典)は「自己表現としての宣教」であってはならず、それ故にその説教も、説教者の自由事項や決定事項ではないのであるから、すなわち自己主張という「自分自身の言葉から由来すべきではない」のであるから、「どのような場合であれ、その形式と内容において、聖書への絶対的信頼に基づく聖書講解であることの義務を負っている」と述べたのである(『説教の本質と実際』)。

 

 前述したような訳で、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会(その成員)と起源的な第一の形態の神の言葉である主なるイエス・キリスト(「啓示の実在」そのもの)との関係は、第二の形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言、啓示の「概念の実在」、)に信頼し固執し固着し連帯し、それを媒介・反復することを通して関係することができる「間接的」な関係なのである。したがって、第三の形態の神の言葉に属する教会(その成員)は、アウグスティヌスであれ、ルターであれ、カルヴァンであれ、バルトであれ、誰であれ、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリストによって直接的に唯一回的特別に召され任命された第二の形態の神の言葉に属する預言者および使徒たちと本質的に同一ではないのである、本質的に等価ではないのである、本質的に同一化させることはできないのである。このように、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会(その成員)に現存していることを認識し自覚していたバルト自身は、「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書に信頼し固執し固着し連帯してそれを媒介・反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指したのである、すなわちキリスト教に固有な類の時間累積(歴史性)を目指したのである、そうした仕方において初めて授与される「間接的・相対的・形式的な」教会の「権威」と「自由」に依拠しようとしたのである。言い換えれば、バルト自身は、第二の形態の神の言葉である「聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また(≪神の言葉の第二の形態の神の言葉である聖書に信頼し固執し固着し連帯したその時間性における<客観的>な信仰告白および教義を持つ第三の形態の神の言葉に属する≫)教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程の包括的研究において『教義そのもの』を尋ね求め」たのである(『啓示・教会・神学』)。

 

(3)「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第三の形態の神の言葉について
 この第三の形態の神の言葉は、具体的には、最初の「直接的な」第一の啓示の「概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言)に信頼し固執し固着し連帯してそれを媒介・反復することを通して初めて得られるところの、第三の形態の神の言葉に属する教会の宣教(説教と聖礼典)における最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」(聖書的啓示証言)の「模写」、換言すれば「間接的な」教会の<客観的>な信仰告白および教義のことである。したがって、最初の「直接的な」第一の啓示の「概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書と、その聖書的啓示証言を媒介・反復することを通して初めて得られる第三の形態の神の言葉に属する教会の「間接的な」啓示の「概念の実在」(聖書的啓示証言)の「模写」、「間接的な」教会の<客観的>な信仰告白および教義とは、本質的に同一ではないのである、本質的に等価ではないのである、本質的に同一化させることはできないのである。言い換えれば、具体的には第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言によって限界づけられた第三の形態の神の言葉に属する教会における「間接的・相対的・形式的な」「権威」・「自由」は、あくまでも「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯してそれを媒介・反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指すところにおいてのみ成立するものなのである、そういう仕方においてキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(<純粋>なキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請――<純粋>なキリストの福音をすべての人々が現実的に所有することができるために為す<純粋>なキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)を目指すところにおいてのみ成立するものなのである。また、その第三の形態の神の言葉に属する教会における「権威」・「自由」は、あくまでも「直接的な、絶対的な、内容的な」イエス・キリストのまことの<神性>――「権威」性と「直接的な、絶対的な、内容的な」イエス・キリストのまことの<人間性>――「自由」性によって賦与され装備された「権威」と「自由」を持っているところの第二の形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒たちの最初の「直接的な」第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言、啓示の「概念の実在」)の「権威」・「自由」に基礎づけられているところの、徹頭徹尾、「間接的・相対的・形式的な」「権威」・「自由」として、「限界づけ」られているのである。したがって、「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)からして、本質的に、第三の形態の神の言葉に属する教会は、決して、起源的な第一の形態の神の言葉になることはできないし、決して、起源的な第一の形態の神の言葉との無媒介的な「直接的な」関係を築くことはできないし、それ故に決して、第二の形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言、啓示の「概念の実在」)にもなることはできないし、それ故にまたそれを「除外」することはできないのである、それ故にまた、それを媒介・反復することを通してのみ、全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリストと関係を築くことができるのである。したがって、第三の形態の神の言葉に属する教会のわれわれにとっては、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身の「支配に対する感謝と、この支配が現実につづいておこなわれるようにと願う祈」りが、また「われわれの……主であり、……避け所であり……城であり、……神である」「われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主」「イエス・キリストの名」を通したこの祈りが、聖書の「注釈に先行しつつ」永続的に行われるべき「決定的な行為である……」。このような訳で、内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方(啓示者である父なる神の子としての啓示・和解、「啓示の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉)であるイエス・キリストの復活・「昇天と再臨の間の時間」(「聖霊の時代」)に現存するところの神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて「信じる人間」は、すなわち第三の形態の神の言葉に属する「教会・その成員の現実存在」は、その「間接的・相対的・形式的な」「権威」と「自由」(「服従の自由」)において、「啓示の実在」そのものであり起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身、それ故に具体的には第二の形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言、啓示の「概念の実在」)を教会の宣教における「原理」・「規準」・「法廷」・「審判者」・「支配者」として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指さなければならないのである、またそうした仕方で<純粋>なキリストにあって神・<純粋>なキリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(<純粋>なキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、すなわちすべての人々が<純粋>なキリストの福音を現実的に所有することができるために為す<純粋>なキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)を目指すべき「責任を持っている」・責任を課せられているのである。したがって、第三の形態の神の言葉に属する「教会・その成員の現実存在」は、「自律的ではない」ところの、それ故に恣意的独断的ではないところの、「自由」な人間である、すなわち三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)に強いられたところの「自由」(服従の自由)な人間である。「彼は(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて≫)信じる人間としてキリストのからだ(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉に信頼し固執し固着し連帯する第三の形態の神の言葉である教会≫)に属する肢体である」、すなわち信じる人間として「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその時間性を持ったキリスト教に固有な類としての第二の形態の神の言葉に信頼し固執し固着し連帯する第三の形態の神の言葉である教会に属する肢体である。その教会(その成員)は、あくまでも神と人間との無限の質的差異の下で、「自分のかしらを天上に持っている」、その教会(その成員)の宣教は、「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示の実在」そのもの)、それ故に具体的にはイエス・キリストにその人間性と共に神性を賦与され装備されたその第二の形態の神の言葉であるである聖書(預言者および使徒たちの最初の「直接的な」第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言、啓示の「概念の実在」)の「自由」と「支配」の下にあるから、「教会の中に集められた人間の洞察と恣意にまかせられて」はいないのである。言い換えれば、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の宣教に対して、その思惟と語りと行動に対して、向こう側から強いてくる「原理」・「規準」・「法廷」・「審判者」・「支配者」は、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての客観的に可視的に「啓示されてあること」――すなわち「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における「啓示の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身、それ故に具体的にはその最初の「直接的な」第一の啓示の「概念の実在」としての預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」(聖書、聖書的啓示証言)である。したがって、教会の宣教における思惟と語りと行動――それが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」のである。したがって、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会は、「徹頭徹尾人間から成り立っているものであるが、決して人間の王国ではない」のである。したがってまた、「律法の成就」・完了そのものであるイエス・キリストが命じたキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法であるすべての人々が<純粋>なキリストの福音を現実的に所有することができるために為すという「教会に委託されたイエス・キリストを証しする(≪キリストの福音の告白・証し・宣べ伝え≫)という課題」が、それら「人間たちの自由裁量にまかせられているところの君主政治的な王国でないし、貴族政治的な王国でもないし、民主政治的な王国でもない」のである。「そうではなくて、……(≪第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な≫)教会」は、「神の言葉を通して」、すなわち起源的な第一の形態の神の言葉である啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力を通して、換言すればそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動に基づいて、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて「創造され、維持されているように、また(≪そのように自己運動する起源的な第一の形態の≫)神の言葉を通して支配される」のである。このような訳で、具体的には、第三の形態の神の言葉である教会(その成員)は、その人間性と共に神性を賦与され装備された第二の形態の神の言葉である聖書――すなわち「イエス・キリストにあっての神の言葉の証しという形態での神の言葉(≪預言者および使徒たちの最初の「直接的な」第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言、啓示の「概念の実在」≫)を通して支配される」のである。このような訳で、「われわれが、イエス・キリスト(≪起源的な第一の形態の神の言葉、「啓示の実在」そのもの≫)は教会(≪第三の形態の神の言葉≫)を支配するという時、聖書(≪その最初の「直接的な」第一の預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」としての第二の形態の神の言葉、啓示の「概念の実在」、聖書的啓示証言≫)が教会を支配すると言うのと同じことを言っているのである」。このことは、「その人間性の中で神の子」が、それ故に「われわれに啓示された神としてのこの神の子が、啓示し給う働き」――すなわち「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)におけるその啓示に固有な証明能力を持つ「啓示の実在」そのものである起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動が、「その支配についての預言者的――使徒的証言(≪第二の形態の神の言葉としての聖書的啓示証言≫)の中で、自分の預言的な務めを続けるように、み子の支配」は、それ故に起源的な第一の形態の神の言葉である「神ご自身の支配」は、この第二の形態の神の言葉である「証言の中で、この証言を通して、(≪第三の形態の神の言葉に属する≫)教会の身に及ぶ」ということなのである。このような訳で、内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第三の存在の仕方である「証の力」を持つ「聖霊も、また、……まさにこの証言の霊である」・「この証言をまこととして証しする霊、この証言が心をかちとる霊である」。キリストの復活・「昇天と再臨の間の時間」、「中間時」、「聖霊の時代」は、第二の形態の神の言葉である「預言者的――使徒的証言の中での(≪起源的な第一の形態の≫)神の言葉を通して規定された時間」であるし、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会を支配する仕方は、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」基づく信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)の授与の出来事――この起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動に基づく「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)にあるから、啓示の客観的側面であるイエス・キリストの支配を「形式的に……承認」しつつも、実際的には啓示の主観的側面である「直接的な霊の導きの支配を強調し承認すること」は、その「直接的な霊の導きの支配」という一面だけを抽象し固定化することは、その一面だけを拡大鏡にかけて全体化することは、「すべて偽り」となるのである、人間の自己意識・理性・思惟があるいは人間的欲求が対象化し客体化した対象物、「存在者レベルでの神への信仰」の陥穽に陥ることになるのである。何故ならば、その場合は、「教会を掌握する場所として、誤ることのない教皇が指し示される……あるいは誤ることのない会議が、あるいは権威的な司教の役職が、あるいは実体化された牧師の務めが、あるいは何らかの自由な指導原理が、あるいは教会の中での霊感を受けた個人が、あるいは最後にそれとしての教会全体が指し示される……」こととなるからである。それに対して、第二の形態の神の言葉である「聖書(≪預言者および使徒たちの最初の「直接的な」第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言、啓示の「概念の実在」≫)を無視し通り過ぎ」て、すなわち聖書を「除外」して、「啓示の実在」そのものであり起源的な第一の形態の神の言葉である「イエス・キリストの支配」を、教会自身(人間自身)が支配し管理することができるように曲解し「曖昧」化した「欺瞞的なもの」は、「天国におけるイエス・キリストの支配について、それからあのイエス・キリストの支配が突然地上に侵入してくる出来事について語る……熱狂主義……であり、最後的には結局人間的な信仰」(人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された対象物、「存在者レベルでの神への信仰」、偶像信仰)における「自律」主義であるのだが、「それ故にそのものはイエス・キリストの教会について語っていないのである」。総括的に言えば、それらすべては、<自然神学>の<段階>あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の<段階>で停滞と循環を繰り返すそれに過ぎないものなのである。

 

 このような訳で、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会(その成員)が、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、第二の形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒たちの最初の「直接的な」第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言、啓示の「概念の実在」)を教会の宣教における「原理」・「規準」・「法廷」・「審判者」・「支配者」として認識し自覚しそれに「服従」し「考察の対象」とする時、「はじめて」、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会(その成員)は、「啓示の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリストを主・頭とする「イエス・キリストの教会について語」ることができるのである、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリストを主・頭とする教会となることができるのである。このように、実体的なその建物性やその組織性等が、教会を教会たらしめているのではないのである。すなわち、第二の形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒たちの最初の「直接的な」第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言、啓示の「概念の実在」)を媒介・反復する「間接性こそが、それは主ご自身を通して設けられ、主の甦えりを通して力を奮うのである」。言い換えれば、「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における「啓示の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリストと第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会(その成員)の「まこと」の関係性は、無媒介的な関係性としての「直接性」にあるのではなくて、第二の形態の神の言葉である聖書に信頼し固執し固着し連帯してそれを媒介・反復することを通した媒介的・反復的な関係性としての「間接性」にあるのである。このような、第二の形態の神の言葉である聖書を媒介・反復した、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリストと第三の形態の神の言葉である教会(その成員)との媒介的・反復的な関係性のことを、バルトは、「<まこと>の直接性」、「まこと」の関係性、と述べたのである。したがって、バルトの言うこの「<まこと>の直接性」は、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリストと第三の形態の神の言葉である教会(その成員)との無媒介的な関係性としての「直接性」のことでは決してないのである。したがって、「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である「聖書が(≪第三の形態の神の言葉に属する≫)教会の支配を実行に移すところ」、「そこでは」、「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)に関わる起源的な第一の形態の「神の言葉の自由を抑圧」するところの「自律主義」、第二の形態の神の言葉である「聖書を……除去する」ところの「熱狂主義」に対しては「律法的に、禁止しようと欲することができる」のであり、「禁止」することを「実行」しなければならないのである。「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である「聖書が(≪第三の形態の神の言葉に属する≫)教会の支配を実行に移すところ」、「そこでは」、「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)には属さないところの、人間的な教会的、組織的、制度的、社会的政治的な事柄については、具体的には「教皇と会議、司教と牧師、会議の主権と教会の主権、指導者と霊を受けた者たち、神学者の奉仕と教会の中にいるそのほかの者たちの奉仕、男たちの奉仕と女たちの奉仕」、社会的政治的奉仕等の事柄については、その事柄を第一義的に価値化したり・固定的に前提化したり・全体化したり・主義化したり・絶対化したりしない限りは、「その都度存在すること」、「あるいは存在しないでいることが、できる……」のである。言い換えれば、第二の形態の神の言葉である「聖書が(≪第三の形態の神の言葉に属する教会を≫)支配し、聖書によって(≪教会が≫)支配されること」を、教会自身がその服従の決断と態度において「実際に真剣に受けとる時」(実際に真剣にそのことを認識し自覚する時)には、第二の形態の神の言葉である「聖書」は、(1)第三の形態の神の言葉に属する「教会と(≪起源的な第一の形態の神の言葉である≫)その主の間の関係の直接性を破壊することはないし(≪何故ならば、その場合、その関係性は、第二の形態の神の言葉である聖書を媒介・反復した媒介的な関係性としての「間接性」、すなわち「まことの直接性」であるから≫)、(2)また(≪第三の形態の神の言葉に属する≫)教会に対して」、第二の形態の神の言葉である聖書に信頼し固執し固着し連帯してそれを媒介・反復することを通して「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指すことで<純粋>なキリストにあっての神・<純粋>なキリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(この律法、神の命令・要求・要請は、二元論的な「福音と律法」における律法ではなくて、「律法の成就」・完了そのものであるキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法である)――すなわち「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、<教会>が<教会自身>と<世>に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」、すなわちすべての人々が<純粋>なキリストの福音を現実的に所有できるために為す<純粋>なキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えという「律法」以外の「律法を押しつけることもしない……」のである。