カール・バルト(その生涯と神学の総体像)

キリスト教に固有な<三位一体の神>について(その2−2)

カール・バルトの著作に即した、その総体像を理解するためのキーワード――キリスト教に固有な<三位一体の神>について(論述2−2)
再推敲・再整理版です。

 

『教会教義学 神の言葉』、『教会教義学 神論』等に基づく

 

 その2の1で述べてきたように、イエス・キリストにおいて自己啓示・自己顕現された神は、先ず以て、ご自身の中での神(「自己自身である神」)として、「失われない差異性」の中で三つの存在の仕方において「三度別様」に父、子、聖霊なる神であって、その存在は「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位一体の神」、すなわち「一神」・「一人の同一なる神」である。したがって、このキリストにあっての神は、「三神」・「三の対象」・「三つの神的我」ではなく、「失われない差異性」における父、子、聖霊の三つの存在の仕方の、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「一神」・「一人の同一なる神」、すなわち「三位一体の神」である。このような訳で、内的・内在的な「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」におけるご自身の中での神、すなわち聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位一体の神」(「一神」・「一人の同一なる神」)の完全さ・自由さは、この神の、われわれのための神としてのその「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における父――言葉の語り手・啓示者・創造主なる神の存在、子――語り手の言葉・啓示・和解主なる神の存在、聖霊――啓示されてあること・「神の言葉の三形態」の関係と構造・救済主なる神の存在という三つの存在の仕方の完全さ・自由さなのである。このわれわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における三つの存在の仕方は、すなわち「われわれに出会い給う神」である父、子、聖霊の三つの存在の仕方は、「啓示者、啓示、啓示されてあること」、「神の聖(≪隠蔽性・秘義性≫)、あわれみ(≪顕現性≫)、愛(≪愛に基づく父――隠蔽性・秘義性と子――顕現性の交わり≫)」、「聖金曜日、復活日、聖霊降誕日」、「創造主なる神、和解主なる神、救済者なる神」という三つの存在の仕方に対応している。このようにして自己啓示・自己顕現された全き自由の神は、隠蔽性・秘義性と顕現性において、また神のその都度の自由な恵みの決断において、すなわち「啓示と信仰の出来事」(イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事)に基づいて終末論的限界の下で「人間に対して自己を伝達」・啓示する。バルトは、この「三度別様」の「三つ」を、「他との関係なしにそれ自身で存在している」近代的な「個体」と区別させるために、「人格の名で呼ぶことを避け」て、「存在の仕方」あるいは「存在の様態」(ブッシュ『バルト神学入門』)と呼んだのである。バルトは、次のように述べている――われわれは、「神の人格(Personen)」という概念(複数形)から生じる「三つの神的我」、「三つの対象」、「三神」という概念像を喚起させる「不明瞭さを意識しなければならない」、それ故に「われわれは、三位一体論と取り組んだ際」、「三位一体の事柄を言い表す」時、この「『人格(Personen)』という概念」――すなわち「三つの神的我」という概念を「用いることをやめる……立場をとった」のである。何故ならば、この「『人格(Personen)』という概念」は、「古典的な神学全体」においては、「人が今日『人格(Person)』という概念(≪「他との関係なしにそれ自身で存在している」近代的な「個体」概念≫)によって理解するのを常としているような方向では決して理解されたり解釈されたりすることはなかったからである」、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における起源的な第一の形態の神の言葉(それ故に、具体的には第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言)に信頼し固執し固着し連帯したイエス・キリストをのみ主・頭とする第三の形態の神の言葉である「キリスト教会は、神の中に三つの人格」、「三つの神的我」が、それ故に「三重のわれ、三重の主体」、「三神論」、「三重の対象」の「意味で三つの人格性が存在しているということを決して教えたことはなかった」からである。キリストにあっての神は、「父なる名の内三位一体的特殊性」において、「ご自身の中で父、子、聖霊であることによって、ご自身の中で生き給う方、愛し給う方」、それ故に「ただ一人の方であり」、「また常に、われわれは、(≪神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて≫)神を父、子、聖霊として認識することによって、神をわれわれを愛する方として」、換言すれば神の愛の行為の出来事としての神の存在として、それ故にわれわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における三つの存在の仕方において「われわれに出会い、われわれに対して、汝と呼びかけ、働きかけ給う一人の方(≪完全性、自存性・独立性におけるご自身の中での神の中で、すなわち内的・内在的な「三位相互内在性の中で、一人の三位一体の神」≫)として、認識するのである」。先行する神が、それに後続するわれわれが、「人格性として言い表すことのできるもの」とすれば、それは、「神ご自身(≪完全性、自存性・独立性におけるご自身の中での神の中で、すなわち内的・内在的な「三位相互内在性の中で、一人の三位一体の神」≫)の中およびその業(≪その内的・内在的な一人の三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における三つの存在の仕方≫)の中での父、子、聖霊の共存の中での三位一体性全体の中において」であって、「決して個々の存在様式それ自体の中」においてではないのである。「三重ではなく、三度」、内的な・内在的な「三位相互内在性の中で、一人の三位一体の神が、人格性であり給う」。「神の三つの顔があるのではなく、一つの神の顔が、神の三つの意志ではなく、ただ一つの神の意志が、神の三つの義があるのではなく、ただ一つの神の義が、神の三つの言葉と業があるのではなく、ただ一つの神の言葉と業があるのである」。「徹頭徹尾、一人の神が、われわれに対して、イエス・キリストの中で啓示されているのであり、徹頭徹尾、同じ一人の神が、ご自身の中でも神であり給う。キリストにあっての「神は、ご自身との共同性の中に生きてい給う(下記の【注1】を参照)。そして神は人間との共同性の中に生きてい給う。そして人間は他人との共同性の中で生きている。共同性ということが、人間が神に似ていることの根拠だ。……(≪第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯した、すなわちイエス・キリストをのみ主・頭とする第三の形態の神の言葉である≫)教会なきところではイエスはキリストであり給わない。(≪そうした≫)教会は永遠よりえらばれたものだ。そして、キリストは、その頭としてありつづけ給う。……個々人と共同体の対立は近代的な対立であって、新約聖書のものではない。……新約聖書の『体』の概念はこの対立を超えたものだ」(『バルトとの対話』)。イエス・キリストにおいては、個と共同性は逆立し対立するのではなく、正立し平和なのである。この認識と自覚だけでなく、一切の近代主義的な神学、近代主義的な信仰・神学・教会の宣教、総括的に言えば一切の自然神学、自然的な信仰・神学・教会の宣教に抗するために、先ず以て「神の霊と人間の精神の全面的な区別」(下記の【注2】を参照)が強調されなければならない。そして、その「啓示の主体的現実」化(信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰の授与の出来事)を、「人間の業としてではなく、まさに(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」における≫)神の霊の行為としてとらえることによって、聖霊を、神の似姿の『唯一の現実』として、人間の『恩寵に敵対する態度』に立ち向かって戦うものとして、実存を超えたところにある神の子としての身分の創造者として理解しなければならない」。その上で、「(聖霊と密接に関連して)記されている」、第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯した第三の形態の神の言葉における「真理の柱、真理の基礎」とは、イエス・キリストをのみ主・頭とする「神の教団」・「イエス・キリストの教団」・第二の形態の神の言葉である「使徒ヨリノ唯一ノ聖ナル公同教会」のことであって、「イエス・キリストと個人的関係を持つ」その「肢々」としての「一人一人のキリスト者」・「キリスト者個人」のことではない(下記の【注3】を参照)。内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける「『神われらと共に』という言葉」・「キリスト教使信の中心」(イエス・キリストにおいて成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済、それ故に平和)は、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動において、教会共同性・教団共同性のような「狭い共同体」から「その事実をまだ知らぬ」「すべての他の人々」「広い共同体」に向かって完全に開かれているのである(『カール・バルト教会教義学 和解論T/1 「和解論の対象と問題」』)。

 

【注1】
 聖霊は、その交わりの中で、「父は子の父」・「言葉の語り手」・啓示者であり、「子は父の子」・「語り手の言葉」・啓示である――ここに、神は愛である・愛は神であることの根拠があり、愛は、自由・主権がそうであったように、「神ご自身においてのみ、実在であり真理」であり、「愛は、神にとって、最高の法則であり、(≪愛に基づく父と子の交わりである第三の存在の仕方として≫)最後的な実在」(「完全に共存的な関係」における最後的な実在)である。

 

【注2】
 「聖霊は、人間精神と同一ではない」、「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」、それ故に聖霊によって更新された人間理性も聖霊と同一ではない(『教義学要綱』)。このように、神と人間との無限の質的差異の認識と自覚が重要で大切なことである。

 

【注3】
 『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』には、次のようなことが述べられている――啓示の「真理を知るようになりつつ、さらに真理を肯定することの中で、intelligere知解スルことは、ただ単にcredere信ジルこと(≪第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯した第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義としてのCredoを信ジルこと、「Credoを信じる信仰自身」、「素朴な形でのintelligere知解スルこと」、正しい個人的な服従信仰≫)と同時に起こるというだけでなく、intelligere知解スルことは、それ自体credere信ジルことであるし、あり続ける」。「しかし、intelligere知解スルことは、あらかじめ語られたことの中で内部で読む、(≪後続して≫)後から考えること」、「あらかじめ語られたこと」を終末論的限界の下で絶えず繰り返し媒介・反復して考えること、「換言すれば(≪啓示の≫)真理を、自分のものとしながら」、「知識として受け取ることと肯定することの間にひろがっている道程を実際に通り抜け」、「今やまた……(≪啓示の≫)真理を(≪啓示の≫)真理として理解することを意味している」。「credere信ジルこととこの本来的なintelligere知解スルこと」は、「ただ単に概念的に区別されなければならないだけでなく、実践的にも一致しないものであって、信仰者は、intellectus fidei信仰ノ知解(≪「Credoの考え抜かれた理解」≫)をそのまま単純に、すなわち自動的に手に入れられるわけではないのである」。言い換えれば、信仰者は、intellectus fidei信仰ノ知解(≪「Credoの考え抜かれた理解」≫)を手に入れるためには、あのそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)、換言すればその第一の形態の神の言葉(「啓示の実在」そのものであるイエス・キリスト自身)を起源とするキリスト教に固有な類と歴史性の関係と構造(秩序性)におけるその第二の形態の神の言葉(最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」である預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、すなわち聖書的啓示証言)およびそれに信頼し固執し固着し連帯した第三の形態の神の言葉である「教会の啓示されたCredo」(教会の<客観的>な信仰告白および教義)に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、換言すればそれらを終末論的限界の下で絶えず繰り返し媒介・反復するという仕方で、「信仰ノ知解を、祈りのもとで、力を尽くして理性的能力を用いつつ探し求めなければならないのである」。この時、その「信仰ノ知解」は、「単なる知識」とは区別されたそれである。

 

 バルト主義者でも反バルト主義者でもないバルト者の私は、前述したバルトの思惟と語りを全面的に首肯する。しかし、佐藤優は、『はじめての宗教論』で、次のように述べている――その「右巻」で「究極的な救済をどう得るかという視座から宗教について考察」すると述べ、「左巻」では「神学研究の本質と教会の責務」は、「個々人の救済、具体的な人間の救済です。人類という抽象的なものの救済ではありません」、と。このことはかつてすでに述べたことであるが、『希望の資本論』で池上彰と対談した時も、マルクスの重要な立場が述べられている『資本論』「第1版の序文」を読み理解もしないまま対談していたように、そのマルクスの重要な立場における思惟と語りだけでなく、マルクス/エンゲルスの『ドイツ・イデオロギー』における「歴史とは個々の世代(≪個体的自己の成果の世代的総和≫)の継起にほかならず、これら(≪後続する≫)世代のいずれもがこれに先行するすべての世代からゆずられた材料、資本、生産力(≪あるいは言語、性・家族≫)を利用(≪媒介・反復≫)する」という思惟と語りにも無頓着なのである。佐藤の論述には、個体的自己としての<全>人間という概念が不在なのである。言い換えれば、佐藤の論述には、例えば救済の問題に関して言えば、往相的な過渡的緊急的部分的相対的な救済の問題と還相的な包括的総体的永遠的究極的な救済の問題という往還思想が不在なのである。佐藤はマルクスの『資本論』を巡って池上と対談しているにも拘らず、このように救済(人間の解放)に関しても、その一面だけを拡大鏡にかけて全体化する形而上学的一面的固定的相対的抽象的な思惟と語りをするのである。このような佐藤とは違って、マルクスは革命論を、最低綱領(過渡的部分的相対的緊急的な課題)としての観念的な法的政治的解放の部分性と最高綱領(究極的総体的包括的永続的な課題)としての観念の共同性を本質とする国家の無化を伴う現実的な社会的人間的解放(個体的自己としての全人間の解放)の全体性という往還思想において論じている。佐藤の本は公共図書館で数冊か借りて読んだことがあるが、マス・メディア界のキリスト教的著述家の佐藤の論述の仕方にいつも感じたことは、神学者なり・思想家なり・作家なりを論じ語る時、例えばバルトを論じ語る時、私ならばその人のその資質・その人間性・その思惟と語りが最高に好きで最高に信頼できるということで(そのような神学者、思想家、作家等は数人しかしない)、それ故にその人のことを出来得る限り知り理解したいと思い、それ故にまた出来得る限りその人自身の本を読み研究し、そしてたとえ拙くともその人のことを論じ語るという論述の仕方をしようと考えるのであるが、佐藤の場合はそうではなくて、何か折衷的・雑学的に論じ語るという論述の仕方をしているように感じられたということである。このような佐藤とは違って、身近な農民のために身も心も尽くした宮沢賢治は、往還思想における言葉で、次のように述べている――「世界がぜんたい(≪個体的自己としての全人間・全世界が≫)幸福にならないうちは個人の幸福(≪個体的自己の幸福≫)はあり得ない」(「農業芸術概論綱要」)、全体(≪個体的自己としての全人間・全世界≫)が幸せにならなければほんとうの幸せとはならない(『よだかの星』の課題)、と。マタイ26・6−13、マルコ14・3−9は、啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて往還思想の言葉で言えば、イエスに注いだ香油を高く売ればある一部の「貧しい人々に施すことができたのに」とベタニアの女を叱責した弟子たちの往相的な相対的・部分的・過渡的・緊急的な救済の言葉に対して、イエスは、神の側の真実としてある、還相的な究極的・包括的・総体的・永遠的な個体的自己としての全人間・全世界・全人類の救済の言葉を投げかけている。このことを前提として、バルトは確信をもって次のように語るのである――「すべての人間はキリストの実質上の兄弟である」、「キリスト者になる以前でも、彼は、キリストにおける神との連続性の中にいる。ただ、彼はそのことをまだ発見していないだけである」、すなわち教会による<純粋>なキリストの福音の宣教という現実的な契機がなくて、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいた信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)が与えられずにいて、それ故にそのことをまだ認識し承認し確認していないだけである。このような訳であるから、聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯する第三の形態の神の言葉である教会は、先ず以てあの「神への愛」と「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」、すなわち<純粋>なキリストの福音を内容とする福音の形式(神の命令・要請・要求)である律法、すなわちすべての人々が<純粋>なキリストの福音を現実的に所有することができるために為す<純粋>なキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを目指さなければならないのである。
 また、西欧近代を骨肉にまで受け入れた(しかし、アジア的な日本的特殊性を温存させて、権威としての天皇と権力としての国家という国体を主張する国家主義者でもある)佐藤は、次のようにも述べている――前期ハイデッガーの哲学原理に依拠したブルトマンの非神話化論を模して、自分自身を念頭に置いて(しかし、短絡的に一般化して)「高等教育を受け」た者は、非神話化等の「神学的操作を得ない限り……古代の世界像をもっているキリスト教を信じることはできない」、「高等教育を受け」た「われわれは『天にいる神』をほんとうに信じていませんが、ほんとに信じていないことを口にしてはいけないというのが、キリスト教信仰の第一の前提です」、だからこそ「神学が不可欠なのです」、と。佐藤の模したブルトマンは、前期ハイデッガーの哲学原理に依拠して「神話的世界像と神話的人間像は時代の経過と共に、われわれの前から消え去ってしま」うし、われわれの「眼前存在」、現前性は「近代的な世界像、人間像にある」から、「神話形式のままでは、新約聖書の言表」、すなわち「語られた内容の表現」は理解できないから、それは「非神話化されなければならない」、と語っている。このことから、近代主義者のブルトマンの思惟と語りは、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に信頼しない」という点にあることが分かる、もっと言えばキリストの霊である聖霊の証しの力を、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動を、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいた信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)の授与能力を信用しないという点にあることが分かる。このようなブルトマンに対して、バルトは、次のように述べている――「この(新約聖書の)使信が、まさにイエス・キリストについての使信として、神と人間との間に起った出来事を内容としていることが確かであり、また、この使信が、その形式において、この出来事についての人間による証言であることも確かであるかぎり、われわれがこの使信の人間学的内容にも問いかけることは可能であり、またそうしなければならないことは明瞭である。(≪しかし、第一次的な≫)(中略)他のすべてのものを基礎づけ、制約し、支配するキリストの出来事としてのキリストの出来事を、この証言(≪第二の形態の神の言葉である預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」≫)から取り去って、その結果、(≪起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を取り去った≫)この証言(≪最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」としてのイエス・キリスト、すなわち第二の形態の神の言葉としての預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言≫)を、そこでは第二次的なもの、あの第一次的なもの(≪人間的理性や人間的欲求やが対象化し客体化したに過ぎない前期ハイデッガーの哲学原理、すなわち「容易に修得しえない」「先行的理解と言語」によって対象化され客体化された「存在者レベルでの神」にしか過ぎないそれ≫)に従事することにおいてのみ真であり、重要であるものに形式変換し・転釈するという場合、その使信をゆがめ・切りちぢめることにならざるをえない……」、「聖書註解者」は「だれに対して」「誠実と真実をささげるべきなのか?」、「責任的応答をなすべき」なのか? 「同時代の人たちの思考の前提に対してか?」、「そこから形成された理解の規準に対してか?」―― 否である。われわれは、「十字架につけられ、復活したイエス・キリストにおけるわれわれの実存という場所」において、「われわれの信仰より以前にも、信仰なしでも、……不信仰に抗して」も、われわれのために「生きて、われわれを支配」し、「われわれを愛し給うイエス・キリスト」を、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて「認識し、持つことができることを示すということ以外の何が問題となるのだろうか?」(『ルドルフ・ブルトマン』)。前期ハイデッガーの哲学原理に依拠したブルトマンに対して、前期と後期を生き思惟したその総体像におけるハイデッガー自身が、このブルトマンを、人間学的領域において、次のように根本的包括的に原理的に批判している、「揶揄」している――「『今日まさにこのマールブルク(≪ブルトマン、ブルトマン学派≫)では、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる(≪人間理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された≫)存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか』」、と。次のようなフォイエルバッハの根本的包括的な原理的なキリスト教批判を、妥当性のあるものとして素直に聞く耳を持つならば、このハイデッガーの批判(「揶揄」)も妥当性のあるものとして素直に聞くことができるであろうことは確かなことである――人間的理性や人間的欲求やが対象化し客体化した「神(≪「存在者レベルでの神」≫)とはまさに、人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない」(『フォイエルバッハ全集第12巻』「宗教の本質にかんする講演 下」)、「人間は自分の本質を対象化し、そして次に再び自己を、このように対象化された主体や人格へ転化された存在者(本質)の対象とする。これが宗教の秘密である」・「人間の内的生活は、自分の類・自分の本質に対する関係における生活である。人間は思惟する、すなわち人間は会話をする、人間は自分自身と話をする。動物は自分以外の他の個体がいなければ類の機能をひとつもはたすことはできない、しかし人間は他人がいなくとも考えるとか話すとかという類的機能……を果たすことができる」・「もし君が無限者を思惟するならば、そのとき君は思惟能力の無限性を思惟し且つ確証しているのである。そして、もし君が無限者を情感するならば、そのとき君は感情能力の無限性を情感し且つ確証しているのである。理性の対象とは自己自身にとって対象的な理性であり、感情の対象とは自己自身にとって対象的な感情である」・「神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」・「神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」(『キリスト教の本質』)。
 西欧近代を、近代主義を骨肉にまで受け入れた近代<主義者>でもある佐藤は、前述したように、「ほんとに信じていないことを口にしてはいけないというのが、キリスト教信仰の第一の前提です」、だからこそ「神学が不可欠なのです」と述べているのだが、たとえどのような神学を所有したとしても信じられないことは明瞭なことである。何故ならば、生来的な自然的な理性・自己意識・思惟によっては信じられないことは自明なことであるからであり、キリスト教に固有な信仰の認識としての神認識、すなわち啓示認識・啓示信仰は、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)を必要とするからである。したがって、バルトは、「ほんとに信じていないことを口にしてはいけないというのが、キリスト教信仰の第一の前提です」と述べた佐藤とは全く違って、『福音主義神学入門』において、正直に素直に、質の良い言葉で、次のような告白をもって述べている――「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり『自分の(≪生来的な自然的な≫)理性や力(≪知力、意志力、感情力、禅的な自然を内面の原理とする身体的修行等≫)によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」、と。もっと言えば、『教会教義学 神の言葉』によれば、教会の宣教における思惟と語り、その一つの機能としての神学における思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」のである。したがって、教会の宣教における思惟と語り、その一つの機能としての神学における思惟と語りは、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基づいて成立している」のである。佐藤には、このような質の良い人間性、質の良い学識、質の良い思惟と語り、質の良い信仰・神学・教会の宣教が欠けているのである。