カール・バルト(その生涯と神学の総体像)

キリスト教に固有な<三位一体の神>について(その2−1)

カール・バルトの著作に即した、その総体像を理解するためのキーワード――キリスト教に固有な<三位一体の神>について(論述2−1)
再推敲・再整理版です。

 

『教会教義学 神の言葉』、『教会教義学 神論』等に基づく

 

 先ず以てバルトは、『教会教義学 神の言葉』で、次のように述べている――「(中略)確かに受肉は中心的にして重要なものではあるが……新約聖書の本来的内容であるというふうには言ってはならないのである。 (中略)それはおよそすべての他の宗教世界の神話や思弁の中にも見出されるものである。(中略)人は、聖書が語っている受肉を、ただ聖書からのみ、換言すればイエス・キリストの名(≪「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」≫)からのみ……理解することができる。……神人性それ自体もまた新約聖書の内容ではない(≪吉本隆明も、 『<アジア的>ということ』の中で、人間の類の時間性、人類史、世界史におけるアジア的<段階>概念の本質の一つである「共同体論」について、すなわちアジア的な風土的自然環境によって経済的基盤を季節的循環に基づく農耕に置いた農耕村落共同体における農耕民(循環と停滞)と神人(進歩と発展の契機)と呼ばれた非農耕民との関係性について、アジア的共同体の当初においては、農耕以外の職業に携わる非農耕民は神人と呼ばれていた、そして天皇もそれであった、と述べている。また、その尊ばれると同時に蔑まれる存在の神人は、具体的には農耕技術や様々な知識を占有した天皇を含めた芸能者・宗教者・鍛冶屋・ハンセン病、笊や籠を生産する竹細工師、海部民 のことであったが、海部民と農耕民・狩猟民との相互転換は可能であった、と述ベている≫)。新約聖書の内容とは、ただイエス・キリストの名だけであり、そのイエス・ キリストの名がたしかにまた、そしてとりわけ、彼の神人性の真理をその名に含んでいるのである。 ただまったくこの名だけが、啓示の客観的現実を言いあらわしている」。

 

 聖書的啓示証言でイエス・キリストにおいて自己啓示・自己顕現された神は、先ず以て「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内的・内在的な「ご自身の中での神」(「自己自身である神」)、すなわち聖性・秘義性・隠蔽性において存在する(下記の【注1】を参照)「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「失われない差異性」(「区別」性)における「三つの存在の仕方」、すなわち「起源的な第一の存在の仕方」であるイエス・キリストの父――この父は、その起源的な第一の存在の仕方において、子として自分を自分から区別するし、自己啓示・自己顕現する神として自分自身が根源である――、父が子として自分を自分から区別した「第二の存在の仕方」である子としてのイエス・キリスト自身――起源的な第一の存在の仕方である父から区別された第二の存在の仕方である子は、父が根源である――、愛に基づく父と子の交わり(「完全に共存的な関係」)としての「第三の存在の仕方」である「父なる神と子なる神の愛の霊」としての聖霊――「父ト子ヨリ出ズル御霊」(下記の【注2】を参照)としてのこの聖霊は、父と子が根源である――、である内的・内在的な「三位一体の神」、すなわち「一神」・「一人の同一なる神」である。簡潔に言えば、イエス・キリストにおいて自己啓示・自己顕現された神は、先ず以て、ご自身の中での神(「自己自身である神」)として、「失われない差異性」の中で三つの存在の仕方において「三度別様」に父、子、聖霊なる神であって、その存在は「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする内的・内在的な「三位一体の神」、すなわち「一神」・「一人の同一なる神」である。「われわれが哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、神学は哲学的試みが終わるところから始まる」し、神学も理性的な知的営為ではあるが、「神学は方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」ということを前提として、バルトは、この事柄を、神ご自身の神ご自身による神ご自身の自己認識・自己理解・自己規定と呼んでいる、神の完全性、自存性・独立性(自由性――下記の【注3】を参照)と呼んでいる。それからまた、この神は、われわれのための神としての「外に向かって」の外的な・外在的なその「失われない差異性」(「区別」性)における三つの存在の仕方(性質、働き、業、行為、行動、活動。父、子、聖霊なる神の存在としての全き自由の神の全き自由の愛の行為の出来事全体)において、起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――すなわち啓示者・言葉の語り手・創造主なる神の存在、また第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――すなわち啓示・語り手の言葉(起源的な第一の形態の神の言葉、「啓示の実在」そのもの)・和解主なる神の存在、また第三の存在の仕方である「父ト子ヨリ出ズル御霊」としての聖霊――すなわち啓示されてあること・三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済主なる神の存在、としての全き自由の神の全き自由の愛の行為の出来事全体である。このような訳で、このわれわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的な父、子、聖霊の三つの存在の仕方の完全性、自存性・独立性(自由性)は、「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における「ご自身の中での神」(「自己自身である神」)、すなわち聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする内的・内在的な「三位一体の神」、すなわち「一神」・「一人の同一なる神」の完全性、自存性・独立性(自由性)を根拠としている。ここで、聖霊は、その交わりの中で、「父は子の父」・「言葉の語り手」・啓示者であり、「子は父の子」・「語り手の言葉」・啓示である――ここに、神は愛である・愛は神であることの根拠があり、愛は、自由・主権がそうであったように、「神ご自身においてのみ、実在であり真理」であり、「愛は、神にとって、最高の法則であり、(≪愛に基づく父と子の交わり・「完全に共存的な関係」である第三の存在の仕方として≫)最後的な実在」である。これらが、内的・内在的な「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の「神ご自身の中および(≪その神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的な≫)その業(≪存在の仕方≫)の中での父・子・聖霊の共存の中での三位一体性全体」である。したがって、「三重ではなく、三度」、内的な・内在的な「三位相互内在性の中で、一人の三位一体の神が、人格性(≪われわれのための神としての「外に向かって」の外的な・外在的なその「失われない差異性」における三つの存在の仕方≫)であり給う」、「神の三つの顔があるのではなく、一つの神の顔が、神の三つの意志ではなく、ただ一つの神の意志が、神の三つの義があるのではなく、ただ一つの神の義が、神の三つの言葉と業があるのではなく、ただ一つの神の言葉と業があるのである」、「徹頭徹尾、一人の神が、われわれに対して、イエス・キリストの中で啓示されているのであり、徹頭徹尾、同じ一人の神が、ご自身の中でも神であり給う。このキリストにあっての「神は、(≪内的・内在的に≫)ご自身との共同性の中に生きてい給う」。このようにして、このキリストにあっての神は、われわれのための神として「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」において、子としてのイエス・キリストの中で「創造主として、われわれの父」として自己啓示・自己顕現されたのである。したがって、その存在の内的・内在的な本質からすれば、父だけが創造主なのではなく、子と霊も創造主であり、同様に父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもあるのである。このような訳で、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち起源的な第一の存在の仕方としての啓示者である父なる神の子としての啓示ないし和解そのものであるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストは、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」。

 

【注1】それ故に、われわれ人間は、徹頭徹尾神の不把握性の下にある。したがって、われわれは、聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯して、次のように言わなければならないのである――先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(あくまでも神の側の真実からする、神の人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性である内的・内在的な聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の~の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、啓示者である父なる神の子としての啓示(和解)、「啓示の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰≫)に向かっての人間の用意が存在する」、換言すれば先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」、と。イエス・キリストにおける啓示は、その啓示に固有な証明能力を、キリストの霊である聖霊の証しの力を、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動を、全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)を授与する力を持っているし、それ故に三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」、換言すれば第一の形態の神の言葉(「啓示の実在」そのものとしてのイエス・キリスト自身)を起源とするキリスト教に固有な類、すなわちその人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」(第二の形態の神の言葉としての聖書的啓示証言)、この聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯した第三の形態の神の言葉としての全く人間的な教会の<客観的>な信仰告白および教義を持っており、その時間性としてのキリスト教に固有な歴史性を持っているのである。聖書的啓示証言の本来的テーマは、三位一体の第二の存在の仕方である「子なる神、キリストの神性」を問う問いの中に、「父を問う問い」と「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊を問う問いとが包括されている点にある。言い換えれば、第二形態の神の言葉である聖書またその聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯した第三の形態の神の言葉である教会の宣教において神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊である。内的・内在的なご自身の中での神の、われわれのための神として「外に向かって」外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるイエス・キリスト(インマヌエル――「神われらと共にいます」)において、自己啓示・自己顕現されたのである。このことは、内的・内在的には、「自己を覆い隠す」(隠蔽性、秘義性)・「聖性」において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における起源的な第一の存在の仕方である父が、「子(≪第二の存在の仕方≫)として自分を自分から区別した」ことを意味する。また、外的・外在的には、その三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」のその「失われない差異性」における第二の存在の仕方(性質、働き、業、行為、行動、活動)において自己啓示・自己顕現されたことを意味する。したがって、この自己啓示は、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」――「イエス・キリストの名」、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方において、その内的・内在的な三位一体の神の「存在の本質」である「失われない単一性」・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示なのである(それ故に、生来的な自然的な「『自分の理性や力(≪知力、感情力、意志力等≫)によっては』全く信じることができない」のである。それ故にまた、われわれ人間は、信仰の認識としての神認識、すなわち啓示認識・啓示信仰を所有するためには、全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」を必要とするのである)。このような訳で、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストは、「まさにアラワサレタ神こそが隠サレタ神である」。またこのことは、神ご自身がわれわれ人間に対して自己啓示されないならば、また神ご自身が神とわれわれ人間とを架橋されないならば、換言すれば神のその都度の自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」が惹き起こされないならば、「全く不信仰で罪に穢れたわれわれ人間」は、人間が人間的に所有する人間の信仰としての神認識を、啓示認識・啓示信仰を持つことはできないことを意味している。

 

【注2】「父と子より出ずる御霊」――これは、聖霊の「神性の定義」である。この聖霊は、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊」である。この「聖霊」は、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として「神の言葉の三形態」の関係構造(秩序性)における起源的な第一の形態の神の言葉、すなわち啓示者である父なる神の子としての「啓示の実在」そのものであるイエス・キリスト自身、それ故に具体的にはその第二の形態の神の言葉、すなわちイエス・キリストによって直接的に唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちのその人間性と共に神性も賦与され装備された最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」としての啓示の「概念の実在」である聖書的啓示証言におけるイエス・キリスト――この「啓示への個人的な参与を保証する」。言い換えれば、全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)を保証する。パウロにおいて「霊にあって」とは、「救いの福音を聞き、信じるようにさせる霊」、「知恵と啓示の霊」による「神の啓示への参与」、すなわち聖霊の注ぎによる信仰の出来事(信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰の授与の出来事)における「人間の思惟、行為、語ること」を、「主観的に表示している概念」である。また、「キリストにあって」とは、イエス・キリストにおける「啓示の出来事と全く同じ事柄」を、「客観的に表示している概念」である。聖書的啓示証言によれば、聖霊は、われわれ人間の「救済主」である。しかし、聖霊は、「救済主」であるだけではなく、その存在の本質である「失われない単一性」・神性・永遠性において、「子とともに、子の霊として、また和解者」でもあり、また「父および子とともに創造主なる神」でもある。新約聖書の「イエスは主であるという証言」は、神性を本質とするイエスを、「事実の承認」として・「思惟の初め」として語っている。したがって、この「イエスは主である」・「子を通しての父を、父を通しての子を信じるこの信仰」、「神との出会いであるイエスとの出会い」、「信仰の出来事」、信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)は、全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による聖霊の注ぎによるのである。したがって、この信仰の出来事は、新約聖書において、客観的な「啓示の出来事の中での主観的側面」――すなわち前述したような「聖霊の注ぎ」による人間的主観に実現された神の恵みの出来事、信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰の主観的現実化の出来事のことである。したがってまた、われわれは、前述したような啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて、神の側の真実としてある、イエス・キリストにおいて成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(ここで平和の概念は、救済概念に包括されたそれである)を、信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)の中において持つことができるのである。しかし、終末、すなわち復活されたキリストの再臨――「完成」(『バルトとの対話』)を待つ終末論的信仰において、この救済を「信仰の中で持つこと」は、「約束として持つ」ことである。したがって、「われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる」。「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」。この「信仰の確実性」は、「希望の確実性」である。新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」のである。ここで、「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」にとっての、換言すればわれわれ人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍にとっての<いまだ>であり、神の側の真実としてある、「成就と執行」、「永遠的実在」、客観的現実性として<すでに>ということである。

 

【註3】キリストにあっての「神についての聖書的な証言」は、「神とは異なるすべてのものに対して」持つところの神の「優位性」を、「神とは異なるものによって為されるすべての条件づけ(≪外的条件づけ≫)からの神の自由(≪一切の外的被制約性からの自由、すなわち神の独立性≫)として」の「神の相違性そのものの中でだけ見ているだけでなく」、ご自身の中での「神が、それらを(≪第一義的なその自存性としての積極的な神の自由において≫)実証することによって」、「外的条件づけからの神の自由」に「相対しても自由であり」、この全き自由を放棄することなく、われわれの神としての「外に向かって」その「失われない差異性」における三つの存在の仕方――「創造主、和解主、救済主として」、「神とは異なった実在との交わりへと歩み入り、その交わりの中でその実在に対して忠実であり給うということの中で」、神の「真実を実証し、まさにそのようにしてこそ現実に自由である、ご自身の中で自由である」ところの自存性としての「神の自由」の中で見ている。このような訳で、「神の自由」という概念は、その積極的側面を「強調」しつつ、その積極的側面と消極的側面との総体性・全体性において定義しなければならないのである。すなわち、それは、その積極的側面である「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」におけるご自身の中での神の自由、「自己自身である神の自由」としての「自存性の概念(≪自由の概念の積極的側面≫)」と、内的・内在的なご自身の中での神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における三つの存在の仕方における消極的側面である「神とは異なるものによって為されるすべての条件づけからの神の自由」としての「独立性の概念(≪自由の概念の消極的側面≫)」との総体性・全体性において定義しなければならないのである。何故ならば、例えば「世界に対する神の関係」としての「神の創造と和解の概念」と「神の全能、遍在、永遠性の概念」は、「神とは異なるものによって為されるすべての条件づけからの神の自由」としての「独立性の概念(≪自由の概念の消極的側面≫)」に「言及することとなしに、把握し、展開することはできない」からである(すなわち、そのような仕方で為されないならば、その「神の創造と和解の概念」と「神の全能、遍在、永遠性の概念」は、まさに生来的な自然的な人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化されたそれに過ぎないものとなってしまうからである)。言い換えれば、その「神とは異なるものによって為されるすべての条件づけからの(≪独立性という消極的側面としての≫)神の自由」の把握と展開は、「ただ外に向かっての神の行為(≪内的・内在的なご自身の中での神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における三つの存在の仕方≫)の本来的な積極性であるばかりでなく」、「また、(≪自存性としてのご自身の中での神の自由における≫)神ご自身の内的(≪・内在的≫)な本質の本来的な積極性である」という「認識の下で起こる時にだけ、正しい仕方で為すことができるし、為す」のである。

 

 前述したような訳で、「最も単純な形において神の啓示の実在を問う問いに対する新約聖書の答え」は、この「イエス・キリストの名だけである」。「三位一体の根本命題に即して理解すれば」、このイエス・キリストは、神性を存在の本質としているから、「啓示の出来事においてはじめて神の子」、「神の言葉」となるのではなく、「父を啓示するもの」、そして「われわれを父と和解させるもの」として、「イエス・キリストは神の子」、起源的な第一形態の神の言葉、内的・内在的なご自身の中での神としての三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方なのである。この「キリストの神性」は、「啓示および和解におけるキリストの行為の中で認識することができる」、詳しく言えば内的・内在的なご自身の中での神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわちその性質・働き・業・行動・活動――全き自由の神の存在としての全き自由の神の全き自由の愛の行為の出来事の中で認識することができる。言い換えれば、その「啓示と和解」(その第二の存在の仕方における業と行為)が「キリストの神性」の根拠ではなくて、「キリストの神性」(「まことの神」)、キリストの「存在の本質」である「神性」性(「まことの神」性)が「啓示と和解を生じさせる」のである。ここに一切合財があるのである(下記の【注1】を参照)。「新約聖書的――キリスト論的命題」について、「まことの人間」として、「神の子あるいは神の言葉が(≪すなわち啓示者である父なる神の子としての啓示、和解、「啓示の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉が≫)人間、ナザレのイエスである」、また「まことの神」として、「人間ナザレのイエスが神の子あるいは神の言葉で(≪すなわち啓示者である父なる神の子としての啓示、和解、「啓示の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉≫)である」。このような訳で、「イエス・キリストの名」で語られるべき「最初にして最後のこと」、「イエス・キリストは誰であるか」という問いに対する答えは、内的・内在的な聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち啓示者である父なる神の子としての啓示、和解、「啓示の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉、「まことの神にしてまことの人間である」という点にある。したがって、「神であり給う言葉(≪存在の仕方≫)が人間となったのであって、決して神性(≪存在の本質≫)それ自体が人間となったのではない」のである――ヨハネ一・一四の「言葉は肉となった」という新約聖書の中心的命題のヨハネの「言葉」は、内的・内在的な三位一体における神の、われわれのための神としての「外に向かって」外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方――すなわち、「神的な創造主、和解主、救済主なる<言葉>、神の永遠のみ子」、「まとの神にしてまことの人間である」イエス・キリストことである。「イエス・キリストは主なり」という信仰命題は、「概念の最後的・究極的意味」において、イエス・キリストは「失われない単一性」・神性・永遠性を存在の本質としており、「自分自身の中に基礎づけられて」、完全性、自存性・独立性(自由性)の、全き自由の「唯一の」「もろもろの」「主」「主権」であるということを意味している。この「神性を本質とするイエス・キリストの存在」が、「イエス・キリストを直接に」「唯一の神である」「父の場所へと移す」のである。「イエス・キリストは神であるというキリストの神性についての命題」は、内的な・内在的なご自身の中での神としての「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かっての」外的な・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリストが、「彼の父(≪起源的な第一の存在の仕方、すなわち啓示者≫)を啓示する」、「父(≪起源的な第一の存在の仕方、すなわち啓示者)を啓示するものは(≪内的・内在的な三位一体の≫)神を啓示する」ということを意味している。このイエス・キリストは、啓示の中で、「主」として、「永遠の真理」および客観的な「啓示の実在自体」(「啓示の実在」そのもの)として、「降下突入してくる」。「われわれは、光よりの光、神よりのまことの神、造られずして生まれたものとしてのイエス・キリストを信ず」――この第三の形態の神の言葉に属する教会の<客観的>な信仰告白および教義は、「キリストの神性についての三位一体神学(下記の【注2】を参照)の本来的にして決定的な規定」である。「造られずして、生まれ」とは、内的・内在的なご自身の中での神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるイエス・キリストは、神性を存在の本質とするということを、「神から由来する」ということを意味している。内的・内在的な三位一体の神の、われわれのために神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方である「和解主としてのイエス・キリストは、神ご自身」であり、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質としているが故に、イエス・キリストのその第二の存在の仕方における「人間的『性質』」、「人間であること」、「神との和解者としてわれわれに出会うところの人間であること」は、「啓示および和解として現実に有効」なのである。このように、「啓示と和解を生じさせる」「赦す神」は、イエス・キリストの「神性」性(「まことの神」性)にあるのである。内的・内在的な三位一体の神の、われわれのために神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間である「イエス・キリストにおける神の愛は、(≪イエス・キリストが「失われない単一性」・神性・永遠性を本質としているが故に、≫)神自身の人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」(『ローマ書』)。このイエス・キリスト、すなわちそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における起源的な第一の形態の神の言葉、啓示者である父なる神の子としての「啓示の実在」そのもの(それ故に、その第二の形態の神の言葉、具体的には預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」)は、第三の形態の神の言葉に属する教会の<客観的>な信仰告白および教義における「一切の思惟、洞察、解釈、省察の前提」である。このような訳で、神の言葉の第三の形態に属する全く人間的な教会の「教義」は、「人間的な教育的な威厳はあるとしても、いかなる神的な権威も持ってはいない」のである。

 

【注1】「創造された世界における神の愛」と「われわれの世界におけるイエス・キリストの事実の中における神の愛」との間には差異がある。すなわち、後者の神の愛は、「まさしく神に対し罪を犯し、負い目を負うことになった人間の失われた世界に対する神の愛」である。すなわち、「和解ないし啓示」は、「創造の継続」や「創造の完成」ではない。この意味は、「和解ないし啓示」は、内的・内在的なご自身の中での神の・三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における三つの存在の仕方の第二の存在の仕方であるイエス・キリストの「新しい神の業」であるということである、すなわちその第二の存在の仕方(性質、働き、業、行為、行動、活動)における全き自由の神の存在としての全き自由の神の全き自由の愛の行為の出来事であるということである。それは、「神的な愛の力」、「和解の力」である。イエス・キリストは、和解主として、創造主の後に続いて、内的・内在的なご自身の中での神の・三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方において「第二の神的行為を遂行した」のである。この神の存在の仕方(神の存在としての神の愛の行為の出来事)の差異性における「創造と和解のこの順序」に、「キリスト論的に、父と子の順序、父(≪言葉の語り手・啓示者、創造主≫)と言葉(≪語り手の言葉・啓示、和解主≫)の順序」が対応しており、「和解主としてのイエス・キリストは、創造主としての父に先行することはできない」のである。しかし、父と子は、共に神自身のその存在において、内的・内在的なご自身の中での神・三位一体の神のその存在において、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質としているから、この従属的な関係は、その「存在の本質」の差異性を意味しているのではなく、「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における「存在の仕方」の差異性を意味しているのである。このことは、父なる神の存在の仕方の中での「一人の神」、子なる神の存在の仕方の中での「一人の神」、聖霊なる神の存在の仕方の中での「一人の神」という内的・内在的な「ご自身の中での神」と「その三位一体の神」の、われわれのための神としての「外に向かって」外的・外在的なその「失われない差異性」における三つの存在の仕方における神の完全性、自存性・独立性(自由性)を意味している。「創造が無からの創造であるように、和解は死人の甦り」である。「われわれは創造主なる神に生命を負うているように、和解主なる神に永遠の生命を負うている」。

 

【注2】聖書またその聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯した教会の宣教において神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、愛に基づく父と子の交わりである聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示・自己顕現する。したがって、この啓示が教会の宣教の<客観的>な信仰告白と教義である三位一体論の根拠である。この三位一体論は、「神論の決定的に重要な構成要素」であり、「啓示の認識原理」・規準・法廷・審判者・支配者である。したがって、「教会の宣教の批判と訂正」は、常にこの三位一体論に即して行わなければならないのである。何故ならば、この三位一体論を啓示認識の原理としない場合、すぐに神性否定のキリスト論や半神・半人キリスト論や三神論や神と人間との混淆・混合へと、総括的に言えば自然神学へと、自然的な信仰・神学・教会の宣教へと埋没していく以外にないからである、卑近な例に引き寄せて言えば、一つの<宗教>としての世俗<主義>へと、世俗の<絶対主義>へと埋没していく以外にないからである――否、加速度を増して現存する時代性そのものがそうさせているから、さらにそれ以上の一つの<宗教>としての世俗<主義>の世俗<主義>へと、世俗の<絶対主義>の世俗の<絶対主義>へと埋没していく以外にないからである。したがって、このことを対象的に認識し、このことに自覚的とならないならば、加速度を増して現存する時代性そのものからして、この事態はまさに必然的に起こり続けると言える。

 

 さて、聖書的啓示証言の一面だけを形而上学的に抽象し固定化して、すなわち一面だけを拡大鏡にかけて全体化して、近代主義的にあるいは人間学的神学的にあるいは哲学的神学的に、「イエスは別段自分を超人間的存在として自覚していたわけではなく、『人の子』語句でもって人間存在の根底を語り続けた」「ただの人であり、ただの人として自らを自覚し、ただの人の真実のあり方を告げた」と断定した八木誠一の思惟と語りは、聖書的啓示証言とそれに信頼し固執し固着し連帯した教会の<客観的>な信仰告白および教義の解体へを目指している。その師の、バルトに師事した滝沢克己もそうである――マルクスの自然哲学と禅的な自然を内面の原理としたであろう滝沢は、『カール・バルト研究』で、「もはやいかなるキリスト者も、『聖書』や『イエス・キリスト』という名を記憶している人たちさえも、もはやこの地上のどこにも残っていないとしても、それでもなお、『神われらとともに』という事実(Faktum)にわたしたちが堅く結びつけられているということそのことは、神(≪マルクスの自然哲学や禅的な自然を内面の原理としたそれ≫)において永遠に決定されていることなのだ」(下記の【注】を参照)と述べている。そのような思惟と語りにおいて救済の問題を考える場合、すなわち近代的な感覚や知識を内容とする経験に依拠して近代主義的に「キリストの永遠のまことの神性の告白を信用しない」で救済の問題を考える場合、「赦す神」が人間に内在しなければならないことになり、その認識自体が思弁でしかないものになってしまうし、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストは、人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された「下からの半神」、「超人」、人間の「最深の本質」、「最高の理想、人間的実存の範型、社会的奉仕・政治的奉仕の範型等々の単なる「空虚な概念」でしかなくなってしまう。それらの思惟と語りはすべて、フォイエルバッハやハイデッガーの根本的包括的な原理的な宗教批判(キリスト教批判)の対象そのものである。そのような思惟と語りに対して、バルトも、次のように批判している――「神と人間を同一視する神学(中略)『人間の中なる神について』の議論が根絶されない限り、フォイエルバッハを批判する理由は、われわれにはない」(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)。したがって、聖書的啓示証言および教会の<客観的>な信仰告白および教義に信頼し固執し固着し連帯したバルトは、「キリストの神性についての教義」こそが、一切の近代主義、人間学的神学、哲学的神学、ヘーゲル主義的神学(例えば、モルトマンやエーバーハルト・ユンゲル等)、総括的言えば一切の自然神学、一切の自然的な信仰・神学・教会の宣教に抗することができ、またそれらを包括し止揚し克服できるそれであると認識し自覚したのである。また、八木のような思惟と語りに対して、バルトは、「人の子」語句について、次のように述べている――「人々は人の子(あるいはわたし)は誰であると言っているか」(マタイ一六・一三)と聞かれ、 ペテロ(教会の信仰告白)は、「あなたは生ける神の子キリストです」と答えた。「メシヤの名」に対する「『人の子』というイエスの自己称号」は、「(覆いをとるのではなくて)覆い隠す働きをする要素として、理解する方がよい」、「逆に使徒行伝一〇・三六でケリグマが直ちに、すべての者の主なるイエス・キリストという主張で始められている時、それはメシヤの秘義を解き明かしつつ述べているというように理解した方がよい」、受肉・「神が人間となる」・「僕の姿」・「自分を空しくすること、受難、卑下」は、「神性の放棄」や「神性の減少」を意味するのではなく、「神的姿の隠蔽」・「覆い隠し」を意味している。

 

【注】
 バルト自身は、『教義学要綱』で、次のように述べている――「『神がそこでわれわれに出会い給うその恵みの御言葉は、イエス・キリストと呼ばれる。すなわち、神の子にして人の子、真の神にして真の人、インマヌエル、この一つなる方におけるわれらと共なる神である』と、答えうるにすぎない。キリスト教信仰は、この『インマヌエル』との出会いである。イエス・キリストとの出会いであり、イエス・キリストにおける神の活ける御言葉との出会いである。われわれが聖書を神の御言葉と呼ぶ場合……、われわれは、それによって、聖書を、この神の唯一の御言葉についての(イエス・キリストについての、神のキリストであり永遠にわれわれの主にして王なるイスラエルから出たこの人についての)預言者・使徒の証し(≪イエス・キリスト自身である起源的な第一の形態の神の言葉、すなわち「啓示の実在」そのものであるイエス・キリストに感謝を持って信頼し固執し固着し連帯した第二の形態の神の言葉、すなわち最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」≫)として、考えているのである。そして、われわれがそのことを告白する場合、われわれが(≪第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯した第三の形態の神の言葉としての≫)教会の宣べ伝えを神の御言葉と敢て呼ぶ場合、それによって(≪起源的な第一の形態の神の言葉、「啓示の実在」そのものである≫)イエス・キリストの宣べ伝えが理解されていなくてはならない」。したがって、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の宣教は、それ故にその一つの機能としての神学は、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示の実在」そのもの)を、それ故にイエス・キリストによって直接的に唯一回的特別に召され任命されその人間性と共に神性も賦与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」を、その思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、<純粋>なキリストにあっての神・<純粋>なキリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(これが、キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法である、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」としてのそれである)を――すなわち、すべての人々が<純粋>なキリストの福音を現実的に所有することができるために為す<純粋>なキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを、その決断と態度の下で目指していかなければならないのである。このような仕方で、徹頭徹尾全面的にイエス・キリストをのみ主・頭とする「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を、その決断と態度の下で目指していかなければならないのである。