カール・バルト(その生涯と神学の総体像)

<自然神学>あるいは<自然的な信仰・神学・教会の宣教>とは何か?(その2−1)

<自然神学>あるいは<自然的な信仰・神学・教会の宣教>とは何か?(その2−1)
再推敲・再整理版です。

 

カール・バルトの、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教に対する根本的包括的な原理的な批判について

 

 先ず以ては、次のような認識を必要とする――
バルトは、客観的可視的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示の実在」そのもの)を、それ故に具体的にはその第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言(預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」――すなわち啓示の「概念の実在」)を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者としているということ、またこのバルトにとっては、イエス・キリストにおいて自己啓示・自己顕現されたキリストにあっての神は、先ず以て完全性・自由性(自存性と独立性の全体性・総体性としての自由性)におけるご自身の中での神として、換言すれば「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における神として、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする内的・内在的な三位一体の神であるということ、それからまたその内的・内在的な三位一体の神が、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方(性質、働き、業、行為、行動、活動)において三度別様に父、子、聖霊なる神であるということ、すなわち全き自由の神の全き自由の愛の行為の出来事全体としての全き自由の神の存在であるということである。この事柄を通して、われわれは、神の不把握性の下に置かれているし、終末論的限界の下に置かれているということを認識させられるのである(Tコリント13・8以下)。このような訳で、われわれが終末論的限界の下で信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事を与えられたとするならば、それは、キリストにあっての神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいていると言わなければならないのである、換言すれば客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事(この啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動)とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいていると言わなければならないのである、すなわち「言葉を与える主は、同時に、信仰を与える主である」と言わなければならないのである。このように、イエス・キリストにおける啓示は、その啓示自身に固有な証明能力を、キリストの霊である聖霊の証しの力を、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動をもっており、それ故にこのキリストにあっての神の自己証明能力に基づいているところの、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的可視的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)を持っていると言わなければならないのである。何故ならば、「神に敵対し神に服従しないわれわれ人間」は、「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持ってはいない」からである(『教会教義学 神の言葉』)、またわれわれ人間は、このキリストにあっての神に対して、素直に正直に言えば、次のように告白し祈る以外にはないからである――「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり『自分の(≪生来的な自然的な≫)理性や力(≪知力、感情力、意志力、禅的な自然を内面の原理とする身体的修行等々≫)によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」、と(『カール・バルト著作集10』「福音主義神学入門」)。これらのバルトにおける思惟と語りは、<非>自然神学あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階へと移行した場所からのそれである。
 さらに、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事を与えられたとするならば、その認識(信仰)を通して、「信仰の類比」を通して、「神に対する人間的反抗」、「罪深い堕落した人間」、そのような「人間の世」を認識させられるのである――このような自己認識・自己理解・自己規定を得るのである、ちょうど神とは全く異なる自然としての「内被造世界での、……父という呼び名は確かに真実である」が、「非本来的なもの」であり、「神の内三位一体的父の名の力と威厳に依存しているものとして理解(≪自己認識・自己理解・自己規定≫)されなければならない」ように(『教会教義学 神の言葉』)。このバルトにおける思惟と語りは、「存在の類比」において全く逆向きの思惟と語りをするところの、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階にあるトマス・アクィナスやローマ・カトリック主義、ヘーゲルの強力な痕跡を持つシュライエルマッハーや近代主義的プロテスタント主義等々に対する根本的包括的な原理的な批判を構成しているのである。このバルトは、自分の立場について次のように述べている――内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち起源的な第一の形態の神の言葉、まさに神の側の真実としてある主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・完了そのもの、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、それ故に成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(平和の概念は、この救済概念に包括されたそれである――「平和に関するバルトの書簡」寺園喜基訳)そのものであるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示・和解――この「一つの事柄に仕えなければならないのであって、ひとつの党派(≪学派、教派、宗派、人間学的な哲学原理・認識論・世界観、思想傾向、原理、理念、主義、時流や時勢、社会的政治的な言説や運動≫)に仕えなければならないことはない……、一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……」、と(『教会教義学 神の言葉』)。人間学的領域における詩人で文芸批評家で思想家の吉本隆明も、党派の問題、党派思想の問題について、次のように述べている――党派性、党派的思想、党派主義、党派的多元主義等「対立する双方に真理があるというような俗説が、世界史的に流布され、流通している中で、自らの立場において、両者を包括し止揚しなければならないということが思想的な問題である」、と(『思想の基準をめぐって』)。

 

 自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教は、卑近な例で言えば、一方で教会の宣教を掲げ、他方では民族国家を対象としているにも拘らずその過渡的――究極的な国家論(革命論)を持つことなく為されている政治的発言(行動)、すなわち日本基督教団の1967年の「第二次世界大戦下における日本基督教団の責任についての告白」における思惟と語りと行動のことであり、2015年の「戦後70年にあたって平和を求める祈り」における思惟と語りと行動のことであり、2015年の日本カトリック正義と平和協議会の「抗議声明」における思惟と語りと行動のことであり、またイエス・キリストをのみ主・頭とすべき教会の宣教――すなわち「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)に信頼し固執し固着し連帯するという仕方で、純粋なキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、換言すればすべての人々がキリストの福音を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えとしての「隣人愛」)という連関における教会の宣教の本質的な問題から言えば、二元論的な教会の宣教と社会的政治的実践という「混合宣教」における思惟と語りと行動のことである。

 

 さて、ここはバルトの思惟と語りを論じる場所であるから、バルトの著作に即して自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教とは何かについて考えてみよう。当然にもこの問題を扱い考えるということは、前述した立場において、一切の自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階を根本的包括的に原理的に止揚し克服して、<非>自然神学あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階へと移行して行くことをも含んでいる。

 

 <自然神学>あるいは<自然的な信仰・神学・教会の宣教>とは何か?
 先ず以て自然神学とは、総括的に言えば、「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰であるとしたカントは、本源的であるゆえに、すでに前もってわれわれの(≪生来的な自然的な≫)理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で、アウグスティヌスの教説と一致する」という点にある(『カール・バルト著作集12』「カント」佐藤司郎訳、新教出版社)。

 

 人間中心主義において人間の側からして神と人間との無限の質的差異を止揚したところで(捨象したところで)、人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能の無限性の原理、区別を包括した同一性の原理、思惟に思惟を重ねて具体的普遍の頂へと高次化した思惟は自然から完全に超出した精神であるから、その「精神は、精神自体としては神と全く同一である」という無限と有限との統一としての究極的同一性の原理、すなわち人間の神化あるいは神の人間化の原理を発見したヘーゲルにおいては、哲学は「本質的にキリスト教の(≪自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階で停滞している≫)正統的教義と一致する」。この時、「キリスト教のもろもろの根本真理」は、その「哲学によって維持され保管されることになる」、ちょうどブルトマン神学が前期ハイデッガーの哲学原理によって維持され保管されていたように、またちょうどモルトマンの神学的三段階的進歩史観が自由を原理とする西欧近代を頂点として展開されたヘーゲルの歴史哲学によって維持され保管されていたように。何故ならば、ヘーゲル哲学において啓示は、「意識に対して存在するものすべてのものが、意識にとって一つの対象となる時のような仕方において現われる」からである。言い換えれば、人間中心主義のヘーゲル哲学においてイエス・キリストにおける神の自己啓示は、その哲学が神と人間との無限の質的差異を固守するという方式を持たないが故に、人間の自己意識・理性・思惟によって対象化され客体化された対象物としてのそれ(ここでは啓示は、キリストにあっての神の啓示から独立した、対象化され客体化されたその人間の自己意識・理性・思惟そのもの、その人間の物語世界・意味的世界そのもの、それ故にその人間の人間的理性や人間的欲求やによって対象化され人間化された啓示そのものである)に過ぎないものとなってしまうからである。この場合、キリストにあっての神の啓示は、まさに人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された「存在者レベルでの神」(人間の側からして人間化された神あるいは神化された人間としての神、偶像)の啓示と混淆・混合されてしまうから、「受け入れ難く耐え難い」とバルトは言うのである。すなわち、ヘーゲルにおけるその神とその啓示は、人間自身の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能の無限性が「捕えた虜囚でしかないものとなってしまうから、受け入れ難く耐え難い」とバルトは言っているのである。そして、バルトにとって「ヘーゲルの哲学的手法に対して受け入れ難く耐え難い最も重大でかつ決定的なもの」は、「人間の自己運動を神のそれと取り違えるという混淆」、「神の自由を認識していないという事態」にある、とバルトは言っているのである。このように、ヘーゲル哲学におけるその原理およびその認識方法と概念構成は、神と人間との無限の質的差異の止揚(捨象)に基づいた人間中心主義的な存在の類比にあるのであり、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階で停滞して「自己表現としての宣教」を企てたシュライエルマッハーはもちろんのこと、「シュライエルマッハー以外の(≪ブルトマン、モルトマン、エーバーハルト・ユンゲル等≫)他の人々の所でも、……〔この〕ヘーゲルの強力な痕跡に遭遇するであろう」とバルトは言っているのである(『カール・バルト著作集12』「ヘーゲル」酒井修訳、新教出版社)。

 

 さて、「存在するものそのもの」、「その純然たる造られた存在に依拠したアウグスティヌスの「造ラレタモノヲトオシテ、知解サレタ創造主ヲ認識シテ、私タチハ三位一体ナル神ヲ知解スルヨウニシナケレバナラナイ、ソノ跡ハフサワシイカタチデ被造物ノウチニ顕レテイルノデアル」という思惟と語りに対して、バルトは根本的包括的な原理的な批判を加えている。すなわち、そのような三位一体の跡は、「世界に対して超越する創造神の跡として理解することはできない」。それは、ただ単なる人間の自己意識・理性・思惟によって対象化され客体化された対象物、すなわち対象化され客体化された人間自身の自己意識・理性・思惟、その人間の物語世界・意味的世界、人間的理性や人間的欲求やによって対象化され人間化された存在としての「存在者レベル」でのそれでしかないものである、換言すればそれは、人間の自己意識・理性・思惟によって「内在的に理解された宇宙の諸規定、人間的な現実存在の諸規定」、「単なる宇宙論や人間論でしかない」のである。また、そのような三位一体論は、「人間自身に基づく人間の世界理解の、最後的には人間の自己理解」、「神話」、すなわち自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階の水準にあるものに過ぎないのである。何故ならば、そのような自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階における三位一体論は、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に信頼しない」からである、また起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動に信頼しないからである、また全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)を与えることができる授与能力に信頼しないからである、またそのことを通して聖霊の業としての「啓示されてあること」――すなわち客観的可視的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)に信頼しないからである。したがって、<非>自然神学あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階に移行したバルトは、次のように言うのである――「神学をただ啓示(≪キリストにあっての神の啓示≫)の中にのみ基礎づけるために」、具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書に信頼し固執し固着し依拠した第三の形態の神の言葉に属する教会の宣教、その一つの機能としての神学、その思惟と語りは、「罪深い曲がった人間」の「究極的な限界性」を自覚した人間の言語を前提として、「三位一体を、世界から説明しようと欲しないで、むしろ逆に、世界を三位一体から説明せんと欲する」、と。このアウグスティヌスとバルトとの根本的包括的な原理的な差異性は、前者においては「存在の類比」において「被造物ノ中デノ三位一体ノ跡」というように語られ、後者においては「啓示の類比」・「信仰の類比」・「関係の類比」において「三位一体ノ中デノ被造物ノ跡」というように語られる点にある。またイエス・キリストにおける神の啓示は、その啓示自身に固有な証明能力を持っているのであるから、「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」のである。ここで「解釈する」とは、「別の言葉で同一のことを言うことである」。したがって、<非>自然神学あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階における第三の形態の神の言葉に属する教会の宣教、その一つの機能としての神学は、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観性として客観的可視的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における起源的な第一の形態の神の言葉(イエス・キリスト自身、「啓示の実在」そのもの)を、それ故に具体的にはその第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」)を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋なキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、すなわちすべての人々が純粋なキリストの福音を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えとしての「隣人愛」)という連関において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指していくという段階へと移行したそれのことである。何故ならば、第三の形態の神の言葉に属する教会の宣教は、一人の主にのみ仕えなければならないのであって、「二人の主に兼ね仕える」ことはできないからである、また第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の宣教、その一つの機能としてのどのような「教義学」も、「教会的な教義」も、「啓示自身からの命令を完全に一義的に厳守することはできない」から、前述したような仕方を、前述したような方法を必要とするのである。

 

 シュライエルマッハーは、人間学的に「教会とは、『ただ自由な人間的行為を通して発生し、またただそのような自由な人間的行為を通して存続することのできる共同体』であり、『敬虔性(≪絶対依存感情≫)と関連した共同体』である」と言う。またシュライエルマッハーにおいては、「信仰も、人間実存の歴史的存在の一つの在り方」として理解される。このように、神学における「近代主義的思惟は、人間が、誰かによる呼びかけを受けることなしに、(中略)人間がじぶんを相手に自分だけでひとりごとを言っているのを聞く。それ故、近代主義にとっては、宣教は、『教会』と呼ばれる人間的な共同体の一つの必然的な生の表現」となる、すなわち「自己表現としての宣教」となる。シュライエルマッハー等近代主義者は、人間の「精神的な促進〔霊的な奨励〕のために、自分と彼らに共通な宝庫からくみ取りつつ、この宝庫をさらに豊かにするために」、人間の自由な自己意識によって対象化され客体化された対象物、すなわち対象化された彼の自己意識・物語世界・意味的世界、それ故に彼の自己意識によって対象化され人間化された存在としての「存在者レベルでの神」、その神の啓示、その神への信仰、換言すれば「自分自身の歴史」と「現在の解釈」を表現しようとする。すなわち、「自己表現としての宣教」を企てる。これは、総括的に言えば、シュライエルマッハー等々における自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教に対する、バルトの神学における思想からする根本的包括的な原理的な批判である(『教会教義学 神の言葉』吉永正義訳、新教出版社)。
 このような自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階で停滞と循環を繰り返すキリスト教に対して、フォイエルバッハは、客観的な正当性と妥当性とをもって、次のような根本的包括的な原理的な批判を加えたのである――「人間の内的生活は、自分の類・自分の本質に対する関係における生活である。人間は思惟する、すなわち人間は会話をする、人間は自分自身と話をする。動物は自分以外の他の個体がいなければ類の機能をひとつもはたすことはできない、しかし人間は他人がいなくとも考えるとか話すとかという類的機能……を果たすことができる」、「もし君が無限者を思惟するならば、そのとき君は思惟能力の無限性を思惟し且つ確証しているのである。そして、もし君が無限者を情感するならば、そのとき君は感情能力の無限性を情感し且つ確証しているのである。理性の対象とは自己自身にとって対象的な理性であり、感情の対象とは自己自身にとって対象的な感情である」、「人間は自分の本質を対象化し、そして次に再び自己を、このように対象化された主体や人格へ転化された存在者(本質)の対象とする。これが宗教の秘密である」、「神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」、「神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」(L・フォイエルバッハ『キリスト教の本質』船山信一訳、岩波書店)、「神とはまさに、人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない(『フォイエルバッハ全集第12巻』「宗教の本質にかんする講演 下」船山信一訳、福村出版)。

 

 さて、アンセルムスは「キリストが人間となり給うこと、キリストの贖罪死の必然性を理解シヨウ、理性的に論証シヨウとした」――このことを、「人は合理主義だと批判した」。しかし、アンセルムスは、「教義学的な合理主義を明確に否定している」。すなわち、アンセルムスは、啓示認識の可能性について、「一般的真理」としてではなく、「啓示から得られた認識」としての「イエス・キリストの実在から考えた」のである。言い換えれば、バルトの神学の総体像に即して言えば、アンセルムスは、啓示認識の可能性について、人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能の無限性、「人間の現実存在の内部」、「単なる知識」としての人間学的知識、「世俗的真理」、「最高存在」、「最モ完全ナ存在」から考えたのではなく、具体的には客観的可視的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」)から考えたのである。さらに言えば、その聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、それに信頼し固執し固着し依拠した第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義から考えたのである。アウグスティヌスは、「三位一体の痕跡」である「想起(記憶)、知解、愛」としての「人間の中での神の像」を、「最も身近な最も高貴な認識根拠とした」。それは、アウグスティヌスにとって、「聖書的・教会的・教義的前提」であった。そして、アンセルムスにとってもそうであった。しかし、アンセルムスの場合は、アウグスティヌスとは違って、徹頭徹尾「教えられつつ語る」のであって、自然神学的に生来的な自然的な「われわれの理性に内在している神概念の再想起において創造しつつ神について語ろう」とはしなかった、それ故に「認識的なラチオ性〔理性性〕」は、「啓示、恵み、信仰を前提条件としていた」、すなわちそれは、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」、換言すれば客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事を前提条件としていた。この自然神学の段階にあるアウグスティヌスの思惟と語りを紙一重を超える在り方に、アンセルムスの<非>自然神学における思想性はあるのである(『カール・バルト著作集8』「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」吉永正義訳、新教出版社)。

 

 ここで、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階で停滞していたルドルフ・ブルトマンに対するハイデッガーの「揶揄」・批判を書いてみる――ハイデッガーは、前期ハイデッガーの哲学に依拠して「絶対的規準としての先行的理解と解釈学的原理」に基づく近代主義的神学を構成したブルトマン(その学派)に対して、「『今日まさにこのマールブルクでは、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる(≪人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化され人間化された存在としての≫)存在者レベルでの神(≪対象化され客体化された人間的理性や人間的欲求として神、その人間の物語世界・意味的世界、人間化された神あるいは神化された人間としての神≫)への信仰は、結局のところ(≪聖書的啓示証言におけるキリストにあってのまことの神としての≫)神を見失うことではなかろうか)』」と、客観的な正当性と妥当性とをもって、根本的包括的な原理的な批判を加えた(木田元『ハイデッガーの思想』岩波書店)。

 

 バルトは、このブルトマンに対して、次のように述べている――「私と同時代の神学者たちが試みかつ遂行した神学的企てのなかで、最も私の注意をひいて来たのは、ルドフル・ブルトマンの新約聖書の『非神話化』である。と言っても、それが提示する具体的な問題のためではなく」、それがルターの宗教改革を出自としそして「シュライエルマッハーによって育成されたタイプの神学の主題と方法」――すなわち、第三の形態の神の言葉に属する人間が、先ず以て聖霊の業として「啓示されてあること」に基づいて、換言すれば客観的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)に基づいてキリストにあっての「神からの呼びかけを受けることなし」に、それ故に神語り給うが故に神語り給うことを聞くということなしに、具体的には客観的に存在している第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方においてではなく、第一次的に前期ハイデッガーの哲学原理に依拠するという仕方で、生来的な自然的な人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された彼自身の物語世界・意味的世界を、「自分自身の歴史」と「現在の解釈」を表現しようとする「自己表現としての宣教」を企てるという主題と方法を「再び採用している点で、非常に印象的であるからである」。「私はその特殊な主題について、ましてその原理的な方法について」、「ブルトマンに従うことはできなかった。そこでは、神学は……新しく(≪人間学的領域における≫)特定の哲学にとらわれて、エジプト捕囚ないしバビロン捕囚の身(≪神学と人間学との「混合学」、人間学的神学あるいは神学的人間学≫)になっているのを、私は見たのである」、ここで原理的な方法とは、前期ハイデッガーの哲学に基づく「絶対的規準としての先行的理解と解釈学的原理」のことである(カール・バルト『バルト自伝』佐藤敏夫訳、新教出版および『カール・バルト著作集3』「ルドルフ・ブルトマン」小川圭冶訳、新教出版社)。