本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

ローマ3・22、ガラテヤ2・26等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<ノ>信仰」(ピスティス イエスー クリストゥー)の属格の理解の仕方――バルト自身の立場について

ローマ3・22、ガラテヤ2・26等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<ノ>信仰」(ピスティス イエスー クリストゥー)の属格の理解の仕方――バルト自身の立場について

 

 カール・バルト自身のゼミの一学生として『教会教義学 神論T/2 六章 ~の現実(上)』「三十節 神的愛の完全性 二神のあわれみと義」まで論じてきたここで、『福音と律法』の「難解さは、ここに論じられている事柄そのものの重さとこれを論じるバルトの洞察の深さからきている。この難解さに堪えて読まれる方には、それに報いて余りある喜びが分かたれるにちがいない」と訳者「あとがき」で書いた井上良雄の正直で誠実な翻訳および解説(訳注)の仕方に即して、ローマ3・22、ガラテヤ2・26等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<ノ>信仰」(ピスティス イエスー クリストゥー)の属格の理解の仕方に対するバルト自身の立場について、明確にしておきたいと考える。この場合、私は、単に「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会(≪またメディア社会≫)の神学」(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)における抽象的一面的固定的な学業的学問的な興味を持ってそうするのではなく、神の言葉の第三の形態に属する全く人間的な教会の一キリスト者である私自身の信仰・神学・教会の宣教の体験の思想化ということを念頭に置いてそうしたいと考える。

 

 ローマ3・22、ガラテヤ2・26等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<ノ>信仰」の属格を、バルト自身のように、あの「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)において主格的属格(「イエス・キリストが信ずる信仰」――井上良雄訳『福音と律法』の訳と訳注)として理解するか、あるいは伝統的解釈と言われるルターの目的格的属格(「イエス・キリストを信じる信仰」)として理解するか、あるいは近代以降の「人間の時代」(『ヘーゲル』)において人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求、人間的契機の<直接性>、近代的な人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍の尊重、人間学を前景化する近代主義的プロテスタント主義的キリスト教のように、目的格的属格(「イエス・キリストを信じる信仰」)として理解するか、という問題である。ここで先ず以て断っておかなければならないことは、ルターの場合の目的格的属格理解は、おそらくはルターの資質とあの時代性に強いられていたに違いないという点である。したがって、ルターの場合は、もしもルターが現在を生きているとするならば、そういう理解の仕方はしなかったかもしれないという可能性を持っている、すなわちバルトのように主格的属格として理解するかもしれないという可能性を持っている。しかし、人間の神化・神の人間化の原理を発見した「人間の時代」(『ヘーゲル』)を自覚した近代以降の近代主義的プロテスタント主義的キリスト教の目的格的属格理解は、極めて意識的なそれであるから、それ故に近代主義的プロテスタント主義的キリスト教は、目的格的属格理解を温存させたのであり・温存させ続けているのであり、それ故にまたそれは、それを決して手離さないし手離すことはできないのである。したがって、近代主義的プロテスタント主義的キリスト教は、神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求も、人間的契機の<直接性>も、近代的な人間の感覚と知識を内容とした経験的普遍も、人間学も、キリストにあっての啓示だけでなくその現にあるがままの人間の人間性・理性・意志性・応答責任性・決断能力等もという自然神学、自然的な信仰・神学・教会の宣教を前景化して志向し目指すのである。

 

 さて、この後者の目的格的属格理解は、すなわち目的格的属格として理解されている文語訳聖書、口語訳聖書、共同訳聖書、新改定訳聖書は、近代主義的プロテスタント主義的キリスト教(そういうキリスト教を志向し目指す人たち)に、その様々な変種(そういうキリスト教を志向し目指す人たち)に、その様々な怪しげな変種(そういうキリスト教を志向し目指す人たち)に、総括的に言えば言わば自然神学の<原理>を、自然的な信仰・神学・教会の宣教の<原理>を提供しているのである。したがって、近代主義的プロテスタント主義的キリスト教(そういうキリスト教を志向し目指す人たち)は、そうした近代主義的プロテスタント主義的キリスト教に停滞する限りは、自己欺瞞の中で、この目的格的属格理解を、すなわち目的格的属格として理解されている文語訳聖書、口語訳聖書、共同訳聖書、新改定訳聖書を、決して手離すことはできないし・手離すことはないのである。何故ならば、この目的格的属格理解は、すなわち目的格的属格として理解されている文語訳聖書、口語訳聖書、共同訳聖書、新改定訳聖書は、近代主義的プロテスタント主義的キリスト教(そういうキリスト教を志向し目指している人たち)にとっては、換言すれば近代の「人間の時代」の共同宗教としてのキリスト教にとっては、全く都合のよいものだからである。また何故<自己欺瞞の中で>ということが言えるかと言えば、例えばヨハネ8・1以下にあるようにあるいはマルコ9・22−24にあるように、正直に自分自身の内面を凝視すれば、その存在・その思考・その実践を凝視すれば、すなわちあの「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)からして認識させられ自覚させられるところのもっと根本的包括的な「罪と穢れ」に満ち満ちたその現にあるがままのわれわれ人間を凝視すれば、日々瞬間瞬間キリストにあっての神から遠ざかり遠ざかり続けている、罪を新たな罪を犯し続けている、不信仰・無神性・真実の罪のただ中を生きているその現にあるがままのわれわれ人間を凝視すれば、人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、「『自分の理性や力(感情、悟性、意志、自然を内面の原理とした身体的修行等々)』によっては、全く信じることができないことを告白」せざるを得ないからである、個体的自己としての人間も、その類も、個体的自己の成果の世代的総和も、個性も、時代性も、その時間性(現存性、歴史性)も、個体史あるいは自己史も、人類史も、人間のある道徳原理・経済制度・政治制度も、ある社会構成・支配構成・文明的文化的構成も、個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和を造り出すことは決してできないということを告白せざるを得ないからである。われわれ人間は、徹頭徹尾、完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和そのものである単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにあっての神との混淆・混合・協働・共働はできないということを告白せざるを得ないからである。親鸞や宮沢賢治に引き寄せて言えば、自分が現に身近に接している「食物の飢え」で困窮している具体的な一人の人や一部の人を施しや奉仕によって救済しようとすることは、過渡的緊急的相対的部分的な課題であるが、このこと自体も個人の力量(心的、身体的、金銭的等)の問題だけでなく、ある社会構成・支配構成・文明的文化的構成の水準に規定されているし、人類史の尖端に位置した西洋近代を生きるわれわれの精神よりも人類史のアフリカ段階の内在的精神の方が「高度でりっぱ」であるし(下記の【注】を参照)、最後的には「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」し・全体が幸せにならなければほんとうの幸せとはならないという課題は、「人間の理性や力によっては」、また人間のある道徳原理・経済制度・政治制度によっては、またある社会構成・支配構成・文明的文化的構成によっては、全く不可能であるということを告白せざるを得ないからである。

 

【注】イザベラ・バードは、『日本奥地紀行』で、アイヌ人について次のように報告している――◎彼らが使っている煙草入れや煙管入れを二ドル半で買いたいと言うと、 「それらは一ドル一〇セントの値打ちしかないから、その値段で売りたい」と言った、儲けることはアイヌ人の「ならわし」ではなかった、◎「ある一軒の家が焼け落ちた」場合には、村の男たちが総出でその家を建て直すことを「ならわし」としていた、◎明治期の日本人たちを「見て感じるのは堕落しているという印象である」。「わが西洋の大都会に何千という堕落した大衆がいる――彼らはキリスト教徒として生れ、洗礼を受け、クリスチャン・ネーム名をもらい、最後には聖なる墓地に葬られるが、アイヌ人の方がずっと高度で、ずっとりっぱな生活を送っている」、◎彼らは雨宿りを頼むと、どんな貧乏な家でも、一番よい席を提供してくれる、◎彼らには互いに殺し合う激しい争乱の伝統がない。すなわち、軍事部門を立ち上げようとする意志・国家形成の意志をもたない、◎彼らは善悪・道徳の観念、高度な宗教をもたないが、誠実、高貴、立派な生活を送っている、◎総体として「アイヌ人は純潔であり、他人に対して親切であり、正直で崇敬の念が厚く、老人に対して思いやりがある」。

 

 さて、バルト自身は、ギリシャ語原典の「イエス・キリスト<ノ>信仰」の属格に対する首尾一貫した立場を、『福音と律法』で次のように述べている――「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けたということ――これが恩寵本来の業である。これこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。彼は全く端的に、信じ給うたのである(ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の「イエス・キリスト<ノ>信仰」(≪ギリシャ語原典ピスティス イエスー クリストゥーの属格≫)は、明らかに主格的属格として理解されるべきものである)」・「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく>、(≪その受難、死と復活の出来事における十字架の死という形態、道を通って、主格的属格という形態、道を通って≫)神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦 りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、 現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」。

 

 このような訳で、前回の吉永正義の「彼を信じる信仰、(≪ギリシャ語原典≫)イエス・キリスト<ノ>信仰は」という翻訳の仕方は、旧来訳聖書や新共同訳聖書等の訳に無理矢理合わせるために、それ故に首尾一貫したバルト自身の思惟と語り、その原理、その概念構成を正直に誠実に翻訳し伝えるのではなく、故意に180度捻じ曲げて目的格的属格として「イエス・キリストを信じる信仰」と翻訳したものであるに違いない、と私は確信する(吉本隆明から文芸批評家として評価されていたところの、バルトのギリシャ語原典「イエス・キリスト<ノ>信仰」の属格の主格的属格理解を正直に誠実に翻訳し訳注した井上良雄とは違って、別に保守的であってもいいのだが、吉永にはそういう悪しき保守性があるように思われる。もちろん、一方で、私は、吉永のバルトの著作の翻訳の尽力に対しては感謝と敬意を表す者である)。このような訳で、文脈から言っても、またバルトの思惟と語り、その原理、その概念構成の首尾一貫性から言っても、吉永が目的格的属格として「イエス・キリスト<を>信じる信仰、(≪ギリシャ語原典≫)イエス・キリスト<ノ>信仰は」と訳している箇所は、本当は井上良雄が『福音と律法』で翻訳し訳注しているように、ドイツ語原典でも主格的属格として「イエス・キリスト<が>信じる信仰、(≪ギリシャ語原典≫)イエス・キリスト<ノ>信仰は」となっているに違いない、と私は確信する。したがって、ギリシャ語原典の主格的属格として理解された「イエス・キリスト<ノ>信仰」における「律法の成就」・完了であるイエス・キリストは、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのものであるイエス・キリストは、「私たちの義となられた(Tコリント一・三〇)」のである。したがってまた、「われわれは、われわれの主としてのイエス・キリストに固執することにより、またイエス・キリストがわれわれのかしらであるということに固執することにより、(中略)この主とかしらのもとで、またこの主とかしらとともに、……これからは神の義、神の子の義、神自身の義をまとっている者として生きることを許される(『ローマ書新解』)のである。したがってまた、吉永が訳したように、もしもドイツ語原典が「彼を信じる信仰」となっているとするならば(しかし、私は、井上良雄が翻訳し訳注しているように、バルト自身は、明確に、主格的属格として理解していると確信する)、その意味内容は、主格的属格として理解された「神の義、神の子の義、神自身の義」そのものである「イエス・キリストを信じる信仰」(ただイエス・キリストにのみ感謝をもって信頼し固執する)と理解しなければならないのである。

 

 このように、われわれは、バルト自身が主格的属格として理解して「イエス・キリストが信ずる信仰」と翻訳した『福音と律法』の翻訳書の井上良雄以外の翻訳者や神学者や牧師やキリスト教的著述家たちが、自然神学を、自然的な信仰・神学・教会の宣教を志向し目指す近代主義的プロテスタント主義的キリスト教を前景化して志向し目指すために、すなわち神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求も、人間的契機の<直接性>も、近代的な人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍も、人間学も、キリストの啓示だけでなくその現にあるがままの人間の人間性・人間理性・意志性・応答責任性・決断能力も温存させるために、換言すれば近代主義的プロテスタント主義的キリスト教(そういうキリスト教を志向し目指す人たち)のその原理となる旧来訳聖書や新共同訳聖書等の訳を温存させそれに無理矢理合わせるために、バルト自身の首尾一貫した思惟と語り、その原理、その概念構成を正直に誠実に翻訳し伝えるのではなく、故意に180度捻じ曲げて目的格的属格として「イエス・キリスト<を>信じる信仰」と翻訳している場面によく出会うのである、よく出会うというよりもほとんど全く故意に180度捻じ曲げて目的格的属格として翻訳し解説しているのである。したがって、われわれは、この事柄に関する翻訳と解説書には、すなわちバルトの諸著作にあるギリシャ語原典の「イエス・キリスト<ノ>信仰」を、目的格的属格として翻訳し説明しているバルトの翻訳書や解説書に対しては、常に十分な注意を必要とするのである――「教授でない者も、牧師でない者も、彼らの教授や牧師(≪や知ったかぶりのキリスト教的著述家≫)の神学が悪しき神学でなく、良き神学であるということに対して、共同の責任を負っている」のである。私がこのことを強調する根拠は、井上良雄だけが、ローマ3・22、ガラテヤ2・16等にあるギリシャ語原典の「イエス・キリスト<ノ>信仰」の属格を、バルト自身が「イエス・キリストが信じる信仰」というように、主格的属格として理解していることを、正直に誠実に翻訳し解説(訳注)しているからである。

 

 さて、ギリシャ語原典の「イエス・キリスト<ノ>信仰」の属格を、目的格的属格として理解するということは、それ故にそのように誘導するということは、近代主義的プロテスタント主義的キリスト教(そういうキリスト教を志向し目指す人たち)が決して手離さないところの・手離すことができないところの、神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求も、人間的契機の<直接性>も、近代的な人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍も、人間学も、キリストの啓示だけでなくその現にあるがままの人間の人間性・人間理性・意志性・応答責任性・決断能力もという、自然神学の段階、自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階に停滞し循環することを・停滞し循環し続けることを意味するのである。この現状については、前回も述べたように、次のように言うことができる――あの「啓示と信仰の出来事」に基づいて単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方、神の子(単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の起源的な第一の存在の仕方である父が、子として、自分を自分から区別した神の子)、啓示・和解、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストを信じないならば、換言すればあの「啓示と信仰の出来事」に基づいて「キリストの永遠のまことの神性の告白」を信用し信じないならば、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には第二の形態の聖書的啓示証言のそれ)に信頼し固執し連帯して純粋なキリストの福音を、キリストにあっての神を志向し目指すことをしないで、それ故に必然的に、人間自身が対象化したに過ぎない「存在者レベルでの神」(ハイデッガー)を志向し目指すことになってしまうだろう、それ故に「空虚な概念」でしかない「下からの半神」・「超人」・「最深の本質」・「最高の理想」・キリスト教的実存の範型・社会的政治的実践の範型としてのイエス・キリストを志向し目指すことになってしまうだろう、それ故に神と人間とのあるいは神学と人間学との混淆・混合・協働・共働を前景化し前期ハイデッガーの哲学原理に依拠した神学に属するブルトマン(その学派)のように、「『今日まさにこのマールブルクでは、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか』」と人間学に属するハイデッガー自身から根本的包括的に原理的に批判されてしまうことになるであろう、それ故にまた神と人間とのあるいは神学と人間学との混淆・混合・協働・共働を前景化し「終末論的」な「将来的なものの力」としての「御霊」の概念によって「終末論」と「歴史」とを結びつけ「終末論的なものが、このような仕方で歴史的になることによって、歴史的なものが終末論的になる」という神学的な三段階的進歩史観において救済史を構想した神学に属するモルトマンのように、換言すればヘーゲル学者の山崎純によれば、ヘーゲルにおける神の彼岸性を克服した「神の内なる人間、人間の内なる神という神人一体、神人和解の理念」における宗教とは、人間の自己意識によって対象化された自由と理性の理念であり、モルトマンは、このヘーゲルの歴史は自由の概念の実現過程であるということに基づいて、「律法・父の国・奴隷状態」(≪世界史的段階で言えば、自然にまみれた原始未開の段階≫)、「恩寵・子の国・神の子供状態」(≪世界史的段階で言えば、自然から対象的にはなったけれども、その対象的自然を自己意識・理性・思惟によって対象化して自然から完全に超出でき得ていないアジア的段階≫)、「自由・霊の国・神の友の状態」(≪世界史的段階で言えば、人類史の頂点としての自然から完全に超出し自由を認識し自覚し獲得した西洋近代の段階≫)という神学的な三段階的進歩史観において救済史を構想した神学に属するモルトマンのように、西洋近代を頂点とする直線的な進歩史観は既に時代状況が全く許さなくなってしまったから(下記の【注】参照)、そうした時代状況そのものが、既にそのモルトマンの思惟と語りと構想を死語化してしまうであろう(まさに死語化してしまったのである、それ故にそれでもモルトマンを称賛する者は時代錯誤も甚だしい者である)、すなわちモルトマンの「何らかの抽象を以て始められ」た神学的な三段階的進歩史観は、時代状況によって「空論に終」わらされてしまったのである。このように、思想傾向や時流や時勢に即自的に流されている・流され続けている現存する教会(その一つの機能としての神学)が向かう先は、例えば日本基督教団の戦争責任の告白にある「あの戦争に同調すべきではありませんでした。まさに国を愛する故にこそ、キリスト者の良心的判断によって、祖国の歩みに対し正しい判断をなすべきでありました」というような可視性を重んじただけの矛盾した思慮なき身体的な社会的政治的実践でしかないのである、換言すれば経済の世界性と戦争の元凶である民族国家(一部支配上層の意思によって動員できる強大で強力な軍事組織を持つ民族国家)の一国性を単位として動いている世界においてそのことも認識し自覚しないで、また政治的近代国家が経済的基盤を資本主義(高度消費資本主義)に置く現実的な私利・私意を精神とする利己主義的な個別的私的な近代市民社会の諸矛盾・諸利害の対立の観念的法的政治的な共同的疎外態(共同的形態)でしかないということも認識し自覚しないで、起源的な第一の形態の神の言葉(具体的にはその第二の形態の聖書的啓示証言のそれ)を自らの宣教、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者としないところの、人間自身が恣意的独善的に対象化したに過ぎない「存在者レベルでの神への信仰」としての共同宗教としてのキリスト教として、法、国家との外在的な形態の違いはあるのだが、その内在性においては、それを疎外した主体はこちら側にあるのに第一義性・価値性は<いつも>疎外された側(人間自身が恣意的独善的に対象化したに過ぎない「存在者レベルでの神への信仰」としての共同宗教としてのキリスト教の側、あるいは観念的な法的政治的な共同的疎外態としての国家の側)に移行してしまうという意味で、そうした共同宗教としてのキリスト教の最後的形態は政治的近代国家にあるということも認識し自覚しないで、「まさに国を愛する故にこそ、キリスト者の良心的判断によって、祖国の歩みに対し正しい判断をなす」というような可視性を重んじただけの矛盾した思慮なき身体的な社会的政治的実践でしかないのである。また、ここで言われている「良心的判断」にしても、往相的観点と還相的観点という思想の往還を生きた親鸞に引き寄せて言えば、聖職者、宗教者、大学知識人、医者、警察、教員、法律家、国民全体の奉仕者である政治家や官僚、善人、誰であろうと、現実的な戦争とか愛憎問題とか利害対立とかの不可避な 「機縁」さえあれば、自分が意志しなくとも、人一人だけでなく多数の人を殺し得る(悪を行い得る)という究極的観点(還相的観点)を構造化することができなければ、恣意的独善的に抽象され固定され全体化された「良心的判断」という自己欺瞞に満ちた市民的観点・市民的常識(往相的観点)は空論に終わるしかないのである。「戦後70年にあたって 平和を求める祈り」や「抗議声明」も、それらと同じ水準にあるものである。1948年バルトは次のように書いた――「六〇〇万人のユダヤ人が殺され……ありとあらゆる恐怖と困窮が人間を襲い、しかもすべてはちょうど風が……花の上を吹くように来て、また去って行った。……草や花はしばらく身を曲げる。しかし風が静まれば、また身を起こす。……ある近代劇(≪近代主義的プロテスタント主義的キリスト教、その宣教、その思惟と語り≫)」が『私たちはまた逃げおおせた』という言葉でこれを言い直しているように」(『バルト神学入門』)、まだあるのだ――第二次世界大戦後において、「私は教会のなかに、破滅に急ぎつつあった一九三三年当時と同じ構造、党派、支配的傾向を見出した」・「公然たる信条主義や教権主義、およびいろいろ賑やかな姿で現われている典礼主義への興味によってよびおこされた関心」を見出した・意識された世俗主義への興味関心の傾向を見出した・「私は、前よりももっと明瞭に人間――キリスト者もまた、そしてキリスト者こそ!――がもともと頑なであり、容易に悔改めに導かれえないということを認識したのである」(『バルト自伝』)。

 

【注】ミシェル・フーコーは、『フーコーと禅』で次のように述べている――「私に興味があるのは、西欧の合理性の歴史とその限界です……」。「西欧思想の危機と帝国主義の終焉は同じものです」。そうした中で、「時代を画する哲学者は一人もおりません。というのも、……西欧哲学の時代の<終焉>であるからです」(だからと言って、このことは、人類史におけるアジア的特殊性あるいは日本的特殊性としての思想的伝統、習俗、社会構成、文化への復古的傾向を生み出すことがあり得るとしても、自然史の一部としての人類史の自然史的過程における退行・逆行を意味することはできない。したがって、経済的基盤を農耕に置いた人類史のアジア的段階への退行・逆行を意味することはできない。何故ならば、経済社会構成の拡大高度化、科学技術の発達、その知識の発達増大、生活の利便性の向上は、自然史的必然だからである)。「西欧とは、世界のある特定の地域であり、世界史上のある特定の時期にあるものです」。その西欧は、近代以降において、世界普遍性を獲得した地域、「普遍性誕生の場」である。この意味で、「西欧思想の危機とは、すべての人々の関心を引き、すべての人々にかかわり、世界のあらゆる国々 の諸思想、あるいは思想一般に影響を及ぼす危機なのです」。「たとえばマルクシズムは、(中略)一つの思想形態……一つの世界ビジョン、一つの社会機構となりました。(中略)マルクシズムは現在、明白な危機のうちにあります。それは西欧思想の危機であり、革命という西欧概念の危機、人間、社会という西欧概念の危機なのです。それはまた全世界にかかわる危機……です」。さて、吉本隆明は、アジア的な日本的特殊性の認識と自覚に基づいて日本の状況について、「現在の日本では骨肉にまで受け入れた西欧近代というものの部分で西欧とおなじ危機に陥っています。その一方で、西欧的にいえば(≪人類史における西欧的段階の概念から言えば≫)アジア的という概念で括られる思想的伝統、習慣、風俗、社会構成、文化を引きずっています。そうすると、現在日本のもっている危機の意味あいは二重になってきます」と述べている。すなわち、日本においては、西欧的危機の課題とアジア的・日本的特殊性の課題を構造として扱う必要がある。この意味で、欧米への留学は、特に人文系の場合(それ故に神学研究の場合)、箔と欧米的なある部分的な学業的・学問的な知識を得られることができるかもしれないが、西欧的危機の課題とアジア的・日本的特殊性の課題を構造として引き寄せ扱うことができなければ、その神学の知識は、やはり「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」としかならないであろうし、そういう水準のものでしかないであろう。

 

 それに対して、起源的な第一の形態の神の言葉、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言のそれに信頼し固執し連帯したバルト自身は、そのような段階を、原理的に根本的包括的に包括し止揚し克服して、<非>自然神学の段階へ、<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階へと移行するために、ギリシャ語原典の「イエス・キリスト<ノ>信仰」の属格を、主格的属格として理解したのである。何故ならば、バルト自身は、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、具体的にはその第二の形態の聖書的啓示証言のそれに信頼し固執し連帯し、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方、すなわち神の子、起源的な第一の形態の神の言葉、啓示・和解、福音、完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和そのもの、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト(その死と復活の出来事)――この「一つの事柄に仕えなければならないのであって、ひとつの党派(≪教派、学派、思想傾向、多元主義、ある社会的政治的な言説や実践等々≫)に仕えなければならないことはない……、一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……」(『教会教義学 神の言葉T/1・2』)という自分の立場で、そういう一切の党派性を包括し止揚し克服しようとしたからである。このことは、聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯した神学における思想の問題であり、聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯したバルトの神学的な決断と態度を表している。吉本隆明も、二元主義的なあるいは多元主義的な立場を批判して、次のように述べている――「対立する双方に真理があるというような俗説が、世界史的に流布され、流通している」中で、「自らの立場」において、「両者を包括し止揚しなければならない」ということが「思想的な問題」である(『思想の基準をめぐって』)、「なぜならば、思想は物質ではなく外化された観念である」からである、この「観念(≪思想≫)の運動は、観念(≪思想≫)によってしか埋葬され」ないから、「甲の観念(≪思想≫)は、乙の観念(≪思想≫)がそれを包括し止揚することによってしか、いいかえれば甲の観念(≪思想≫)を生かして袋に入れること(≪否定的に媒介すること≫)によってしか滅びないからである」(『カール・マルクス』)。

 

 『福音と律法』に引き寄せて言えば、「福音と律法の真理性」における福音を内容とする福音の形式としての律法は、イエス・キリストにおいて完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和である「恩寵への召喚」のことである。したがって、恩寵が「告知」・「証し」・「宣教」される時、「私は私のものではなく、私の真実なる救い主イエス・キリストのものだ」、イエス・キリストにのみ感謝をもって信頼し固執せよ、という福音の形式である律法が建てられるのである。何故ならば、この神の本質の区別を包括した単一性における福音を内容とする福音の形式としての律法(神の命令・要求・要請、キリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)がなければ、われわれ人間は、現実的にキリストの福音を所有することができないからである。この意味において、律法は、本来的には「生命に導くべきもの」・「神の恩寵を証しするもの」という事実において、福音を内容とする福音の形式なのである。したがって、この意味において神の律法(神の人間に対する命令・要求・要請)は、人間論的な自然的人間にしても、教会論的なキリスト教的人間にしても、誰にしても、その現にあるがままのわれわれの人間的存在は、日々瞬間瞬間キリストにあっての神から遠ざかり遠ざかり続けている・罪を新たな罪を犯し続けている不信仰で罪と穢れに満ち満ちたただの人間でしかないのであるから、またわれわれ人間の「『理性や力によっては』全く信じることができない」のであるから、またこれらのことをイエス・キリストにおける啓示によって認識し自覚させられているのであるから、われわれ人間は、単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストの人間的側面をさえも模倣することはできないし、神の側の真実としてある主格的属格としてのイエス・キリストが信じたように信ずることもできないのである、換言すればその人間的側面の模倣ということでもないのである――否、そもそも主格的属格としてのイエス・キリストをも、その現にあるがままのわれわれ人間の「『自分の理性や力によっては』全く信じることはできない」ということを告白せざるを得ないのである。このような訳で、われわれ人間は、あくまでも神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」(≪その死と復活の出来事におけるイエス・キリストの啓示の出来事と聖霊の注ぎによる人間的主観に実現された神の恵みの出来事、すなわち聖霊の注ぎによる信仰の出来事≫)に基づいて与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)においてのみ、「神の義、神の子の義、神自身の義」そのものである主格的属格としてのイエス・キリストを感謝をもって認識し信仰することができるのである。したがって、われわれ人間は、「福音の中核」であるイエス・キリストが、「律法を満たし・すべての誡めを遵守し給うたという事実(≪「律法の成就」の事実≫)」から考えなければならないから、キリストの福音に対する素直な感謝の応答、キリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指していくことを、キリストにあっての神から命令・要求・要請されているのである。それは、ア)神の側の真実としてある主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信じる信仰)による「神の義、神の子の義、神自身の義」そのものにのみ感謝をもって信頼し固着すること、すなわちその「神の義、神の子の義、神自身の義」そのものとしての「十字架につけられ甦り給うたイエス・キリスト」にのみ感謝をもって信頼し固着すること、そのキリストの福音の告白と証しと宣べ伝えにある。イ)「われわれには絶対に実現出来ぬイエスの代理的な信仰を、承認し受け入れる」ということにある。ウ)「われわれの生命がキリストと共に保管されている」ことを承認し受け入れるということにある――これらアからウまでの事柄が、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が<教会自身>と<世>に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」なのである。この時には、ある思想傾向や時流や時勢に流され・流され続ける現存する教会のように、声高にキリスト者は可視性を重んじた身体的な社会的実践(行動)や政治的実践(行動)が必要であると叫ばなくても、バルトのように、それが社会的な事柄であれ・政治的な事柄であれ、徹頭徹尾、起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には第二の形態の聖書的啓示証言のそれ)を自らの宣教、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、「かつて語った(≪キリストの福音の≫)説教の一貫した繰り返しが、(ある状況に抗するそれとして)おのずから(≪心的に、神学的に、思想的に、身体的に、その総体において、≫)実践に、決断に、行動になって行」くのである。