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池上彰×佐藤優『希望の資本論』(朝日新聞出版)から垣間見ることのできるメディア的知識人およびメディア的著述家の知識の位相について

池上彰×佐藤優『希望の資本論』(朝日新聞出版)から垣間見ることのできるメディア的知識人およびメディア的著述家の知識の位相について

 

 7月下旬に自動車免許証の更新に行った時、バス(年齢のことも考え、自家用車を手放し、自家用車中心から公共交通機関と徒歩中心に切り替えた。最初は大変だったけれど、今は慣れてきた)の乗り継ぎ地点にある市立図書館へ寄って、いま人気のある池上彰が佐藤優と対談しているということだったので、『希望の資本論』という本を借りてきて読んでみた。バルトの聖書論はあと2回で完了するので、その前に、この本についての若干の感想を書いておきたいと思った。
 先ず、池上の発言から――
(1)ピケティの『21世紀の資本』という「この本は、300年にわたる経済成長率や労働分配率のデータを分析して、貧富の格差は拡大し続けているということを証明した」、またこの本は、「過去の納税データを膨大に集積して、資本主義では格差は広がるという話を実証的」にしている。
(2)ソ連が崩壊し資本主義が勝利したことになったが、「社会主義革命が起こる前の恐慌がひつきりなしに起こり、悲惨な労働状況が蔓延していた、まるでマルクスが『資本論』で書いた当時のような状況に戻ってしまった」(佐藤も、この意見に、「その通りだ」と賛同している)。
(3)『資本論』を学んでいると「リーマン・ショックのようなことが起き」ても、「資本主義の限界や、恐慌というのは周期的に起きるもの……ということを知っている」から「パニックになる」ことはない。
(4)ピケティの『21世紀の資本』に対して、朝日・毎日・東京新聞はこの本に依拠して「格差の拡大」を問題としている。「読売は、『21世紀の資本』に対してはいろいろなところから批判が出ていてデータが怪しいと言われている、という論調」の記事を載せている。日本経済新聞は、ピケティに依拠して「格差是正と経済成長は矛盾しない」という論調の記事を載せている。
(5)マルクスとは違ってピケティは、議会制民主義、資本主義的社会(近代市民社会)――政治的近代国家という枠組みを前提し固定して、下からの構造改革を目指す構造改革主義的な「政治経済学」的立場で「現代を見ている……」。言い換えれば、さまざまなデータ分析から「資本主義においては必ず格差が広がる傾向にある」という理論を得たピケティは、「こうした格差を少しでも改善し、縮小させるためには、資産税等ということを考えていかなければならない」と考え、そのためには「民主主義の力」が必要であるから、この本は「民主主義の本」であると自己規定している、そして「いまこそ民主主義によって、資本主義経済のさまざまな矛盾を押さえ込むべきで、……それができるというふうに考えている」。
(6)(池上自身の発言)「労働力の再生産の費用をどんどん引き下げようといういまの資本の運動があって、そもそも社会的な再生産費を下げる動きがある。それこそ吉野家の牛丼で」。

 

 先ず第一に、(1)から(6)までの池上の発言から、池上は、資本主義が自然史の一部としての人類史の自然史的過程の中から自然史的必然として出現してきたというその歴史性と、マルクスの分析した資本制的生産様式の時代性と、自らが対象とする資本主義の現存性を明確に区別していないがために、池上の思考における資本主義の段階はマルクスの時代(産業構造的に第二次産業を中心とする生産資本主義の段階)と同じ水準のまま停滞している。その証左となる発言が、(2)と(3)である(この池上の発言に佐藤も賛同している)。
 したがって、第二に、池上は、マルクスと同時代的な「恐慌」概念を使い、ソ連が崩壊し資本主義が勝利したことになったが、「社会主義革命が起こる前の恐慌がひつきりなしに起こり、悲惨な労働状況が蔓延していた、まるでマルクスが『資本論』で書いた当時のような状況に戻ってしまった」、と発言している・また池上は、『資本論』を学んでいると「リーマン・ショックのようなことが起き」ても、「資本主義の限界や、恐慌というのは周期的に起きるもの……ということを知っている」から「パニックになる」ことはない、とも述べている。しかし、産業構造的に第二次産業中心の生産資本主義の段階の時代性に現存したマルクスにおける「恐慌」は、その生産資本主義的段階における過剰生産恐慌としてあるから、この現在に現存する産業構造的に第三次産業を中心とする高度な消費資本主義の段階においては、「バブル」は起こっても「恐慌」は起こらないのである。このことについて、吉本隆明は、次のように述べている――日本における、平成不況、「住専問題、銀行の不正融資の摘発、山一証券の倒産、北海道拓殖銀行の経営破綻」は、表層的には企業経営の失敗に原因があると同時に、橋本内閣の構造改革主義(構造整理・機構整理とアメリカ的な生活自助の原則)の一環としてあった・また、不況の長期化の中で、マスコミは、第一次世界大戦時の「昭和恐慌」が戦争特需による金融機関の企業への設備投資のための巨額の融資の不良債権化を原因の一つであったから、そうした状況がバブル崩壊後と似ているということで、「平成恐慌」が起きるという「デマ」を流した。こういうデマ・「論調の背後にいるのは、古いタイプのマルクス主義の経済学者たち」である・なぜならば、需給バランスが大きく崩れて過剰生産や過少生産が起こり得た生産資本主義の段階の時代性に生きたマルクスは、周期的な「恐慌」を理論的に計算したのだが、現在は高度な消費資本主義段階にあって需給のバランスを統制できる産業部門が増加しており、「恐慌」は起こり得ないからである・したがって、高度な消費資本主義の段階においては、自然必然として「バブルを引き起こす」と言うべきである・リーマン・ショックも住宅購入用途向けサブプライム・ローンの不良債権化を契機とした「バブル」の崩壊に因って起こった・バブルがなぜ惹き起こされるかと言えば、それは、資本主義自体が、自然必然として「そういうことを引き起こす契機を内包しているから」である・すなわち、「根底的に言えば、それは、人間の欲望の中に、……もっと広い家に住みたい……もっとおいしいものを食べたい」、あれも欲しいこれも欲しい、あのこともしたいこのこともしたい、あそこへも行きたい、あのような貌になりたい等々の「欲望」の中にある・資本主義の拡大高度化は、人びとの間に、自然必然的にそうした際限のない欲望を芽生えさせ蔓延させてきた・したがって、日本における「平成恐慌」の本質は、政府による金融機関の「構造改革」・「構造整理」、「金融機関の贅肉を削ぎ落とし、体質を改善して、筋肉質にしようと」する上からの「構造改革」・「構造整理」なのである・「週刊誌」は「売れればいいから」、平成「恐慌」と「書き立て」が、「そんなこと……大ウソ」である・生産と消費を別の概念として理解すると間違う・消費(支出)とは「遅延または先行された生産」、媒介的な付加価値生産を行う消費である・卵を購入して生卵のままで食べるその消費も身体を維持するための消費的生産であるが、高度な消費資本主義段階においては、電気を技術的に応用した電化製品の普及でそれらを媒介して卵をさまざまに加工する(人間の手を加える)ようになるからその消費は付加価値生産と言うことができる・消費資本主義段階においては、GDPの約6割を占める個人消費(ここで重要なのは選択的消費である)の動向(前年同期比の増減)と企業の国内設備投資の動向(前年同期比の増減)とが景気動向を判断する重要なメルクマールである、すなわちそれらが不況判断のメルクマールである・したがって、不況脱出の唯一の道は、個人消費(選択的消費)の拡大、その消費に関わる第三次産業への公的資金の投入以外にはない・したがってまた、企業の自己資本比率の強化のための公的資金の投入、第二次産業の法人税減税のための公的資金の投入は第一義的な事柄ではない・「高度な資本システム」の消費資本主義段階は、意識的に対応可能な「制度、秩序、体系的なものに象徴される物の系列」に「マス・イメージ」(共同の観念的形態、共同幻想、共同の無意識)を付加することを強いて「虚構の価格上昇力」を形成する、それゆえに価格と価値の対応性をなくしていく、さまざまな商品の価格破壊を惹き起こす。価値(労働価値――人間の労働を介した人間化された自然、対象化された労働、対象化された自然、生産物に価値が付加される)が同じでも、消費欲望を駆り立てる宣伝文句によって豊かなイメージを付与された商品や見た目に美しい色や形の商品は、実質的な交換価値とは別のイメージ価値が付加される・生産と遅延された生産である消費との対応関係、換言すれば生産と生産との対応関係は、第三次産業が中心の消費資本主義の段階においては、途中の媒介的労働が「多様化しているために」、価格と価値(労働価値)が対応しなくなっている・私の体験に則して言えば、普段なら、15枚で3千円位のエビせんべいが半額くらいで購入できる、挽き立てのブルマンブレンドコーヒーが半値以下で購入できる、JTB・るるぶやじゃらんトラベルや楽天トラベルにおいて宿泊代2万円/人強(2人で4万円以上)のホテルが、ポンパレで1万円/人弱(2人で2万円弱)で宿泊できる、等々事例は沢山ある・また、マルクスの『資本論』によれば、水や空気は使用価値はあるが交換価値はないということであったが、1973年にサッポロビールが「ナチュラル・ミネラルウォーターNO.1」という天然水に価格を付けて販売した時、「マルクス経済学の前提が崩れた」と同時に、そのことは「古典経済学や近代主義的な経済学の終焉を意味」した・高度な消費資本主義社会は、消費過剰な社会であり、衣食住のためにだけ働く社会ではない社会、過剰に消費する分だけ技術が進歩発達しているにも拘わらず過剰に働くことを強いる社会である、そういうメカニズムの社会である・したがって、「バブル」を惹き起こすが、「恐慌」を惹き起こすことはない・人間の病態にも差異があり、マルクスの時代の資本主義病は身体的な肺病だとすれば、現在の消費資本主義病は普段は正常でもある時には正常と異常の境界を行き来する精神の病にある。老いも若きも日常的に、他者の身体・生命へと向かう殺傷事件を惹き起こしている。テレビの番組では、皆が、虐められ役が虐められているのを見て馬鹿笑いしている。作家・中村うさぎは、自分自身の衣食住の生活的必要に依拠しない消費行動について、自分自身をさらけ出して、次のように書いている――高度な資本システムに無意識的に強いられて、1992年新宿伊勢丹のシャネルで「衝動買い」したときから、「眠っていた欲望」が暴走し始めた・その後、60万円の革のコートを購入するのだが、その代金を「カードで支払った時、すさまじい快感に襲われ」た・「以来、海外ブランド物を買いあさる」・一度に買い込む金額は、100万円、200万円とエスカレートしていき、「印税が底をつき、カードが使用停止」になった・「自宅の水道やガス、電話が料金未納で止められたこと」もあった・買物依存症がおさまったとき、今度は美容整形に走り、現在「顔で原型をとどめているのは口と鼻先の二カ所だけ」となった・韓国の俳優は貌の美容整形をすることが当たり前らしいが、それは、化粧だけでは自分の欲望を充たせず美容整形による加工で自分の自然の貌に価値を付加する行為と言えるが、中村は「以前なら年をとれば容貌が劣化し、静にあきらめていけた。現代人はあきらめられない地獄に突き落とされている」、「消費社会の漂泊者でいたい」、と言う(朝日新聞、2006年9月22日夕刊)。芹沢俊介は『消費資本主義論』で、次のように述べている――消費社会に適応する貨幣の典型は、クレジットカードである・それは、第一に「個人化された貨幣」であり、第二に「移動ないし運動しない貨幣」、すなわち持続した「欲望」を喚起させる貨幣である・クレジットカードが貨幣であるということは、この「カードが商品」であり、それは、消費資本主義的段階の社会において、「一般等価物(貨幣)」としての共同幻想性を獲得しているからである。
 第三に、(5)と(6)について言えば、ピケティも、池上も、法的政治的な国家の無化を伴う社会的現実的な個体的自己としての全人間の究極的総体的永続的な解放を革命の究極像に置いたマルクスとは違って、資本主義的社会――議会制民主義、政治的近代国家という枠組みを前提し固定して、下からの構造改革を目指す構造改革主義的な「政治経済学」的立場に立って発言している。すなわち、両者ともに、「格差を少しでも改善し、縮小させるために」、「財産税等」の導入が必要であり、そのためには「民主主義の力」が必要であり、「いまこそ民主主義によって、資本主義経済のさまざまな矛盾を押さえ込むべき」であるから、資本主義的社会――議会制民主義、政治的近代国家という枠組みの中で、下からの構造改革を考えていかなければならない、と考えているのである。言い換えれば、ピケティも池上も、資本制的生産様式(等価交換的価値論)とは異なる新たな生産様式(新たな価値論)の構成を志向し目指すのではなく、あくまでも資本主義的社会――議会制民主義、政治的近代国家という枠組みを前提し固定して、それゆえに国家を第一義・価値とするあるいは前提し固定する国家主義的な、それゆえに政策的言語や法的言語を介するところの、それゆえにまた結局は現体制の法的政治的国家に包摂されてしまうところの、「人間の理性を信じ」る下からの構造改革論者なのである。吉本は、次のように述べている――現在、人民民主主義であれ、社会民主主義であれ、自由民主主義であれ、「<民主主義>という名の政策決定につきまとう限界」は、政治過程の政策決定が、「一般民衆の人格の総和」として決定されず、水面下で「政策者の人格にかかわる内密さ親疎や偏向」に依存して決定され、その決定された政策が公開されてくるという点にある。この限界性の中にある「世界政治の現状で一般民衆の大多数の政治意志が同意しなければ、どのような政策決定もできないという真正の民主主義ができるためにはふたつの方法しかない。それは、第一に、一般大衆の無記名直接の投票によって政府(政策決定の最高機関)を、いつでもリコール」することができるという「法的な装置」、国家を大多数の被支配としての一般大衆・一般国民に完全に開いていく制度を持っていることと、第二に、「一般大衆の大多数の経済的な実力が、いつでも政府をリコールさせるだけの力能まで成長すること」である。この後者の「力能」については、アメリカ、日本、EU(フランス、ドイツ、イタリア、イギリス)経済先進国においては、すでに達成されている。このように、ほんとうは、経済先進国の大多数を占める被支配としての一般民衆は、後者に依拠して意志して連帯すれば、政府を打倒する力能を潜在化させているのである。ただ、この認識と自覚が必要なのである。ピケティや池上は、個体的自己としての全人間の社会的現実的な解放への志向性、「真正の民主主義」への志向性、その方途の提起を持たないのである。なぜならば、ピケティや池上の思考が、その最初から、資本主義的社会――議会制民主義、政治的近代国家という枠組みを前提し固定しているからである。
 このように、ピケティや池上は、(1)から(6)までの発言によって、一貫して資本主義的社会――議会制民主義、政治的近代国家という枠組みの中で、下からの構造改革を考えている構造改革主義者であるということがよく分かる。したがって、ここに、結局は、政策的言語や法的言語によって現存する政治的近代国家(体制)に包摂されていくメディア的知識人の典型を見ることができる。ここに、メディア的知識人・池上の知識の位相があることが分かる。それでは、メディア的著述家・佐藤の場合は、どうであろうか。

 

佐藤の発言から――
(1)マルクスの『資本論』を読んだことがないと述べているピケティに対して、ピケティは「賃金を分配論で考えているんですよ。これは『資本論』の論理だとアウトです。賃金は生産論で決まるのですから」・「『資本論』の賃金論は内部留保などとは関係がない……『資本論』の論理に基づけば賃金の額は分配ではなく生産の段階で決まる」。
(2)「資本主義システムとは、永遠に生きるゾンビです」。
(3)「実はマルクスの『資本論』のもう一つのポイントは、どうやって資本主義が出てくるかということで、資本主義とは実は偶然からできている」
(4)マルクスは政治的経済学と言いましたが、最終的には経済学のほうにどんどん特化していっている。それは、純粋な資本主義社会において、社会システムの基本は経済だから、まずそれをおさえて、その制約条件のもとに政治をやるのだと、こういうふうに考えたわけですよ。
(5)マルクスの『資本論』で「重要なのは、結局価値を造り出しているのは労働力だけなんだ『労働価値説』です」。
(6)池上が日本人人質事件を起こしたISの使った「日没までに」という曖昧な時間意識(しかし、イスラム世界では「リアリティーがある」)を問題にしたことに対して、佐藤は、突然、「マルクスは数学があまり得意でなかったから、等号でつないでしまっているんですけれども」と言いつつ、「マルクスの『資本論』を読んでみなさい、視座を少し変えてみると事柄の本質が見えてくるという話になるわけです。20エレのリンネルと1着の上着の間に同じ労働時間があると『資本論』の第1巻では言うけれど、第3巻を読んでみると、マルクスはその機械の使い方によって、資本の有機的構成によって価値は変わってくると言っているから、矛盾しているじゃないと」、と述べている。
(7)「資本主義はそう簡単に壊れない。……このシステムには相当問題がある。それは人間をぼろぼろにする危険性がある。だからとりあえずうまくつきあって行かなければならない。(中略)それでも、資本主義にとらわれないような生き方はできるわけです」・「『資本論』を読んだ結果、どんないいことがあるのかというと、資本の論理に巻きこまれないためには直接的な人間関係が重要だということが分かるんですよ。……資本の論理が分かると、お手伝いをしたら子どもに今日は500円あげるとか、そういうことをしなくなる」。
(8)「『資本論』の強さは『論理の力』」にある。
(9)「ものごとはつながっているんです。だから体系知というのは重要で、体系知として、システムとして理解しておく」。
(10)『経済学・哲学草稿』は「ジェンダー論の観点でも面白いんですよ。ある社会の構造というのは、その社会のにおける男の女に対する対応を見れば分かると」。
(11)労働力価値の構成要素の生活の生産・再生産の概念からすれば、安倍政権の女性の「活用」あるいは「活躍」社会の政策は、資本主義存続のための「女性の……『名誉男性』」化にある。
(12)早稲田と慶応で講義をして「明治維新とか、日露戦争勃発とか」の年号問題を「100題出したら、「早稻田大学の平均点が5点」だった。
(13)「無神論を勉強していたらもうこれは半年くらいで、マルクスやフォイエルバッハの言っている無視論は、キリスト教神学でとっくに克服されていることが分かりました」。

 

 佐藤の発言の特徴は、(1)から(13)までの発言を眺めてみても、佐藤がピケティや池上のような一貫した課題をどこに置いているのかが全く不明なままの発言にある、と言うことができる。したがって、最初に結論を書いてしまうとすれば、メディア的著述家・佐藤の知識の位相は、それがどのような水準のものであれ、池上の場合と違って、佐藤からは明確な一貫性のある課題を見出せないという点にある、と言うことができる。もう一つ、佐藤の知識の特徴は、その知識自体に自己相対化視座を持っていないから、その知識や発言が客観的に見て根本的包括的な原理的な誤謬を持っていたとしてもまた支離滅裂なものであったとしても、いつも自己絶対化的に流通させているという点にある、と言うことができる。現在確かに高度情報社会下で生活者大衆は、言語的・映像的マス・メディアの発達によって、状況的に「非言語的、非映像的な存在」として存在することを許されなくなってしまい、量的にも質的にも書かれ話されるマス・コミュニケーション下に登場する<知的>大衆へと大きく変容を遂げたのだが、支配の制度がある限り今でも知識の課題は、生活者大衆(大衆の常民的存在)を思想にとっての普遍的な価値基準、等価の基準、社会的存在の自然基底として、知と非知とのくり返しの往還を行うところに、すなわち知と非知とを架橋するところに、あるとした詩人であり・文芸批評家であり・世界的な思想家であもある吉本でさえ、次のような自戒を持って思想し発言していたのである――「わたしは、個人がだれでも誤謬をもつものだということを、個性の本質として信じる。しかし、誤謬に普遍性や組織性の後光をかぶせて語ろうとするものをみると、憎悪を感じる。(中略)弱さは個人の内部に個性としてあるときにだけ美しいからだ」(『カール・マルクス』)。このような自戒を、聖書的啓示証言から得られた「終末論的限界」等々という自己相対化視座を明確に認識し自覚し持っていたバルトを論じているキリスト教的著述家であるにもかかわらず、このバルトや吉本のような自己相対化視座を、佐藤は全く持ち合わせていないのである。
 (1)〜(7)の発言について言えば、先ず第一に、ピケティ自身が『資本論』を読んだことがないと言っているにもかかわらず、ピケティは「賃金を分配論で考えているんですよ。これは『資本論』の論理だとアウトです。賃金は生産論で決まるのですから」、と述べている。そのピケティに対して「アウト」の判決を下した当該・佐藤自身が、何のためらいもなく平然と、「……数学があまり得意でなかったから、等号でつないでしまっている……」マルクスの「……『資本論』のもう一つのポイントは、どうやって資本主義が出てくるかということで、資本主義とは実は」<「偶然」>「からできている」というように、マルクス自身の言説(『資本論』の、マルクス自身の、重要な立場)とは全く違う逆のことを述べているのである。人は、この発言を読む時、あ! 佐藤は、ほんとうはマルクスを理解していないのだな、ということを知るのである。この時、人は、佐藤を、ブツ切り的な知識をひけらかす政治的ハッタリ屋に見えるに違いないのである。言い換えれば、この時、人は、佐藤が、カール・バルトに対してと同じように、マルクスもほんとうは根本的包括的に原理的に理解していないのだ、ということを知るのである。確かに、人は、誰もが、勘違いや書き間違いや言い間違いや失言や誤謬を犯すに違いない。しかし、ここに自信過剰な人物がいる、彼は、自分自身の知識や発言に対する自戒や自己相対化視座を持たず、上から目線で何のためらいもなく平然と、根本的包括的な原理的な誤謬に、普遍性やメディア的組織性の後光をかぶせて語る、それは、キリスト教的メディア的著述家、佐藤である。
 マルクスは、『資本論』「第1版の序文」で、明確に、「私の立場は、経済的な社会構造の発展を自然史的過程として理解しようとするものであって、決して個人を社会的諸関係に責任あるものとしようとするものではない。個人は、主観的にはどんなに諸関係を超越していると考えていても、社会的には畢竟その造出物にほかならないものであるからである」、と述べている。マルクスは、人類史における資本制的生産様式(価値論、交換価値論)の出現を、「偶然」としてではなく、それとは全く逆に、自然史の一部としての人類史の自然史的過程における自然史的<必然>(吉本は「歴史の無意識」とも呼ぶ)として理解しているのである。マルクスは、人類が資本主義にまで辿り着いた経済的社会構成の歴史性を、自然史の一部である人類史の自然史的過程として、自然史的<必然>として理解しているのである。言い換えれば、マルクスは、それが良きものであれ悪しきものであれ、すなわちそれが豊かさをと同時に悪や欠陥や矛盾を内包するものであれ、その経済社会構成の拡大高度化も、科学・技術の進歩発達も、その知識の増大高度化も、原子力の技術的応用等々も、そのことによる生活の利便性の向上も、自然史的過程として、自然史的<必然>として理解しているのである。したがって、マルクスは、それらの事柄は、道徳や倫理の問題ではないし、意志的にある程度は遅延させることはできるとしても、停滞させたり逆行させたりすることは決してできない事柄である、ということを述べているのである。このような訳であるから、メディア的知識人を含めてメディア的著述家の言うことをそのまま鵜呑みにしたり模倣したりしない方いいのである。なぜならば、彼らの言うことをそのまま鵜呑みにしたり模倣したりした場合、「誤謬は必然」となってしまうだろうし、それゆえに自分自身や他者が馬鹿を見ることが必然となってしまうからである。
 マルクスの述べた内容とは全く違っていることを、これがマルクスの考えだと平然と述べる佐藤は、次のようなことも平然というのである――「資本主義はそう簡単に壊れない。……このシステムには相当問題がある。それは人間をぼろぼろにする危険性がある。だからとりあえずうまくつきあって行かなければならない。(中略)それでも、資本主義にとらわれないような生き方はできるわけです(≪この言葉には、意志的に対応可能という含みがある≫)」・「『資本論』を読んだ結果、どんないいことがあるのかというと、資本の論理に巻きこまれないためには直接的な人間関係が重要だということが分かるんですよ。……資本の論理が分かると、お手伝いをしたら子どもに今日は500円あげるとか、そういうことをしなくなる」と。佐藤のこの発言は、おそらく経済的範疇の論理的な展開でしか見抜けない不可視的な商品や貨幣に第一義性・価値性が附着してしまうその商品や貨幣の物神性について言いたいのだと思うのだが、商品物神、そのさらに高次な抽象度を持つ貨幣物神、そのさらに高次な貨幣の具体的普遍性の獲得は、社会的な共同の幻想的形態・共同幻想・共同の無意識であるから、そしてそのことを自然史的過程が強いてくるから、そのことは、道徳や倫理や家族の位相における子の育て方の問題ではないのである。言い換えれば、フーコーの言うように、それらは、豊かさと同時に「不幸な結果をもたらす」資本主義の「メカニズム」そのものにあるから、資本主義生産様式とは異なる新たな生産様式(新たな価値論)をその現存性、時代性(産業構造的に、マルクスの時代は経済社会構成の中心が生産資本主義にあったが、現在はその中心が高度な消費資本主義にあるという現存性、時代性)におけるその物質的基礎を媒介して提起しなければならないのである。例えば、史観の拡張において等価交換価値論を包括し止揚した高次の贈与価値論を提起した吉本の思想的な営為のようにである。言い換えれば、、自らが現存している時代的課題、現在的課題、現在を止揚する課題として、近代市民社会――政治的近代国家なしには成立しない政治経済や社会経済における等価交換価値論ではなく、それゆえに「権力機構に一切関係しない」ところのもっと客観的普遍性のある産業経済における「贈与経済を等価交換の唯一の基準とする」新たな価値論、贈与価値論を提起したようにである(この時、<段階>概念の止揚も目指されている)。これが、吉本の思想的営為である。それに対して、資本主義的社会――議会制民主義・政治的近代国家という枠組みの中でしか現在的問題、現在を止揚する問題を考えないピケティも、また資本主義の段階を高度な消費資本主義の段階として規定していない、それゆえにマルクスと同時代性において発言している池上も、さらに何が言いたいのかよく分からない支離滅裂な発言をする佐藤も、現在的課題をただ資本主義的社会――議会制民主義・政治的近代国家という枠組みの中でしか考えていないのである。いずれにしても、資本の論理とは全く無関係に、年に一度の鎮守の森の神様のお祭りが、私の小学校中学年くらいまでは名古屋市内でもそれぞれの地域で、宗教の形骸化された形態の習俗として行われていたように、また風習として正月にはお年玉をあげるように「お手伝いをした子」にお駄賃をあげることは、資本の論理に巻きこまれることではなく、ただ単なる風習としての行為でしかないだろう。
 さて、マルクスの自然哲学における「疎外」概念は、次のように言うことができる(マルクスの本と吉本を介して整理する)――自然の一部としての個体的自己としての全人間は、肉体・身体および精神・意識を介して、換言すれば労働や性や言語を介して、普遍的で実践的な、全自然(自己身体、他者身体、外界としての自然――天然自然や人間化された自然)との相互規定的(自然の人間化、非有機的身体化と人間の自然化、有機的自然化)な対象的活動を行う。ここに、人間の類的活動と生活がある。これは、人間の歴史的行為である。このことを歴史性の軸を挿入して言えば、次のようになる――「歴史とは個々の世代(≪個体的自己の成果の世代的総和≫)の継起にほかならず、これら世代のいずれもがこれに先行するすべての世代からゆずられた材料、資本、生産力(≪あるいは言語、性・対――対なる共同性としての家族≫)を利用(≪媒介・反復≫)する」(『ドイツ・イデオロギー』)。この行為は感覚的客体としては孤立しているのであるが、現実的な生活過程においては媒介的に他の人間と関係づけられているから協働関係、社会的関係を構成する。人間は、労働(働きかけ)によって自然を加工し・対象化し・非有機的身体とする(この時、自然の方からは人間的な対象化、自然の人間化であるが、そのとき自然の一部である人間は自分自身から疎外され、さらに価値は働きかけたものの方へ附着・付加することでみずから働きかけたものと対立するが、自然もまた人間化されることによって自然から疎外される)と同時に、人間も人間的自然として有機的自然となる(それゆえに、それは、その人間の、客観的な対象物となる、自己還帰させることができる対象物である)。人間の労働を介したもの、人間が手を加えたもの、人間の手が加わったものは、<価値>を持つ。この場合、<価値>は、働きかけた者(労働をした者)から、人間の労働が対象化された生産物(すなわち、対象化された労働)に附着・付加する。労働の主体はこちら側にあるにもかかわらず、<価値>はいつも労働生産物の側に附着・付加する。この、全自然と人間との相互規定的な対象的活動における自己疎外を、マルクス自身は、「人間にとって本質的な不変な概念」として規定したのである。したがって、経済的範疇における「疎外された労働」の概念は、この自然哲学における「自己疎外」の概念の対象化(疎外、外化)されたそれとしてあるものなのである。吉本は、マルクスの『経済学・哲学草稿』における自然哲学について、「『人間の普遍性は実践的には(<自然>や<社会>への働きかけという意味では――註)まさに(一)直接的生活手段である自然についても、(二)彼の生活活動の材料、対象、道具である自然についても、全自然を彼の非有機的身体とするという、その普遍性にあらわれる』。(中略)人間の普遍的な性格が、自然との関係でどうかんがえられているか、個人としての人間が、生誕しそして死ぬというかたちでしか繰返されないのに、人間の類(人類)という概念がなぜなりたつのかを、……<自然>……に偏執したかたちで徹底的に云いきっている。ここに、マルクスの<自然>哲学の根源がよく象徴されている」、と述べている(『カール・マルクス』)。
 また、吉本は次のようにも述べている――『経済学・哲学草稿』が「マルクスの<自然>哲学のうえに構成されたものとすれば、『資本論』は、生産社会の発展段階を、<自然史>の過程とみなすという哲学(≪歴史哲学≫)の上に構成されている」。したがって、『経済学・哲学草稿』が、「現存性(≪人類史の断続する時代性における、資本主義的な経済社会構成≫)のなかに凝縮された社会(≪社会の中心に経済社会構成が位置する≫)の歴史性(≪それが良きものであれ悪しきものであれ、人類が人類史的成果として歴史的に発展させ累積させてきた連続する歴史性における資本主義的な経済社会構成、換言すれば人類がその全歴史過程を通して辿り着いた資本主義的な経済社会構成、資本制的生産様式の段階≫)」の考察とすれば、『資本論』は、「歴史性のなかに展開された社会の現存性の考察である」。「『資本論』では、かれの<自然>哲学は、一分のすきもなく経済的範疇と結びついている。どこからはじめても、かれの<自然>哲学は、生産社会の歴史的な発展の現段階(≪マルクスの生きた時代性、現存性≫)としての資本制社会の構造という問題意識と交点を結ぶ。かれは『資本論』で、<商品>の解析からはじめているが、なにからはじめたとしてもすでにうごかし難い緊密さが、資本制の経済的範疇を歴史性と現存性の交点からとらえられるのである」。マルクスが「難渋したのは、<自然>史学としての歴史哲学を、かれ自体の主体的立場としての<自然>哲学と接着させるかという点であった。ひとびとが躓くとすれば、<自然>としての人間がこちら側にあるのに、いったん<労働>(働きかけ)として<自然>の対象世界に向かうやいなや、<価値>があちら側に(≪人間の手が加えられた非有機的身体の側に、人間化された自然の側に、対象化された労働の側に、生産物の側に≫)、言い換えれば手を加えた<自然>(商品)の表象として現れるか、という秘密にある」。『経済学・哲学草稿』のなかの「<疎外>という概念が、『資本論』の<価値>概念と交わり、接着するのは、この点においてである」。
 商品の<有用性>は、その商品を使用価値にさせる。それに対して、商品の交換価値は、有用性によってではなく、鉛筆何本・ノート何冊というようにさまざまな量によって計られる。もっと抽象すれば、商品の価値は、労働の分量、労働量、労働時間によって計られる。したがって、労働の生産力が大きくなれば、その分だけ労働量(労働時間)が小さくなるから、商品の価値は小さくなる。したがって、その商品の価値は、労働の分量、労働量、労働時間に比例し、生産力に逆比例する。佐藤は、(6)で「マルクスの『資本論』を読んでみなさい、視座を少し変えてみると事柄の本質が見えてくるという話になるわけです。20エレのリンネルと1着の上着の間に同じ労働時間があると『資本論』の第1巻では言うけれど、第3巻を読んでみると、マルクスはその機械の使い方によって、資本の有機的構成によって価値は変わってくると言っているから、矛盾しているじゃないと」と述べているであるが、マルクス自身は、前述したところの事柄について述べているのである。すなわち、マルクス自身は、商品の価値は、労働の分量、労働量、労働時間に比例し、生産力に逆比例する、ということを述べているのである。なお、空気・水等は、人間の手が加えられていなくても使用価値であり得る。また、労働を介して自然を対象化した生産物を自分自身で消費する場合、それは対象化された労働として価値ではあるが、「社会的な使用価値」ではない。このような訳で、「あるものが価値を持つためには、人間は自然とのあいだに質量交換を行わなければならない」から、その<表出>過程における人間の労働を介した自然の加工による対象化された労働としての生産物は、「<有用性>として機能するやいなや、それは、<表現>としての<価値>」、交換価値を生み出す。この意味で、「労働は、どんな社会形態とも関わりない(≪人間の≫)生存条件であり、人間の生活を媒介するための、永続する自然必然である」。したがって、マルクスが述べたように、「歴史とは個々の世代(≪個体的自己の成果の世代的総和≫)の継起にほかならず、これら世代のいずれもがこれに先行するすべての世代からゆずられた材料、資本、生産力(≪あるいは言語、性・対――対なる共同性としての家族≫)を利用(≪媒介・反復≫)する」のである。
 マルクスの自然哲学における価値は、人間の労働(働きかけ)を介して生産された「商品に附着する表象であって、労働や労働力や労働者に附着するものではない」。「このことは、労働なくしては労働の対象化された商品は、どのような価値をも生み出さず、したがって価値は労働者の存在を必須の前提としているということと混同されてはならないのである」。「労働する人間はこちら側にあるのに、価値はいつもあちら側に、……つくられた商品(≪対象化された労働、労働生産物≫)に附着しており、これを相互に(つまり自然と人間に)架橋するものが労働ということにほかならない」。そして、自然と人間との相互規定的な対象的活動が生み出した「<商品>という概念は、流通の場では、その<対他>性としての等価として流通するほかにない。いいかえれば、商品は自身が他の商品と関係することなしには、自身を<価値>たらしめることはできない。ここで『資本論』は、その<等価>形態を問題とする……」。「このことは、同時に自然に対する対象化としての<労働>が、具体的な労働を現象とせずしては、自身を<労働>たらしめえないことを意味する」・「またこのことは個人的な<労働>は、社会的労働となることなしには、自身を個人的な<労働>となしえないことと同義である」。これは、価値の対自的対他的な関係の本質である。この本質的な関係が、歴史的なすべての生産社会の段階を経て実現されていく時、「<価値>は商品間の関係としての<等価>を、ますます個別性から普遍的等価へおしすすめ、貨幣・紙幣・有価証券等々のかたちとして自己を実現する」。「同じように、<労働>はある市場意図のもとにおこなわれるようになり、それにつれて、使用価値は、交換のための使用価値」・「交換価値とますます分離するようになる」。
 価値としての商品の流通は、<資本>となって現れる。
 まず、「商品が流通する直接の形は、W(商品)をG(貨幣)にかえ、G(貨幣)を再びW(商品)にかえる形である」。
 次に、「この形とは別に、G(貨幣)をW(商品)にかえ、そのW(商品)を販売して再びG(貨幣)にかえる形である。この場合、貨幣は資本に転化する。したがって、資本家にとっては商品の使用価値が目的とならず、また個々の利得も問題ではなく、<G→W→G>の無限乗のくり返しが問題」なのである。このことは、「価値が剰余価値として自己自身から、自己を区別し、しかも価値プラス剰余価値が再び価値として現れる自己運動の過程をどこまでも繰り返す」、ということを意味している。G(貨幣)→W(商品)→G(貨幣)は、貨幣の資本への転化、「価値が剰余価値として自己自身から、自己を区別し、しかも価値プラス剰余価値」に変え、「再び価値として現れる」、という資本の自己運動(その自己展開とその自己増殖過程)のことである。これが「資本の本姓である」。しかし、この「手品」を行う場合、「一方に、つまりこの過程の外に、使用価値そのものが価値の源泉であるという特殊な商品」、「労働力」を必要とする。この労働力(労働能力)は、「労働者の内部にあり、同じように自己再生する」。この労働力という特殊な商品を所有した人間(労働者)は、市場に出かけてゆき、貨幣をもった人間(資本家)と関係を結ぶ。この関係を永続化させるためには、労働者は、労働力の所有権だけは保持しつつ、ある時間だけ商品としての労働力を売ることになる。この商品としての労働力の価値は、ある国のある時代の平均的な労働の分量(労働量、労働時間)によって計られる。「価値の自己増殖が流通の段階でとる形は、貨幣資本と商品資本であり、生産の段階でとる形が生産資本であり、総体の過程で、時に応じてこれらに転化したりする資本が産業資本である」。ここでは、こうした「区別の細目にわたること」が問題でなく、問題は、「生産社会の歴史性は、基本的には(≪社会的生産における生産諸力としての≫)労働者と生産手段の結びつき方の様式」、すなわち生産様式(アジア的、古代的、封建的、近代ブルジョア的生産様式)によって区別することができる、という点にある。
 さて、佐藤が「資本主義システムとは、永遠に生きるゾンビです」と発言した時、佐藤が現存する「高度な資本のシステム」の明確化とその止揚を提起できないことは自明となるのである。なぜならば、その時代性に規定されて産業構造的に生産資本主義を分析したマルクスの認識を、そのまま現存する経済社会構成の認識に適用したならば、「そこでは思想は現実<宗教>として現れるほかはない」からある、マルクスが現存したその時代性、「現実性、具体性、歴史性」、歴史的現存性と、わたしたちとのそれとの間には段階的な差異性があるからである。現在資本主義は、高度な消費資本主義の段階にある。このように認識する時、マルクスの次の言葉は生きるのである――「人間が立ち向かうのはいつも自分が解決できる課題だけである、というのは、……課題そのものは、その解決の物質的諸条件がすでに現存しているか、または少なくともそれができはじめている場合に限って発生するものだ、ということがつねに分かるであろうから」(『経済学批判 序言』)・「問題の定式化〔問題を明確に提起すること〕は、その問題の解決である」(『ユダヤ人問題によせて』)。フーコーが、マルクスは資本主義の分析の際に、「労働者の貧困という問題に出くわして自然の希少のためだとか計画的な搾取のせいだとかといった、ありきたりの説明を拒」んだ・なぜならば、資本主義的生産は、その制度的必然、「その基本的法則によって必然的に貧困を生産せざるをえない」ものだからである・すなわち、資本主義制度は、「何も働き手を飢えさせるために存在しているわけではないが、かといって彼らを飢えさせずに発展することもできない」ものなのである・したがって、「マルクスは搾取を告発するかわりに、<生産>を分析したのである」と述べたことには、現実性と妥当性があるのである。
 マルクスは、「純粋な資本主義社会において、社会システムの基本は経済」であるとは述べてはいないのであって、それゆえにマルクスは、例えば人類史のアジア的段階における経済的基盤(経済社会構成)は農耕にあるとして、そのアジア的段階概念の構造を考察したのである。このことを吉本に引き寄せて整理すれば、次のように言うことができるのである――@共同体論としてのアジア的段階概念――アジア的農耕村落共同体内部の内在的構造の明確な把握の問題、A生産様式論としてのアジア段階概念――土地の総括的な共同体所有と貢納制、土地の共同体的所有と分配方式の明確な把握の問題、B政治形態論、政治権力論としてのアジア段階概念――支配共同体と被支配共同体との関係、アジア的専制、中央集権体制の明確な把握の問題、として明確化したのである。また、マルクス自身は経済決定論者ではないから、「人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、彼らの意志から独立した諸関係を、つまり彼らの物質的生産力の一定の発展段階に対応する生産関係を、とりむすぶ。この生産関係の総体は、社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって」、換言すれば自然史の一部としての人類史の自然史的過程における経済的範疇は第一次的に重要なものとして、その実在の基礎の上に観念の共同性を本質とする、「法律的、政治的上部構造がそびえ立ち」、またその実在の基礎に対応した「一定の社会的意識形態」が存在している。しかし、それらは、その実在の基礎に規定されていったん疎外(外化)されるやいなや、それ自体の自己展開過程と自己増殖過程を持つ、と述べたのである(『経済学批判 序言』および『経済学批判序説 四』)。
 (8)「『資本論』の強さは『論理の力』」にある・(9)「ものごとはつながっているんです。だから体系知というのは重要で、体系知として、システムとして理解してお」け、と言う。しかし、佐藤自身は、体系知と言いながら、マルクスをトータルに理解しようとはしないのである。佐藤は、微小な部分を拡大鏡にかけて全体化する形而上学的一面的固定的抽象的な思考をするだけで、対象に対するトータルな認識の方法を持たないのである。次回に展開するバルトの『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』「二十一節 教会における自由」「二 言葉のもとでの自由」(その8−7)において、バルトは哲学(哲学的概念)を引き寄せることの不可避性と限界性・危険性について論じているが、こうしたページだけを拡大鏡にかけて全体化した場合、前期バルトと後期バルトに分ける近視眼的な一面的固定的な通俗的理解の仕方と同じように、バルトは哲学と神学との協働論・共働論・折衷論を目指していたというような抽象的空論的なバルト論を展開することになってしまうだろう。バルトの『ローマ書』、『ルドルフ・ブルトマン』、『ヘーゲル』、『カント』、『教会教義学 神の言葉T/1』等を読んでみる時、バルトは一貫性をもって次のような立場に立っていることが分かるのである――@「(≪教会・その成員は、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、このキリストの死と復活、インマヌエル、この≫)一つの事柄に仕えなければならないのであって、一つの党派(≪学派、教派、哲学原理、思想傾向、時流や時勢、社会構成・支配構成・文明的――文化的構成、社会的政治的な言説や運動等≫)に仕えなければならないことはない……、一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……」・「哲学、歴史学、心理学等は、この神学的問題領域のどれにおいても、事実上、教会の自己疎外の増大以外のなにものにも役立ちはしなかった」・「神についての教会の語りの堕落と荒廃以外の何ものにも役立ちはしなかった」。またその場合、「哲学は哲学であることをやめ、歴史学は歴史学であることをやめる」。キリスト教哲学は、「それが哲学であったなら、それはキリスト教的ではなかった」。また「それがキリスト教的であったなら、それは哲学ではなかった」(『教会教義学 神の言葉T/1』)、A神と人間との無限の質的差異――これが、「聖書の主題であり、哲学の要旨である」(『ローマ書』)。哲学の限界づけである、Bしたがって、「われわれが哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、神学は哲学的試みが終わるところから始まる」。すなわち、神学も理性的な知的営為ではあるが、「神学は方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」(『バルトとの対話』)。吉本も、次のように述べている――@「経済的あるいは生産的あるいは技術的範疇というものを、人間の全範疇だ」、『経済学批判』を書いたマルクスは経済決定論者だ、と規定してしまう場合、それは、「方法論として……思想として間違い」である。マルクスは、「経済的範疇というものを(≪「第一次的に」≫)非常に重要なものだ、……歴史の中で重要なものだ、そしてその他のものはそれに影響(≪規定≫)されるというように考えたときに、ほんとうは幻想領域の問題は、そういう経済的範疇を扱う場合には大体捨象できるという前提があってそう言っている……」のである(『共同幻想論』)。すなわち、マルクスは、経済決定論者ではない、A第一に、 「人間の身体を、精神の動きと肉体の動きとが集約される」場所と見なすと、「精神の動きは肉体の内部に起源を持ち、外側に拡がっていって、環界自然にまで及んでゆく」。一方「身体の動きの起源を肉体の表面の感官の動きに求めると、それは社会の具体的な像にまで拡がってゆく」。したがって、「人間にとって一番大切なのは、精神の動きと肉体の動きとが結びついてつくり出す姿や形や像がどんなものかという」構造的把握にある。第二に、「情報科学や情報技術の専門家たちは、感覚(≪人間の感覚部分に関わる心・精神≫)というものと、心や精神(≪人間の非感覚的部分に関わる心・精神≫)というものとは、同じものであると信じて疑わない」ことが、方法論的に思想的に問題なのである。人間にとって部分に過ぎないものを全体化する方法論が問題なのである。なぜならば、「情報科学や情報工学の発達」は、人間の感覚部分に関わる心・精神を発達させ知識を増大させたけれども、人間の情念・非感覚部分の心や精神を発達させることはできなかったし、愛憎の情念の世界も・古代からの「人間の喜怒哀楽」も変わらないからである。経済社会構成が拡大・高度化し生活の利便性が増大し経済的に豊かにはなっても、人間の非感覚部分の心や精神は豊かにはならなかった(『超20世紀論』)。
 さて、マルクスの思想は、@人間と全自然との相互規定的な対象的活動における自己疎外を人間にとって本質的な不変な概念として提起した(<自然哲学>――『経済学・哲学草稿』)、Aその自然哲学を根源とした現実的な市民社会内部の構造としての経済的な範疇について考察した(<経済学>――歴史的段階の一つである現存性、時代性を軸に、歴史的現存性としてのその基礎を構成している直接的に具体的労働を行っている人間(労働者)と、間接的に利潤を蓄積する抽象的循環労働を行っている人間(資本家)とを対極において考察した、換言すれば労働と資本・労働者と資本家・疎外された直接労働をするに人間とその成果を第一次的に享受する人間の概念を分析した『経済学・哲学草稿』および生産関係としての社会、「経済的な範疇こそが、社会を資本制市民社会に至るまで発展させてきた歴史の第一次的な要素である」というように歴史性を軸に分析した『資本主義的生産に先行する諸形態』・『経済学批判』・『資本論』)と、Bそれを起源とした観念の共同性を本質とする宗教、法、国家についての考察(<政治哲学>――信教の自由が保障された自由主義国家・政治的近代国家における国家の宗教からの解放・人間の過渡的部分的な観念的政治的な解放の問題、この市民社会の外に疎外・外化された政治的近代国家の完成において、共同宗教の問題は天上の問題から現世的問題に変わるということを提起した、換言すれば私意や私利の対立と争いに満ちた市民社会的個別的私的現実的な生活とあたかもそうした対立や争いのない観念的法的政治的共同性における公的共同性の一員の生活、公民としての生活、国民としての生活という二重の生活が強いられる政治的近代国家の批判の問題を提起した、すなわち人間の社会的現実的な究極的総体的な解放の問題を提起した、『ユダヤ人問題によせて』・『ヘーゲル法哲学批判』)、というように「三位一体的に類比的に関連づけられて構成」されている。そして、このマルクスの「完結した体系は、当時も(そしていまも)よく理解されていなかったが、(≪理論だけでなく実践も、という二元論においてでは全くなくて≫)理論がかれを実践のほうへ必然的につれてゆくようにできあがっていた」のである。
 佐藤は、(10)『経済学・哲学草稿』は「ジェンダー論の観点でも面白いんですよ。ある社会の構造というのは、その社会における男の女に対する対応を見れば分かると」・(11)労働力価値の構成要素の生活の生産・再生産の概念からすれば、安倍政権の女性の「活用」あるいは「活躍」社会の政策は、資本主義存続のための「女性の……『名誉男性』」化にある、と言う。先ず最初に、マルクスは、資本の自己運動における労働力価値の三つの構成要素を明確化することで、価値としての「労働力の消費過程は、同時に商品と剰余価値の生産過程である」、ということを述べているのである。また、マルクスは、「ジェンダー論、社会における男の女の関係」について、分業の起源ということで扱っているのである。マルクスによれば、家事労働の賃金は、社会的生産過程における賃労働者の生活の再生産のための賃金に含まれる。したがって、労働力の価値としての賃労働者の生活の生産・再生産のための賃金が家事労働分の賃金が支払われていないならば、それは、その資本主義の低賃金の問題なのである、その資本主義のメカニズムが問題なのである。
 さて、総務省の「労働力調査」によれば、専業主婦世帯は減少傾向にあり、それに対して共働き世帯が増加傾向にある。そして、当然のことであるが、専業主婦率も減少傾向にある。したがって、阿部が政策的にやらなくても、「女性の……『名誉男性』」化、中性化は、すでに起こっているのであり、女性が生産社会の場で男性と同じ比率を占めれば、そして家事労働の分担量が同じになれば、その時にはそのことは現実化するのである。その場合には、家事労働に従事している女性に対する無賃金への批判は根拠がなくなる。なぜならば、男性も同じダカラである。そして、高度な消費資本主義の段階においては、家事労働における料理を作る行為は、食材の加工過程で、電気の技術的応用である電化製品を使ってさまざまな付加価値生産を行うことになるから、消費と生産は等価となる。
 さて、家族の理想像、強固さは、個人とも共同社会とも全く違った性・対――対なる共同性の位相に閉じられるところにあるが、現在、次のような状況に晒されて家族の崩壊が起こっている――自由社会共同体(資本制社会、私利・私意を精神とする近代市民社会)――政治的共同性(政治的近代国家)は、その制度的必然として、人びとの間に、他者を現実的に侵害しないという原則を衰退させる形で、私的利害と恣意的自由の優先意識を蔓延させた。したがって、戦前の日本におけるナショナルなもの、すなわち「私」にではなく、第一義的に「公」や、共同体や、全体に価値や重きをおくところの滅私奉公的意識が横へと拡散した分だけ、社会的・政治的ナショナリズムも横へと拡散衰退し、価値意識は多様化し、関係意識は希薄化衰退している。秋田県教育委員会の調査によれば、「家庭の教育力」について「低下していない」と回答した人は6%であったが、「低下している」と回答した人は68%で、悩みや不安を抱えている人は66%であった(Yahoo!ニュース―河北新報、2006年8月21日)。地方都市においても、家族の解体が進行しているのである。こうした家族問題の中心、その究極的課題は、家族法・家族制度という共同幻想の領域や、社会の構成水準や、「<社会的>という範疇にあるという家族社会学」の領域にあるのではない。相互関係はあるが、家族問題の中心、その究極的課題は、「<家>という構成の中心である<性>という対なる<幻想>(≪観念、意識≫)の観念性と現実性」の領域にある。だから、もちろん<家の問題>は「日常性」(現実性)の問題であるとともに「非日常性」(観念性)の領域の問題である。すなわち、愛情と信頼関係の問題、家事分担問題、愛憎問題、生活費問題、親子問題、子育て問題等の対関係およびその関係が疎外する対幻想領域の問題である。したがって、対幻想領域がそれらの家族問題を内在的に解決できない場合、その分だけ、対幻想領域はそれらの家族問題の解決を次元の異なる観念の共同性を本質とする国家の法・制度・政策へと疎外しつづけていくことになる。すなわち、国家の共同幻想によって、対幻想領域が侵蝕され続けていくことになる。ここに、国家の共同幻想が存続しつづけていく根拠があるとともに、自立した家族の不在の現実もある。
 先進資本主義国で国家の管理の度合いが増しているが、それが半分を超えたら、国家を第一義・価値とする国家主義的な現存する「現在の社会主義国になってしまう」。もちろん、日本では竹中・小泉路線がそれであったが、アメリカにおけるキリスト教も加担した新保守主義と結びついた小さな政府を目指す新自由主義も、国家を第一義・価値とする経済的自由至上主義であり、至上市場主義経済化でしかない。ほんとうは、国家の過渡的課題は、国家を国民に開くことと、観念的な国家より規模の大きい現実的な社会を第一義とする社会主義国家(国家主義的なロシアや中国は本質的にこれではない)の構成にある。また、法の下での法による行政に基づく制度としての官僚や政府支配上層は、財政赤字は政府債務残高のことであるにもかかわらず、それゆえにその責任は全面的に彼ら自身にあるにもかかわらず、いつも、消費税増税等々で大多数の非支配である一般国民・一般市民に転嫁する。そして、いつも、この責任転嫁に加担するのが、その政策的言語や法的言語を介する体制的あるいは反体制的な知識人や著述家やメディアである。このような現状によって、いつも、大多数の非支配である一般国民・一般市民は、不安感、不安定感に晒され続けている。
 生産社会における労働時間、家事労働の時間は、技術の発達と生産量の適正化がはかれる産業分野では短縮が行われるようになり、夫婦関係の基盤の対なる意識が崩壊している。それが女であれ男であれ、家事労働を行う者の労働時間は短縮していることが自明化しているから、少し怠けていると、不平・不満が募っていく。生産社会の労働の場においても、同一賃金なら、Aはよく働き、Bは怠けているなら、AはBに対して不平・不満を募らせるようにである。また、女性が生産社会に男性と同数登場するようになれば、必然的に「女性の中性化、ユニセックス化」が促進されていくことは必然である。
 さて、Yahoo!ニュースには、稲田新防衛大臣は『私は日本を守りたい』の中で、「夫婦別姓は家族のつながりを『希薄化させる』から夫婦別姓運動はまさしく、一部の革新的左翼運動、秩序破壊運動に利用されているのです」・また、選択的夫婦別姓法案は「亡国法案」である、と述べているという。「稲田さんがとりわけ強い思いを込めて、反対しているのが、選択的夫婦別姓法案だ」という。「稲田さんにいわせると、この法案は「亡国法案」である」という。なぜならば、夫婦別姓は「家族のつながり」を「希薄化させる」からだという。「いま日本社会が取り戻すべきは、家族の一体感であり、夫婦・親子の絆ではないかと思います」・「家族の絆を強めるためには、やはり夫婦が同姓でいることが好ましい」という。「稲田さんが総理の靖国神社参拝にこだわる理由」は、「いかなる歴史観に立とうとも、自分の国のために命を捧げた人々に対して、その国を代表する者が感謝と敬意を表すことができない国に、モラルの再興も安全保障もありえないから」だという(2016年8月3日)。吉本は、田山花袋の『一兵卒』と丸山真男の「一等兵」体験を、次のように比較考量して述べている――花袋が描いた「日露戦争の一兵卒が『満州』の地で、野戦病院からぬけだし、前線の原隊にたどりつこうとして、途中で『脚気衝心』でたおれたとき、末期の眼にうつしたものは、母の顔、妻の顔、欅で囲まれた郷里のおおきな家、うらの磯、あおい海、漁夫の顔」であった。それに対して一等兵の丸山が敗戦直後に抱いた感情は、「『どうも悲しそうな顔をしなけりゃならないのは辛いね』という余裕であった」。この一兵卒体験の差異は、時代的な差異によるものではなく、「生活によって大衆であったものと、思想によって知識人であったものとの抜きがたい断絶を象徴」しているそれである(『丸山真男論』)。稲田の靖国神社参拝の理由に関しては、政治的近代国家・民族国家の問題を認識し自覚しないまま発言している靖国神社参拝論者の富岡幸一郎と同じである。また稲田は、夫婦別姓を主張する選択的夫婦別姓法案は、「家族のつながり」を「希薄化させる」から「反対」するということなのだが、「家族のつながり」の「希薄化」は、前述したように、先ず以ては、資本主義社会(近代市民社会)――自由主義国家(政治的近代国家)が、その自然必然として、人びとの間に、私的利害と恣意的自由の優先意識を蔓延させ、価値の多様化をもたらし、関係意識を希薄化させ衰退させたことによるのである。このような人が大臣になるのだから、いつまでたっても良くなるわけがない。夫婦別姓論者は、本質論を持たないから、性・対の領域の問題と法・制度の領域の問題とを混同し混在させてしまうから、結局は、自立した、性・対・対なる共同性としての家族を構成できないのである。
 佐藤は、(12)「第7章 知性という最大の武器」の中で、早稲田と慶応で講義をして「明治維新とか、日露戦争勃発とか」の年号問題を「100題」出したら、「早稻田大学の平均点が5点」だったと発言しているのだが、どこかでもこれと同じことを述べていたと記憶している。こうした発言からいつも感じることであるが、佐藤の知識性や、「知性」の概念の内容は、結局は、高校の知識レベルのことを指しているのではないか、と思われる。
 佐藤は、(13)「無神論を勉強していたらもうこれは半年くらいで、マルクスやフォイエルバッハの言っている無神論は、キリスト教神学でとっくに克服されていることが分かりました」、と言う。よくもまあ! こんなにも、出鱈目な大法螺とハッタリをかませるものである。なぜならば、フォイエルバッハやマルクスが無神論者であるということが問題ではなくて、問題は、彼らの根本的包括的な原理的なキリスト教批判(宗教批判)が、現実性と妥当性を持って、すべての、キリスト教、教会、その宣教、一人一人のキリスト者に投げかけられたし・投げかけられているということが、それゆえにその批判を、自らの信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成それ自体によって、根本的包括的に原理的に止揚し克服して行くことが問題だからである。したがって、キリスト教、教会、その宣教、一人一人のキリスト者が、聖書的啓示証言によれば、キリスト者を含めて人はすべて、不信仰の、無神性の、真実の罪のただ中にあることが客観的に確実である限り、聖書的啓示証言に則して、神の側の真実としてのみある、それゆえに客観的現実性客観的実在としてある、主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」(ローマ3・22、ガラテヤ2・16等。徹頭徹尾、人間のために人間に代わって、成就され・完成された信――イエス・キリストご自身が信ずる信仰)における不信を包括し止揚し克服した信が、不信と信の架橋が、不信を包括した信が、フォイエルバッハやマルクスやハイデッガーの根本的包括的な原理的なキリスト教批判(宗教批判)を、根本的包括的に原理的に止揚し克服することができる唯一の事柄であるということを認識し自覚することが重要な課題としてあるのである。なぜならば、信を第一次的にほんの少しでも人間の側に位置づけるやいなや、その信はまさにフォイエルバッハやマルクスやハイデッガーのキリスト教批判(宗教批判)の対象そのものとなる空である。したがって、バルトは次のように述べたのである――@「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、 その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり『自分の理性や力(≪意志等≫)によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』)、A「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(『福音と律法』)。 このような訳であるから、自然神学の系譜に属する佐藤自身の神学の在り方が、まさしくフォイエルバッハやマルクスやハイデッガーの宗教批判の対象そのものとしてあるということ、しかしそのことを佐藤自身が全く認識し自覚していないということ、そのことが問題なのである。したがって、佐藤の発言は、出鱈目な大法螺とハッタリとなってしまうのである。したがってまた、このような佐藤が、バルトを、根本的包括的に原理的に論じられるわけがないのである。言い換えれば、佐藤は、バルトが包括し止揚し克服してきた自然神学の系譜に属する信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成のことを全く理解していないに違いない、またフォイエルバッハ自身の宗教的な自己意識に注目したキリスト教批判やマルクス自身の共同宗教の最後的形態としての政治的近代国家の批判のことも全く理解していないに違いない。ここに、メディア的に利用できる(売れる、儲かる)ということでのみ、そのメディアの仕組みの中に担ぎ出されたに過ぎないにもかかわらず、そのことを全く認識も自覚もできずに、勘違いして、本をいっぱい読むとか一流とかエリートとかインテリジェンスとかと鼻を高くして発言している、何となく悲惨さを感じてしまうキリスト教的著述家・佐藤の実姿を垣間見るのである。

池上彰×佐藤優『希望の資本論』(朝日新聞出版)から垣間見ることのできるメディア的知識人およびメディア的著述家の知識の位相について記事一覧

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生活困窮者支援を行うソーシャルワーカー(筆者)の記事(東洋経済オンライン10月17日配信)を読んで感じ・考えたこと――(1)この筆者は、「『若者なんだから、努力すれば報われる』という主張など、ナンセンスであることを明らかにしていきたい。『若者の貧困』に大人はあまりに無理解すぎる」と述べている。このこ...

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