本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

『教会教義学 神論Ⅰ/3 六章 神の現実(下)』「三十一節 神の自由の様々な完全性  一 神の単一性と遍在」(その6-4)-1

カール・バルト『教会教義学 神論Ⅰ/3 六章 神の現実(下)』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

『教会教義学 神論Ⅰ/3 六章 神の現実(下)』「三十一節 神の自由の様々な完全性  一 神の単一性と遍在」(その6-4)(53-68頁)

 

「三十一節 神の自由の様々な完全性  一 神の単一性と遍在」(その6-4)-1

 

引用文中の(≪≫)書きは、私が加筆したものである。また、既出の引用については、その文献名を省略している場合がある。
(論述における様々な重複は、今後も含めまして、それは、あくまでも、理解し易くするためのものでもありますが、私自身のその存在・その思考・その実践において、私自身のものとするためでもありますし、また私自身のためでもありますので、ご了承ください。正直に言えば、もうひとつあって、それは、バルトを、単純にしかし根本的にそして包括的に理解することを目指した拙著だけで、バルトを、根本的包括的に理解することができるのかどうかという実証的実験を行うためでもありますので、ご了承ください。また、注意はしており、見つけた場合には速やかに訂正をしておりますが、引用上の不備、勘違いによる不備、誤字脱字等の不備について、もしそうしたことがありました場合にはご容赦ください)・(しかし、その論述内容については、少なくともカール・バルトに関しては、根本的包括的な原理的な誤謬は犯していないと考えます。したがって、そうした論述の積み重ねの中で、その内容についての表現の仕方の練り直しと的確化だけでなく、その内容の深化と豊富化が為されていると考えます。また、吉本隆明に関しても、まだ補充すべき点はいろいろあるとしても根本的包括的な原理的な誤謬は犯していないと考えます)・(最後に、indemについてだけは、2017年3月12日以降、吉永正義訳の「……する間に」をすべて、井上良雄的に「……することによって」というように引用し直しています。なぜならば、その方がその文章内容をイメージし理解しやすいからです)

 

「六章 神の現実(下) 三十一節 神の自由の様々な完全性 一神の単一性と遍在」
「六章 神の現実(下) 三十一節 神の自由の様々な完全性」について、バルトは、次のような定式化を行っている。
 神の自由の神性は、神ご自身の中で、またそのすべてのみ業の中で、ひとりでいまし、不変であり、永遠であられるということ、まさにそれと共にまた遍在され、全能であり、栄光に満ちた方であり給うということ、から成り立っており、そのことの中で真であることが確証される。(3頁)

 

〔この定式の詳述〕
 この詳述については、すでに2018年12月28日の記事で論述済ですので、その記事を参照してください。

 

註:「啓示の認識原理」であり「教会の宣教の批判と訂正」の規準・原理・法廷・審判者・支配者である<三位一体論>の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての客観的な対象として存在している「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性等々については、<カール・バルトの『教会教義学 神の言葉』および著作全般を根本的包括的に原理的に理解するためのキーワードとその内容について――幾つかの註>(2016年6月13日作成)、を参照してください。

 

「三十一節 神の自由の様々な完全性  一 神の単一性と遍在」(その6-4)-1
 全き自由の三位一体の神の存在の本質における完全性がその全き自由の存在の仕方における完全性であるように、「神の遍在は、……完全性……のことである」。この完全性は、「その中で、神が(≪ご自身の中での神として、それからまたわれわれのための神として≫)現臨なさり」(「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――啓示者・創造主、父が子として自分を自分から区別した第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――啓示・和解主、愛に基づく父と子の交わりとしての第三の存在の仕方である聖霊――啓示されてあること・救済主なる神の存在としての全き自由の神の愛の行為の出来事全体において現臨なさり)、その中で「ひとりの方」が、すなわち神と人間との無限の質的差異の下で「すべてのそのほかのものとは異なり」・「すべてのそのほかのものに対して立ちまさった方」が、「一つの場所を、換言すればすべてのそのほかの場所と異なった、……またすべてのそのほかの場所に対して立ちまさったご自分の場所を持ち給う完全性のことである」(神とは異なるすべてのそのほかのものの場所とは異なる神の場所の完全性のことである、換言すれば完全性としての神の本来的な起源的な実在的な場所と時間における場所性のことである)。キリストにあっての「神は、ご自分のひとつの本質の三位一体性の中で、ご自身に対して現臨し給う」、すなわちキリストにあっての神は、完全性・自由性・自存性におけるご自身の中での神として、完全性・自由性・自存性における「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における神として、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「失われない差異性」における三つの存在の仕方、起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父、父が子として自分を自分から区別した第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身、愛に基づく父と子の交わりとしての第三の存在の仕方である聖霊(「愛は、神にとって、最高の法則であり、最後的な実在である」、聖霊はその交わりの中で「父は子の父」・「言葉の語り手」であり、「子は父の子」・「語り手の言葉である」)なる神であり給う。それからまた、キリストにあっての神は、われわれのための神として、神とは異なる「すべてのそのほかのものに対して、すべてのそのほかのものの主として現臨し給う」。ここで「現臨するということは、あのところでもここでも、(≪ご自身の中での神として≫)内に向かっても(≪それからまたわれわれのための神として≫)外に向かっても、同一性を意味せず」、「距離の中で(≪「失われない単一性」・神性・永遠性を存在の本質とする「失われない差異性」における三つの存在の仕方の中で、神と人間との無限の質的差異の中で≫)共に存在するということである」。「ここでは、(≪われわれのための神として≫)外に向かって、創造主と(≪神とは異なる≫)被造物との間にある距離(下記の【注】を参照)の中で(≪神と人間との無限の質的差異の下で≫)、共に存在するということが問題である」、ちょうど「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるイエス・キリストがわれわれ人間のために、われわれ人間からは「何ら応答を期待せず・また実際に応答を見出さず」とも、「神であることを廃めず」に、「何ら価値や力や資格もない」「罪によって暗くなり・破れた姿」の「人間的存在を己の神的存在につけ加え、身内に取り入れ、それをご自分と分離出来ぬよう」に、「しかも(≪神と人間との無限の質的差異の下で≫)混淆されぬように(≪混合・協働・共働・折衷されぬように≫)、統一し給うた」ように、またちょうどわれわれのための神としての「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における三つの存在の仕方、父――啓示者・創造主、子――啓示・和解主、聖霊――啓示されてあること・救済主なる神の存在は、徹頭徹尾あくまでも<神の側の真実>としてある全き自由の神の愛の行為の出来事であるように。「このような仕方で、(≪ご自身の中での神としての≫)ご自身と(≪それからまたわれわれのための神として、神とは異なる≫)ほかのすべてのものに対して現臨する方として、神はひとりの方であり給う」。すでに述べたように、この「現臨は、共に存在することとして、(同一性とは違って)距離(≪差異性・区別≫)を自分自身の中に含んでいる(包括している)」それである。その「距離がある限り、神の現臨は、必然的に神が一つの場所を持ち給うということ」、「(われわれは安心して言おう)神の場所(≪Raum。空間、延長、拡がり――「失われない差異性」における三つの存在の仕方を包括した「失われない単一性」を存在の本質とする父、子、聖霊なる神の場所と時間における神の場所≫)を持ち給うということを意味している」。したがって、「間違って前提された抽象的な無限性から導き出された絶対的な神の無場所性(≪無空間性≫)は、全く危険な考え方である」。何故ならば、「もしも神がいかなる場所(≪空間≫)も持ち給わないとすれば、その時には」、神は、「自分自身との同一性の中で、それからまた(≪神とは異なる≫)すべてのそのほかのものとの同一性の中で」「ひとりのものとして理解されることができるであろう」が、イエス・キリストにおいて自己啓示・自己顕現された「三位一体であるひとりの方としては理解されることができないであろう」からである、換言すれば神とは異なる「すべてのそのほかのものの主であるひとりの方として、また(≪ご自身の中での神としての≫)ご自身および(≪神と人間との無限の質的差異におけるわれわれのための神として、神とは異なる≫)すべてのそのほかのものと共に存在する中で理解されることはできないであろう」からである。このような訳で、「神に対して絶対的な無場所性(≪無空間性≫)が帰せられるとしたら、キリスト教の神概念は、いずれにしても粉砕され・解消されてしまう」ことになるのである。何故ならば、「無場所性(≪無空間性≫)とは距離がないことを意味している」し、「距離がないということは、同一性を意味しているからである」。「それとは逆に」、「概念のキリスト教的意味での神の遍在」は、「まさに神はひとりの方として一つの場所を、神ご自身の場所を持っておられ、まさにこの神の場所性の故にこそ、三位一体なる方であり」、神と人間との無限の質的差異の下で、神とは異なる「すべてのそのほかのものの主であり、そのようにしてすべてのものの中で、すべてのものの上で、ひとりの方であることができるということを意味している」。言い換えれば、キリストにあっての神、すなわちイエス・キリストにおいて自己啓示・自己顕現された神は、完全性・自由性・自存性におけるご自身の中での神として、完全性・自由性・自存性における「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における神として、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「失われない差異性」における三つの存在の仕方、起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父、父が子として自分を自分から区別した第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身、愛に基づく父と子の交わりとしての第三の存在の仕方である聖霊(「愛は、神にとって、最高の法則であり、最後的な実在である」、聖霊はその交わりの中で「父は子の父」・「言葉の語り手」であり、「子は父の子」・「語り手の言葉である」)なる神であり給う、それからまたわれわれのための神として、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における三つの存在の仕方、父――啓示者・創造主、子――啓示・和解主、聖霊――啓示されてあること・救済主なる神の存在としての全き自由の神の愛の行為の出来事全体であり給う。

 

【注】われわれのための神として「外に向かって、(≪「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父としての≫)創造主と(≪神とは異なる≫)被造物との間にある距離」について――
 バルトは、『ローマ書』で、神と人間との無限の質的差異は「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」と述べ、また『教義学要綱』では、愛に基づく父と子の交わりである「聖霊は、人間精神と同一ではない」・「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」、聖霊によって更新された理性も聖霊ではないと述べ、『福音と律法』および『ローマ書新解』では、徹頭徹尾神の側の真実としてある主格的属格として理解されたギリシャ語原典の「イエス・キリスト信仰」――すなわち「失わない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方、起源的な第一の存在の仕方である父なる神の子、イエス・キリストが信ずる信仰による「神の義、神の子の義、神自身の義」について述べている。吉永正義は、神の像問題について、「ブルンナーは『罪を犯しても人間は神の像を全く失ってしまったのではない』と言い、バルトは『失ってしまった』と言」ったということが、今日神学界で一般に理解されているところであるが、それは間違いである。バルトの立場も、『罪を犯しても人間は神の像を全く失ってしまったのではない』という立場」であると述べ、ただそれは、「まがりなりにも残っている神の像を人間が自分の能力をもっては認識できない」ということであって、「認識できるのは、啓示によるほかはない」ということであると述べている。この吉永の理解は、前述した事柄に引き寄せて言えば、全くの誤解と誤謬によるものであると言うことができる。バルトは、『バルトとの対話』で、「神はすべてのものを見られ、はなはだ良しとされた」が故に「その本性は良い」のだが、しかしその「良い本性に対抗してわれわれが罪をおかしている」が故に、「私は人間の内にある『善性のこり』については語らない」と述べている。それは何故か? それは、近代以降の世界においてその「善性ののこり」や神の残像を語れば、すぐに神と人間、神学と人間学との混淆・混合・協働・共働・折衷の事態を惹き起こすからである、総括的に言えばそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性が<必然的>に後景へと退けられてしまう・また神と人間あるいは神学と人間学との混淆・混合・共働・協働・折衷のベクトルを持つ自然神学があるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教が志向し目指されるからである。また、バルトは、『教会教義学 神の言葉Ⅰ/1・2』で、ブルンナーの目指している神学的課題が、「理性的思惟の絶対化」と「理性万能の妄想と理性の孤立の中」で、「神的汝をあこがれ求めている理性を解放する」ことにある、と述べている。すなわち、ブルンナーは、「神的汝をあこがれ求めている」「自信過剰」の<半減>された人間の「近代的精神」、人間的理性・自己意識・思惟によって、人間の側から、新たな神との「共働者」・協働者関係の構築(混淆・混合関係の構築)を志向し目指したのである。われわれは、『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』で、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」に対する「信頼」について述べたバルトと共に、また『教会教義学 神の言葉Ⅰ/1・』で、キリストの霊である聖霊の証しの力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰について述べたバルトと共に、また前述した『教義学要綱』の言葉を述べたバルトと共に、また自然神学の段階あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階における「神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した」ものであるから、その場合、その「対象(≪この対象は、「人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された絶対的な本質」・「存在者」、人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された「存在者レベルでの神」、それ故にその神の啓示に過ぎない≫)に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』」と書いたフォイエルバッハと共に、ブルンナーの思惟と語りを首肯することは決してできないのである、ちょうど第一義性・価値性として前期ハイデッガーの哲学原理に依拠したブルトマンの思惟と語りを決して首肯することはできないように。

 

 さて、キリストあっての「神が場所(≪神の場所・空間と時間における神の場所・空間≫)を持ち給うということを否定せず」、神が神の場所を持ち給うその神の場所を、神の場所とは異なる「すべてのそのほかの場所に相対してのその差異性の中で」、「またその立ちまさった姿の中で記述している」聖句が存在する。「Ⅰ列王八・二七-三〇に出てくるソロモンの祈り」の「『神は、はたして地上に住まわれるでしょうか』という問い」は、「神が、事実、(≪人間の仕方ではなく、あくまでもわれわれのための神として神の仕方で≫)地上に住まわれるということを否定してはいない」――このことは、「その続きの中で……語られている」、すなわちそのことは、神が、神とは異なる「そのほか誰かが地上に住む時の仕方ではなく、神の仕方で為し給うということを指し示している」。「見よ、天も、いと高き天もあなたを入れることはできません」、すなわち「天とすべての天を超える場所(≪宇宙を含めた全自然の場所・空間≫)も、それとしては神の場所(≪神の場所・空間と時間における神の場所・空間≫)であることはできない」。「そのようなわけで、ソロモンの神殿という地上的な場所も、それとしては神の場所であるということはできない」――「ましてわたしの建てたこの宮はなおさらです」、神の場所・空間と時間における神の場所・空間ではありません。「しかし、またこのことでもって、神は天上にも住み給うということが、いやまさに天上にこそ住み給うということが否定されてはいない」。したがって、ソロモンは、神が、われわれのための神として、「この神殿の中で、(≪人間の仕方ではなく、あくまでもわれわれのための神として神の仕方で、≫)その地上的な場所をお持ちになるように」、すなわち人間の仕方ではなく、あくまでもわれわれのための神として神の仕方で、「神にとってふさわしいように、天からして、しかしどうしてもまた地上的な場所をお持ちになるようにと祈る……」のである、何故ならば「(中略)信じる者は、自分が――つまり『自分の理性や力によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』)からである、何故ならば「信じる者」は、その思惟と語りが「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項」であって、われわれ人間の決定事項ではないということを、十分に認識し自覚しているからである、それ故に「信じる者」は、キリスト教的語りの正しい内容の思惟と語りが、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対して、神が応じて下さるということに基づいて成立している(≪人間自身の思惟性や独善性に基づいてではなく、あくまでも神の側からする神の側の真実に基づいて成立している≫)」(『教会教義学 神の言葉Ⅰ/1・2』)ということを、十分に認識し自覚しているからである。「しかしわが神、主よ、しもべの祈りと願いを顧みて、しもべがきょう、あなたの前にささげる叫びと祈をお聞きください。あなたが『わたしの名をそこに置く』と言われた所、すなわち、この宮に向かって夜昼あなたの目をお開きください。しもべがこの所に向かって祈る祈をお聞きください。しもべと、あなたの民イスラエルがこの所に向かって祈る時に、その願いをお聞きください。あなたのすみかである天が聞き、聞いておゆるしください」。「人は、ここで、神が、(≪神の場所とは異なる≫)すべてのそのほかの場所(≪空間≫)の彼岸で(≪外で≫)、(≪神の≫)場所(≪空間≫)を持ち給う際の特殊性が極めて印象深く強調されているのを見る」。イエス・キリストにおいて自己啓示・自己顕現された「神は、事実、……(≪ご自身の中での神として内に向かってと、それからまたわれわれのための神として外に向かってとにおいて、≫)神の特別な場所を持ち給い、しかもまさにその場所を、どうしてもまた(≪神の場所とは異なるすべての≫)そのほかの場所(≪人間の自己身体、性としての他者身体、外界としての自然、宇宙を含めた全自然、それが良きものであれ悪しきものであれ人間の身体と精神を介した普遍的で実践的な全自然との相互規定的な対象的活動による成果である人間化された自然である人間的自然の場所・空間、延長、拡がり≫)の中で、天上と地上で持ち給うという主張が為されているのを見る」。「この前提は、結局ヨブ一一・七-九においても同じである」――「あなたは神の深い事を窮めることができるか。全能者の限界を窮めることができるか。それは天よりも高い、あなたは何をなしうるか。それは陰府よりも深い、あなたは何を知りうるのか。その量は地よりも長く、海よりも広い」。ここでは、神の場所とは異なる「そのほかの場所(≪空間、延長、拡がり≫)とは違った深さ、高さ、長さ、広さについて……語られている」。このことは、「エペソ三・一八でも語られている」。「そこでは、まさにこれらの次元の認識」・「問いに付せられてはおらず、それどころか教会のために祈る(≪あの「啓示と信仰の出来事」に基づいた≫)使徒的祈りの対象として積極的に名指されている」。言い換えれば、この使徒的祈りは、次のような信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)に根拠づけられている祈りである――先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの「永遠の(神との人間の)和解」(神と人間との無限の質的差異の下で、それ故にあくまでも神の側の真実としてある、神の側からする神の人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性である聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方、神の子、起源的な第一の形態の神の言葉、「啓示の実在」そのもの、啓示・和解、「まさに顕ワサレタ神こそが隠された神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、それ故に神認識に向かっての人間の用意が存在する」、すなわち先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」、それ故にわれわれは、ただこのことに「感謝し、また感謝し続ける」のである、それ故にまたわれわれは、神の言葉に対する奉仕としての他律的な服従(≪教会の宣教、その思惟と語りと行動における「先ず第一義的に優位に立つ原理」・規準・法廷・審判者・支配者を、<客観的>な、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、「啓示の実在」そのものに、具体的にはその第二の形態の聖書的啓示証言、最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」に置くこと≫)と自律的な服従(≪そういう決断と態度≫)との構造において、それ故に「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、「啓示の実在」そのものを、具体的にはその第二の形態である聖書的啓示証言、その最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」を、教会の宣教(その思惟と語りと行動)における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、<純粋>なキリストの福音、<純粋>なキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要請・要求、すなわちすべての人々が純粋なキリストの福音を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)という連環と循環を志向し目指すのである、そういう仕方でイエス・キリストを主・頭とする「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すのである。理性主義や寛容主義に基づく多元主義は、結局は党派主義に過ぎない。J・ハーバーマスは、「脱中心化された公共的意識」により百人百様の分裂と動態化を惹起させた西欧社会の中で、近代主義的法概念の再構築によって、法制的な共同体の統括力の回復を試みようとし、そのため憲法を法制的中枢とする法体系の中での、生得的に有する自然権である自由と平等(自己意識の対自性、理性としての個人、その主体的な関わり方)と、国民主権(自己意識の対他性、意思における普遍妥当的な相互承認と相互制約による共同性)との<内的>連関付け、すなわち「討議によって産出されるコミュニケーション的権力」を目指そうとしたが、このハーバーマスの方法は成功しないことは明らかである――何故ならば、人間は理性的にだけ生きているわけではないし、共同性としての人間としてだけ生きているわけではないからである。(因みに、『教会教義学 和解論Ⅰ/1 和解論の対象と問題』によれば、ただ「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいてだけ、神の側の真実として、個と共同性は逆立し対立しているのではなく、正立し平和なのである。また、『バルトとの対話』によれば、われわれ人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍における「個々人と共同性の対立は近代的な対立であって、新約聖書のものではない。……新約聖書の『体』の概念は、この対立を超えたもの」なのである)。キリストにあっての神が「交わりを求め造り出すことで、明らかに既に、創造」が、換言すれば「精神的――自然的単一性(≪身体・肉体と精神・意識の総体性≫)として、……自分自身を見出すことがゆるされ」「神と直面させられた人間」――「そのような実在の措定と保持があるのである」が、しかし「この交わりを求め造り出すことは、創造を継続させているというよりもむしろ創造を凌駕している」ところの「神のみ子の受肉、死、甦りの中で罪深い人間が贖われた和解と同じである啓示そのものの業の中で強められる」。「詩篇一三九・五-一〇においても、それと同様なことが記されている」――「あなたは後ろから、前からわたしを囲み、わたしの上にみ手をおかれます。このような知識はあまりに不思議で、わたしには思いも及びません。これは高くて達することはできません。わたしはどこへ行って、あなたのみたまを離れましょうか。わたしはどこへ行って、あなたのみ前をのがれましょうか。わたしが天にのぼっても、あなたはそこにおられます。わたしが陰府に床を設けても、あなたはそこにおられます。わたしがあけぼのの翼をかって海のはてに住んでも、あなたのみ手はそのところでわたしを導き、あなたのみ手はわたしをささえられます」。このように、キリストにあっての神は、あくまでも神の側の真実としてある「神の仕方で、それであるから(≪神とは異なる≫)ほかのすべてのものと比較され得ない仕方で……、しかし全く同じように、現実に、いや……ほかのどの場合よりももっと現実に、その場所(≪空間≫)を持ち給う……」。「わたしは、この線から抜け出ている(≪逸脱している≫)どのような聖書の箇所をも知らない」(「エレミヤ二三・二三以下」、『事実、神は(≪われわれのための神として≫)われわれひとりびとりから遠くにおいでになるのではない。(≪それ故に、神と人間との無限の質的差異の下で、≫)われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである(使徒行伝一七・二七以下)』、「ローマ一〇・六-八」)。このような訳で、「これらすべての箇所で為されていること」は、「神の現臨に相対しての(≪神の場所とは異なる≫)すべての被造物的場所の<相対化>である。しかし、それ故にそれは、否定ではなく」、神と人間との無限の質的差異の下で「神的現臨の中に基礎づけられている、神的な場所とその特別な条件の<絶対化>である」。
 『教会教義学 神の言葉Ⅰ/1・2』によれば、「創造された世界」における「神の愛」と「われわれの世界」における「イエス・キリストの事実の中における神の愛」との間には差異がある。すなわち、後者の神の愛は、「まさしく神に対し罪を犯し、負い目を負うことになった人間の失われた世界に対する神の愛」である。したがって、「和解ないし啓示」は、「創造の継続」や「創造の完成」ではない。この意味は、「和解ないし啓示」は、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストの「新しい神の業」である、ということである。それは、「神的な愛の力」・「和解の力」である。イエス・キリストは、和解主として、起源的な第一の存在の仕方である創造主のあとに続いて、その第二の存在の仕方において「第二の神的行為(≪神の存在としての全き自由の神の愛の行為の出来事≫)を遂行」したのである。この神の存在の仕方の差異性における「創造と和解のこの順序」に、「キリスト論的に、父と子の順序、父(≪啓示者・言葉の語り手・創造主≫)と言葉(≪啓示・語り手の言葉・和解主≫)の順序」が対応しており、「和解主としてのイエス・キリスト」は、創造主・父に先行することはできないのである。しかし、父と子は共に「失われない単一性」・神性・永遠性をその存在の本質としているから、この従属的な関係は、あくまでもその存在の仕方の差異性を意味している。「創造が無からの創造であるように、和解は死人の甦り」である。「われわれは創造主なる神に生命を負うているように、和解主なる神に永遠の生命を負うている」。この「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における起源的な第一の存在の仕方である父なる神の存在としての全き自由の神の愛の行為の出来事としての創造は、「契約の外的根拠」として、イエス・キリストが始原であり中心であり終極である「恵みの契約の歴史(≪神の場所・空間と時間における神の時間≫)のための場所設定(≪神の場所・空間と時間における神の場所設定≫)」である。また恵みの契約の歴史(≪神の場所・空間と時間における神の時間≫)は、「創造の内的根拠」として、創造の目標であるその契約の歴史の始原であり、中心であり、終極であるイエス・キリストご自身(「イエス・キリストは、きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」)である。それは、父なる神と子なる神と「父ト子ヨリ出ズル御霊」(聖霊)の三一論的なキリストにあっての神ご自身の自己啓示・自己顕現、キリストにあっての神ご自身の自己認識・自己理解・自己規定、キリストにあっての神ご自身の自己証明である。