本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

生活困窮者支援を行うソーシャルワーカー(筆者)の記事(東洋経済オンライン10月17日配信)を読んで感じ・考えたこと――

生活困窮者支援を行うソーシャルワーカー(筆者)の記事(東洋経済オンライン10月17日配信)を読んで感じ・考えたこと――

 

(1)この筆者は、「『若者なんだから、努力すれば報われる』という主張など、ナンセンスであることを明らかにしていきたい。『若者の貧困』に大人はあまりに無理解すぎる」と述べている。このことは、自分が抱き意志し努力した希望の現実的破綻において、男女関係における向こう側からやってくる現実的破綻において、あるいはこちら側が全く望みもしないのに公選法に守られて無理矢理向こう側の世界からやってくる選挙カーの雑音にしか過ぎない連呼に対する異和感と忍耐せざるを得ない苦痛において、「世界がぜんたい幸福 にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(宮沢賢治)という構想と実践の現実的破綻において、等々においても言えることであるから、一般化して次のように言うことができる――個人の意志と努力が通用するのは半分だけであり、後の半分は向こう側の世界、状況がさまざまな形でその人に見方する必要があるから、そこにおける関係の異和の発生は、その両者の間に親和的な関係が成立していないことに因っている。吉本隆明は、『思想の基準をめぐって』で、次のように述べている――個体としての人間は、それがよきものであれ悪しきものであれ、歴史的現存性としてある人類史的成果の「制度」や「社会」を不可避的に生きるよりほかないものである・言い換えれば、人間は、個体史において、親に象徴される前世代に体現されている歴史的現在に普遍的に衝突する「青年期初葉」において、「個人の意志、判断力、構想」が通用するのは「ただ半分だけ」であることを知る・すなわち、いったんそうした「現実に衝突してからは」人は、「<何々させられる>」、「<何々せざるを得ない>」、「<何々するほかない>」というように生きるほかはない・それゆえに、人間の歴史は、「すべての個人としての<人間>が、或る日、<人間>はみな平等であることに目覚め、そういう倫理的規範にのっとって行為すれば、ユートピアが<実現する>という性質のものではない」のである。

 

(2)この筆者は、「若者は働けば自立できる、働きさえすればまともな生活ができるという神話」、「労働万能説」は通用しなくなっている・また「非正規雇用」の場合、「終身雇用ではない」「不安定な就労形態をとって」おり、「賞与や福利厚生がない職場も多く、働いたからといって、生活が豊かにならない」(「ワーキングプア問題」)・また「一部上場企業」や「公務員」になりたいと意志して努力しても、「すべての人」が、そうした「まともな賃金を得られる職業を確保すること」は不可能である、と述べている。これらのこと以外にも、次のようにも言うことができる――現在、そうした「一部上場企業」に就職できたとしても、その「一部上場企業」は、高度な消費資本主義段階における民族国家の一国性と経済の世界性のただ中で、さらなる利潤を求めて鎬を削る経済活動を行う企業である以上、そうした企業に就職したからといってその人の生や生活の安全と安心を保障するわけではなくなっている、そこには常に不安と不確実性がつきまとっている。さまざまなテロの蔓延した世界の中で海外赴任や海外出張は、現在羨望の対象ではなくなっている。就活文系人気企業の上位に入っている例えば電通には「取り組んだら放すな、殺されても放すな、目的完遂までは……」・「 周囲を引きずり回せ、引きずるのと引きずられるのとでは、永い間に天地のひらきができる」という「鬼十則」があって、その電通は過労自殺者まで出している。人間の際限なき欲望が必要以上の労働時間を強いている。現在、これらの事例は特殊なそれではないと思われる。したがって、大手企業に正規職員として就職した人に向かって就職おめでとうという言葉と同時に、この先大変だな! という思いが脳裏をかすめるのである。なぜならば、高度な消費資本主義段階は、身体的な肺病等に代わって正常と異常との境界を行き来する精神の病を生み落しているからである、軽薄な明るさ、軽薄な笑い、軽薄な発言、軽薄な行動を生み落としているからである。
 吉本隆明は、「感覚系の言語」(指示表出における言語)と「内臓系の言語」(自己表出における言語)を絡ませながら、<ひきこもり>について次のように述べている――「ひきこもって、何かを考えて、そこで得たものというのは『価値』という概念にぴたりと当てはまります。価値というものは、そこでしか増殖しません」・それゆえに、一般的に流通している「外」コミュニケーション能力は、あくまでも「意味」の構成を本質としている・その「外」コミュニケーション能力による言語は、「感覚に依存する心」・精神の動きと深く関わる感覚系に依拠した指示表出における言語を本質としている・それゆえに、社会的関係の中では、この能力は必要である・また、「意味」が集まって「物語」が生まれるから、そういうコミュニケーションによる経験には有効性もある・しかし、人間には自己表出を本質とする内臓系に依拠した言語に関わる「内」コミュニケーションもあるから、その「外」コミュニケーションは、人間におけるコミュニケーションの部分であって全体ではない・それゆえに、「この人が言っていることは奥が深い」、「黙っているけれど存在感がある」という感じを与える人は、その人の内面では「意味」構成だけでなく内臓系に依拠した言語を媒介した「価値」増殖が起こっていることの証左である・ここで「価値」増殖は、その人が自己意識の類的活動として対自的に自分「一人」で「自分と対話したことからうまれている」・このような訳で、明るく社交性のある人は意味とその集積としての物語を生むが、最も多く価値を生むわけではないし、価値増殖を行っている訳でもないのである(『ひきこもれ――ひとりの時間をもつということ』大和書房』)・それゆえに、人間の理想型は、「社交的要素」と「ひきこもりの要素」との均衡にある・しかし、人間はどちらかに傾斜し、現在は時代的な価値意識・価値観の多様化の中で、世代的断層が拡がり、「外」コミュニケーションも困難にさせている・そうした状況の中で自然史的必然として、情報化社会の高度化やマス・メディアの発達によって、コミュニケーション能力は発達しつづけている・ここで考慮すべきこと――情報化社会の高度化やマス・メディアの発達は、人間の感覚に依存する「心・精神」の<部分>の発達をもたらすけれども、内臓に依存する「心・精神」の発達をもたらすわけではないということである・すなわち、それは、人間の「心・精神」の部分の発達をもたらしても、内臓に依存する「心・精神」の発達をもたらさないから、全体の発達をもたらさないということである・このことは、市民社会に現存する愛憎問題や金銭問題や家族問題や友人問題や職場問題や日常茶飯事のいざこざや傷害や殺害の事態を眺めて見ればよく理解できることである。現在、私の小さい頃、若い頃にはなかったと記憶している殺傷事件、特に殺人事件が日常化している。かつて元首相・小泉純一郎の靖国参拝問題ではじまった靖国問題への世論の動向について、加藤絋一は朝日新聞で次のように述べている――昭和天皇がA級戦犯合祀に不快感を示した発言が報道された時点では靖国参拝の反対派が多くなったが、格差社会助長の発言をしたり・国民に対して一つくらい公約違反をしたからといってそんなことはたいしたことではないという内容のことを言ったりした小泉が靖国参拝後「いつ行っても国際問題にしようとする勢力がある」と他者の方に矛先を向けた時点から賛成派が増え逆転現象が起きた・このことは、「束縛のない自由な社会になったものの、(≪否、戦後資本主義制度の高度化と自由主義国家制度の成熟が一般大衆に私的利害と恣意的自由の優先意識を根付かせたために価値意識が多様化し、それゆえに関係意識が衰退して≫)何がいいのかみんながわからなくなって浮遊している」ことの証左である(『朝日新聞』2006年9月17日朝刊)。軽薄な明るさ、軽薄な笑い、軽薄な発言、軽薄な行動が、「現在ではおそろしいほどに膨大な員数をかかえ、また現在の情報化社会の動きを左右できるような」水準を持っている「テレビ局を中心に、そこに出入りする男、女の芸能人、……、局のプロデューサーやディレクター、……、男女のアナウンサーなどから構成されたテレビの共同体」から四六時中流され続けている。したがって、テレビを見ていて実感することは、軽薄な明るさ、軽薄な笑い、軽薄な発言、軽薄な行動は、さまざまな領域において、男・女、父親・母親、お婆さん・お爺さん、学生・子供、警察、教員、医者、弁護士、知識人、坊主、等々に蔓延している。

 

(3)この筆者は、「ブラック企業の台頭」は、「普通に働きたいが、普通に働くこと」が「許してもらえ」ない状況を生じさせている・「社会保障や社会福祉が遅れているからこそ、失業したときに困るし、早急に労働や労働市場へ駆り立てられることになる」、と述べている。この筆者は、先ず以て、資本主義社会――政治的近代国家の枠組みの中で、政治的近代国家における法的政策的言語を介して解決を目指そうとしている。しかし、その前に、次の事柄について批判すべきであると考える――マルクスは、前古代的な人類史のアジア的段階における人類史的成果を何もかも破壊すればいいとは決して述べてはいない。すなわち、マルクスは、『資本主義的生産に先行する諸形態』で、「ロシアにおける共産主義的所有の形態は、それ自身、(≪自然史の一部である人類史の自然史的過程における≫)諸発展の全系列を経過した、前古代的な型(≪人類史におけるアジア的段階の型≫)のもっとも近代的な形態である」・「もしもロシアが世界において孤立しているとしたら、ロシアは、西ヨーロッパが原始共同社会の存在以来現状にいたるまでの長い一連の発展を経過してはじめて獲得した経済的征服を、独力でつくりあげなければならないであろう。(中略)しかし、……、ロシアは、近代の歴史的環境の中に存在し、より高い文化と時を同じくしており、資本主義的生産の支配している世界の市場と結合している。そこで、<この生産様式の肯定的成果をわがものにする>ことによって、ロシアは、その農村共同体のいまなお前古代的である形態(≪人類史におけるアジア的段階の形態、その自然な相互扶助意識≫)を<破壊しない>で、<それを発展させ変形する>ことができる」、と述べている。この現実性と妥当性のある言説に依拠して言えば、日本の社会、その社会生活を安定させた良き慣習あるいは制度としてあった人類史のアジア的段階における日本型の相互扶助的な正規職員採用終身雇用制と年功序列型賃金制は、何としても最良の工夫をして残すべきだったのである。しかし、無能な国家支配上層――すなわち、法の支配の下での法による行政に基づく政治的国家の職能団体である制度としての官僚(確かに主には東大法学部卒の学業の優等生ではある)、政権政党政府(政治家)、制度としての資本家たちは、と同時に近代資本主義社会――政治的近代国家の枠組みの中でのみそしてその枠組みに縛られてのみ法的政策的言語を介して現体制を保持している無能なメディア、それに群がる御用学者、御用知識人、御用著述家たちは、その良き人類史的成果を衰退させ崩壊させる道を選んだのである。そして、実際的に、相互扶助的な正規職員採用終身雇用制と年功序列型賃金制を衰退させ崩壊させてしまうところの彼らのその歩みは、日本の社会、その社会生活の安定性を衰退させ崩壊させていったのである。これらの事態は、無能な国家支配上層(制度としての官僚、政治家)、無能なメディア、それに群がる御用学者、御用知識人、御用著述家たちのベクトルが、 大多数の被支配としての一般国民・一般市民に向いていないことの証左なのである。この証左は、消費税増税問題においても現れた――財政赤字は政府債務残高のことであって、その赤字の責任は全面的に 国家支配上層、制度としての官僚や政治家(政府)にあるにもかかわらず、御用学者、御用知識人、御用著述家、御用メディアは、その支配上層に対する徹底的な追及はしないで、法的政策的言語を介して、その責任を消費税増税必要論で大多数の被支配としての一般国民・一般市民に転嫁することに加担したのである。したがって、そうした消費税増税は本末転倒もはなはだしい、と最も正当性のある発言をしていた名古屋市長の河村たかしを片隅に追いやってしまったのである(民主党自身も、党員であるこの河村を応援をしなかったのである。そのような民主党など衰退していくことは必然であった、そして事実衰退した)。ほんとうは、社会に貧困が蔓延しているとすれば、その貧困の責任は、国民に関わるさまざまな重要法案に対してさえ<直接的>に関与することができない大多数の被支配としての一般国民・一般市民にあるのでは全くなくて、全面的に無能であったあるいは無能である国家支配上層(政府)にあるのである。と同時に、その政権を法的政策的言語を介して支えたあるいは支えている無能なメディア、無能な御用学者や御用知識人や御用著述家にあるのである。NHKや朝日新聞などは、大多数の被支配としての一般国民・一般市民のことを第一義的に考えることをしないで、日本の核兵器保持を主張するフランス知識人エマニュエル・トッドを招いてまで、それだけでなく批判をすることなく、それゆえに換言すれば日本の核兵器保持のキャンペーンを張ったのである。彼らの、こうした、大多数の被支配としての一般国民・一般市民に身を寄せることのない逆向きのベクトルは、年金・医療制度問題においても現れている。2004年、自民・公明連立政権は、「現役時代の収入に対する年金額の割合」、「所得代替率50%保証」という100年間安心年金制度改革と5年に一度の財政検証を決め、その後の財政検証において「100年安心かもしれないけれど、安心じゃないかもしれない……」と曖昧化したのだが、それに対して大手メディアは批判を展開しなかったのである、消費税増税論議の時と同じように。小泉純一郎と同じようにセンセーショナリズムのメディアを使って小泉進次郎は、貧困層等々のことを全く考慮せず、アメリカにおける<生活自助の原則>だけを真似して、「健康ゴールド免許」の主張を展開している。そして、センセーショナリズムのメディアは、この小泉を持ち上げている。このような訳であるから、大切なことは、学者や、知識人や、著述家や、メディア的情報をそのまま鵜呑みにしたり模倣したりすることは決してしないで、「自分の知識や教養がどんなに貧」しくとも、二流三流の百冊や百語よりも世界的に一流の知識人・思想家の一冊や一語に信頼し固執し連帯して、「自分自身で考え抜」いていくことが必要なのである、そういう仕方で自分の知識や教養を獲得していくことが必要なのである(『13歳は二度あるか――「現在を生きる自分」を考える』)。吉本は、次のように述べている――@「わたしは……『源氏』は原文で読まなければ判らないなどという迷信の世界を……無化したいと思った。(≪歴史的<現在>を生きる日本人として≫)「頭をひねりながら判読」してみても、たった二、三行すら正確には判読できない。また「ある程度以上のスピードで読める(正確に)」ような『源氏』研究者が現存するなどということを、まったくしんじていない」(『源氏物語論』)。したがって、バルトは原文で読まなければ分からないという者は、おそらくドイツ語で読んでもバルトを理解することはできないだろうし、翻訳本で読んでもバルトを理解することはできないだろう。なぜならば、その言い方には、バルトを、ほんとうに、先ず以て根本的包括的に原理的に理解しようという観点がないからである。翻訳本は、確かに理解しづらい箇所もありその翻訳者の資質や個性が出るとしても、例えば井上良雄や吉永正義や吉村善夫や加藤常昭や佐藤司郎等の翻訳書でも十分にバルトを根本的包括的に原理的に理解することはできるのである、したがって翻訳者に対しては感謝をもってその翻訳本に対すればいいのである、そして、その翻訳本を読んで、バルトを根本的包括的に原理的に理解しようとすればいいのである、A「万巻の書を読んだという人もいるけれど、僕は全然そんなことはない。(中略)主な作品を読 んでいくだけでも、……こういう作家かとおもうわけで、それは間違いなくイメージは湧きます。(中略)専門家といわれる人でも、誰か一人でもいいから全部ちゃんと読んだかと聞かれたら、それはあんまりいないと思います」(『幸福論』)。したがって、佐藤優が、トマスの「『神学大全』とバルトの『教会教義学』を読んでおけば神学の概略がどうなっているか理解できるはず」(『はじめての宗教論』)だと、いかにもすべてを読んだような言い方をしているのを見るとき、この言い方には、大法螺がある、ハッタリがある、と感じたのは私だけではないだろう。また、その佐藤自身が、『教会教義学』のうち「第三巻第四部(邦訳『創造論 IV 』全四冊)だけはぜひ読んだほうが良い」とうのを見るとき、そしてそれに対してバルト自身は『バルト自伝』で、「イエス・キリストにおける私の恩寵の神学として組織だてる」という「私の仕事に生じた変化の意義を見かつ理解するためには、一九三二年と三八年に現われた私の『教会教義学』の最初の二冊(≪〜『教会教義学 神の言葉 教会の宣教』までの『教会教義学 神の言葉』論≫)を、ある程度研究する必要がある」と述べているのを見るとき、佐藤はほんとうはバルトを根本的包括的に原理的に全く理解していないことを知るだろう、ちょうどその佐藤が、マルクスの重要な立場を述べた『資本論』の「第1版の序文」を全く理解していなかったように(池上彰×佐藤優の『希望の資本論』を読めば、このことがすぐに分かる)。

 

(4)この筆者は、「たとえ働かなくとも、若者たちには父母や祖父母がいるので、多少おカネに困ったとしても、家族が手を差し伸べてくれるのではないかという神話(家族扶養説)がある」が、「もうかつてのように、家族は若者を救えない。家族の世帯員が縮小し、相互扶助機能は前例がないレベルまで弱まっているからだ。世帯年収も減少傾向にあり、若者の親世代や祖父母世代は、自分たちの生活だけで精一杯」である・生活に困窮してしまった若者たちの相談を受けて、年間何十件も生活保護申請に行くと、福祉事務所職員は必ず、「頼れる家族はいませんか?」と聞くのだが、「家族が扶養できた事例には、残念ながら一件も出会っていない。……(≪「雇用の不安定化や低賃金、年金の減少、物価の高騰など」で家族も困窮しており≫)家族には頼れないのだ」・「家族がいても期待される機能が発揮できない。あるいは家族関係自体にストレスを生じやすく、同居や支援を求めることによって、問題が悪化することもある」・「諸外国では当然であるが、成人した場合、血のつながりのある者同士でも、日本ほど扶養をすることはない。主に夫婦間や未成年の子どもに対する扶養義務くらいで、成人後は生活や就労を政府や社会システムが保障していく」・「困ったら家族が助けてやればいいという論調は、ややもすると社会福祉や社会保障の機能を家族に丸抱えさせることにつながってしまう。これでは家族が共倒れの状況を招きかねず、さらに社会福祉や社会保障の発展も妨げる。そういう点において、家族扶養説は危険な前近代の思想である」、と述べている。ここで筆者は、前述した(3)と関係する、「家族扶養説」の困難を家族の経済的困窮の側面から述べている。一方で、「ストレス」としての「家族関係自体」について述べている。このことは、家族における関係意識の衰退の進行によって惹き起こされている。戦後資本主義の高度化と自由主義国家制度の成熟は人々の間に私的利害と恣意的自由の優先意識を定着させ、そのことは価値意識の多様化を生みだし、社会的な関係においてだけでなく家族における関係意識も衰退させたのである。秋田県教育委員会の調査によれば、「家庭の教育力」について「低下していない」と回答した人は6%であったが、「低下している」と回答した人は68%で、悩みや不安を抱えている人は66%であった(Yahoo!ニュース―河北新報、2006年8月21日)。こうした家族問題の<中心>、究極的な課題は、家族法・家族制度という共同幻想(観念の共同性、観念の共同的形態)の領域や、家族社会学の言う「<社会的>という範疇にある」のではない。相互関係はあるが、対なる共同性としての家族問題の<中心>、究極的な課題は、「<家>という構成の中心である<性>という対なる<幻想>の観念性と現実性」の領域にある。したがって、<家の問題>は「日常性」(現実性)の問題であるとともに「非日常性」(観念性)の領域の問題である。すなわち、愛情と信頼関係の問題・家事分担問題・愛憎問題・生活費問題・親子問題・子育て問題等々の対関係・対幻想領域の問題なのである。したがって、対幻想領域がそれらの家族問題を内在的に解決できない場合は、その分だけ、対幻想領域はそれらの家族問題の解決を次元の異なる国家の法制度(共同幻想)へと疎外し外化することになるのである、政治的近代国家の法的政策的言語の問題となるのである。すなわち、国家の共同幻想によって、対幻想領域が侵蝕されていく問題となるのである。ここに、国家の共同幻想が存続しつづけていく根拠があるとともに、自立した家族構成の不在の現実もある。このような理解からすれば、東日本大震災後の絆とか恩返しという言葉の氾濫は、逆に言えば、その衰退と解体の裏返された表現と言うことができる。ACジャパン(公共広告機構)は、東日本大震災後に、相互扶助、絆、恩返し、等の牧歌的な情緒性を駆り立てるように金子みすゞの「こだまでしょうか」を流し続けた。なぜならば、人類史のアジア的段階における農耕村落共同体においては一方に村八分という負の側面も持っているのだが、他方においてはわざわざ相互扶助とか絆とか恩返しとか言わなくても、その共同体の水準に規定されて相互扶助意識や絆が<自然>に育まれ<自然>に相互扶助や絆が実践されたからである。

 

 最後に、この記事の後にやってくる課題は、次のように言うことができる――
@先ず、聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯した『福音と律法』を著わしたバルトに依拠して言えば、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(性質・行為・働き・業、神の言葉、啓示・和解、神の側の真実としてのみある客観的な「啓示の実在」そのもの)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和に一切合切があるだろう(神の側の真実としてのみある、それゆえに客観的現実性・客観的実在としてある、ローマ書3・22、ガラテヤ書2・16等の「イエス・キリストの信仰」の属格の主格的属格理解)。マタイ26・6−13、マルコ・3−9――イエスに注いだ香油を高く売ればある一部の「貧しい人々に施すことができたのに」とベタニアの女を叱責した弟子たちの往相的な相対的一面的部分的緊急的過渡的な救済の言葉に対して、イ エスは還相的な観点から個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和の言葉を投げかけているのである。この課題である。
A宮沢賢治の場合――「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(『農業芸術概論要綱』)・全体が幸せにならなければほんとうの幸せとはならないという『よだかの星』の主題の課題である。
B親鸞の場合――自分が現に身近に接している「食物の飢え」で 困窮している具体的な一人の人や一部の人を施しや奉仕によって相対的部分的に救済しようとする課題は、往相的な緊急過渡的課題に属している。それに対して、 「浄土の慈悲」 (還相浄土) は、「念仏をとなえて、いちずに仏に成って、大慈大悲心をもって思うがまま自在に、衆生をたすけ益することを意味するはずである」――この阿弥陀仏の側の真実にのみ信頼し固執すれば、一切の 衆生の究極的総体的永続的な救済は可能となるだろう。したがって、還相的な課題は、偶然に出会った個別の衆生を助けるという往相的な相対的部分的な緊急的過渡的救済にはないのであって、煩悩や生老病死等々で困窮し疲弊する「一切の衆生」の救済という還相的な究極的総体的永続的な救済にあるのである。この課題である。
Cマルクスの場合――構想力による観念の共同性・観念の共同的形態を本質とする一切の国家の無化を伴う社会的現実的な個体的自己としての全人間の究極的総体的永続的な解放の課題である(国家の本質は観念の共同性・観念の共同的形態にあるから暴力革命では国家を無化することはできない)。
D吉本の場合――誰であれ人は、日常と非日常、生活と観念(知識・思想)の総体を生きることを強いられているから、ただ生活に重心を置くか知識に重心を置くかという差異性を持つだけである。吉本は、『マス・イメージ論』において、現在における「大衆の原像の変容は、同時に知識人と大衆の境界の溶解にほかならない」、情報科学・情報技術の発達が、大衆を、既存の知識人とは異なった知的大衆に、さらには知的大衆を知識人へと逸脱させ変容させている、と述べている。しかし、「支配の制度」があるかぎり、思想にとっての普遍的な価値基準である社会的存在の自然基底としての大衆原像は、依然として知識・思想の自立の拠点なのである。なぜならば、さまざまな現実的諸条件によって大小の差異はあっても、人はこの大衆原像から不可避的に逸脱してしか生きられないから、かつても今も生きられたことがないところの「大衆の<常民>性」としてある大衆原像を、「人間の生き方、存在」における普遍的な等価な基準、「価値観の収斂する場所として想定」し得るし、それゆえにこの思想的立場からは、「価値の極限を<巨人>の生き方、仕事」において書かれた歴史に登場する「知的な巨人、政治的な巨人、権力的な巨人」は、逆に思想にとっての普遍的な価値基準・「価値の源泉」である大衆原像からの大きな逸脱過程にある者として規定できることになるからである。言い換えれば、この思想的立場からは、知識人における「人間の生き方、存在」を「価値」としてではなく「意味」として規定し直すことができるからである。ここでは、大多数の被支配としての一般大衆への、価値観の転倒が可能となるのである。この思想的立場がどうして必要かと言えば、それは次のような理由による――人類は、制度としての官僚、政治家、資本家、知識人のために存在しているのではないからである、人類は「文明の進展やエリート層への従属のために存在しているのではない」からである、大多数の被支配としての一般大衆が、「歴史の主人公だとおもうためには、まだやること、創られるべき物語はたくさんある」のであって、「意識のなかの転倒、知識のなかの転倒、政治のなかの転倒をふくめて、すべてひっくり返さなければいけない反物語ばかり」だからである。知識は非知識より優れていて「知識人が非知識人を導」かなければならないというような「かんがえ方は、絶対に転倒されなければいけない」からである(『アフリカ的段階について 史観の拡張』および『大情況論』)。吉本は、自らの思想的立場として、ある社会構成・死は構成・文明的――文化的構成の歴史的な時代水準、時代状況によって変容する大衆像と大衆的課題を自らの知識・思想に繰り込むという仕方で、「平坦な生き方」・「平坦な生涯」を持つ原像としての大衆・大衆原像に「権威と権力を収斂させ」、大多数の被支配としての一般大衆が歴史の主人公・主体となり、彼らが社会的現実的に究極的総体的永続的に解放されるところに、歴史の究極像を置くのである。このような訳で、「『大衆の原像』にしか反権力、非権力の理念が包括すべきものはない」(『情況へ』)のである。吉本は、次のように述べている――「常識的な歴史の記述は、知的な巨人、政治的な巨人、権力的な巨人を、より多く記述のなかに登場させます。これは、価値の極限をこういう<巨人>の生き方、仕事においているからです。しかし、これらの<巨人>は大なり小なり価値の源泉からの大きな逸脱に過ぎません。この大きな逸脱は、平坦の反対であり、ただ資質の必然、現実の必然という要素を認められるとき、はじめて許されるようにおもわれます。つまり、人間は求めて波瀾を手にすることもできなければ、求めて平坦を手にすることもできない存在です、ただ、<強いられ>て、はじめて生涯を手に入れるほかないものです」・「歴史の究極のすがたは、平坦な生涯を<持つ>人々に、権威と権力を収斂させることだ、という平坦な事実に着せられます。しかし、そこへの道程が、どんな倒錯と困難と殺伐さと怪奇さに充ちているか、は想像に絶するほどです」・「大衆は、その<常民>性を問題にする限り、その時代の権力に過不足なく包括されてしまう存在です。だから大衆的であること自体はなにも物神化すべき意味はないとおもいます。そしてこのような存在であることは、そのままその時代の権力を超えてしまう可能性に開かれている存在であることをも意味しています。つまり権力に抗いうる可能性というよりも<権力に包括され過ぎてしまう>という意味で、権力を超える契機をもっている存在ということです。だからあらゆる<政治的な革命>は、大衆の<され過ぎてしまう>から例外なく始動されてゆきます」・「このような大衆の存在可能性を<原像>とかんがえれば、そこに価値のアルファとオメガをおくよりほか、ありえないとおもいます」(『思想の基準をめぐって』)。