本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

河口湖への旅行と三ツ峠山登山

 河口湖畔のホテルに宿泊し、三ツ峠登山(三ツ峠は、1,785m開運山、1,775m御巣鷹山、1,732m木無山の総称)をした。この山には5回登っている。なぜ登るのかと問われれば、ひとつには、富士山を眺望したい、もうひとつには、頂上に辿り着けた時、私の体力の方はまだまんざらでもないぞと実感できる、からである。だから、隔年毎か、数年毎に登ることにしている。ただ、私の場合は、心房細動の持病があるので、『富嶽百景』を書いた太宰治や『太宰治』(筑摩書房)を書いた井伏鱒二のように、「一時間ほどして三ツ峠頂上に達する」(太宰)ことはできない。私の場合は、頂上に辿り着くまでには、いつも1時間30分以上を要してしまう。
 さて、太宰治の『富嶽百景』には、こうある――御坂峠の天下茶屋へ「来て二、三日経って、井伏氏の仕事も一段落ついて、或る晴れた午後、私たちは三ツ峠へのぼった」。「三ツ峠、海抜千七百米。御坂峠より、少し高い。急坂を這うようにしてよじ登り、一時間ほどして三ツ峠頂上に達する」、井伏は、登山用の出で立ちであったが、太宰は「登山服の持ち合せがなかったので、「ドテラ」・「茶屋の老爺から借りたゴム底の地下足袋」・「茶屋の壁にかかっていた麦藁帽子」という姿で登山をした、そうした太宰と井伏は、「頂上についたのであるが、急に濃い霧が吹き荒れて来て、頂上のパノラマ台という断崖の縁に立ってみても、いっこうに眺望がきかない。何も見えない。井伏氏は、濃い霧の底、岩に腰をおろし、ゆっくり煙草を吸いながら、放屁(ほうひ)なされた」、とある。
 この放屁の件について、井伏は、『太宰治』でこう書いている――第一に、「太宰君は山川草木には何等の興味も持たない風で、(≪栗採りに≫)しょんぼりとしてついて来た。ちやうど『富嶽百景』で私のことを云つてゐやうに、いかにも、つまらなさうであつた。茶店のお爺さんが(当時は丈夫だったので)どつさり茸を採つて来ても、太宰君は茸の名前さえたづねようともしなかった」。第二に、「『富嶽百景』については一箇所だけ私の訂正を求めたい描写がある」。それは、放屁の件である。なぜならば、「私は太宰君と一緒に三ツ峠に登つたが放屁した覚えはない」からである。「それで太宰君が私のうちに来たとき抗議を申し込むと、『いや放屁なさいました』と噴き出して、『あのとき、二つ放屁なさいました』と、故意に敬語をつかふことによつて真実味を持たせようとした。ここに彼の描写力の一端が窺はれ、人を退屈にさせないやうに気をつかう彼の社交性も出てゐるが、私は当事者として事実を知つていゐのだからこのトリックには掛らない。『しかし、もう書いたものなら仕様がない』と私が諦めると、『いや、あのとき三つ放屁なさいました。山小屋の爺さんが、くすッと笑ひました』と、また描写力の一端を見せた」、とある。
 さて、太宰は、「急に濃い霧が吹き荒れて来て」、富士の眺望がきかなくなった、三ツ峠山頂での出来事についても書いている――「パノラマ台には、茶店が三軒並んで立っている。そのうちの一軒、老爺と老婆と二人で経営しているじみな一軒を選んで、そこで熱いお茶を呑んだ。茶店の老婆は気の毒がり、ほんとうに生憎の霧で、……富士は、ほんのすぐそこに、くっきり見えます、と言い、茶店の奥から富士のおおきな写真を持ち出し、崖の端に立ってその写真を両手で高く掲示して、ちょうどこの辺に、このとおりに、こんなに大きく、こんなにはっきり、このとおりに見えます、と懸命に註釈するのである。私たちは、番茶をすすりながら、その富士を眺めて、笑った。いい富士を見た。霧の深いのを、残念に思わなかった」。この茶店についてであるが、太宰の『富嶽百景』は1943(昭和18)年1月10日に発行されており、また井伏の『太宰治』には当時「三ツ峠には山小屋が三軒あって、(中略)三軒のうちの一番奥の小屋」で休憩したとあるから、そしてまた「断崖の縁に」休憩所を設けているということから、現在の四季楽園(大正10年創業)のことだろうと思う。現在営業している三ツ峠山荘は戦後創業とあるし、もう一軒は廃業したみたいだから、そのように思える。
 今回、私たちは、8日11時頃に頂上に辿り着いたのであるが、山頂は濃い霧に覆われていて、私たちも富士山を眺望することはできなかった。後者の写真は、2009年の11月上旬に登った時、三ツ峠山荘の休憩場所から13時頃に撮った写真である。前者の写真は、今回宿泊したホテルのベランダから8日の朝に撮った写真である。今回は登山もして非常に疲れはしたが、ホテルのベランダからは富士山も眺望でき、ホテルのサービスもよくていい旅行ができた。