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『教会教義学 神論Ⅰ/3 六章 神の現実(下)』「三十一節 神の自由の様々な完全性  一 神の単一性と遍在」(その6-4)-4

『教会教義学 神論Ⅰ/3 六章 神の現実(下)』「三十一節 神の自由の様々な完全性  一 神の単一性と遍在」(その6-4)(53-68頁)

 

「三十一節 神の自由の様々な完全性  一 神の単一性と遍在」(その6-4)-4
 さて、「神は『天』に住み給うと言われる時、そのことでもって当然のことながら、神は、天とすべての天の存在と万軍の創造主および主であり給うということが否定されているわけではない」。神との同一性において、「いかに、既に、ユダヤ的な思弁が、後にスコラ的な思弁」が、「プラトンやプラトン主義者たちからの借用」において、「天を、多様性の中で、理解し記述しようとしたか」、「またいかにユダヤ的思弁およびスコラ的思弁が、(≪人間自身の理性や人間自身の欲求やによって対象化され客体化された≫)天的な住人、力、秩序の階級制度を理解し記述しようとしたかということはよく知られていることである」。しかし、「そのような同一性」、人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化されたそのような「実在のあるいは可能な天のうちの最高のものも、またすべての天的な力のうちの最高のものも、決して神と同一ではない」、神と人間との間には、神と神とは異なるすべてのいかなるものとの間には、無限の質的差異がある・あり続ける。ここで、「Ⅰ列王八・二七の……『見よ、天も、いと高き天もあなたをいれることはできません。ましてわたしの建てたこの宮はなおさらです』」という「言葉が関わってくる」、このことは「天がこの御座であるとして表示されている聖句(イザヤ六六・一、マタイ五・三四、使徒行伝七・四九)も事情は変わらない」。このような「ある種の矛盾の中で、あたかも神の御座も神の被造物に属しており」、それ故に「神ご自身と区別されているように見える時、……そこでの事情は、神は確かに天を、天使たちと天の万軍とわかち持ってい給うが、その御座を(≪神とは異なるすべての≫)いかなるものともわかち持ってい給わないといった具合である」。この時、われわれは、それらの「聖句を、天は、その栄光(≪聖、全能、永遠、力、善、あわれみ、義、遍在、知恵等≫)ある多様性全体の中で、すべてのその住人たちと共に、またその主および創造主であり給う方に対して、まさにまた天も、その方のにあることによって、御座として奉仕するというように理解しなければならない」。キリストにあっての神は、「全世界の主および創造主として、天的実在に対しても、徹頭徹尾現臨し給う」。「しかし、われわれが、『天において』の神の栄光ある存在を、厳格に、換言すれば神の本来的な特有な『住居』(≪空間性、場所性≫)を言い表すものとして理解しなければならない限り、『天において』は、確かに(≪神と人間との間にある、神と神とは異なるすべてのいかなるほかのものとの間にある、無限の質的差異の下で≫)『天を超えて』(≪すなわち天の外・彼岸≫)として理解されなければならない」。「天」は、「神によって造られた実在のより高い側面であるが故に」(「『天』は、神によって造られた実在のうちの上なる、不可視的な、精神的な」「その限りより高い側面」であるが故に、すなわちそれは、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰の場所として、「その限りより高い側面」であるが故に)、「神は、いずれにしてもいと高き方であり」、それ故に「上において尋ね求められなければならないが故に、この『上において』は、神の被造物としてのわれわれにとっていずれにしても今・ここ(≪時間・空間≫)においては、によってある程度表示され・代表されるが故に」、「その限り、神の厳粛な名は、今・ここ(≪時間・空間≫)において、われわれにとって、『天にいます父』(≪「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「失われない差異性」における三位一体の神の<起源的>な第一の存在の仕方――この父が子として自分を自分から区別した第二の存在の仕方であるイエス・キリストの父≫)という名であることができるし、またそのような名でなければならない」。「人は、……よく注意せよ」――終末論的限界の下で「『上にあるものを求めなさい』について語られているコロサイ三・一-二において、いかにこの『上に』が、まさに(≪神の被造物としての≫)天そのものと同一視されずに、むしろ『そこではキリストが神の右に座しておられるのである』という言葉(≪神と全自然との、神と人間との、無限の質的差異の概念≫)で言い表されており、そのようにして、……この『上に』が、……(≪神の被造物としての≫)天とも区別されているかということに」よく注意しなければならない。したがって、「われわれが、『天にいます父』のことを考える時」には、われわれは、「ここでも『かしこ』のこと(≪完全性としての神の本来的な起源的な実在的な場所と時間における神の場所は、常に、そのような神の場所とは異なるすべてのそのほかの場所の、外・彼岸にある・あり続けるということ≫)が問題であるから」、「かしこを……見、かしこのことを考えなければならない」、「われわれは、神が天において占め給い、その座を占めつつ(地の上に高くいますと同じように)天の上に高くいます御座のことを考えなければならない」。「この御座の場所は、またそれも一つの場所であるにも拘らず、一つの場所であることによって、ただ全く神ご自身にだけ属している場所である」。「このように、神は、(≪ご自身の中での神として、≫)かしこに、ただかしこにだけ現臨し給う」、すなわち完全性・自由性・自存性における「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における神として、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「失われない差異性」における三つの存在の仕方、起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父、父が子として自分を自分から区別した第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身、愛に基づく父と子の交わりとしての第三の存在の仕方である聖霊(「愛は、神にとって、最高の法則であり、最後的な実在である」、聖霊はその交わりの中で「父は子の父」・「言葉の語り手」であり、「子は父の子」・「語り手の言葉である」)なる神として現臨し給う。「それは、それから、……まさに神がかしこにそのようにいますが故に、いますことによって」、われわれのための神として、神の場所とは異なるすべての「ほかのところでも、またほかの仕方(≪性質、働き、業、行為、行動≫)で、い給うためである」、すなわち「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における三つの存在の仕方、父――啓示者・創造主、子――啓示・和解主、聖霊――啓示されてあること・救済主なる神の存在としての全き自由の神の愛の行為の出来事全体でい給うためである。言い換えれば、キリストにあっての神、すなわち「ご自身の(ただひたすらその方にのみ固有な)場所を持ち給う方」は、「また(≪神の場所とは異なるすべての≫)そのほかの場所の創造主および主であり給うことができ」、内に向かってのご自身の中での神として、すなわち完全性・自由性・自存性における「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における神として、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「失われない差異性」における三つの存在の仕方、起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父、父が子として自分を自分から区別した第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身、愛に基づく父と子の交わりとしての第三の存在の仕方である聖霊なる神という「その方に固有な場所性の力の中で」、「さらにまた……(≪神の場所とは異なるすべての≫)ほかの場所においても」、外に向かってのわれわれのための神として、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における三つの存在の仕方、父――啓示者・創造主、子――啓示・和解主、聖霊――啓示されてあること・すなわちそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(キリスト教に固有な類・歴史性)・救済主なる神の存在としての全き自由の神の愛の行為の出来事全体において「現臨し給うことができる」。「それであるから、これらの場所」は、「あのその方に固有な」「場所と共に(聖書が言おうとしていることはそのことであるように見える)、……神が、同時にご自身とそれらすべての場所に対して現臨される限り」、「換言すれば神ご自身ただ単にご自分に対してだけでなく、それらの場所の中で、それらすべての場所の中にあるものに対して、繰り返し違った仕方で場所を与え給う」、身体と精神を持った自然の一部としての人間の自己身体および性としての他者身体ならびに外界としての自然、それは個々の世代(個体的自己の成果の世代的総和)の契機としての歴史(時間性)を構成するのであるが、身体と精神を介した普遍的で実践的な全自然との相互規定的な対象的活動――人間諸個人による全自然の対象化・非有機的身体化・人間化およびそのことによる人間の自然化・人間的自然として有機的自然となる場所・空間と時間における場所を与え給う。このキリストにあっての神は、「ご自身場所(≪神の本来的な起源的な実在的な場所と時間における神の場所≫)であり給う限り、事実唯一の場所を形作っているといった事情である」。「もしも事情がそうでないとしたら、どうしてわれわれは、(≪神とは異なる≫)われわれ被造物が、使徒行伝一七・二八によれば『神のうちに』生き、動き、存在しているということを理解するであろうか。もしも聖書で、『神のうちで、『キリストの中で』、『霊の中で』のわれわれの存在と生について語られているすべてのことが、……ただたとえとしてだけ理解されるべきであるとすれば」、また「もしも神が、現実に、本来的に、起源的に場所的であり給わ」ないとしたら、またもしも神が、ご自身の中での神として「先ず第一にただご自分の中で、ご自分に対して場所的(≪神の本来的な起源的な実在的な場所と時間における場所性≫)であり、……それからまさにそのことの力で」、われわれのための神としての「神を通して場所を与えられる(≪神とは異なるすべての≫)ほかのものたち」(何故ならば、神は、本来的な起源的な実在的な場所と時間における場所であり給うから)、キリストあっての「神のうちにそれら自身の場所を見出すことができる(≪神とは異なるすべての≫)ほかのものたちに対しても場所であり給うといった具合でないとしたら」、「『神のうちに』生き、動き、存在している」という「聖書的比喩」に対応している「真理は何であるであろうか」。われわれが、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)を通して、本来的な起源的な実在的な場所と時間における場所であり給うキリストにあっての「神からして場所を持つようになり、神のうちに場所を見出すことがゆるされるという」この真理は、「暫時的な、またなくてもよいような真理ではなく」、「創造、和解、救済の実在にとって、それ故に神の言葉が信頼に値するものであるということにとって」、「決定的な真理であるとすれば」、この時、「人は、神ご自身が場所的であり給うという認識を避けることができない」のである、この時「その右にみ子が座し、われわれ人間性の担い手としてわれわれの代表であり給うという神の御座についての聖書的な比喩」は、「その御座が、神の現実の場所を、またそのようなものとして、(≪本来的な起源的な実在的な場所と時間における神の場所とは異なる≫)すべてのそのほかの場所に立ちまさり、すべてのそのほかの場所を基礎づけ・支配する場所を、すべての場所の場所を表示している限り、換言すれば……場所の原理、……本来的な現実の場所を表示している限り」、「単なるたとえではないのである」。「それは、われわれの被造物的直観が考え出す、あの無場所的(≪無空間的≫)な場所原理ではなく」、「神的な根源実在の、まことの、それ故にそれ自身場所的な場所原理である」。われわれが、この「神的遍在の根本形式」を、それ故に「神の御座そのものを、さらにもっと具体的に問おうとするならば」、「わたしはまさに神の一つの本質の三位一体性そのもの以外のものを指し示すことができないであろう」。
 聖書また聖書に信頼し固執し連帯した教会の宣教において神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、愛に基づく父と子の交わりである聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示自己顕現するが故に、この啓示が教会の宣教の<客観的>な信仰告白および教義である三位一体論の根拠であり、それ故にこの三位一体論は、「神論の決定的に重要な構成要素」であり、「啓示の認識原理」であり、それ故にまた「教会の宣教の批判と訂正」は、常にこの三位一体論に即して行わなければならないのである。「その三位一体性の中で」、キリストにあっての神は、「失われない単一性」を存在の本質とする「失われない差異性」における三つの存在の仕方において、「確かにひとりの方であり、ただひとりの神であるが、しかしそれだからとって、決して孤独であり給うのではなく、ご自身の中で単一性であるのと同じように交わりであり」、「三つの存在の仕方の中にいますひとりの方であるということについて決定が下されている」のである。このことは、「あたかも神は無場所的(≪無空間的≫)であり」、それ故に「生命がなく、愛がないものであるかのように受け取る受けとめ方を決定的に排除するものである」、換言すればキリストにあっての神は、完全性・自由性・自存性における「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における神として、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「失われない差異性」における三つの存在の仕方、起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父、父が子として自分を自分から区別した第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身、愛に基づく父と子の交わりとしての第三の存在の仕方である聖霊(「愛は、神にとって、最高の法則であり、最後的な実在である」、聖霊はその交わりの中で「父は子の父」・「言葉の語り手」であり、「子は父の子」・「語り手の言葉である」)なる神であり給う「三位一体なるものとしての神は、生き、愛し給い、まさにそのことこそが、神ご自身の中での場所の基礎づけおよび根源実在である」。このキリストにあっての「神の三位一体性は、……まさにそのようなものとして、すべての場所の場所となり」、われわれのための神として「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における三つの存在の仕方、父――啓示者・創造主、子――啓示・和解主、聖霊――啓示されてあること・救済主なる神の存在としての全き自由の神の愛の行為の出来事全体において、「ご自身をすべての場所の場所とすることができるために、ただひたすら神にのみ固有な場所であるところの場所である」。「父、子、聖霊として神」は、ご自身の中での神として「ご自身のために場所を必要とし、持ち、また場所(≪神の本来的な起源的な実在的な場所と時間における場所≫)であり給う」。またキリストにあっての神は、「父、子、聖霊として、(≪われわれにための神として≫)その存在(≪「失われない単一性」を本質とする存在≫)と具体的存在(≪三つの存在の仕方としての「失われない差異性」における具体的存在、父、子、聖霊なる全き自由の神の愛の行為の出来事全体としての神の存在≫)が、神の意志、決定、行為に対応しているすべてのものの創造主および主であり給うことによって」、神とは異なる「すべてのそのほかのもののためにも、……造られた場所の中での場所」を、それ故に「天と地の場所の中での場所」を、「そのようなものとして」「ちょうどそもそも世界が神と同一ではあり得ないのと同じように」、「神の場所とは……同一ではない」ところの、「(神を通して、神の中で、神の場所によって包まれて場所であることがゆるされる)われわれの場所の中での場所」を、「……それ故にそれらの中で神の場所は、その神的三位一体性の中でのその固有性からして……(≪完全性・自由性・自存性の中で≫)制限なしに場所を持たなければならず、事実持っており」、神とは異なるすべてのそのほかのものに対して、「神は現臨され、それらの中で神が遍在し給う」ところの「われわれの場所の中での場所」を、「必要とし、持ち、またそのような場所であり給う」。