本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

小田原・箱根・忍野八海・富士五湖・甲府湯村温泉への旅

小田原・箱根・忍野八海・富士五湖・甲府湯村温泉への旅

 

 友人3人で、旅行に行ってきた。まだ少し、疲れが残っている。
 富士河口湖町のあるサイトの統計によれば、過去10年間、5月13日から15日までの間は雨が降らないことになっていたため、2泊3日(私は前日平塚に宿泊したので3泊4日)で、友人3人と旅行することにした。統計上の通りに、雨は降らず、晴天に恵まれた。したがって、この3日間については、11年間、雨が降らないことになった。

 

5月13日(水)
 小田原駅に集合し、レンタカーで箱根に向かった。写真は、神奈川県立恩賜箱根公園湖畔展望館の敷地内にある東屋からのものである。ここには、アジア系と西欧系の人たちが、多く訪れていた。

 

 この後、駒ケ岳の頂上まで行こうと、駒ケ岳ロープウェイに向かった。しかし、強風のため運休となっていた。そのため、芦ノ湖スカイライン、乙女峠、河口湖畔を通って、富士を眺めながら、甲府湯村温泉旅館明治に向かった。この旅館は、太宰治が、『正義と微笑』・『右大臣実朝』を書きあげるために逗留したところである。ただ、残念なことに、太宰が逗留した部屋はなくなっていた。

 

 『右大臣実朝』で太宰は、鶴岡八幡宮(鶴岳八幡宮)において受身の落命・覚悟の落命を遂げた実朝に、「……平家ハ、アカルイ、……アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ……」・「……人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ」、と言わせている。人は、明るさと暗さを生きるものだ、喜怒哀楽を生きるものだ。「安楽なくらしをしているときは、絶望の詩を作り、ひしがれたくらしをしているときは、生の喜びをつづる」。このことと関連して、吉本隆明は、次のように述べている――「実朝の生涯」を規定していた「全国的な戦乱」の「世情」は、「明るい危うさであった」。そして、太宰の生を規定していたものも、戦争期の「明るい危うさと、<建設の槌音>との健康さがもつ退廃」であって、太宰は、その時勢や時流に「どこかでついてゆくことができなかった」。吉本は、この太宰の実朝像から、往相的に上昇していく、「明るいもの」(明る過ぎるもの)、「健康なもの」(健康過ぎるもの)、「建設的なもの」(建設的すぎるもの)は、「すべてまやかし」・「錯覚」「であり、疑いをもったほうがよいというかんがえ」を受け取った。

 

 奥野健男は『太宰治論』で、「上昇感性の否定」と「下降指向」における太宰の生き方について述べている。人は、市民的常識・市民的観点にどっぷりと浸かって、すなわち他の人々と同じように社会と調和し、「うそをつきあいながら、『清く明るく朗らかに』(人間失格)生活している」。太宰は、このことを熟知していたが、そうした生き方ができなかった。したがって、太宰は、「道化や何かで糊塗する」という仕方において、「他人に迷惑をかけないために自己を変えても従おうとした」。受身の生き方を目指した。その極限が、受身の死としての玉川上水における山崎富栄との入水自殺である。
 太宰は、自己と他者(学者、社会等)との関係の異和感覚・異和意識を「偽ることが出来なかった。既成の道徳や習慣を信じたり、あるいは信じた顔をしたりすることが出来なかった……」。したがって、「孤独感覚」・「幻滅」の中で生きた、マルクスや吉本やフーコーやバルトも、そうしたただ中で、それぞれの基盤に立脚して、自己解放(←→国家の無化を伴う最高度に精神が更新された身体を座とする人間の社会的現実的な究極的包括的総体的永続的永遠的解放・救済・平和)を探究し目指した。
 太宰は、生理的嫌悪、「感覚的嫌悪」、「自己は他のためにある」という「倫理的タブー」・「倫理的否定」において、市民社会的な常識や価値観に依拠して社会的な特権的地位を生きる「学者のプライド」や学者の「自負心」・「偽善性」やエリート意識を拒否した。総括的に、太宰が「いちばん憎んだのは学者のプライド」である。「自分は、かつて聖書の研究の必要から、ギリシャ語を習いかけ、その異様なよろこびと、麻痺剤をもちいて得たような不自然な自負心……。あの不健康な、と言っていいくらいの奇妙に空転したプライド……。勉強がわるくないのだ。勉強の自負が悪いのだ(如是我聞)」。このような訳で、太宰は、「下降指向」において「不可解な社会と繋がろう」とする生き方を選んだのである。その時、太宰は、「白昼堂々なる不正が美名のもとに行われている」・「自己をも他をもごまかし行いすましている偽善者が横行している」・「卑しいエゴイズムから、……酷薄なあるいはけちくさい行為が、弱肉強食が、行われている」「悪質な社会のからくりのために、自分と同じような、無駄な努力を強いられている人々、絶えず『日蔭者』の思いに悩まされている人々、いやそのように思うことすら許されずただその日その日の生活に追われている人々、このような無数の同類を発見した」のである。「ああ、可哀想だ。人間が可哀想だ。(中略)みんな、みんな可哀想だ。僕には、昔から、軽蔑感も憎悪も、怒りも嫉妬も何も無かった。人の真似をして、憎むの軽蔑するのと騒ぎ立てていただけなんだ。(中略)僕のいのちが役に立つなら、誰にでも差し上げます。このごろ僕には人間がいよいよ可哀想に思われて仕様がないんだ。無い智慧をしぼって懸命に努めても、みんな、悪くなる一方じゃないか(新ハムレット)」。このような現実的な社会的認識が、太宰に、「強い者、悪しき者と闘おう」という明確な倫理性を喚起させている。「僕のいのちが役に立つなら、誰にでも差し上げます」と言う言葉は、その翌年に書かれた『正義と微笑』では、主人公・芹川進――「かれは、人を喜ばせるのが、何よりも好きであった!」、となっている。宗教思想家の親鸞も、そうした生き方を生きていた、というように言うことができる。なぜならば、親鸞は、天災・飢餓・病気・餓死・煩悩等々で苦悩し疲弊する衆生の究極的総体的永続的救済の課題に対して、往相的な宗教的学問的知識的言葉ではなく、意識的な還相的な思想の言葉で答えていくことを眼目としたのだからである。しかし、人は、芹川進の次のような「苦しみに苦しみ抜いた」「永い苦悩」、「滅茶苦茶の努力には気が」つかない。「すべてがどうでもいいのだ。(中略)世の中が、ばかばかしい、というよりは、世の中に生きて努力している自分が、ばかばかしくなるのだ。(中略)人間というものは、やっぱり、食うためにだけ生きているのではあるまいか……」、倦み疲れてしまいそうだ。理想を追い求めて「成就の扉」が開かれると、あれでもない・これでもない、という声が聞こえてくる。「何度、自殺を考えたか分からぬ」。乳胎児期における母親との関係に規定されて自殺願望に生きる太宰にとって、「理想の喪失」は死を意味するだろう。

 

 知識人の自立の根拠であり党派性の止揚の根拠でもある、思想にとっての普遍的な価値基準としての、時代とともに変容する社会的存在の自然基底である大衆原像(その時代水準とその課題)の意識的還相的な知識への繰り込みを目指した吉本は、次のように述べている――人類は、制度としての官僚・政治家・資本家のために存在しているのではない、知識人のために存在しているのではない、「文明の進展やエリート層への従属のために存在しているのではない」。したがって、大多数の被支配としての一般大衆・一般市民が、「歴史の主人公だとおもうためには、まだやること、創られるべき物語はたくさんあるのです。意識のなかの転倒、知識のなかの転倒、政治のなかの転倒をふくめて、すべてひっくり返さなければいけない反物語ばかりです」。知識は非知より優れていて「知識人が非知識人」を導かなければならない、というような考え方は、「絶対に転倒されなければいけない」。親鸞も、宗教者・知識人・善人・誰であろうと、現実的な戦争とか愛憎問題とか利害対立とかの不可避な「機縁」さえあれば、自分が意志しなくとも、人一人だけでなく多数の人を殺し得るという究極的観点(還相的観点)において、自己欺瞞に満ちた市民的観点・市民的常識(往相的観点)から超出した。

 

 「なんじら断食するとき、偽善者のごとく、悲しき面容(おももち)をすな」・「くるしみは誰にだってあるのだ」。宗教家、哲学者、の苦しみに特別な価値があるわけではない。「ああ、断食は微笑と共に行え」。「微笑もて正義を為せ!」、正義漢面せずに正義を為せ! 阪神・淡路大震災の時、ある牧師が「武器を持って神戸市役所かどこかに押しかけて行って、被災者の住めるような建物をすぐにつくってくれと、職員を脅かした」ことを話すために、吉本にわざわざ電話をかけた事態は、偽善の典型である。

 

 さて、マタイ6章16節以下を捩ったタイトルの『正義と微笑』は、主人公・芹川進が16歳から18歳になんなんとする「二箇年」の日記風の作品である。この進にも、進の兄にも、太宰の対象化されたその存在・その思考・その実践を垣間見ることができるようになっている。
 先ず、日記は、4月16日、金曜日からはじまっている。「僕には、たぶん、不幸を愛する傾向があるのだ」。言い換えれば、太宰には、その極限に想定される死を愛する、自殺願望があるのだ。

 

 「『偉い人物になれ!』と小学校の頃からよく先生たちに言われてきた来たけど、あんないい加減な言葉はない……」。何故か? すべてとは言わないとしても、そういう教員たちが、実際的には、職員室や教室で、<意地悪>や<差別>の日常性を生きているからである。こういう実態が、最近では、メディアを通して伝わり、裸形化されてきた。ほんとうは、もともと前からそうだった。これは、私がある教員から聞いた話である――職員室で給食を大食いするおばさん教員がいたそうで、唾の入った味噌汁を飲むかどうかを試すために、何人かでその教員の味噌汁の中に唾を入れて観察した、という話である。今日の新聞記事に、人の死に興味を持っていた名大女子学生が同級生2人の飲み物に硫酸タリウムを混ぜて飲ませ観察したという。その意識構造は、同じなのである。人間は、理性的な人間性を持って生きているだけでなく、情念の世界も動物的な残虐性も持って生きている。したがって、いじめはよくない、と生徒には言いながら、日常的に、教員間でも意地悪やいじめはあるし、教員の生徒いじめもあるし、とことん特定の生徒を毛嫌いする教員もいるのである。このような訳であるから、40人学級から30人学級にすればよい、20人学級にすればよい、様々な相談員を配置すればよい、そうすれば、いじめ等はなくなる、知識的だけでなく情緒的にも、良い子が普通の子が育つ、ということは決して言えないのである。文部官僚や御用教育評論家のやっていることは、先ず第一には私利私意の保存と自分の地位の安泰と天下り先の確保、である。このことは都道府県レベルでも言えることであるが、行政職員は教育委員会部局ではなく知事部局を望むように、文科省への赴任を希望はしないのである。したがって、そういうことを第一に考えてしまうのである。太宰は書いている。「学識だって、あんまり、すぐれているように見えない。そんなつまらない人が、いつもいつも同じ、あたりさわりの無い立派そうな教訓を、なんの確信もなくべらべら言っているのだから、つくづく僕らも学校がいやになってしまうのだ」。「修身」の「先生」は、「ナポレオンやソクラテスをほめて、市井の小人のみじめさを罵倒する」が、「小人の日常生活の苦闘にも」等価な「尊いものがある」のだ。こんな先生、「こんな人こそ、俗物というのだ」。「教員室の空気が、さ。無学だ! エゴだ。生徒を愛していないんだ」。日本キリスト教団の生活綱領には「隣人を愛し、社会の福祉のために労し、キリストの正義と愛とがあまねく世に行われるようにする」とある。しかし、教団内の教会間においても、人的資金的な適正な再分配は行われていないだろう。赴任先の心配と私利私意の保存と自分の地位の安泰を、まず第一に考えているのではないだろうか? 啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」に信頼し固執しそれを媒介・反復することを通して、そして聖書に絶えずくり返し聞くことを通して、教会は教会となることによって教会であろうとしなければ、イエス・キリストを主・頭とする教会となることはできないであろう。

 

 「4月23日。金曜日。雨。夜、木村が、ギタを持って家へ遊びに来たので、ひいてみ給え、と言ってやった。へたくそだった。僕が、いつまでも黙っているので、木村は、じゃ失敬と言って帰った。雨の中をわざわざギタをかかえてやって来る奴は、馬鹿だ」。太宰は「カチカチ山」で、「とにかく招かれざる客というものは、その訪問先の主人の、(≪兎におけるような≫)こんな憎悪感に気附く事ははなはだ疎いものである。これは実に不思議な心理だ」・「他人の家に、憩いの巣を期待するのが、そもそも馬鹿者の証拠なのかもしれないが、とかくこの訪問という事に於いては、吾人は驚くべき思い違いをしているものである」、と書いている。

 

 「本当に偉い人は、ただ微笑してこちらの失敗を見ているものだ。けれどもその微笑は、実に深く澄んでいるので、何も言われずとも、こちらの胸にぐっと来るのだ。ハッと思う、とたんに目から鱗が落ちるのだ。本当に、改心も出来るのだ」、自分の罪に気づくのだ。人間の内面の罪の普遍性に気づかせられるのだ。ヨハネ8・1−11がすぐに思い浮かぶ。

 

 

 「キリストだって勉強したんだ。当時の聖典を、のこりくまなく研究なさったのだ。古来の天才はすべて、人の十倍も勉強したんだ」。モーツアルトもそうだった、マルクスもそうだった、啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」に信頼し固執しそれを媒介・反復したバルトもそうだった。バルトだけは、ほんとうに、「聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程の包括的研究において『教義そのもの』を尋ね求め」たのである。

 

 「聖書を読みたくなって来た。こんな、たまらなく、いらいらそている時には、聖書に限るようである。他の本が、みな無味乾燥でひとつも頭に入ってこない時でも、聖書の言葉だけは、胸にひびく。本当に、たいしたものだ」。太宰のこの感性、文学においても一流の人は、やっぱり言うことが違うのだ。詩人であり・文芸批評家であり・思想家である吉本も、次のように述べている――「……〈奇跡〉(中略)たとえば、お前は癒された、立てといったら癩患者が立ち上がった……。これは自分流(≪文芸批評あるいは思想≫)の言葉でいえば、比喩なんです。比喩の言葉というのは、あるばあいにはストレートな真実の言葉よりもっと真実を語るということがありうるわけで、これを実在論に還元してしまうと、田川健三はそうだとおもいますが、こんなのでたらめじゃないか、こういういいかげんなことを書いてる本だという以外にないわけです。しかし言葉としての聖書というのは、信仰の書として読んでも、文学書として読んでも、あるいは思想の書として読んでも、どんな読み方をしょうと人間をのめり込ませる力があるとすれば、これは叡知じゃないとこういうことは言えないという言葉が、そのなかに散らばっているからです。たとえばイエスが、「鶏が三度なく前に私を否むだろう」と言うと、ペテロはそのとおりなっちゃったみたいなエピソードをとっても、人間の<悪>というのが徹底的にわかっていないとだめだし、心というのがわかっていないとだめだし、同時にこれはすごい言葉なんだというのがなければ、やっぱり感ずるということはないとおもうんです」(『〈非知〉へ―〈信〉の構造 対話編』)。
 牧師であり・神学者であり・神学における思想家であるバルトも、次のように述べている――最終的に離脱した宗教的社会主義における「そこでの人間の困窮と人間に対する助けとが、聖書が理解しているほどには、真剣に理解されておらず、深く理解されて」いなかった(『証人としてのキリスト者』)。「説教者が、実際の生活にはなお多くのことが必要であって聖書は生きるために必要なことを言いつくしていない(≪人間の感覚や知識を内容とする経験・情報が不足している≫)、と考えるようなことがある限り、彼は、この信頼、信仰を持っておらず、真に信仰によって生き」ようとしていないのである。福音は、「われわれの思考や心情の中にあるのではなく、聖書の中にある」から、私たちは、「思想」、「最高の習慣、最良の見解、そのようなものいっさい」を、聖書に「聴従」することの前で、「放棄」しなければならない。その「聖書は神の言葉となる」ところで、「聖書は神の言葉なのである」。すなわち、聖書に「聴従」するために、神のその都度の自由な決断に基づく啓示の出来事と信仰の出来事、その神の言葉の「出来事」の運動の中において、聖書によって導かれなければならないのである。説教者にとって、「彼らに語らなければならない彼ら自身に関する真理」は、「神がすでに為した」「わたしの前にいるこの人々のために、キリストは死に、甦られた」――神、罪深きわれらと共に、ということである。
 このような訳で、人間論や人間学の後追い知識でしかない、人間の経験の尊重や人間学との混合を目指すルドルフ・ボーレンや佐藤司郎や小泉健たちの聖霊論的説教論は、二、三流の神学、と言うことができるのである。

 

 「自分が絶世の美男子だったら、ひとの容貌なんかには、むしろ無関心なものだろうと思う。ひとの醜貌に対しても、頗る寛大なものだろうと思う。ところが……自分の顔が甚だ気にいらない者には、ひとの容貌まで気になって仕様がないのだ」。その通り。私が在学したあの頃の青学の歴研には、二人の、ほんとうの絶世の美女とほんとうの絶世の美男子がいた。二人は活動家だった。二人とも、美女、美男子、のそぶりを全く見せなかった。誰に対しても寛容で差別をしなかった、やさしかった。私は、実感的にこの認識を得た。余談ではあるが、二人は結婚した。

 

 一高に合格せず大学にも幻滅した芹川進は、俳優を志望し横沢太郎が指導する鴎座の試験を受ける。そこには俳優の上杉新介がいて、彼から「このひとは、程度が高いそうですから。」と言われた進は、「いやな言い方を、しやがる! 卑劣だ! その中で、一ばん救われ難い種族の男だ」と思った。進は、「ファウスト」の「ちょいと佳いところを見つけて、大声で朗読をはじめた」。「……人生は、彩られた影の上にある!」。この進の朗読に対して、上杉は、次のような評価を下す――「(中略)君に言って置きますが、いまから台詞の選り好みをするようでは、見込みがありませんよ。俳優の資格として大事なものは、才能ではなく、やはり人格です。横沢さんは満点をつけても、僕は、君には零点をつけます。」。
 ここで、俳優の上杉新介は、川端康成であることに気がつく。因みに、『正義と微笑』が書かれたのは、1942年(昭和17年)である。
 1935年(昭和10年)第1回芥川賞に選ばれたのは石川達三の『蒼氓』であるが、太宰の『逆行』(候補)と『道化の華』(予選候補)も芥川賞候補に入っていた。川端康成の選評はこうである――「この二作は一見別人の如く、そこに才華も見られ、なるほど『道化の華』の方が作者の生活や文学観を一杯に盛っているが、私見によれば、作者目下の生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みあった」。この選評に対して、太宰は、「文芸通信」(10月号)「川端康成へ」で、「私は憤怒に燃えた。幾夜も寝苦しい思ひをした。小鳥を飼ひ、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す。さうも思つた。大悪党だと思つた。(中略)ただ私は残念なのだ。川端康成のさりげなささうに装つて、装ひ切れなかつた嘘が、残念でならないのだ」、と述べている。1942年の『正義と微笑』では、こう書かれている――「……鴎座の試験を受け、そこにいならぶ芸術家たちが、あまりにも、ご自分たちのわずかな地位をまもるのに小心翼々の努力をしているのを見て、あいそがつきたのだ。殊にあの上杉氏など、日本一の進歩的俳優とも言われている人が、僕みたいな無名の一学生にまで、顔面蒼白になるほどの競争意識を燃やしているのだから、あさましくて、いやになってしまったのだ。いまでも決して、上杉氏の態度を立派だとは思っていないが、けれども、それだからとて人間生活全部を否定しようとしたのは、僕の行き過ぎである」。盲腸炎から腹膜炎を併発しその鎮痛のため使用したパビナールによって中毒になった太宰は、芥川賞の賞金を切望していたのである。『正義と微笑』では、進に、「兄さんは、いま、隣室で、小説を書いている。(中略)出来上がったら、文学公論の懸賞に応募するんだそうだ。兄さんは以前、懸賞の応募を、あんなに軽蔑していたのに、どうしたのだろう。(中略)いずれを見ても、理想の喪失」、と言わせている。「芸術の道にも、普通のサラリイマンの苦労と、ちっとも違わぬ俗な苦労も要るだろうという事は、まえから覚悟していた……」。「とにかく兄さんには、凄い才能があるのだから、いまに調子が出て来れば、世界的な傑作を必ず書く。兄さんの文章の美しさは、ちょっと日本には類が無い」。表現欲求が枯渇していない。

 

 「先駆者というものは、ただ口で立派な教えを説いているばかりではない。直接、民衆の生活を助けてやっている」。「生活を離れた理想は、――ああ、それは、十字架に行く道なんだ。そうして、それは神の子の路である。僕は民衆のひとりに過ぎない」。上杉の鴎座には、「理想の高い匂いが無い……、生活の影さえ希薄だ。演劇を生活している、とでもいうような根強さが無い」。これは、文学における往還の言葉である。親鸞における往還の言葉と同じである。「称名をとなえ至心に信心」できず、「即座に救われ浄土へ往」けない、あるいはこの現世に多くの未練や執着があって速やかに浄土へ往きたいと思えないし思わない庶民的現実と庶民的課題とを自らの浄土教理・知識に繰り込んで、一念義によっても救済されるという思想を構成した親鸞の言葉の水準と同じである。言い換えれば、還相的な課題は、偶然に出会った個別の衆生を助けるという往相的な過渡的相対的緊急的救済にはないのであって、煩悩や生老病死等々で困窮し疲弊する「一切の衆生」の救済という還相的な究極的総体的永続的救済にあるのである。このように、親鸞は、天災・飢餓・病気・餓死・煩悩等々で苦悩し疲弊する衆生の究極的総体的永続的救済の課題に対して、往相的な宗教的学問的知識的言葉ではなく、意識的な還相的な思想の言葉で答えていくことを眼目とした。したがって、親鸞は、「善」の自覚よりも「悪」の自覚の方が阿弥陀仏による救済に近づきやすいように、「知」よりも「愚」・「南無阿弥陀仏」の称名念仏の方が阿弥陀仏による衆生の究極的総体的永続的救済に近づきやすい、と意識的還相的に思想したのである。聖書でいえば、マタイ26・6―13、マルコ14・3−9の課題である。

 

5月14日(木)
 御坂峠にある天下茶屋である。向かって左、2階の部屋が太宰の資料室になっている。

 

5月15日(金)
 忍野八海(八つの池の総称)、アジア系、特に中国系の観光客が多く訪れていた。写真、向かって左側奥に湧水のある湧池があるのだが、おそらくその湧水が信仰の対象であって、確か「大昔」に「修験者が八つの池を巡った」と書いてあった。

 

 40年以上ぶりに、東京から小田原まで東海道線を利用した。15両編成で走っていたが、私が東京にいた頃は15両編成ではなかった気がする。山手線や横須賀線と同じように、10両編成だったと思う。思い違いかもしれない。いずれにしても、車両は新しく綺麗だった。総体として、首都圏の交通網は、やっぱり恵まれていて、うらやましく思った。