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オウム真理教について――吉本隆明と村上春樹の考え方

吉本隆明『超「20世紀論」下』、村上春樹『約束された場所で』文芸春秋、吉本隆明『<信>の構造』「<石>の宗教性と道具性」春秋社、吉本隆明『心とは何か 心的現象論入門』弓立社、吉本隆明『人生とは何か』弓立社に基づく

 

 先ず、村上は、『約束された場所で』において、次のように述べています――この本を刊行した契機は、第一に、オウム事件を惹き起こした「根本的な問題は何一つ解決していない」という危機感と、第二に、「日本社会というメイン・システムから外れた人々(特に若年層)を受け入れるための有効で正常なサブ・システム=安全ネットが日本には存在しないという現実は、あの事件のあとも何ひとつ変化していない」という危機感にある。言い換えれば、「良くも悪くも(≪現存する≫)社会システムの中ではやっていけない人たちが存在していることは確かなこと」であるから、過渡的形態としてであれ「そういう人たちを受ける受け皿」が必要である、という願望にある。そして、この本が目指しているのは、「明確な一つの視座を造り出すこと」ではなく、「徹底的に被害者の視線」で、「メディア的にプロセスされていない第一次情報を集めて」・「明確な多くの視座を……作り出すのに必要な『材料』を提供すること」にある。したがって、「多くのマスコミや評論家がやっているように、オウム真理教の側の精神性とか思想性をとりあげて……解析」することではない。
 作家の村上にとって興味があるのは事件に関わりのあったその「人間」の生誕であり、「家庭」であり、育てられ方であり、家庭や学校での成長過程であり、「結婚」であり、その人の家庭生活であり、「趣味」であり、「会社」のことである。村上のその情報によれば、「ものすごいラッシュアワー」を、「毎日毎日何十年と続けて」、それでも生活のために「もういやだ」と「文句も言わずに通い続けて」、「サリンを吸」わされて「ふらふらになっても、大多数はそのまま会社に行って」いる。これは、私には、先ず以ては生活を持続させるための社会的存在の自然基底・一般大衆・一般市民の存在様式だと考えるのですが、村上は会社員の側にある「システム」であり「一種の宗教的な色彩」(習俗化した宗教性、集団的無意識)であり、この意識は「オウム真理教のシステムと通底している部分があるかもしれない」、と述べています。また村上にとって、「ひとつの大きなモチーフ」は、「悪」の問題であるが、「汚れとか、暴力とか、嘘とか」の個別的な悪のイメージは持っているが、その悪の「全体像……をとらえることができない」し、また価値観の多様化による横へと拡散された関係意識の衰退のただ中を生きる「現代の社会において、いったい何が善で何が悪かという基準そのものが……揺らいでいる」、と述べています。そしてまた、法的にということだけでなく、第一義的に、ほんとうは他者を現実的に侵害しないという市民社会の個人主義の原則(倫理)からして、サリン散布による殺人行為は悪であるが、「オウム真理教の教義(≪タントラ・ヴァジュラヤーナ・金剛乗≫)をたどって解析していくと、それは……絶対的な悪ではない……という筋道も出てきます」、とも述べています。
 さて、村上は、オウム真理教信者の「宗教的な話」には、オウムという「限定された箱」・世界の中だけで通用する言葉しかなく、その宗教の言葉には「広がりというものがない」、とも述べています。言い換えれば、このことは、その教理や共同性が、絶対的思想・党派的思想・党派的共同性によって、一般大衆・一般市民に対して閉じられてしまっている、ということでしょう。すなわち、オウムの信・教団共同性は、不信・非オウムに対して完全に開かれていないということ、オウムの信・教団共同性を、そのあるがままの不信・非オウムに対して完全に開いていないということです。
 私が、村上の作家としての質の良さを感じたのは次のような発言です――「僕はオウム真理教の一連の事件にしても、あるいは神戸の少年Aの事件にしても、社会がそれに対して見せたある種の怒りの中に、なにか異常なものを感じないわけにはいかないんです」。それは、そのことを自覚しているかどうかは別として、自分にもある悪が対象化された(「蓋をぱっと開け」られた)ことに対する怒りに過ぎないのではないか? 例えば、少年Aの写真を載せるか載せないかで「口汚く大喧嘩する。僕に言わせればそんなのは本質的な問題じゃない」。あるいは「オウムの実行犯の両親が袋叩きにあったりする」。それらは、自分自身にもある悪の「蓋をぱっと開け」られたことに対する、「復讐心」であり、「罰」し方であるだろう。吉本は、オウム事件と少年A事件が惹き起こされた消費資本主義段階の社会の時代状況は、価値観が多様化して善悪の基準がなく浮遊状態にあるから、オウムの「集団的犯罪」・殺人も少年Aの「単独犯罪」・殺人も「いつでも交換可能」である、述べています。また、村上は次のようにも述べています――「カルト宗教に意味を求める人々の大半は、べつに異常な人々ではない。落ちこぼれでもなければ、風変わりな人でもない。彼らは、私やあなたのまわりに暮らしている普通(あるいは見方によっては普通以上)の人々なのだ」・「彼らは……まわりの人たちと心をうまく通じ合わせることができなくて、いくらか悩んでいるかもしれない。自己表現の手段をうまく見つけることができなくて、プライドとコンプレックスとのあいだを激しく行き来しているかもしれない。それは私であるかもしれないし、あなたであるかもしれない。私たちの日常生活と、危険性をはらんだカルト宗教を隔てている一枚の壁は、我々が想像しているいるよりも遥かに薄っぺらなものであるかもしれないのだ」。
 さて、1995年3月20日地下鉄サリン事件が起きました。その2年後の1997年3月に村上春樹は、その事件の被害者や遺族の証言を集めた『アンダーグラウンド』を著わしました。さらに、その翌年の1998年11月には、オウム信者・元信者の証言を集めた『約束された場所で』を刊行しています。吉本は、村上の前者の作品について次のように述べています――評論家や作家や宗教学者や新聞記者やニュースキャスターがマスコミで行っている、麻原やオウム真理教についての論評は「失格」である、と。ただそうした中で、村上の『アンダーグラウンド』は、「作家としての力量」を有したものである、と。しかし、村上は、宗教としてのオウム真理教と宗教家としての麻原についての思想的解明を意識的にとらないようにしている点が、自分の対応の仕方とは異なっている、と述べています。それではなぜ、思想的解明が必要かと言えば、世間の対応の仕方もそうですが、裁判はその思想は裁かず、その行為だけを裁くからです。すなわち、法律や裁判では、その思想や宗教の問題点を解明できないからです。したがって、吉本は、「最初から評論家としてではなく、思想家として振る舞うという姿勢でやってきた」、と述べています。あくまでも吉本は、この思想家としての姿勢において、オウム真理教の事件は、現在の社会に蔓延している「オウム的なもの」や少年A的なものの真相、また宗教としてのオウム真理教と宗教家としての麻原の真相について、思想的に解明していくことが必要であり重要であるから、その事件を「単なる殺人鬼集団の犯行と見なしていけない」等、と述べました。しかし、そのことを理解せずに行われた、市民的常識からする・世論からする吉本に対する反発は「酷い」ものでした。吉本自身、そのように述べています――「現在の市民社会というものは、『ひでえもんだな』ということを身をもって体験しました」。吉本は、次のように述べています。
1)麻原の『生死を超える』について、「肉体的修練を重んじるヨーガや、臨済宗や、曹洞宗」の僧侶で、「精神を統一する修練……生死を離脱する修練」・各身体的急所への精神集中による諸イメージ形成について、「あれだけのことをいった人はいないと思います」、と述べています。もちろん、それだけでなく、親鸞は、そうした苦行を通したイメージ形成は「心理的幻影に過ぎ」ないとして修行に意味を見い出さず比叡山を降りたこと・この意味で親鸞は「最初の覚醒者であり、仏教の解体者」であることも述べています――麻原には、「親鸞ほどの器量はとてもない」。
2)肉体的な修行を積むことで、自律神経系の「胃とか、腸とか、肺とか」を自由に動かすという、「身体に内向する傾向」は、「東洋の特徴」である。しかし、そういう身体的修行をいくら積み重ねても、科学や文明は発達しない。アジアと違い、身体に内向しない、感覚器官→悟性→理性へと上向する西洋は、科学や文明を発達させることができた。したがって、気功による「熱」と電気による「熱」との間には質的差異がある。そして、両者の誤謬は、部分でしかない原始的な気功や原始的な宗教であるオウムを、あるいは部分でしかない西洋近代や科学主義を、全体化する・絶対化する・党派化する点にある。
3)「本質的には、優れた宗教家は優れた人格者であるべきである」。しかし、ヨーガのような原始的宗教の本質は、「村里の宗教」・「土俗宗教」・「生き神様」信仰にある。ダライ・ラマも、チベットの「生き神様」である、「恐山の巫女」や「沖縄のユタ」も「生き神様」である。鎮守の神様のお祭りも「生き神様」信仰である。そして、天皇制は、この「生き神様信仰」を「制度的に体系化した」ものである。この「生き神様」は、村人の願いに対して、「無意識の宗教性」でもって託宣をする。「生き神様」は、「人格は問われ」ず、「敬われ」ることを本質とする。そうすると、この「生き神様」信仰と、人格的には優れていなくてもあれだけ信者を集めた麻原とを重ね合わせることができる。
4)吉本は、オウム信者によく読まれていた中沢新一の『虹の理論』について次のように述べています――「僕が啓発された特徴的な点は、仏教でいう無意識」とは、無意識は段階性がなく・「意識と無意識の中間に『前意識』……があって、その前意識が意識のほうに出てきたり、無意識穂のウに戻ったりする」というフロイトの「無意識よりも、もっと多層で、奥があるというか、深いものとして捉えられていて、無意識の向こうに、さらにちょっと違う深い無意識がある、無意識には段階がある、ということを述べている点です」。無意識に段階があるということを書いたものは、中沢の『虹の理論』と麻原の『生死を超える』だけである。麻原は、「下腹部に精神を集中」させた場合と、「喉元に精神を集中」させた場合との間には、「光の色のイメージ」に差異があるように無意識には段階があると述べているが、麻原やその弟子たちの「社会、経済、政治、歴史に関する」見識は「幼稚」である。吉本は、無意識の多層性・段階性について、@人間の「心・精神」の世界は、「意識領域」と「無意識領域」との構造としてある、またAその無意識領域は、「核」・意識領域との境界にある「表層面」・核と表面層の間にある「中間層」との構造としてある、そしてB無意識領域が「現実世界」と接しているという場合、それは、無意識領域の「表層面」を指している、特にC無意識領域の核の出自は、胎児期と生まれてから一年間の乳児期における母親との関係の在り方によって形成される。Dこのような構造的把握は、個体の問題や家族の問題を扱う上で重要なものである、と述べています。
5)「麻原は単なる犯罪者だ」とした「宗教音痴」の浅田彰について、吉本は、「唯物主義者」の「特徴がよく表れたいい方」である、と述べています。唯物主義者は、例えば縄文時代と弥生時代の区別の歴史的考証を土器を作る時の縄の使用や縄目の有無によってするが、その場合それは、本質的な区別にはならない、と述べています。本質的な区別は、マルクスの言うように制度としての生産様式で区別する点にある。すなわち、縄文土器の場合、「アニミズム的な宗教」が社会構成・「社会制度の中心」にあって、土器を生産する場合に、縄を使って縄目を付けることで土器に宗教性を付加する点に、縄文土器の本質がある。
6)人間は、「縄文期の石器、石具のたぐいも」そうであるが、その人類史の初めに、「石の時代」(石器時代)」を持ち、その「<石>そのもの」は、加工しなくても「それ自体で宗教性であり、同時に道具性であった」から、「<石>の宗教性と道具性を未分化のまま」「識知」し受け入れていた。この石の宗教性と道具性の未分化の認識の仕方における人類史の初源性は、「基層文化性ではなく、あくまでも人間の宗教と道具の起源の問題である」。また、この石の宗教性は、「視覚と触覚」による「<石>そのもの」の「堅牢さ」・「永続性、不壊性、道具性」によっていた。
7)私たち人類は、マルクスの進歩史観とは異なって、経済社会構成体が拡大・高度化し経済的・物質的に豊かになっても、精神の方は欠乏化していくことを知らされた。資本主義制度と自由主義国家制度が、諸個人の自由度(恣意的自由と私的利害の優先意識の度合)を増加させたが、その分、価値観は多様化し・関係意識は衰退し・善悪の判断基準も浮遊化して、社会における男女関係や家族関係や社会的関係の絆を衰退させている、少年A事件やオウム真理教事件を惹き起こさせている。私たちは誰であっても、そうした社会の時代水準に、少なくとも半分は不可避に強いられて現存している、ということができる。