本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

酒鬼薔薇事件を読み解く

『超「20世紀論」上巻』アスキー、2000年9月
 吉本は、「まえがき」で、次のように書いています――「もう、まともな話を聞いてくれる雑誌もなくなったし、まともな疑問をぶつけてくれる編集者も口を閉ざすほかなくなってしまった。これが、物書きとして心細くなったときのわたしの現状の社会認識だった」。「そんなときに、とびきりいい編集者が、とびきりいいインタビュアーと一緒にやってきて、時事的な問題について意見を述べる、という企画をもたらした」。この企画を成功させるためには、「やさしい言い回しで、それでいて程度を落とさないための見識が必要だ。わたしは、それを心がけたが、程度は落ちるし、若い女性のヌード写真に匹敵するような文章の魅力も発揮できなかった」。この本が刊行されてからすでに13年以上が経過していますから、吉本が語ったその対象の時事問題もそれだけ経過しているわけですが、その時事問題に対して語ったその思考方法・認識方法・その内容は現在性を獲得している、と私は考えます。すなわち、多くの学者や著述家たちのように一面的・部分的・場当たり的なものではない、と私は考えています。単純に根本的にトータルに語られた中で現在性を獲得している、と私は考えます。

 

その1:酒鬼薔薇事件を読み解く
 この事件を、吉本は次のように語っています。
1)この酒鬼薔薇事件は、1995年1月の阪神淡路大震災→1995年3月の東京営団地下鉄サリン事件→1997年5月の酒鬼薔薇事件という関連性において語る必要性がある事件である。なぜならば、非常に多くの利便性があり娯楽性もある都市の「安穏」とした日常性が、突然破壊され・大量の人が死に・無差別に殺される、そうした自然的災害や社会的状況というべきものがあり、そのことが人の心に傷を負わせたり大打撃を与えることがある、ということを体験的に知らされたからである。こうした、外在的要因、状況を無視することはできない。この意味で、「未成年である少年に全面的に責任を負わせ」ることができない事件である。
 私は、2011年3月11日の原発事故を伴った東日本大震災の対象地域に住んでいますが、あの福島原発事故以降、制度としての地方政治や行政を含めて、自分たちの既得権益や利害だけを志向し擁護する制度としての官僚・政治家・企業家のどうしようもなさを実感させられました。彼らは、福島だけでなく、それまであった東北地方の衣食住・自然の良さを半減させてしまった、あるいは破壊してしまった。私たち住民一人一人の楽しみを奪い取ってしまった。ほんとうは、支配の側の法の支配の下での法による行政に基づく政治的国家の職能団体である制度としての官僚は、被支配の逆立した鏡であるその<法>を外されたら、集団犯罪と同類のものとなるでしょう。
2)状況論から言えば、現在、資本主義社会は、「生産の論理」が優先され「生産者のほうが消費者よりも圧倒的に力が強かった」生産資本主義社会の段階から、「消費の論理」・「消費者」の力を無視できない「消費資本主義」社会、すなわち「超・資本主義」社会の段階に移行している。この「超資本主義」社会において、新しい倫理的基準・善悪の判断の基準は何かが問われている。しかし、明確な答えが見い出されていない。浮遊状態にある。このことを踏まえて酒鬼薔薇事件(単独犯罪)を考えれば、この事件は、当の少年個人の犯罪として理解するだけではいけないので、この時代状況においては、何らかの契機さえあれば「何らかのきっかえさえあれば、同じことをやりかねない何千、何万という子供たちが」いる、あるいはその予備軍がいる、ということを意味している。この意味で、酒鬼薔薇事件は、「子供たちが集団で殺戮したことと同じ」問題である。そういう象徴である。そして、その子供たちは、意志を働かせて生きるか否かの違いがあるが、生理的に成長し大人になる。いずれにせよ、単独犯罪と集団犯罪の交換可能な時代状況においては、オウム真理教の集団的犯罪は、「異常な宗教団体のやった異常な集団犯罪である」と片付けることはできないので、このような集団的犯罪は単独犯罪に交換可能である。
 立花隆が酒鬼薔薇事件に対して「社会が悪い、学校が悪い、親のしつけが悪いでは何一つ説明できない事件である」と述べたことに対して、吉本は、「倫理感や情緒」性が「希薄」な「犯罪が生み出された背景には、やはり、家庭、学校、社会構造」の状況的問題、その時代水準の問題が不可避的に影響しているから、「立花隆のその見解は間違っている」と述べています。すなわち、酒鬼薔薇事件は、社会的段階、社会の時代状況・時代水準の「反映」であり、「象徴」である、と述べています。言い換えれば、情報科学や情報技術の高度化は人間の感覚を研ぎ澄まし、高度消費資本主義社会は、現実的な衣食住の日常を第一義としない豊かなイメージ価値を消費する社会として、生産資本主義社会における身体的な肺病等に代わって、それが現象するかしないかの違いはあっても、正常と異常との境界を行き来する精神の病を生み落とす。この意味で、その少年の「行為は確かに異常」であるが、「少年自身はけっして異常」ではない。いわば、「異常にして正常」、「正常にして異常」、というという点にほんとのところがある。この少年の場合、「意識的な部分」・「意識的行為」においては「正常な行為」ができており、したがってその「異常」性・「異常」な行為は「無意識的な部分」・「無意識的行為」として行った、という点にほんとうのところがある。すなわち、この少年は、「意識と無意識」が乖離して「前意識」を欠損させている、と吉本は「フロイト流」に述べています。したがってまた、立花隆が「調書を読むと、自分の犯行を語っているところなど、冷血そのもの、人間性のかけらもないように見える」と述べたことに対して、吉本は、この少年は「意識的行為と無意識的行とが乖離したために、無意識でやったことを、意識はいくらでも冷静に記述できるから」、「冷血に」「人間性のかけらもないように見える」だけだ、と述べています。この意識と無意識の乖離の要因には、「家庭環境」に加えて、その背後には「社会構造の問題」、その時代水準の問題がある。現実的な衣食住の日常を第一義としないイメージ価値を消費する消費資本主義者社会においては、あるイメージを付加することで、「労働価値から遊離した価格」が決定されるので、価値と価格の対応性が乖離している社会である。因果関係が見えない・分からない社会、「動機なき社会」、浮遊した社会である。この動機なき社会は、「動機なき生き方」や「動機なき殺人」を惹き起こす社会である。価値観の多様化は価値観を衰退させニヒリズムを生む。共同性の統括力を衰退させる。
3)家族の問題から言えば、親に、特に乳胎児期から1歳未満の子に対する母親の関係の仕方・育て方にある。この「フロイトの考え方の延長線上にある」吉本の考え方では、胎児期の「母親の心理状態」(個人的な心配事、夫婦仲の良さ悪さ、経済的理由等による「不安」あるいは「安定」)や、「授乳」や「排泄の世話」や「場所の移動」における「心理状態」は、すべて乳児の心に転移する・刷り込まれる。すなわち、「母親の心理状態は子供の無意識の形成」・「性格」の形成に関与している。この場合の「性格」は、意志も関与する「全人格」とは違う。「全人格」という場合、自分の嫌な性格を自分の意志によって克服しようとする個体性を意味する。この意味で、少年にも半分は責任があるが、その半分は親、特に母親のその子に対する乳胎児期における関係の仕方・育て方にある。したがって、母親が、学童期に入って子供に「厳格に規則正しい生活」を強いるのは、その母親が乳胎児期において子との関係に失敗したことの「代償行為」である。この少年にとって、「父親の存在感や影響は希薄で、その分母親の存在感や影響力が極めて大きかった」。したがって、「普通の母親がやるように子供の面倒をちゃんと見なかった」にもかかわらず、少年には「異常」なほどに「厳格さを求めた」。
4)「フロイト流」に言えば、一般的に、「少年には、獣的な残虐性……、性的倒錯……、悪……や異常性」や度を越した生意気さ・先を見通す想像力のない乾いた悪ふざけの要素がある。確かに、一方で、イエスが「一人の子供を呼び寄せ」、弟子たちの中に立たせて、「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」(マタイ18・1−3)と言われた、そういう子供の「純真無垢」な姿があります。他方で、子供は、エリシャがベテルに「上って行くと、町から小さい子供たちが出て来て彼を嘲り、『はげ頭、上って行け。はげ頭、上って行け』と言った。エリシャが振り向いてにらみつけ、主の名によって彼らを呪わせる」(列王記下2・23−24)ほどの生意気な度の過ぎた乾いた悪ふざけの姿も併せ持っています。私が子供の頃でも、わざわざお金を出して同じ遊び仲間の顔を殴らせてもらっていた子供がいました(吉本も、悪ガキの一人が、空気銃を持って「手を出してみろ」と言うので、手を出したらほんとうに「引き金を引い」たので「手を腫らした」体験を語っています)。また、吉本は、子供の頃に「捕まえたトンボの尻尾を切っ」て「代わりに、マッチ棒を差し込んで飛ばしてみたりとか」の残虐性をしたことを語っています。私たちのときも、カエルを捕まえて、尻からストローで空気を入れて膨らませる残虐性に当たることをしてきました。酒鬼薔薇事件の本質に近づくためには、先ず「自分たちが少年だったとき、何を考え、何をやった」のかを実感的に思い起こし考える必要がある。ただ、吉本の時代もそうであったが私たちの頃も、ここから超えたらいけない、という限度をわきまえ自覚していた。しかし、現在の社会状況は、その限界性、閾値が低くなり過ぎたのかあるいは無いのか、善悪の基準・倫理の基準が分からなくなっている、浮遊している。
 確かに、ほんとうのところは、残虐性・斬首も、人類の歴史に敷衍して言えば、その原始的段階においては普通の心的傾向としてあった。日本では江戸時代末期まで公然と普通に、すなわち残虐だとは自覚せずに斬首は行われていた。そして、「個人の成長史」においては0歳から3,4歳までの時期は、人類の歴史の原始的段階に相当する。いずれにせよ、乳胎児期の子に対する母親の関係の仕方・育て方が悪い場合、「獣的な残虐性」が突出することはある。すなわち、マスコミの「テレビのキャスター」・「テレビに出てくる識者、精神医学者たち」や「政治家」や「知識人」や「企業家」・教育評論家・法律学者・著述家たちは、善人の側の場所からのみ・正義の側の場所からのみ思考し発言し論じて、「誰一人、『俺の子だって(≪そういうことをする≫)可能性がある』『いや、俺だって(≪そういうことをする≫)可能性がある』とは言いません。そういうことも、『十分ありうる』ということを踏まえて発言している人は、まったくいないんです」。灰谷健次郎の「子供は純真無垢」という形而上学は、ウソで誤謬です。子供は、「純真無垢」な面と同時に「悪」や「残虐性」も持っている弁証的な存在です。これが、ほんとうのところです。「子供は無垢だ」という場合、それは根本的な誤謬に普遍性や組織性の後光を語っているだけである。子供の一面性部分性を全体性として錯誤した形而上学的思考・認識・発言に過ぎない。「筑紫哲也もそうですが、進歩主義者たちは(中略)いつもキレイ事、建前で」言っている。彼らは、「自分は裏ではけっこう悪いこともやっているくせに、他人に対してや、公の場では、自分は何一つ悪いことをしない人であるかのような言動を行う。そこにはウソがあります。自己欺瞞があるんです」。しかし、そういう彼らがマスコミを通して主流となって行く・主流として社会を牛耳っているから、むなしさとやり切れなさを感じるわけです。
5)酒鬼薔薇事件に対する西部邁の見解に一貫しているのは、「エリート主義」である。すなわち、西部自身「賢いことをいっているときもあれば、愚かなことをいっているときもある」にもかかわらず、西部の感が方・考え方・語り方は、「賢者」は「人類的英知」を獲得してきた者であり、「愚者」はそうではない「文化的小児病者」である、という点にある。一生懸命勉強をし、「優等生になって」、東大の教授の社会的地位を得る、という目的意識を持った人間・西部よりも、そうではない人間の方が一般的であるから、この感じ方・考え方・語り方は、「前提が間違っている」、と吉本は述べています。
 これら1)から5)までのことを単純に根本的に総括すると、やはり学者や著述家やメディア情報等々の感じ方・考え方・認識の仕方・語り方・発言・知識を「鵜呑みにしたり模倣したり」しない方がいい、というこになります。