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島尾敏雄論――その「原像」、「<資質>の世界」の核としての「関係の異和」

『吉本隆明全著作集 9』「作家論V」に基づく

 

「<原像>」
 「関係意識のちぐはぐさ」・「関係の異和」は、誰であれ遭遇するものです。賢治の『よだかの星』の、ほかの鳥から嫌がられ・悪口を言われ・いじめられて、しかしその自分自身も知らず知らずのうちに小さな虫を食べて生きている側にあることを痛感して、最後は泪を流しながら空高く「どこまでも、どこまでものぼって行」って星になった「よだか」にもあります。『猫の事務所』の、親切心から虎猫の落とした弁当を拾ってあげたのに虎猫から「急にひどく怒」られる(この後、「みなさんぼくはかま猫に同情します」という賢治の考え方が挿入されています)等した、いじめられる側の「かま猫」にもあります。『銀河鉄道の夜』の、途中から乗ってきた少女ばかりと「おもしろそうに」楽しく話すカムパネルラに対して「かなしい気」がして嫉妬し「つらい」思いをし「たまらないほどいらいら」しながら、そういう自分を「僕はもっとこころをきれいに大きくもたなければいけない」と自省もし機嫌も直すたジョバンニにもあります。
 吉本は、島尾敏雄の主要な作品は、三層構造をしている、と述べています。すなわち、先ず「体験への関わり方をしめす文章」が書かれ、次には「想像力の働きをさり気なく流し込んだ<半作品>」が書かれ、最後に「特異な世界まで<変貌>した<作品>」へ到達する、と述べています(「<関係>としてみえる文学」)。吉本によれば、カトリック作家の島尾敏雄におけるその「原像」としての「<資質>の世界」の中枢にある「<関係>の<異和>」は、次のように言うことができます。
 人間と人間との関係の均衡・持続性の根拠は、「好き」と「嫌い」、愛と憎、との「中性」化・中和化にある(「<関係>としてみえる文学」)。したがって、一方にだけベクトルを偏向させると悲劇が起こるかもしれない。太宰の『カチカチ山』の狸のように。この人だけだと愛した女性との失恋体験における絶望は、自分の意志が全く通用しないそれからやってくる。また、『青春の墓標』の著者のように、政治的共同性に価値を置いて錯誤すると、ほんとうは愛した女性との失恋体験における絶望のためであるにもかかわらず、その共同性への衰退意識の名目で自死しなければならなくなるかもしれない。
 さて、文芸批評家としての吉本は、「あるひとりの作家の開花する以前の作品に接するとき、いつも」、「作品を作品としてではなく、<資質>の世界として読んでいる」。そして、島尾に対する場合は、初期作品におけるその資質の「開花」とその「変貌」とその資質の核、すなわち「関係の異和」を、その後の作品に見い出す。ここでいう関係は、「緊密な混融感」をもった自然とのそれではなく、人間と人間との関係のことである。
1)「原つぱ」における少年貫太郎の大人(電車の車掌)の世界に対する関係意識の異和
 電車に乗った後に切符がないことに気づいて車掌に「切符をおとしたと訴える」少年に対して回答しない大人の世界は、その少年にとって、不安と罪の意識と強迫観念を惹き起こさせる異和の世界である。「傷つかねばならない」異和の世界である。その事態に「よりおおく心を与えた」一方の少年はとても傷つき、他方の大人は何もなかったかのように通り過ぎていく、人間と人間との間にあるこういう「関係意識のちぐはぐさ」・関係の異和意識は、「たれのせいでもないちぐはぐさによって、傷つけあってしか存在しえない」ことを意味している。この場合、少年は家に帰り、母親から切符をもらって派出所に届け出ることで、「すうつと晴れやかな気持」になる。しかし、島尾の「後年開花した世界」においては、「すうつと晴れやかな気持」になることはない。
 また、「日曜学校」では、着物も・「お母さんのお腹を借りた丈の」僕も「総て世の中の物は天の神様のものですよ、お母さん」と訴える「<エホバ>の神を狂信」する少年・肇が描かれている。ここでは、少年は、牧師が教える「奇怪なロジック」によって、いつも傷つけられてきた「関係意識のちぐはぐさ」から他界させられ解放されることを求めている。それに対して、「母親は少年は自分のものだという自信をもって」、「馬鹿気た狂信を植えこんだ牧師に瞋りを感じ、しだいに真剣になって少年に腹をたて」、裸にして玄関の外に放り出す。この時、少年にとって母は「了解しがたい」異和の世界として立っていることを感じ、少年は「恐れ」を抱き「おびえた」。ここで、少年と母親との関係の物語は終わる。「すうつと晴れやかな気持」になって終わらない。「罪と罰」、「倫理の問題」として終わっていない。「少年は罪の意識が内なる<良心>を発生させるという、あの西欧風の<道徳の系譜>からはるかに遠いところにいる」。
2)「格子の眼」における少年百合人は、「気分が悪くなって臥せっている美人の『おばさん』にいたずらを仕掛けて気づかれ」、軽くあしらわれて、「すべて忘れ去られて」いく体験の中で、陰に侮蔑されているのではないかと感じ、「できるなら生涯の歴史から切り取って、除いてしまいたいような」恥辱を感じている。このとき、少年は、両者の価値観の差異の自覚において、少年にとって「異和をやわらげてくれた拠り所であった」母が疎遠さ・異和・他界へと変貌していくことを感じた。このとき、母は、「すでに意識の外にある外界である」、「親密」な「ひとりの他者」となっている。また、「主人の子」である百合人は、悪ふざけが高じて、丁稚の「好どん」の身体を痛めさせてしまう。ここで、少年は、人間世界には、幻想の上下関係があって、「<自己>も<他者>も善意といたわりによって対面しているにもかかわらず、どうすることもならない」関係の異和が・関係意識のちぐはぐさがあることを、不可視な絶対性である「神様の領分のような所」で「感得」する。言い換えれば、少年が好どんとなり、好どんが少年となる、という社会的現実的な人間の解放が成立した世界においてしか、この関係の異和はなくなることはないことを感得する。「唐草」の中学生となった少年にとって、「この世界の<異和>を吐き出すべき心の場所」がなくなった時、器質的頭痛に、この「<異和>をもちこむほか」なくなっているけれども、「この持病の発作が『ただ一つ、彼に微笑んで見せる世界』に有意味化」される。少年にとっては、このことが「重要」である。なぜなら、この時、少年は、関係の異和・関係意識のちぐはぐさから「退いてどこかえ帰ってゆく」ことができるからである。
 さて、「じゅうぶんに<死>と交わり、心を馴染させていた」加計呂麻島で出撃命令を待った特攻隊長の島尾は、そうした自己の世界・自己の意志とは全く関係のないところで、すなわち向こう側の世界から・「敗戦により突然<異和>のまま死に遅れて投げ出された」時、少年の日の関係の異和を想起する。