本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

「アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ」(太宰治と吉本隆明とK・バルト)

鶴岡八幡宮には、実朝が受身の落命・覚悟の落命をした場所とされている石段がある。

 

 私は、現在の社会における過ぎた明るさと元気さに異様さと不気味さを感じます。太宰は、1943年刊行の『右大臣実朝』で、「実朝的なもの」を、次のように描いています――「あのお方(右大臣実朝)の御環境から推測して、厭世だの自暴自棄だの或いは深い諦念だのとしたり顔して囁いていたひともございましたが、私の眼には、あのお方はいつもゆったりとして居られて、のんきそうに見えました」・「その環境から推して、さぞお苦しいだろうと同情しても、その御当人は案外あかるい気持ちで生きているのを見て驚く事はこの世にままある例だと思います。第一あのお方の御日常だって、私たちがお傍から見て決してそんな暗い、うっとうしいものではございませんでした」・「融通無碍」・「お心に一点のわだかまりも無い」・「深い秘密のたくらみなどなさるお方」ではない・「ただ、あかるさをお求めになるお心だけは非常なもので、平家ハ、アカルイ、ともおっしゃって」、「アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。と誰にともなくひとりごとをおっしゃって居られた事もございました」。この「実朝的なもの」を吉本隆明は『作家論T』で、次のように述べています――太宰中期の「理想像は、キリスト・イエス」(『駆込み訴へ』)であって、『右大臣実朝』でそれを再現した。「実朝の生涯」を規定していた「全国的な戦乱」の「世情」は、「明るい危うさであった」。そして、太宰の生を規定していたものも、戦争期の「明るい危うさと、<建設の槌音>との健康さがもつ退廃」であって、太宰は、その時勢や時流に「どこかでついてゆくことができなかった」。吉本隆明は、この太宰の実朝像から、往相的に上昇していく「明るいもの」(明る過ぎるもの)、「健康なもの」(健康過ぎるもの)、「建設的なもの」(建設的すぎるもの)は「すべてまやかし」・「錯覚」「であり、疑いをもったほうがよいというかんがえ」を受け取った。この思想の往還と弁証法が重要だ、と私は思います。
 1985年の埴谷雄高との論争で、吉本は次のように述べています――「もちろん貴方にだけ(その感じ方、その認識方法および概念構成において)異空間を感じているわけではありません。貴方は私が、じぶんの臆病や弱さに自覚がないと書かれて、臆病や弱さに興味をお持ちのようですから、そこから入ってゆきましょう。貴方とちがってカントの先験的な形式論理よりも、ヘーゲルの観念の弁証論に惹かれる私には、臆病や弱さの対極に勇気や強さがあるような対立形式や、臆病や弱さの対極に勇気や強さの人間の存在するといったまやかしは一向に興味がありません。人間は臆病や弱さと同在に(≪基層から積み重なって重層的に≫)、勇気や強さを持つ存在なのです。臆病や弱さがたまたま表層に露出しているときには、基層に勇気や強さが存在している状態にありますし、勇気や強さが表層に露出しているときは、臆病や弱さが基層に存在している状態にあります。これがあらゆる人間の存在形式です」。私は、吉本を首肯します。
 バルトは、バーゼルの刑務所でイエス・キリストの復活の出来事について、次のように説教をしています――その復活の出来事について、「私はあなたがたと同じように、その理由を知らない。それは(人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍に依拠して考えれば)人が信じないようなことだと言う以外に、単純な言い方はほかに存在しない。事実、当時でさえも、解き明かすことは愚か、書き記すことや説明することはできなかった」。したがって、「当時でさえも、ただ認識(≪信仰≫)され、告白され、証しされ、宣べ伝えることができた」だけである。このバルトの啓示の弁証法における同在性の認識方法および概念構成においては、信仰の問題や救済の問題に対して、部分を全体とする一面的・形而上学的な近代主義的宗教論に依拠した佐藤優のように、信じていないこと・信じられないことを「口にしてはいけない」ことはないし、嘘振る必要もないし、粋がる必要もないし、「高等教育を受けた者は」などと見栄を張る必要もないわけです。