本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

「カール・バルト――Wikipedia」および「新正統主義――Wikipedia」の記述にある、バルトの思想に関する記述内容は、客観的に言って正しいだろうか?(5−4)

「カール・バルト――Wikipedia」および「新正統主義――Wikipedia」の記述にある、バルトの思想に関する記述内容は、客観的に言って正しいだろうか?(5−4)

 

(D)「Wikipedia」作者の言うバルトは「晩年に自身の出発点である近代神学に回帰していると言えるのである」、「この関連で、エミール・ブルンナーとの自然神学論争において彼が主張した『人間にはもはや『神の像』なし』という主張もまた再検討されうる。神認識がキリストの契機なしには起こらないという点ではブルンナーとバルトは主張を同じくするが、ブルンナーが主張した「人間における結合点」とは人間において聖霊の力が働いて神を認識することを言っているからである」という記述についても、「Wikipedia」作者は、バルト自身に対する全くの誤解と曲解のただ中において、この主張をしている。
 「Wikipedia」作者は、ブルンナーのその聖霊概念が、神と人間との無限の質的差異を、またわれわれの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者としての、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には、その第二の形態の聖書的啓示証言のそれ)を、全く後景へと退けてしまったところで構成されたそれでしかないということを理解することができないのである、それ故にその聖霊概念は、「人間の側から」する、ブルンナー自身の自己意識・理性・思惟の類的機能が恣意的独善的に対象化したところの「存在者レベルでの神」(偶像)としてのそれでしかないということを理解することができないのである、それ故にその聖霊概念は、「聖霊論が人間学である」という自然神学の問題を宿しているということが理解できていないのである。包括的に総括して言えば、ブルンナーのその聖霊概念は、まさしく直に自然神学の段階におけるそれでしかないのでり、それ故にブルンナー自身の自己意識・理性・思惟の類的機能によって人間化された聖霊概念でしかないのである。ブルンナーの場合、何故、必然的に、そのような事情になってしまうのかと言えば、まさに自然神学の段階で停滞し循環しているからであり、それ故にキリスト教信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法および概念構成それ自体に、バルトの『教義学要綱』にある次のような思惟と語りを持っていないからである――「聖霊は、人間精神と同一ではない」、「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」、それ故に聖霊によって「再生」・「更新」された人間の理性も聖霊ではない、その理性も常に人間の理性であり・常に人間の理性であり続ける。
 前述したブルンナーに対して、聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯することを通して、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階を包括し止揚し克服して、<非>自然神学あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階へと移行したバルトは、次のようなキリスト教信仰・神学・教会の宣教における原理・認識方法および概念構成を置くのである――すなわち、バルトは、聖霊や聖霊の言葉を「人間の側から」「勝手に気ままに」恣意的独善的に実体化したり実体化しようとしたりせず、最後の最後まで一貫性をもって「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異という概念を手放さず、神の側の真実としてある、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証の力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、われわれの思惟と語りの原理・規準・法廷・審判者・支配者であるところのそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には第二の形態の聖書的啓示証言のそれ)、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰の授与ということに信頼し固執するということ、換言すれば自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階をそのような自らの立場で包括し止揚し克服して、<非>自然神学あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階へと移行していくということを自らの立場としているのである。ここにおいては、「聖霊論が人間学である」ということはあり得ないのである、聖霊論は「人間の側から」する自然神学の領域の問題であるというふうに認識することはあり得ないのである、それ故に聖霊論は人間論の対象であるとか、人間学的な哲学原理・認識論・世界観の対象であるとかというふうに認識することはあり得ないのである。したがって、バルトは、『教会教義学 神の言葉T/1・2』で、次のように述べている――バルトは、「存在するものそのもの」、「その純然たる造られた存在」に依拠したアウグスティヌスの「造ラレタモノヲトオシテ、知解サレタ創造主ヲ認識シテ、私タチハ三位一体ナル神ヲ知解スルヨウニシナケレバナラナイ、ソノ跡ハフサワシイカタチデ被造物ノウチニ顕レテイルノデアル」という自然神学の段階で停滞し循環した思惟と語りに対して、原理的な根本的包括的な批判を加えている。すなわち、そのような三位一体の跡は、「世界に対して超越する創造神の跡」として理解することはできない。それは、ただ単なる人間の自己意識・理性・思惟の類的機能によって対象化された人間自身の自己認識・自己理解・自己規定であり、それ故にそれは人間自身の「内在的に理解」された「宇宙の諸規定・人間的な現実存在の諸規定」、「単なる宇宙論や人間論」でしかない水準のものである。また、そのような三位一体論は、人間の自己意識・理性・思惟の類的機能に基づく「人間の世界理解の、最後的には人間の自己理解」、「神話」、すなわち自然神学の段階の水準にあるそれである。したがって、バルトは、「神学をただ啓示の中にのみ基礎づけ」るために、聖書に依拠した信仰・神学・教会の宣教は、「罪深い曲がった人間」の「究極的な限界性」、終末論的限界を認識し自覚した人間の言語を前提として、「三位一体を、世界から説明しようと欲しない」で、むしろ逆に、「世界を三位一体から説明せんと欲する」のである、したがってまたバルトは、自然神学の段階における思惟と語りの水準にあったアウグスティヌスの「被造物ノ中デノ三位一体ノ跡」という思惟と語りに対して、その自然神学の段階の水準にある概念を包括し止揚し克服して、<非>自然神学の段階へと移行し、<非>自然神学の段階の水準にある思惟と語り、すなわち「三位一体ノ中デノ被造物ノ跡」という思惟と語りを置いたのである、そして「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に信頼した」バルトは、「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」・「解釈する」とは、「別の言葉で同一のことを言うことである」、と述べたのである。

 

 因みに、バルトのブルンナーに対する原理的な根本的包括的な批判は次のようなものである――先ずバルト自身において主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリスト信仰」、すなわち「律法の成就」・完了、イエス・キリスト信ずる信仰による「神の義、神の子の義、神自身の義」そのものを、井上良雄のように正直に誠実に翻訳するのではなく、あくまでも旧来訳聖書や新共同訳聖書に合わせるために無理やり捻じ曲げて目的格的属格として翻訳していた吉永正義は、「神の像問題」について、「ブルンナーは『罪を犯しても人間は神の像を全く失ってしまったのではない』と言い、バルトは『失ってしまった』と言」ったということが、「今日神学界で一般に理解されているところであるが、それは間違いである・バルトも、「『罪を犯しても人間は神の像を全く失ってしまったのではない』という立場」である・ただそれは、「まがりなりにも残っている神の像を人間が自分の能力をもっては認識できない」ということであって、「認識できるのは、啓示によるほかはない」ということである、と述べている(『バルト神学とその特質』)。確かに、バルトは『バルトとの対話』で、微妙な言い回しをしている。すなわち、「神はすべてのものを見られ、はなはだ良しとされた」が故に、「その本性は良い」、しかしその「良い本性に対抗してわれわれが罪をおかしている」が故に、「私は人間の内にある『善性のこり』については語らないのだ」というのがそれである。何故、バルトはそのことを語らないのか。それは、牧師であり神学者でありキリスト教信仰・神学・教会の宣教における思想家でもあるバルトは、近代以降の世界において、特に人間の神化あるいは神の人間化の原理を発見したヘーゲル以降の世界において、その「善性ののこり」や神の残像を語れば、すぐに「人間の側から」する神と人間との無限の質的差異の揚棄、神と人間、神学と人間学との混淆・共生・混合・協働・共働、最後的には神の人間化あるいは人間の神化(ヘーゲル化)という自然神学の道があるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の道が開かれてしまうということを、よく認識し自覚していたからである。バルトは、<非>自然神学の段階において聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯したキリスト教信仰・神学・教会の宣教における思想家なのである、換言すればバルトは、それが大学の場におけるそれである以上、必然的に、自然神学の段階で停滞と循環を繰り返す「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところ」「すべての大学者の神学」(者)、それに類する牧師や著述家では決してないのである。
 さて、自然神学の段階で停滞と循環を繰り返したブルンナーに対する、<非>自然神学の段階へと移行したバルトの『ナイン!――エーミル・ブルンナーに対する答え』に即して言えば、 ブルンナーは、自らの神学を「すこぶる宗教改革的であり、全くカルヴァンの思想に近い」、「神の像の形式的側面に関する思想と『ほとんど全く』同じ」と主張した、とバルトは述べている。それに対して、バルト自身は、次のように批判を加えている――第一に、ブルンナーの主張する人間に固有な「結合点」は、啓示神学に対して、それをも規定し得る「独力で立」った彼自身の自己意識・理性・思惟の類的機能が恣意的独善的に対象化した「堅固な下部構造」である。ここでは、神と人間との無限の質的差異ということが、それ故にまたわれわれの思惟と語りの原理・規準・法廷・審判者・支配者としての、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言のそれが、後景へと退けられてしまう。したがって、その概念は、首肯することはできないものである。第二に、カルヴァンも「天地万物からする神認識とキリストの中での神認識との二つの神認識について語った」が、ブルンナーとは違って、彼は、「啓示に対するまたキリストの中での新生活に対する結合点を見出していない」。すなわち、「聖書以外にさらに聖書を補う別な啓示の根源」を、啓示から独立させた「理性や歴史や自然の中に何とかして求め」、それらに独自性を与えて、「後から追加的に『何らかの仕方で』……発言せしめる」というようなことをしていない。第三に、カルヴァンの認識のベクトルは、ブルンナーとは違って、「天地万物の中における神認識」は、「キリストの中における神認識そのもの」において可能であるとしている。第四に、ブルンナーは、内容的には「神の像」は「全く失われてしまって、人間は徹底的に罪人であり、人間の中には罪で汚されてないものは何もない」と語るのであるが、「人間には啓示なくしても」、啓示とは独立して「人間自身が本来持っていて、そして啓示の中で言わば甦って来る」、人間に内在する「啓示能力」、「言語能力」、「言語受容能力」、「呼びかけられうる能力」があると言う。そしてそれは、「人間の持っている『神の像』」であると言う。すなわち、ブルンナーは、「啓示の中で初めて甦って来るところのものである」としても、啓示とは独立して「啓示に先立つ『啓示能力』」、「結合点」(≪人間的契機の<直接性>、人間に内在する人間的自然≫)を主張するのである。この自然神学の段階で停滞と循環を繰り返す人間に固有な「結合点」は、罪人からも喪失してしまっていない「形式的な神の像」であり、それは具体的には人間の「人間性」、「理性や応答責任性や決断能力」のことであり、「神の啓示に対する客観的可能性」となるものであるというこのブルンナーの教説は、「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰である」とした「カントは、本源的であるゆえに、すでに前もってわれわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で、アウグスティヌスの教説と一致する」ように一致するから、首肯することはできないものである。バルトの『教会教義学 神論』に即して、もっと原理的に根本的包括的に言えば、神の側の真実として、客観的現実性として、成就と執行として、永遠的実在として、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(神と人間との無限の質的差異の下で、それ故にあくまでも神の側の真実からする、神の人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性である聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の~の第二の存在の仕方、起源的な第一の形態の神の言葉、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識に向かっての人間の用意が存在する」と言わなければならない、すなわち先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は「全くただキリスト論的局面だけである」と言わなければならない、それ故にそのブルンナーの教説を首肯することはできないのである。第五に、『教会教義学 神の言葉T/1・2』に即して言えば、ブルンナーの目指している神学的課題が、「理性的思惟の絶対化」や「理性万能の妄想と理性の孤立の中」で、「神的汝をあこがれ求めている理性を解放する」ことにあるのだが、「啓示に先立つ『啓示能力』」、「結合点」(≪人間的契機の<直接性>、人間に内在する人間的自然≫)を「人間の側から」主張するブルンナーの「神的汝をあこがれ求めている」「自信過剰」の<半減>された「近代的精神」は、人間的理性・自己意識・思惟は、神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求も、人間的契機の<直接性>も、近代的な人間の感覚と知識を内容とした経験的普遍も、人間学も、人間学的な哲学原理・認識論・世界観も、キリストにあっての啓示とは独立させたその現にあるがままの人間の人間性・理性・意志性・応答責任性・決断能力も、「人間の側から」する神との混淆・共生・混合・共働・協働等を志向し目指すものでしかないから、首肯することはできないのである。
 このバルトに、「Wikipedia」作者の言う「近代神学(≪包括的に総括して言えば、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教≫)に回帰している」バルトの姿を見ることができるだろうか、「近代神学」(包括的に総括して言えば、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教)に逆行し復古しているバルトの姿を見ることができるだろうか。

 

 ここまで述べてきて、神の言葉の第二の形態である聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯したバルトの信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法および概念構成を念頭に置くならば、「Wikipedia」作者の言う、バルトが「主張した『人間にはもはや<神の像>なし』という主張もまた再検討されうる」・何故ならば、「ブルンナーが主張した『人間における結合点』とは人間において聖霊の力が働いて神を認識することを言っているからである」という「Wikipedia」作者の言う誤解と曲解のただ中にある「人間における結合点」とは、自然神学の段階で停滞し循環しているブルンナーの場合、啓示に先立ってあるいは啓示とは独立した「人間の側」に内在する人間的自然としての「人間における結合点」のことであり、それ故にまた「人間において聖霊の力が働いて神を認識することを言っている」とは、「人間の側から」対象化された人間の自己意識・理性・思惟の類的本質としての人間化された聖霊あるいは人間に内在化された聖霊のことである。しかし、神と人間との無限の質的の下にある単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第三の存在の仕方である聖霊は、「勝手気ままに」恣意的独善的に「人間の側から」実体化することはできないのである。この「聖霊の注ぎ」は、われわれ人間の自由事項・裁量事項・決定事項ではないのであって、あくまでも全き自由の神のその都度の自由な恵みの決断によって注がれるのである。その「聖霊の注ぎ」によって、それ自体としては「全く信じることができない」人間的自然として人間に備わっているわれわれ人間の理性は「再生」・「更新」されて、初めて、「単なる知識」として認識ではなく、啓示認識・啓示信仰(信仰の認識としての神認識)としての認識(信仰)を得ることができるのである。ブルンナーや「Wikipedia」作者のようなまさに自然神学の段階で停滞し循環している主張に対しては、その自然神学の段階で停滞し循環している神学を、聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯して原理的に根本的包括的に批判した、バルトの『カント』にある言葉を置けばいいのである――すなわち、「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰である」とした「カントは、本源的であるゆえに、すでに前もってわれわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で、アウグスティヌスの教説と一致する」という言葉を置けばいいのである。何故ならば、ブルンナーの「人間における結合点」という概念的水準は、カントやアウグスティヌスのそれと全く同じ水準にあるものだからである。このような訳で、この「Wikipedia」作者の出鱈目極まりない短絡的な主張は、全くの誤解と曲解に基づくものであって、それ故にその主張は全く以て妥当性を欠いた水準のそれでしかないものなのである。ブルンナーやブルンナーを評価するこの「Wikipedia」作者の主張の問題点をもう一つ挙げるとすれば、それは、次の点にある――すなわち、彼らには、自らの思惟と語りを、絶えず繰り返し自己吟味し「的確に批判し、訂正して」いく上での、キリストにあっての神から与えられた起源的な第一の形態の神の言葉・「啓示の実在」そのもの・啓示の客観的現実性(具体的には、聖書的啓示証言、啓示の「概念の実在」、啓示の概念の客観的現実性)を、すなわちそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には、第二の形態の聖書的啓示証言のそれ)を、徹頭徹尾、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として認識し自覚していない点にあるのである。したがって、この意味において、彼らの思惟と語りは、必然的に、恣意的独善的嗜好的とならざるを得ないし、その時には、「人間の側から」する、また関係意識が衰退し価値が多様化した現在においては百人百様の人間的契機の直接性からする、まさに百人百様の恣意的独善的嗜好的な、それ故にその最初から誤解と曲解のただ中にある神<認識>に、その最初から誤解と曲解のただ中にある父、子、聖霊<認識>に向かう以外にはないのである。

 

 さて、この「Wikipedia」作者は、思想という言葉を使ってはいるが、神学の領域においてあるいは人間学の領域において、<思想的な課題>ということ、<思想>ということ、<思想家>ということを理解していないように見える。人間学的領域で言えば、詩人であり文言批評家であり人間学的領域における思想家でもあった吉本隆明は、思想について次のように述べている――思想、思想家とは、「対立する双方に真理があるというような俗説が、世界史的に流布され、流通している」中で、その問題を、共生主義的に多元主義的に折衷主義的に扱うのではなく、「自らの立場」において、両者を「包括し止揚しなければならないということが思想的な問題」であるということを認識し自覚して、そのように思想的営為をし、そのように思想的営為をする者のことである(『思想の基準をめぐって』)、また「思想は物質ではなく観念である」から、この「観念の運動は観念によってしか、すなわち甲の観念は、乙の観念がそれを包括し、止揚することによってしか……滅びない」ということを認識し自覚して思想的営為し、そのように思想的営為をする者のことである(『カール・マルクス』)。したがって、吉本は、アジア的な日本的特殊性の自覚に基づいて日本の状況(著作当時の状況ということであるとは言え、現在においても通用し得る発言である)について、「現在の日本では骨肉にまで受け入れた西欧近代(≪人類史的段階における西欧近代≫)というものの部分で西欧とおなじ危機に陥っています。その一方で、西欧的にいえばアジア的(≪人類史的におけるアジア的段階≫)という概念で括られる思想的伝統、習慣、風俗、社会構成、文化を引きずっています。そうすると、現在日本のもっている危機の意味あいは二重になってきます」と述べたのである(『世界認識の方法』)。すなわち、日本においては、西欧的危機の課題とアジア的・日本的特殊性の課題とを構造として(総体として)扱う必要があると述べたのである。哲学者であり・哲学における思想家でもあるミシェル・フーコーは、『フーコーと禅』で、「西欧思想の危機と帝国主義の終焉は同じものです」・そうした中で、「時代を画する哲学者は一人もおりません。というのも、……西欧哲学の時代の終焉であるからです」・「西欧とは、世界のある特定の地域であり、世界史上のある特定の時期にあるものです」、その西欧は、近代以降において、人類史における世界普遍性を獲得した地域、「普遍性誕生の場」である、この意味で、「西欧思想の危機とは、すべての人々の関心を引き、すべての人々にかかわり、世界のあらゆる国々の諸思想、あるいは思想一般に影響を及ぼす危機なのです」ということを認識し自覚し、それ故に「私に興味があるのは、(≪日本の禅思想ではなく、≫)西欧の合理性の歴史とその限界です……」と述べたのである(≪例えば、「政治組織の典型としての国家」やその機構ではなく、「個人の生活を構成するいくつかの要素を発展させ」、「しかもそうした発展が同時に国家の力をも強化するようなやり方で発展させる」政治的合理性の形態・近代的な統治技法についての歴史的批判的な調査・解明にあるというように。「市民の生活」と「西欧の歴史の全体を覆って」いて、「現代社会にとっていまなお最高度に重要な問題」は、「国家の統一性の法的枠組みとして機能している政治的権力」と、「すべての諸個人の生命に四六時中こころを配り、彼らに助けを与え、彼らの境遇を改良することを役割」とする「『牧人的』と呼ぶことのできる権力」の無化にあるというように。フーコーにとっても、権力は実体ではなく、「個人間に存在するひとつの個的な関係タイプ」である。すなわち、それは、ある価値基準ある時ある場所において、「聖なる者」と「俗なる者」、「教えるもの」と「教えられるもの」、「正常なもの」と「異常なもの」、「支配されるもの」と「支配するもの」等へと関係を規定する政治的合理性の形態なのである。言い換えれば、それは、権力的、強制的、弾圧的にではなく、司牧システムが生み出す無意識の共同性によって、その権力的在り方に服属させられる関係性のことである。したがって、その無化のためには、「国民の個別化」と「生活の隅々までを監視する全体主義」化という無意識の共同性、「生を与える権力」、「生――権力」、「司牧的権力」を生み出す司牧システムそのものへの攻撃が必要となるというように――『全体的なものと個的なもの――政治的理性批判に向けて』。因みに、司牧・牧会は、神父や牧師による私的な諸個人の「魂への心遣い・配慮」のことである。さらにこの Seele・魂は、E・トゥルナイゼンの『牧会学U』によれば、人間の肉体と魂全体を意味しており、それ故に司牧・牧会は、私的な諸個人の全人格への「心遣い・配慮」を意味 することになる。すなわち、その「心遣い・配慮」は、市民社会においてそれぞれ異なった職業、身体、資質、感情、生活、思想、意志、行動を有したところの、「私」的な諸個人を対象としてなされる。「牧会Die Seelsorge は個人に向けられている。牧会は個人を追う」、と同時に牧者は、その牧会における「公」説教において、羊の「群れ全体」の運命にも配慮する)。鎌倉時代において宗教家であり知識人であり宗教・知識における思想家でもあった親鸞は、浄土教理の課題を、往相回向、縦超、非俗、往相浄土、聖道の慈悲、衆生の緊急的相対的過渡的な救済の課題、信・知識の意味的世界、信・知識の自然的過程と、還相回向、横超、非僧、還相浄土、浄土の慈悲、衆生の究極的総体的永続的な救済の課題、信・知識の価値的世界、信・知識の意識的過程という思想の往還に置いて、聖職者、牧師、学者、知識人、医者、裁判官、警察官、教師、道徳家、善人等誰であろうと、現実的な戦争とか愛憎問題とか利害対立とかの不可避な「機縁」(契機)さえあれば、自分が意志しなくとも、人一人だけでなく多数の人を殺し得る(さまざまな悪を行い得る)という究極的観点(還相的観点)において、自己欺瞞に満ちた市民的観点・市民的常識(往相的観点)を包括し止揚し克服するという仕方で思想的営為をし、そのように思想的営為をする思想家であった。また親鸞は、阿弥陀仏の側の真実によって一念義によっても救済されるという立場において、「称名をとなえ至心に信心」できず、「即座に救われ浄土へ往」けない、あるいはこの「現世に多くの未練や執着があって速やかに浄土へ往きたいと思えない」し・思わない庶民的現実(大衆像)と庶民的課題(大衆的課題)とを自らの浄土教理・知識に繰り込み、信と不信、知と非知とを架橋するという仕方で思想的営為をし、そのように思想的営為をする思想家であった。また還相的な課題は、偶然に出会った個別の衆生を助けるという往相的な過渡的相対的緊急的な救済にはないのであって、煩悩や生老病死等々で困窮し疲弊する「一切の衆生の救済」という究極的総体的永続的な救済にあるという仕方で思想的営為をし、そのように思想的営為をする思想家であった。また天災、飢餓、病気、餓死、煩悩等々で苦悩し疲弊する衆生の究極的総体的永続的な救済の課題に対して、信の往相的な宗教的学問的知識的な言葉ではなく、意識的な還相的な思想の言葉で答えていくことを眼目とし、「善」の自覚よりも「悪」の自覚の方が阿弥陀仏による救済に近づきやすいように、「知」よりも「愚」、すなわち「南無阿弥陀仏」の称名念仏の方が阿弥陀仏による衆生の究極的総体的永続的な救済に近づきやすいと意識的還相的に思想的営為をし、そのように思想的営為をする思想家であった。したがって、親鸞は、阿弥陀仏の側の真実に信頼し固執して、多念義ではなく一念義でもよいという思想へと辿り着いた。