本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

「カール・バルト――Wikipedia」および「新正統主義――Wikipedia」の記述にある、バルトの思想に関する記述内容は、客観的に言って正しいだろうか?(5−2)

「カール・バルト――Wikipedia」および「新正統主義――Wikipedia」の記述にある、バルトの思想に関する記述内容は、客観的に言って正しいだろうか?(5−2)

 

(3)「Wikipedia」作者は、ここでもまた、バルトを、弁証法的な区別を包括した同一性において把握し理解するではなく、すなわちその総体的構造において把握し理解するのではなく、バルトを二元主義的に分離し切り離した全くの誤解と曲解のただ中で記述しており、その中でどうしても見過ごすことはできない四つの内容的な問題点について述べてみたい。それは、「Wikipedia」作者の次のような記述である。すなわち、
(A)「『教会教義学』前半」(通俗的な言われ方である後期の前半)の「『キリスト論的集中』は彼の晩年(≪通俗的な言われ方である後期の後期・晩年≫)の思想とは異なり」という記述、
(B)「キリストを通じての神啓示が教会を越えて起こる可能性に言及した『教会教義学』最終巻……などでは三位一体の第三位格である聖霊に注目している」という記述、
(C)聖霊、聖霊なる神に関わる『教会教義学 救済論』が「未完である事情は単に年齢の問題だけではなく」、それは「晩年の書簡の以下の表現」に「うかがわれる」ように、「もしもう一度『教会教義学』を書くなら、今度は聖霊論的に書きたい」ということにあるとし、「また彼は敬虔主義や他の諸宗教にも関心を示すようになった」から、「彼は晩年に自身の出発点である近代神学(≪下記の【注】を参照≫)に回帰していると言えるのである」という記述、
(D)さらに「この関連で、エミール・ブルンナーとの自然神学論争において彼が主張した『人間にはもはや「神の像」なし』という主張もまた再検討されうる。神認識がキリストの契機なしには起こらないという点ではブルンナーとバルトは主張を同じくするが、ブルンナーが主張した「人間における結合点」とは人間において聖霊の力が働いて神を認識することを言っているからである」という記述、である。

 

【注】「彼は晩年に自身の出発点である近代神学……」について
 「Wikipedia」作者は、バルトの処女作を皮相的に時系列的な最初の方の著述として把握し理解しているが故に、それ故に客観的に言って、バルトの本当の<内容的な処女作>を把握し理解していないが故に、それ故に全くの誤解と曲解のただ中で、このことを述べているのである。客観的に言って、バルトの本当の<内容的な処女作>は、その著作以降最後の最後まで一貫性を持って手放さなかった「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を明確に宣言した1922年の『ローマ書』にあるのであり、それ故にバルト自身の本当の「出発点」は、換言すればその内容を最後の最後まで一貫性を持って手放さなかった本当の<内容的な処女作>は、「Wikipedia」作者の言う「近代神学」にはないのである。言い換えれば、バルト自身の本当の「出発点」、バルト自身の本当の<内容的な処女作>は、「Wikipedia」作者の言う「近代神学」の段階(包括的に総括して言えば、自然神学の段階)を包括し止揚し克服した<非>近代神学の段階(包括的に総括して言えば、<非>自然神学の段階)にあるのであり、それ故に信仰・神学・教会の宣教における思想家でもバルト自身は、1922年の『ローマ書』以降は、「近代神学(≪包括的に総括して言えば、自然神学の段階≫)に回帰」するということ・近代神学(≪包括的に総括して言えば、自然神学の段階≫)に逆行し復古するということは、断じてあり得ないことなのである。このことは、先に述べた通俗的な言われ方の後期の著作である『神の人間性』(1956年講演、バルト70歳)についての論述を読んでいただければ、すぐに理解できることである。そのことが、思想の何たるか(後述する)について認識し自覚していない、「Wikipedia」作者には全く理解できないのである。

 

(A)「『教会教義学』前半」(通俗的な言われ方である後期)の「『キリスト論的集中』は彼の晩年(≪通俗的な言われ方である後期の後期・晩年≫)の思想とは異なり」という誤解と曲解のただ中における語りについて言えば、そのように語る「Wikipedia」作者に対して、それとは全く以て180度対峙して異なっている1968年(バルトの死去した年)にスイス放送で流された次のようなバルト自身の言葉を置けばいいのである――「私が神学者として、そしてまた政治家としても(≪人間存在の三様式において不可避的に政治に関わらざるを得ない者としても≫)、語るべき最後の言葉は、<恩寵>といった概念ではなく、一つの名前、(≪単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方、神の子、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間≫)イエス・キリストなのです。この方こそ恩寵であり、この方こそ、この世と教会とそしてまた神学との彼岸にある、究極のものなのです……。私が私の長い生涯において努力してきたことは、いよいよ力をこめて、この名を強調し(≪イエス・キリストの名をのみ強調し≫)、そして、<そこにこそ!>と語ることでした。この名前以外のいかなる名前にも、救いはありません。そこにこそ、恩寵があります。そこには仕事と闘いへと向かうはげましがあり、共同体と仲間の人たちとの交わりへと向かうはげましがあります。そこには、弱く愚かであった私がその生涯において試みたすべてのことがあります」(『バルトの生涯』)。また、バルト自身の、次のような言葉も置くことができる――「(中略)確かに受肉は中心的にして重要なものではあるが……新約聖書の本来的内容であるというふうには言ってはならないのである。(中略)それはおよそすべての他の宗教世界の神話や思弁の中にも見出されるものである(下記の【注1】を参照)。(中略)人は、聖書が語っている受肉を、ただ聖書からのみ、換言すればイエス・キリストの名からのみ……理解することができる。……神人性それ自体もまた新約聖書の内容ではない(下記の【注2】を参照)。新約聖書の内容とは、ただイエス・キリストの名だけであり、そのイエス・キリストの名がたしかにまた、そしてとりわけ、彼の神人性の真理をその名に含んでいるのである。ただまったくこの名だけが、啓示の客観的現実を言いあらわしている」(『教会教義学 神の言葉T/1・2』)。

 

【注1】受肉は、「およそすべての他の宗教世界の神話や思弁の中にも見出されるものである」について
 全くの誤解と曲解のただ中において、短絡的に、「晩年」のバルトは「敬虔主義や他の諸宗教にも関心を示すようになった」から、「近代神学に回帰している」と記述する「Wikipedia」作者は、おそらく、バルトがただ「すべての他の神話や思弁」を対象的に研究し認識した上でこのように述べただけでも、すぐにバルトは「……他の諸宗教にも関心を示すようになった」から、「近代神学に回帰している」と言うに違いないのである。もっと言えば、バルトに言わせれば、通俗的な言われ方である「晩年」ではない全く前期の『ローマ書』において論じられているキルケゴールも、まさに晩年の死去の年の『シュラエルマッハー選集への後書』において論じられているシュラエルマッハーも敬虔主義に属しているとすれば、「晩年」のバルトは「敬虔主義……にも関心を示すようになった」から、「近代神学に回帰している」という「Wikipedia」作者の主張には決定的な矛盾が生じてくることになるのである。

 

【注2】「神人性それ自体もまた新約聖書の内容ではない」について
 バルトがこのように述べているのは、バルトは、おそらく何らかの仕方で、例えば農耕を経済的基盤とした人類史のアジア的段階においては、天皇を含めて非農耕民は「神人」と呼ばれていたということを認識していたからである。

 

 また『教会教義学 神論』にある、バルト自身の、次のような思惟と語りも置くことができる――先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(神と人間との無限の質的差異の下で、それ故にあくまでも神の側の真実からする、神の人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性である聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の~の第二の存在の仕方、神の子、起源的な第一の形態の神の言葉、啓示・和解、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識に向かっての人間の用意が存在する」と言わなければならない、すなわち先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」と言わなければならない、それ故にわれわれは、ただこのことに「感謝し、また感謝し続ける」と言わなければならない、それ故にまたわれわれは、神の言葉に対する奉仕としての他律的な服従と自律的な服従との同在性・同時性(その決断と態度)において、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には第二の形態の聖書的啓示証言のそれ)を、われわれの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」基づいて、換言すれば起源的な第一の形態の神の言葉、「啓示の実在」そのもの、啓示の客観的現実性、イエス・キリストの死と復活という啓示の出来事(具体的には第二の形態の聖書的啓示証言のそれ、啓示の「概念の実在」、啓示の概念の客観的現実性のそれ)と、「聖霊の注ぎ」による人間的主観に実現された神の恵みの出来事(信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰の出来事、信仰の出来事)に基づいて、絶えず繰り返しそれに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、<純粋>なキリストの福音、<純粋>なキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令、すなわち純粋なキリストの福音をすべての人々が現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)の連環と循環を志向し目指し続けていくと言わなければならない、そういう仕方で、イエス・キリストをのみ主・頭とする「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を、「唯一の、聖なる、公同の、使徒的なる教会」(1968年『シュライエルマッハー選集への後書』)を志向し目指していくと言わなければならない。
 このような訳で、「Wikipedia」作者の「『教会教義学』前半」(通俗的な言われ方である後期)の「『キリスト論的集中』は、彼の晩年(≪通俗的な言われ方である後期の後期・晩年≫)の思想とは異な」っているという記述は、全くの誤解と曲解のただ中におけるそれであると言わなければばらない。

 

(B)「キリストを通じての神啓示が教会を越えて起こる可能性に言及した『教会教義学』最終巻……などでは三位一体の第三位格である聖霊に注目している」という語りについて言えば、「Wikipedia」作者は、やはりここでも、弁証法的な区別を包括した同一性において把握し理解することができず、すなわちその総体的構造において把握し理解することができず、バルト自身の信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法および概念構成であるところの、神の本質の区別を包括した単一性における、すなわちその総体的構造における、「ご自身の中での神」として――すなわち「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする<一神>・<一人の同一なる神>として、「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方において三度別様に父・子・聖霊なる神ということと、「われわれのための神」としての「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――創造主なる神・永遠なる父・啓示者、父が子として自分を自分から区別した第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――和解主なる神・永遠なる子・啓示、愛に基づく父と子の交わりとしての第三の存在の仕方である聖霊――救済主なる神・永遠なる霊・啓示されてあること(それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性)という「外に向かって」の神の愛の行為の出来事としての神の存在ということを、全く認識し理解していないのである。すなわち、この「Wikipedia」作者は、啓示自身が、啓示に固有な証明能力を・キリストの霊である聖霊の証の力を・起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動を・神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)を与える授与能力を持っているということを、全く認識し理解していないのである、それ故にあの「神への愛」と、「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」という連関と循環ということを、全く認識し理解していないのである。したがって、この「Wikipedia」作者の「キリストを通じての神啓示が教会を越えて起こる可能性に言及した『教会教義学』最終巻……などでは三位一体の第三位格である聖霊に注目している」という「何らかの抽象を以て」為された記述は、バルトの思惟と語りのある部分を拡大鏡にかけて全体化したところの誤解と曲解のただ中におけるそれでしかないものなのである。

 

(C)聖霊、聖霊なる神に関わる『教会教義学 救済論』が「未完である事情は単に年齢の問題だけではなく」、それは「晩年の書簡の以下の表現」に「うかがわれる」ように、「もしもう一度『教会教義学』を書くなら、今度は聖霊論的に書きたい」ということにあるとし、「また彼は敬虔主義や他の諸宗教にも関心を示すようになった」から、「彼は晩年に自身の出発点である近代神学に回帰していると言えるのである」という記述の全くの原理的な根本的包括的な誤解と曲解に対しては、バルト自身の次のような思惟と語りの言葉を置けばいいのである。先ず、「Wikipedia」作者の言うバルトの「晩年の書簡」とあるのは、書簡ではなく、バルトの「夢」としての「第三項の神学」、すなわち「聖霊の神学」を論じたバルト死去の年・1968年の『シュライエルマッハー選集への後書』のことだと思われる。われわれは、この「Wikipedia」作者の言う「また彼は敬虔主義や他の諸宗教にも関心を示すようになった」から、「近代神学に回帰している」という全くの誤解と曲解のただ中における記述に、十分に注意しなければならない。何故ならば、このような「Wikipedia」作者の全くの誤解と曲解のただ中における短絡した記述は、バルトが「人智学的混沌」について論じ、「カント」を論じ、「ヘーゲル」を論じ、ある近代的な「哲学的用語」を使用したというただそれだけで、バルトは「近代神学に回帰」した、包括的に総括して言えば自然神学の段階へと回帰・逆行・復古したというように短絡的に断定する記述の仕方と全く同じ水準にあるものだからである。バルト自身は、このような誤解と曲解のただ中における短絡的で出鱈目な思惟と語りと記述に対して、伏線を張って『教会教義学 神の言葉T/1・2』および『バルトとの対話』で、次のように述べている――「哲学、歴史学、心理学等は、この神学的問題領域のどれにおいても、事実上、教会の自己疎外の増大以外のなにものにも役立ちはしなかった」、「神についての教会の語りの堕落と荒廃以外の何ものにも役立ちはしなかった」、またその場合、「哲学は哲学であることをやめ、歴史学は歴史学であることをやめる」、キリスト教哲学は、「それが哲学であったなら、それはキリスト教的ではなかった」、「それがキリスト教的であったなら、それは哲学ではなかった」・「われわれが哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、神学は哲学的試みが終わるところから始まる」、神学も理性的な知的営為ではあるが、「神学は方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」、と。
 このバルトに、「近代神学に回帰している」バルトの姿を見ることができるだろうか、近代神学に逆行し復古しているバルトの姿を見ることができるだろうか、包括的に総括して言えば、このバルトに、自然神学にあるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教に「回帰し」、逆行し、復古しているバルトの姿を見ることができるだろうか。

 

 このような訳で、『シュライエルマッハー選集への後書』、すなわち『神学者カール・バルト』「シュライエルマッハーとわたし」の翻訳者の蘇も、「訳者あとがき」で、バルトの「第三項の神学という発言について」、「これをバルトの『転向』と誤解する者」は、すなわち「Wikipedia」作者のように「近代神学」への「回帰」・逆行・復古と誤解し曲解する者は、「明らかにその前後数頁だけしか読んでいないのである」というように述べていることは、全く<正しい指摘である>と首肯することができるのである。ただ、その蘇自身が、その「訳者あとがき」で、バルトの著作の時系列的な判断に依拠して、「バルトが『聖霊』を口にする場合、それは『教会教義学』の第四巻(殊に第三部)以来ますます載然と、排他的にイエス・キリスト自身の霊的臨在またはその力をさし、したがって自然神学へのブルンナー的遡行(またはヘーゲル的哲学化)を許す『父の霊』は考えられていない」と断定的に述べている時、そのようなことはバルト神学においてはあり得ないことであるから、それは、正しい認識と理解ではないと言わざるを得ないのである。何故ならば、単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――創造主・啓示者・言葉の語り手、その父が子として自分を自分から区別した第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――和解主・啓示・話し手の言葉、愛に基づく父と子の交わりとしての第三の存在の仕方である聖霊――救済主・啓示されてあること・それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性という神の本質の区別を包括した単一性(その総体的構造)における聖霊論を、一貫性を持った神と人間との無限の質的差異を(『ローマ書』、『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』、『神の人間性』)、自らの信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法および概念構成としているバルト自身の場合、愛に基づく父と子の交わりである「父ト子ヨリ出ズル御霊」における「父の霊」に対して排他的にならなくても、「自然神学へのブルンナー的遡行(またはヘーゲル的哲学化)」を防ぐことはできるのである。このような形而上学的な思惟と語りを為す蘇には、そのことが理解できないのである。また、バルトの一貫した三位一体論における神の存在の本質の概念から言えば、蘇の言う「父の霊」への「排他」あるいは分離あるいは切り離しは本質的に成立しないのである。すなわち、蘇の言うバルトの「キリスト自身の霊的臨在」の強調は、「和解論」が神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストに関わる事柄だからであり、その場合バルトは、単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストに重点を置いて聖霊を論じているだけなのである。バルト自身は、聖書的啓示証言から得られた「神の本質の単一性と区別」(神の本質の区別を包括した単一性)という概念を捨てたりは決してしないのである。

 

 さて、シュライエルマッハーは、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性を後景へと退けて、また神と人間との無限の質的差異を後景へと退けて、人間学的に「教会とは、『ただ自由な人間的行為を通して発生し、またただそのような自由な人間的行為を通して存続することのできる共同体』であり、『敬虔性(≪絶対依存感情≫)と関連した共同体』である」と言う。またシュライエルマッハーにおいては、「信仰も、人間実存の歴史的存在の一つの在り方」として理解される。神学における「近代主義的思惟は、人間が、誰かによる呼びかけを受けることなしに、(中略)人間がじぶんを相手に自分だけでひとりごとを言っているのを聞く」のである。したがって、近代主義にとっては(≪近代主義神学、自由主義神学、近代主義的プロテスタント主義的キリスト教的信仰・神学・教会の宣教にとっては≫)、第三の形態に属する全く人間的な教会の宣教は、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態の神の言葉(具体的には第二の形態の聖書的啓示証言のそれ、啓示の「概念の実在」、啓示の概念の客観的現実性)を、その宣教におけるあるいはその思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とすることを後景へと退けてしまって、それ故にイエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの教会を志向し目指すことを後景へと退けてしまって、表向きだけキリスト「『教会』と呼ばれる人間的な共同体の一つの必然的な生の表現」となるのである。したがって、この時には、<必然的>に、イエス・キリストの啓示(「啓示の実在」そのもの、啓示の客観的現実性)は、後景へと退かされることになるのである(この時にはまさに、人間学的方法に、すなわち前期ハイデッガーの哲学原理に依拠したブルトマンを、ハイデッガー自身が原理的に根本的包括的に批判し揶揄したことが、ブルトマン神学の中で起こっているのである――「『今日まさにこのマールブルクでは、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか』」。まさに、ブルトマン神学の中で起こっていることは、近代以降<自由>を認識し自覚した人間自身の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能が対象化した「存在者レベルでの神への信仰」神学の、すなわち人間学的神学の、もっと包括的に総括して言えば自然神学の台頭である)。このような訳で、シュライエルマッハー等近代主義は、近代主義的プロテスタント主義的キリスト教的信仰・神学・教会の宣教は、人間の「精神的な促進〔霊的な奨励〕のために、自分と彼らに共通な宝庫からくみ取りつつ、この宝庫をさらに豊かにするために」、人間の自由な自己意識・理性・思惟が対象化した意味的世界を、感情・理性・意志等の人間的契機の直接性を、人間学的な哲学的原理・認識論・世界観を、自分自身の恣意的独善的な救いと平和の企てを、「自分自身の歴史」と「現在の解釈」を表現しようとするのである。すなわち、「自己表現としての宣教」を企てるのである(『教会教義学 神の言葉T/1・2』)。これが、バルトの、シュライエルマッハーに対する原理的な根本的包括的な批判である、近代主義的プロテスタント主義的キリスト教的信仰・神学・教会の宣教に対する原理的な根本的包括的な批判である。このバルトの批判を、包括的に総括して言えば、それは、バルトの、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教に対する原理的な根本的包括的な批判である。このような自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教に対する原理的な根本的包括的な批判は、人間学的領域からも為されている(ハイデッガーによるブルトマン批判は、すでに述べた通りである)――「人間の内的生活は、自分の類・自分の本質に対する関係における生活である。人間は思惟する、すなわち人間は会話をする、人間は自分自身と話をする。動物は自分以外の他の個体がいなければ類の機能をひとつもはたすことはできない、しかし人間は他人がいなくとも考えるとか話すとかという類的機能(≪人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能、無限性≫)……を果たすことができる」・「もし君が無限者を思惟するならば、そのとき君は思惟能力の無限性を思惟し且つ確証しているのである。そして、もし君が無限者を情感するならば、そのとき君は感情能力の無限性を情感し且つ確証しているのである。理性の対象とは自己自身にとって対象的な理性(≪対象化された理性≫)であり、感情の対象とは自己自身にとって対象的な感情(≪対象化された感情≫)である」(因みに、シュライエルマッハーは、『シュライエルマッハー選集への後書』によれば、「『絶対依存感情』についてただ単に語ったばかりでなく」、換言すれば人間の自由な自己感情が対象化したところの、「人間の実存の原行為」、「存在のための配慮」、「現存在の基礎づけ」としての「無限にして無制約的な超越者」(絶対依存感情、敬虔心)について「ただ単に語ったばかりでなく」、その「感情を持って」いて、彼は「自分が説教壇で……またサロン」で、自分の自由な自己感情が対象化したところの「この感情について語りながら自分自身感動し、涙にむせびさえもした」のである。この時、その涙は、シュライエルマッハーのその自己感情の外化された形態である。また、人間の神化あるいは神の人間化として、思惟に思惟を重ねて具体的普遍の頂へと高次化する思惟は、自然から超出した精神であるから、その頂を極めた「精神は、また精神自体としては神と全く同一である」のだが、それは、まさに人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能が対象化した「存在者レベルでの神」である)・「(中略)神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」(『キリスト教の本質』)、「神とはまさに、人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質(≪人間の自由な自己意識・思惟・理性の類的機能、無限性≫)が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない」(『宗教の本質にかんする講演』)――これが、フォイエルバッハの、自然神学あるいは自然的なキリスト教信仰・神学・教会の宣教に対する原理的な根本的包括的な宗教批判である。また、マルクスは、共同宗教としてのキリスト教の最後的形態を政治的近代国家に見た。

 

 さて、前期ハイデッガーの哲学原理に依拠したブルトマンは、それ故にブルトマンの実存論的聖書解釈にとって、「聖書記事」は、そして「新約聖書の使信そのもの」も、その「表象形式の神話」も、「人間の自己理解の表明」であり、それは、「非本来性(≪不信・非知≫)から本来性(≪信・知≫)への実存的移行の表明」であり、言語を介して対象化された人間の「実存の表明」、すなわち「聖書記者たちの実存的主張」であるから、そのように「理解し、解明」されなければならないとして、そこに聖書解釈における前期ハイデッガー哲学に基づく「絶対的規準」としての「先行的理解」・「解釈学的原理」を置いたのである。したがって、ブルトマンは、「組織的な基礎論」を、「われわれは……まさしく『実存的な』方向において、あらゆる精神的業績(≪人間学的領域のそれ≫)の理解に努力するのと同じような仕方で(≪人間学的方法、「人間学的発想」で≫)、(≪すなわち「シュライエルマッハーにおいて自明のこととして行われていた」「神学の人間学化において」・「神学と哲学の共生」・混合・協働・共働において≫)新約聖書に記述されている福音の理解のために努力しなければならない」(『シュライエルマッハー選集への後書』)という点に置いたのである(この場合、「ハイデッガーでなく、ヤスパ−ス、マルティン・ブーバー、更にはまたボンヘッファーを五〇ページ読むことからだけでも、人はブルトマン主義者になり得」るのである。この場合、最後的には、神の人間化あるいは人間の神化にまで至ることができるのである、「主観――客観の図式の除去」にまで至ることができるのである、神と人間との無限の質的差異の揚棄にまで至ることができるのである)。このブルトマンは、「神話的世界像と神話的人間像」は時代の経過とともに、「われわれの前から消え去ってしま」うし、「現代人」のわれわれの「眼前存在」――すなわち現前性は「近代的な世界像、人間像」にあるから、「神話形式のままでは、新約聖書の言表」、すなわち「語られた内容の表現」は理解できないから、それは現存する現代人の側から・現代人のために、「容易に習得し得ない」「先行的理解と言語〔表現〕」という知識的に上昇していく知の自然過程(往相過程)において「非神話化されなければならない」と語るのである。このように、ブルトマンの神学は、全く以て「教養人」の神学なのである。この意味において、すなわち包括的に総括して言えば、それは自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階に属している意味において、この二十世紀のブルトマンは、「十九世紀の伝統の継承者、つまり新しい衣装を着たシュライエルマッハーの真正の弟子であったし、今もそうなのである」。このブルトマンとは違って、バルト自身は、「聖書注解者」のその「誠実と真実」を・その「責任的応答」を、「十字架につけられ、復活したイエス・キリスト」におけるわれわれの「実存という場所」において、「われわれの信仰以前にも、信仰なしでも、……不信仰に抗して」、「われわれのために生きて、われわれを支配し」、「われわれを愛し給う」イエス・キリストを、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて「認識し、持つことができるということを示す」ことに置いたのである。何故ならば、単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示自身が、啓示に固有な証明能力を、キリストの霊である聖霊の証の力を、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動を、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)を与える授与能力を持っているからである。このバルトは、第三の形態に属する全く人間的な教会の釈義神学による聖書的教えの認識・概念(聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯することを通して対象化された啓示の「概念の実在」、対象化された啓示の概念の客観的現実性)の概念的な水準は、キリスト教的な神についての「語りの規準」であるイエス・キリスト自身(「啓示の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉、啓示の客観的現実性)と同一の水準にあるのではない、また「使徒や預言者たちが語ったこと」、すなわち最初の直接的な第一の預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」(神の言葉の第二の形態の聖書的啓示証言、啓示の「概念の実在」、啓示の概念の客観的現実性)であれ、その概念的な水準は、啓示の実在そのもの・起源的な第一の形態の神の言葉そのものではないのであるから、教会のひとつの機能としての教義学は、「使徒や預言者たちが語ったことを問う」のではない、と述べるのである(何故ならば、彼らの語りをそれとして問うことをしたならば、それは、人間によって言語を介して対象化された彼らの語り・「存在者レベルでの神」を問うことになってしまうからである)。したがって、第三の形態に属する全く人間的な教会のひとつの機能としての教義学は、第二の形態の聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯して「『使徒と預言者たちに基づいて』、何をわれわれ自身が語るべきかを問」わなければならない、その時だけ、「キリスト教的語りは今日何を語ることがゆるされ、語るべきかを問うよう自分が要請され」・命じられていることを知るのである、そのような教義学そのもの・神についての教会の語りは、「信仰のない」人間の、「信仰にさからう理性を用いての語り」ではあるが、教義学そのものが、「神についての語りをはかる規準」・原理・法廷・審判者・支配者を、「イエス・キリスト(≪起源的な第一の形態の神の言葉、「啓示の実在」そのもの、啓示の客観的現実性、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言、啓示の「概念の実在」、啓示の概念の客観的現実性のそれ≫)の中で、(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて、「聖霊の注ぎ」により、また聖霊によって「再生」・「更新」された人間の理性によって、そして人間の言語を介して≫)受けとる限り、教義学は真理の認識として可能」となるのである。その場合、教会のひとつの機能としての教義学は、「人間的な問いの中で、人間的な問いと共に、人間的な問いのもとで、……神的な答えについて語る」ことができる、しかしそれが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項」なのであって、われわれ人間の決定事項では全くないのであるから、教会のひとつの機能としての教義学の在り方は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基づいて成立している」のである(『ルドルフ・ブルトマン』、『教会教義学 神の言葉T/1・2』)。したがって、バルト自身は、「われわれが哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、神学は哲学的試みが終わるところから始まる」のであり、確かに神学も理性的な知的営為ではあるが、聖霊により「再生」・「更新」された理性を必要とするのであり、「神学は方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」と述べたのである(『バルトとの対話』)。
 このバルトに、「Wikipedia」作者の言う「近代神学(≪包括的に総括して言えば、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教≫)に回帰している」バルトの姿を見ることができるだろうか、「近代神学」(包括的に総括して言えば、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教)に逆行し復古しているバルトの姿を見ることができるだろうか。