本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

「カール・バルト――Wikipedia」および「新正統主義――Wikipedia」の記述にある、バルトの思想に関する記述内容は、客観的に言って正しいだろうか?(5−3)

「カール・バルト――Wikipedia」および「新正統主義――Wikipedia」の記述にある、バルトの思想に関する記述内容は、客観的に言って正しいだろうか?(5−3)

 

 バルトは、1968年『シュライエルマッハー選集への後書』(『神学者カール・バルト』「シュラエルマッハーとわたし」)を書いているのだが、1963年の『バルトとの対話』(通俗的な言われ方の後期)において、バルトは、包括的に総括して言えば、もともとその水準で停滞と循環を繰り返しているカトリック神学あるいはカトリック的な信仰・神学・教会の宣教を含めて現存する近代主義的神学、自由主義的神学、近代主義的プロテスタント主義的神学あるいは近代主義的プロテスタント主義的キリスト教信仰・神学・教会の宣教における自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階を、起源的な第一の形態の神の言葉(イエス・キリスト自身)およびその第二の形態の神の言葉(聖書的啓示証言)に信頼し固執し連帯する自らの立場において包括し止揚し克服して、<非>自然神学・<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階へと移行したところで構成された「よい聖霊論だったらシュラエルマッハーおよびすべての近代主義に対する最高の批判になっただろう」と述べている。また、通俗的な言われ方の後期に属する『ヘーゲル』で、バルトは、ヘーゲルにおける神、神の啓示は、人間自身の自由な自己意識・思惟・理性の類的機能、無限性が「捕えた(≪対象化した≫)虜囚(≪「存在者レベルで神」・偶像≫)」でしかないものとなってしまうから、「受け入れ難く耐え難い」と語り、またその「ヘーゲルの哲学的手法に対して」、「受け入れ難く耐え難い」「最も重大でかつ決定的なもの」は、人間の側からする「人間の自己運動を神のそれと取り違えるという混淆」にあるし・「神の自由を認識していないという事態」(人間の側からする、神の人間化あるいは人間の神化)にあると語り、また「われわれは、シュライエルマッハー以外の他の人々(≪ブルトマンをはじめとして、モルトマン、エーバーハルト・ユンゲル、ルドルフ・ボーレン、滝沢克己、八木誠一、それに類する人々、包括的に総括して言えば、自然神学があるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教を志向し目指している人々≫)の所でも、……〔この〕ヘーゲルの強力な痕跡に遭遇するであろう」と語っている、換言すれば人間の側からする神と人間との無限の質的差異の揚棄に基づいた人間中心主義的に「遭遇するであろう」と語っている。このバルトに、「Wikipedia」作者の言う「近代神学(≪包括的に総括して言えば、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教≫)に回帰している」バルトの姿を見ることができるだろうか、「近代神学」、近代主義的神学、自由主義的神学、近代主義的プロテスタント主義的神学(包括的に総括して言えば、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教)に逆行し復古しているバルトの姿を見ることができるだろうか。

 

 さて、バルトの、『教会教義学 神の言葉』、『教会教義学 神論』、『教会教義学 創造論』、『教会教義学 和解論』、『教会教義学 救済論』(未完)は、全線にわたって、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父(全き自由の神の愛の行為の出来事としての神の存在、父なる神、創造主としての神、永遠の父、啓示者、言葉の語り手)、父が子として自分を自分から区別した第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身(全き自由の神の愛の行為の出来事としての神の存在、子なる神、和解主としての神、永遠の子、啓示、語り手の言葉)、愛に基づく父と子の交わりとしての第三の存在の仕方である聖霊(全き自由の神の愛の行為の出来事としての神の存在、聖霊なる神、救済主としての神、永遠なる霊、啓示されてあること、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性)という神の本質の区別を包括した単一性に基づいて構成され論じられており、それ故にそのバルトの著作全体は、「Wikipedia」作者のような記述の仕方では扱うことができない構成になっているのである――すなわち、「Wikipedia」作者のように、恣意的独善的にバルトの著作に対する時系列的判断に依拠して形而上学的に和解論や聖霊なる神に関わる未完の『教会教義学 救済論』(「第三項の神学」、「聖霊の神学」の夢を論じた1968年の『シュラエルマッハー選集のへの後書』を含めて)だけを・さらにはまたその一部分だけを抽象して切り取り(換言すれば一部分を拡大鏡にかけて全体化して)扱うことができない構成になっているのである。このことが、全くの誤解と曲解のただ中において、形而上学的な記述を為す近視眼的な「Wikipedia」作者には理解できていないのである。したがって、「Wikipedia」作者は、次の事柄を引き寄せることができないのである――すなわち、「Wikipedia」作者は、バルト自身が述べている「(≪わたしは、≫)シュラエルマッハーに対するわたしの関係を事柄に即して明らかにするために」、「時々既に示唆して来たもの」は、「第三項の神学、つまり支配的に、決定的に、聖霊の神学(≪下記の【注】を参照≫)なるものの可能性であったと言えよう」・「第一項と第二項の理解するところに従い、父なる神と、子なる神とについて信じ、考え、語らなければならないすべてのことは、父と子との間の平和の絆(≪何故ならば、聖霊は、愛に基づく父と子の交わりであるから≫)である聖霊なる神によって基礎づけられて、明らかにされ、光を受けなければならないであろう」という神の本質の区別を包括した単一性おいて「第三項の神学」・「聖霊の神学」を構成したいというバルトの「夢」の事柄を引き寄せることができないのである。
 バルトは、『教会教義学 神の言葉T/1・2』で、次のように述べている――近代主義的プロテスタント主義的神学が、「キリストの永遠のまことの神性の告白」を信用しない場合、それは、近代主義的な感覚や知識を内容とする経験的普遍に依拠しているからであり、それ故に「視覚的錯覚」によるからであり、その場合「和解」に関して言えば、「赦す神」が人間に内在しなければならないことになり、その認識自体が「思弁」でしかないものとなるのである。このような原理・認識方法および概念構成においては、単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストは、「下からの半神」、「超人」、人間の「最深の本質」・「最高の理想」、キリスト教的実存あるいは社会的政治的奉仕の範型等の単なる「空虚な概念」でしかなくなってしまうのである。その典型的な思惟と語りを日本に求めれば、滝沢克己と八木誠一がそれである――「もはやいかなるキリスト者も、『聖書』や『イエス・キリスト』という名を記憶している人たちさえも、もはやこの地上のどこにも残っていないとしても、それでもなお、『神われらとともに』という事実(Faktum)にわたしたちが堅く結びつけられているということそのことは、(≪「人間の側から」する滝沢自身の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能が対象化した「存在者レベルでの神への信仰」における≫)神において永遠に決定されていることなのだ(『滝沢克己著作集 第二巻 カール・バルト研究』)、また八木は、「人間の側から」する八木自身の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能が対象化した「存在者レベルでの神への信仰」において、「イエスは別段自分を超人間的存在として自覚していたわけではなく、『人の子』語句でもって人間存在の根底を語り続けた」「ただの人であり、ただの人として自らを自覚し、ただの人の真実のあり方を告げた」と述べ、イエスに本来的な人間存在の在り方・範型を見たのである。この八木は、滝沢と同じように、イエス・キリストの存在の本質である「神性」性を揚棄するだけでなく、さらにまたまことの神にしてまことの人間というイエス・キリストの「存在の仕方」性、「神の子」性、「起源的な第一の形態の神の言葉」性、「啓示・和解」性も揚棄してしまって、滝沢のインマヌエル論に同調しているのである(『イエス』および一九八二年南山大学主催滝沢講演後討論会)。この八木の姿は、人間学的領域からはどのように見えているのだろうか? 『現代思想11 1975年』「<新約聖書をどうとらえるか>吉本隆明/八木誠一」において、吉本は、八木の思惟と語りに対して、次のような総括を行っている――吉本が八木に対して、「信仰することによって信仰していない者には見えない何か新しい地平線が見える」と「思うけれども、……そこをうまく開陳してみてくれませんか」と尋ねたことに対して、八木は、「かつての自分には見えなかったものが見えてきた」ことが「二つある」、第一には、「観念的なものに重点を置いて、そっちが真実だと思っていた」が、それは「ほんとは虚しいものなんだ」(おそらくこのことは、観念のリアリティの獲得の問題を、科学主義的にか歴史主義的にかその実証可能性においていることを意味しているだろう)と述べ、また第二には、「エゴイズム」に依拠して「自分を確かめて自分を知り、確かめ、また立てようとしていた」ことが「明らかになった」(おそらくこのことは、人は不可避的な人間の類・歴史性と個・現存性との構造・総体を生きるということを自覚したことを意味しているだろう、被企投性としての類・歴史的現存性の概念と企投性としての個・現存性の概念を見出したということだろう、あるいは人間の存在様式が均質ではないことに気付いたということだろう)と述べていることに対して、吉本は、「だけど今の八木さんの説明では、……あらゆる認識が、もし自分自身の体験、それから自分自身の資質というか、そういうものを全部根こそぎ動員して、認識というものを追究していくと出てくる問題と、あまり違わない」と疑義を呈し、「それ宗教(≪信仰≫)と関係あるかな、ということですね。やはり納得できるように思いません」と述べたのである、すなわち人間学的方法の中で、それも「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会」の中で学問(神学)している八木の姿を見たのである。このように、まさに「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」として、自然神学の段階で停滞と循環を繰り返す彼らとは違って、聖書的啓示証言に新江合氏固執し連帯したバルト自身のインマヌエル論は、次のようなものである――「神がそこでわれわれに出会い給うその恵みの御言葉は、イエス・キリストと呼ばれる。すなわち、神の子にして人の子、真の神にして真の人、インマヌエル、この一つなる方におけるわれらと共なる神である」と、答えうるにすぎない。キリスト教信仰は、この『インマヌエル』との出会いである。イエス・キリストとの出会いであり、イエス・キリストにおける神の活ける御言葉との出会いである。われわれが聖書を神の御言葉と呼ぶ場合……、われわれは、それによって、聖書を、この神の唯一の御言葉についての(イエス・キリストについての、神のキリストであり永遠にわれわれの主にして王なるイスラエルから出たこの人についての)預言者・使徒の証しとして、考えているのである。そして、われわれがそのことを告白する場合、われわれが教会の宣べ伝えを神の御言葉と敢て呼ぶ場合、それによってイエス・キリストの宣べ伝えが理解されていなくてはならない(『教義学要綱』)。このバルトは、「キリストの神性についての教義」(キリスト教信仰・神学・教会の宣教における思想)こそが、一切のヘーゲル主義、一切の近代主義、一切の近代主義的プロテスタト主義的キリスト教、包括的に総括して言えば、一切の自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教に抗することができるところの、信仰・神学・教会の宣教における思想的武器であると述べるのである、それ故に「キリストの神性についての教義」(キリスト教信仰・神学・教会の宣教における思想)こそが、「神的啓示と人間的な信仰の間」における、神と人間、神学と人間学との混淆・共生・混合・共働・協働におけるその「幻想性」を、その「形而上学」性を打破できるところの、信仰・神学・教会の宣教における思想的武器であると述べるのである。
 このバルトに、「Wikipedia」作者の言う「近代神学(≪包括的に総括して言えば、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教≫)に回帰している」バルトの姿を見ることができるだろうか、「近代神学」(包括的に総括して言えば、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教)に逆行し復古しているバルトの姿を見ることができるだろうか。

 

【注】「第三項の神学」・「聖霊の神学」における「聖霊」について
 『教会教義学 神の言葉T/1・2』によれば、単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第三の存在の仕方である「父ト子ヨリ出ずる御霊」・聖霊なる神は、救済主なる神(救済の神)、永遠なる霊である。すなわち、三位一体の根本命題に即して理解すれば、聖霊なる神は、三度目に、愛に基づく起源的な第一の存在の仕方である父と、父が子として自分を自分から区別した第二の存在の仕方である子という二つの存在の仕方の交わりから生じる一つの存在の仕方、すなわち第三の存在の仕方である。したがって、この聖霊という第三の存在の仕方は、父と子の啓示に対する「特別な第二の啓示」ではなく、聖霊は、あくまでも神の本質の区別を包括した単一性において「父なる神と子なる神の愛の霊」である。ここに、単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第三の存在の仕方である聖霊の「起源」がある。この聖霊において、父と子(≪神的対関係≫)は、愛に基づく完全な共存的な関係・交わり(≪神的共同性≫)においてあるのである(このことを念頭に置けば、前述した『シュライエルマッハー選集への後書』にあった「第一項と第二項の理解するところに従い、父なる神と、子なる神とについて信じ、考え、語らなければならないすべてのことは、父と子との間の平和の絆である聖霊なる神によって基礎づけられて、明らかにされ、光を受けなければならないであろう」という神の本質の区別を包括した単一性おいて「第三項の神学」・「聖霊の神学」を構成したいというバルトの「夢」の事柄について理解できるであろう)。すなわち、聖霊は、その交わりの中で、「父は子の父」・「言葉の語り手」であり、「子は父の子」・「語り手の言葉」であるところの性質・働き・業・行為・行動である。ここに、神は愛である・愛は神であることの根拠がある。「愛は神にとって、最高の法則であり、最後的な実在」である。愛は、自由がそうであったように、神自身においてのみ「実在であり真理」である。この聖霊は、三度目の最後的な存在の仕方(第三の存在の仕方)として、神にとって最高の法則としての愛であって、その愛に基づく父の起源的な第一の存在の仕方と子の第二の存在の仕方の交わり・関係であり、神と人間との交わりの根拠である(何故ならば、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて、すなわち啓示の出来事と「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて、終末論的限界の下で、初めて信仰の認識としての神認識、啓示認識啓示信仰は与えられるからである、神の恵みの出来事の人間的主観への実現が執行されるからである)。われわれは、この神の外に向かっての三つの働き――すなわち三つの存在の仕方における「啓示の事実」を、ただ承認し受認し確認できるだけである。「父ト子ヨル出ズル御霊」――これは、聖霊の「神性の定義」である。この聖霊は、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊」である。聖霊は、「啓示への個人的な参与を保証する」。言い換えれば、われわれは、啓示の出来事と「聖霊の注ぎ」による人間的主観に実現された神の恵みの出来事、信仰の出来事に基づいてのみ、信仰の認識としての神認識を、啓示認識・啓示信仰を与えられるのである。パウロにおいて、「霊にあって」とは、「救いの福音を聞き、 信じるようにさせる霊」、「知恵と啓示の霊」による「神の啓示への参与」、すなわち「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事における「人間の思惟、行為、語ること」を、「主観的に表示している概念」である。また、「キリストにあって」とは、啓示の出来事、イエス・キリストにおける死と復活という啓示の出来事と「全く同じ事柄を、客観的に表示している概念」である。聖書によれば、単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第三の存在の仕方である聖霊は、私たち人間の「救済主」であるが、しかし聖霊は、「救済主」であるだけではなく、その存在の本質である単一性・神性・永遠性において、「子とともに、子の霊として、また和解者」でもあり、また「父および子とともに創造主なる神」でもある。新約聖書の「イエスは主である」という「証言」は、神性を本質とするイエスを、「事実の承認」として、「思惟の初め」として語っている。したがって、この「イエスは主である」、「子を通しての父を、父を通しての子」を信じるこの信仰、「神との出会いであるイエスとの出会い」、「信仰の出来事」は、神のその都度の自由な恵みの決断による「聖霊の注ぎ」によって起こるのである。この信仰の出来事は、新約聖書において、「啓示の出来事の中での主観的側面」、「聖霊の注ぎ」による人間的主観に実現された神の恵みの出来事、信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰の授与の出来事のことである。したがって、われわれは、神のその都度の自由な恵みの決断による「聖霊の注ぎ」によって、神の側の真実としてある、客観的現実性としてある、「永遠的実在」としてある、イエス・キリストにおいて完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和を認識し信仰することができる、信仰の認識としての神認識を、啓示認識・啓示信仰を与えられ所有することができるのである。また、救済を「信仰の中で持つ」ことは、「約束として持つ」ことである。「われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる」。「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」。この「信仰の確実性」は、「希望の確実性」である。新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」・「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」のである。ここで、「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」(近代的な感覚と知識を内容とする経験的普遍)にとっての<いまだ>であり、神の側の真実として、客観的現実性として、「成就と執行」として、「永遠的実在」として、<すでに>ということである。この「聖霊の働きの本質的なもの」、その「直接性」は、◎われわれが、「一人の主なる神」をのみ、「主として持つ自由」をわれわれに与えるが故に、そのように告白することを要求する、◎われわれ人間の「中に」も・「中から」も、「純粋なもの、聖いものは何も出て来」ないと告白することを要求する、◎われわれ人間の「理性や力ではイエス・キリストを主と信じることもできず、知ることもできない」と告白することを要求する、◎われわれ人間の究極的限界性・終末論的限界を告白することを要求する。イエスが「聖霊の特別な働きとして約束」したものは、「慰め主としての霊」と「真理の御霊」であるが、聖霊は、聖書の中の「キリスト教原理を、覆いをとって明らかにする」・「キリストについて語ることができる能力」を与える方(ヨハネ一四・二六)であり、「上から」の「よき賜物」である。この「聖霊の注ぎ」を通して「聖霊を持つ」ということは、「キリストにおいて起こった和解にあずかること」であり、「キリストと共に、死から生命への」方向転換に置かれることである。この二つの方向転換において「イエス・キリストにあっての神の啓示の要素としての霊の本質」は、「キリストにある自由」を意味している。この「キリストにある自由」とは、「キリストの奴隷」となることであるが、そのことは、われわれ人間が、その存在・その思惟・その実践において、神の側の真実としてある主格的属格としての理解されたギリシャ語原典「イエス・キリスト信仰」、すなわち「律法の成就」完了、イエス・キリスト信ずる信仰による「神の義、神の子の義、神自身の義」そのものにのみ感謝をもって信頼し固執し固着することを意味している。この聖霊が、第三の形態に属する全く人間的な教会を「み言葉の奉仕」へと向かわせしめるのである。また「聖霊はみ子の霊であり、それ故、子たる身分を授ける霊である」から、われわれは、「聖霊を受けることによって」、「イエス・キリストが神の子であるという概念」を根拠として、「神の子供」、「世つぎ」、「神の家族」であり、「『アバ、父よ』と呼ぶ」(ローマ八・一五、ガラテヤ四・五)ことができるのである。また、「和解者が神の子であるがゆえに、……和解、啓示」の受領者たちは、受領者と授与者との無限の質的差異において、「神の子供」なのである。このことは、あの「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰を通して(信仰の類比、関係の類比を通して)初めて得られる人間の自己認識・自己理解・自己規定である。

 

 さて、バルトが「落ちこんでしまっている困惑との関連で、時おり……みる」バルト自身の「夢」、その事柄は、「『教会と異端の歴史』が……『非党派的』にではなく(≪このことは、「人間の側から」する人間的な党派主義的にとか・二元主義的にとか・多元主義的にとかということでは決してなくて≫)」、「神の側から」して<党派的に>――すなわち神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて、われわれ人間に信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰を与える、われわれ人間的主観に神の恵みの出来事を実現させる「聖霊(≪「聖霊の注ぎ」≫)によって集められた(≪それ故に「いっさいを検証」し終えたところの≫)唯一の、聖なる、公同の、使徒的なる教会」の、「最善のものを保持する歴史が、……見いだされ、理解され、書き記されることが、可能となるであろう」というところにあった、換言すれば「神の側の真実」としてある・「神の側から」する・神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて、それ故に単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第三の存在の仕方である愛に基づく父と子の交わりとしての「聖霊(≪「聖霊の注ぎ」≫)によって集められた(≪「いっさいを検証」し終えたところの≫)唯一の、聖なる、公同の、使徒的なる教会……の最善のものを保持する歴史が、……見いだされ、理解され、書き記されることが、可能となるであろう」というところにあった、換言すれば神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて、「聖霊の注ぎ」により単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方、神の子、起源的な第一の形態の神の言葉、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにのみ感謝をもって信頼し固執し固着し、イエス・キリストをのみ主・頭とするキリスト教に固有な類、すなわちそれぞれの世紀・それぞれの世代におけるそれぞれの個体的自己の成果の世代的総和、その時間累積としてのキリスト教に固有な歴史性が、「見いだされ、理解され、書き記されることが、可能となるであろう」というところにあった。
 しかし、1968年に「第三項の神学」・「聖霊の神学」を論じたバルトは、次のように書いた――「わたしはこうした将来を経験することはないであろう。ましてやいわんや、こうした将来をもたらしたり、その仕事に着手したりすることはできないのである」、と。このバルト自身の言葉からすれば、「Wikipedia」作者が「『教会教義学』が……未完である事情は単に年齢の問題だけではなく……」と書いているのであるが、やはりバルトにとってその一番大きな原因は、バルト自身は意識的年齢においては最後の最後まで「倦み疲れてはならない」と自らに言い聞かせて教会の一つの機能である教義学等の執筆のために尽力しているのだが(『バルトの生涯』。1962年76歳の時に『福音主義神学入門』、1967年81歳の時に『教会教義学W/4 和解論断片』を出版しているのだが)、一回性を本質とする冷酷な自然時間としての生理的年齢の方からやってくるさまざまな限界性に強いられて、『教会教義学 救済論』(聖霊論)に「着手したりすること」はできなかったという点にあると言える。また、「Wikipedia」作者が、「Wikipedia」というメディア的な普遍性や組織性の後光をかぶせて、全くの誤解と曲解のただ中において、バルトは「晩年に自身の出発点である近代神学に回帰していると言える」という「Wikipedia」作者の全く以て出鱈目極まりない原理的な根本的包括的な誤謬の事柄については、先にすでに述べた通りである。
 バルトは、単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第三の存在の仕方である愛に基づく「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊論について、1968年(死去の年)に著わした『シュライエルマッハー選集への後書』で、次のような注意喚起を行っている――「ただ、あまりにもすぐに、誰か才能ある若い男」が、例えば「人間の側から」するルドルフ・ボーレン等々のように、あるいはボーレンという人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的本質が対象化したに過ぎない「神律的相互関係」の概念に依拠して、聖霊と聖霊の言葉を、人間の側の自由事項・裁量事項・決定事項として「人間の側から」実体化した東京神学大学の実践神学者の小泉健のように、「自分はそのために召されているなどと思い込」み勘違いして、「軽薄に書き上げた『聖霊の神学のために』などという小冊子やその類のものを持って路上や市場へ走りこんだりすることのないようにと思う!」、と。また、「誰かが」、「聖霊の神学」を、「(≪「シュラエルマッハーにおける深い問題」性としてある、人間の側の自由事項・裁量事項・決定事項として「人間の側から」論じた、すなわち「聖霊論が人間学であるかの如く」論じたシュラエルマッハーのように≫)『今や人間の側から』もう一度語ることが大切だなどと考えたりすれば、わたしのすばらしい夢がどんなに誤解され(≪曲解され≫)たことになるであろう!」、と。事実、「聖霊論的説教論」も、それを評価する小泉もバルト研究者の佐藤司郎も、表向きは「聖霊」を口にしながらも、結局は「人間の側から」する神と人間、神学と人間学との「共生」・混合・協働・共働を志向し目指して、「人間の側から」・人間学の側から、「人間の経験」の尊重を説き、換言すれば近代主義的な人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍の尊重を説き、さらには中世において成立していた哲学は神学の婢という幻想性に依拠して、すなわち中性的思考に復古・逆行・退行して、佐藤や小泉は、ボーレンという人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的本質が対象化したに過ぎない「聖霊論的出発」が、「神学の優位性を否定することなく」あるいは「神学の優位性を確保しつつ」、「人間学的局面にも」「正当」な「位置を与え得る」あるいは「人間学を正当に評価する位置を与え得る」、また「人間的なるものと、(人間が)なしうることの新しい強調を可能とする」、と述べている(しかし、本当は、ボーレンや小泉や佐藤とは全く違って、バルトのように、われわれ人間の、その類・歴史性と個・現存性の生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所は、ただ単一性・神性・神性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示の場所だけなのである。『教会教義学 神の言葉T/1・2』――聖書によれば、「われわれ人間の失われた非本来的な時間」・世は、「われわれのための神の時間」、イエス・キリストの死と復活の出来事、「イエス・キリストの現臨の出来事」、「イエス・キリストにおける啓示の時間」、「実在の成就された時間」(「使徒行伝一・三」のキリスト復活の40日)、「時間の主の時間」、「本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間」から、「『攻撃』された時間」であり「否定的判決」を受けた「時間」・世である)。包括的に総括して言えば、まさに彼らは、バルト自身の「夢」の事柄を平然と無残にも打ち砕き、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教を志向し目指すことを手放そうとはせず、あくまでも「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」者として、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階で停滞と循環を繰り返しているのである。しかし、近代以降は、そして人間の神化あるいは神の人間化の原理を発見したヘーゲル以降は、自然神学の段階で停滞し循環している限りは、キリスト教信仰・神学・教会の宣教の自立はあり得ないのであって、ただ単にあり得ないだけでなく、必然的に神学は人間学の婢とならざるを得ないのである。このことは、素直に、フォイエルバッハのキリスト教批判、マルクスの共同宗教としてのキリスト教批判、ハイデッガーのブルトマン批判を引き寄せて考えてみれば、その原理的な根本的包括的な批判に耳を傾けてみれば、すぐに分かることなのである。したがって、バルトは、次のように述べているのである――「わたしは警告する! ……第三項の神学を企て、展開するためには、ただ霊的に精神的にきわめてしっかりした基礎を持つ人々、ほんとうに『学識のあるテーベ人』(≪事柄に適った意味において、「ほんとうに」「他人よりすぐれた学識がある」人≫)だけが有用であろう、自分はそれではない……」、このことを包括的に総括して言えば、神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求も、人間的契機の<直接性>も、近代的な人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍も、人間学も、キリストの啓示だけでなくその現にあるがままの人間の人間性・人間理性・意志性・応答責任性・決断能力もという自然神学の段階あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階を、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて、単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにのみ感謝をもって信頼し固執し固着するという立場において(起源的な第一の形態の神の言葉を、教会の宣教における、その思惟と語りにおける「先ず第一義的に優位に立つ原理」・規準・法廷・審判者・支配者とする立場において)、具体的には聖書的啓示証言にのみ信頼し固執し連帯するという立場において(起源的な第一の形態の神の言葉と共に、第二の形態の聖書的啓示証言を、教会の宣教における、その思惟と語りにおける「原理」・規準・法廷・審判者・支配者とする立場において)、包括し止揚し克服して、<非>自然神学の段階へと、<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階へと移行した人々、人だけが、「有用であろう」ということである。またバルトは、『シュライエルマッハー選集への後書』で、次のようにも述べている――「ただ万人を憐み、万人万物を解する神様ばかりが、われわれを憐んで下さる」、「神さまは万人を裁いて、万人を赦され」、「最後の日にやって来て」、「……われわれに、御手を伸ばされる。その時こそ何もかも合点が行く!……誰も彼も合点が行く」、「主よ、汝の王国の来たらんことを」(ドストエフスキー『罪と罰』)という終末論的信仰において、「シュラエルマッハーとの終末論的平和」を求めているとしても、また「最もよく解釈すれば、一種の聖霊の神学というものが、シュライエルマッハーの神学的行動の、彼自身意識するのは困難であったろうが、事実上彼を支配している、正当な関心事であったという可能性を、わたしは予想したいのである」が、先ず以て「わたしが(≪「かなり鋭い、『彼に反対して』という意味を含ん」で、シュライエルマッハーを引き寄せることをしないで「ぬきにして」≫)ローマ書の講解をしていた時には、シュラエルマッハーの眼鏡をかけてはいなかった」し、「彼はわたしにとって、もはや『教父ではなかった』」し、「わたしのシュライエルマッハー研究においても、……『使徒信条』や『ニカイア信条』の確固たる響きを聞き続けていて、(中略)事柄からして、わたしは、シュラエルマッハーに帰ることはできなかった」し、神の人間化あるいは人間の神化という、また神学の人間学化あるいは神学の哲学化という「ヘーゲルの強力な痕跡」を残した「シュライエルマッハーの足跡を辿って歩む人々の隊列(≪例えば、「シュライエルマッハーの真正の弟子」と言える「ブルトマン」等々≫)に加わることは、わたしには不可能であった」し、「わたしは、事柄そのものにおいて、シュライエルマッハーと一致できないのだということを明言した」し、「わたしがシュライエルマッハーを今まで理解した限り、自分は、彼のそれとは全く違った道に踏み込み、それを歩んでいかなければならないと思ったし、今もそう思っている」し、「わたしは、自分にも他人にも明らかなように、明白にシュライエルマッハーの道ではない道を歩んでいる」のである、と。言い換えれば、「(≪わたしは、≫)『森の脇を通り抜け、嫌われ者の小羊は駆けてゆく』と歌われるようにしなければならない」、すなわち(≪わたしは、≫)「大西洋のかなたこなたの実に多くのところから聞かないわけにはいかないように、あわれな新正統主義者、超自然主義者、啓示実証主義者(≪バルトに対する悪意と誤解と曲解に満ちた揶揄した言葉におけるそれ≫)であるわたし」は、「近代神学」、近代主義的神学、自由主義的神学、近代主義的プロテスタント主義的キリスト教信仰・神学・教会の宣教とは全く違う道を、包括的に総括して言えば、すべての自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教とは全く違う道を歩んでいるのである。
 このバルトに、「Wikipedia」作者の言う「近代神学(≪包括的に総括して言えば、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教≫)に回帰している」バルトの姿を見ることができるだろうか、「近代神学」(包括的に総括して言えば、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教)に逆行し復古しているバルトの姿を見ることができるだろうか。

 

 前述したことで肝要な点は、バルト自身の思惟と語りのすべてが、一切の近代主義あるいは一切の近代主義的プロテスタント主義的キリスト教、包括的に総括して言えばカトリックを含めた一切の自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教に対して、起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には第二の形態のそれ)に信頼し固執し連帯したバルト自身のキリスト教信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法および概念構成それ自体において抗し抗し続けているということである。したがって、バルト自身の「夢」である「第三項の神学」・「聖霊の神学」の事柄について言えば、バルト自身は、神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求も、人間的契機の<直接性>も、近代主義的な人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍も、人間学も、キリストの啓示だけでなくその現にあるがままの人間の人間性・人間理性・意志性・応答責任性・決断能力もという自然神学の段階あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階を包括し止揚し克服したところで構成された<非>自然神学あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階における<良質な聖霊論>の構成と展開の不可避性を述べているということである。したがってまた、「Wikipedia」作者が全くの誤解と曲解のただ中で、短絡的に平然と、原理的な根本的包括的な誤謬に、「Wikipedia」というメディア的な普遍性と組織性の後光をかぶせて語っている、バルトは「晩年に自身の出発点である近代神学に回帰」したという全く以て出鱈目極まりない主張は、教会の宣教にとって最も良質な神学をレンガを積み上げるようにして構成し展開したバルト自身の神学を誤解させ・台無しにしてしまうことになるから、絶対に容認することはできないし、決して見過ごすことはできないそれなのである。

 

 さらに続けてもう少しだけ、1968年の『シュライエルマッハー選集への後書』(『神学者カール・バルト』「シュライエルマッハーとわたし」)に即して書いてみよう――バルトは、シュライエルマッハーとの関わりの中で、自問し続けた――(バルトの願望として)「すべてを最もよく解釈すれば、一種の聖霊の神学というものが、シュライエルマッハーの神学的行動」を、「事実上彼を支配している、正当な関心事であったという可能性を、わたしは予想したい」。例えば「絶対依存感情」(敬虔心)の概念に対する「問いに弁証法的に答える」場合、換言すればその概念が、自然神学の段階におけるそれか、それともその段階を包括し止揚し克服した<非>自然神学の段階のそれかという「問いに弁証法的に答える」場合、その概念は、人間の自由な自己意識・思惟・理性の類的機能の働きとして、ある対象を知覚作用により対象化し、その内在化された対象を概念的対象として対象化(概念化作用・内在化された対象の時間化)するという点においては、あるいはまた感情的対象として対象化(内観的作用・内在化された対象の空間化)する感情作用と同じであるという点においては、それは人間学的概念のそれ(自然神学の段階におけるそれ)であるとしても、もしもその概念を自然神学の段階を包括し止揚し克服した<非>自然神学の段階のそれとして、すなわち聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯した「イエス・キリスト自身の霊的現臨またはその力」として根拠づけ得るとすればどうであろうか、という自問である。しかし、いずれにしてもその概念の水準は、フォイエルバッハの原理的な根本的包括的な宗教批判の対象そのものの水準にあるものであり、すなわち包括的に総括して言えば、その概念の水準は、まさに神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求も、人間的契機の<直接性>も、近代的な人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍も、人間学も、キリストの啓示だけでなくその現にあるがままの人間の人間性・人間理性・意志性・応答責任性・決断能力もという自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階の水準にあるものであるから、シュライエルマッハーに対して、バルト自身は、最終的に次のように言わなければならなかったのである――「わたしは、事柄そのものにおいて、シュライエルマッハーと一致できないのだということを明言した(中略)わたしがシュライエルマッハーを今までに理解した限り、自分は、彼のそれとは全く違った道(≪自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の道を包括し止揚し克服した<非>自然神学あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の道≫)に踏みこみ、それをあゆんでいかなければならないと思ったし、今もそう思っているのである」、と。
 西欧近代の・近代主義の洗礼を受けたわれわれ人間は、人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能について認識し自覚しそこに生きており、キリストにあっての神を「『自分の理性や力によっては』全く信じることができ」ず(『福音主義神学入門』)、日々瞬間瞬間キリストにあっての神から遠ざかり遠ざかり続け・キリストにあっての神に背き背き続け・罪を新たな罪を犯し犯し続け、罪と穢れに満ち満ちており、不信仰・無神性・真実の罪のただ中にあり(『福音と律法』)、それ故にそのようなわれわれ人間が、「神の側から」「心が開かれ」・「み言葉を受け入れまた聞くために」は、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証の力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」を必要とするのであり、その時「み言葉の主である」聖霊によって「再生された理性」(「更新された理性」)を必要とするのである。このように、われわれ人間は、この再生・更新された人間の理性により人間的な言語を用いて信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)を、終末論的限界の下で人間的に所有するのである。「聖霊は理性を抑圧しない」、「理性の再生をもたらす」。しかし、この再生・更新された人間の理性であれ、それは、徹頭徹尾「神の理性」では全くなくて、ただ常に「人間の理性」であり続けるのである――「聖霊は、人間精神(≪心、理性・自己意識・思惟、感情、意志≫)と同一ではない」・「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神(≪心、理性・自己意識・思惟、感情、意志≫)の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」(『教義学要綱』)。
 このバルトに、「Wikipedia」作者の言う「近代神学(≪包括的に総括して言えば、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教≫)に回帰している」バルトの姿を見ることができるだろうか、「近代神学」(包括的に総括して言えば、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教)に逆行し復古しているバルトの姿を見ることができるだろうか。