本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

「カール・バルト――Wikipedia」および「新正統主義――Wikipedia」の記述にある、バルトの思想に関する記述内容は、客観的に言って正しいだろうか?(5−1)

「カール・バルト――Wikipedia」および「新正統主義――Wikipedia」の記述にある、バルトの思想に関する記述内容は、客観的に言って正しいだろうか?(5−1)

 

 「Wikipedia」というメディア的な普遍性と組織性の後光を装備した「カール・バルト――Wikipedia」および「新正統主義――Wikipedia」において、教会の宣教にとって最も良質な神学を構成し展開したカール・バルトを、弁証的な区別を包括した同一性においてではなく、すなわちその総体的構造においてではなく、形而上学的に何らかの抽象を施してある一部分を拡大鏡にかけ全体化するという全くの誤解と曲解のただ中で、前者の記述も後者の記述も無理やり「新正統主義」の枠組みの中へと押し込めてしまい、さらには前者の記述は、「『教会教義学』前半」(通俗的な言われ方である後期)の「『キリスト論的集中』は彼の晩年の思想とは異なり」と述べ、「キリストを通じての神啓示が教会を越えて起こる可能性に言及した『教会教義学』最終巻……などでは三位一体の第三位格である聖霊に注目している」とし、聖霊、聖霊なる神に関わる『教会教義学 救済論』が「未完である事情は単に年齢の問題だけではなく」、それは「晩年の書簡(≪下記の【注】を参照≫)の以下の表現」に「うかがわれる」ように、「もしもう一度『教会教義学』を書くなら、今度は聖霊論的に書きたい」ということにあるとし、「また彼は敬虔主義や他の諸宗教にも関心を示すようになった」から、「彼は晩年に自身の出発点である近代神学に回帰していると言えるのである」と断定的に述べているのである。この記述の中でも、特に「また彼は敬虔主義や他の諸宗教にも関心を示すようになった」から、「彼は晩年に自身の出発点である近代神学に回帰していると言える……」と、「Wikipedia」というメディア的な普遍性と組織性の後光をかぶせて全くの誤解と曲解のただ中で断定的に出鱈目極まりない記述をしているその記述については、絶対に容認することはできないし、決して見過ごすことはできない事柄であると判断して、私は、この記事を書くことにした。何故ならば、特に「カール・バルト――Wikipedia」の作者の前述した記述は、<非>自然神学あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教として聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯して教会の宣教にとって最も良質な神学をレンガを積み上げるようにして構成し展開したバルト自身のその神学を、まさに原理的に根本的包括的に台無しにしてしまう誤解と曲解のただ中にある記述でしかないからである。

 

【注】「Wikipedia」作者の言う「晩年の書簡」について
 この記事の内容からして、「Wikipedia」作者の言う「晩年の書簡」というのは、「書簡」というよりも、バルトの「夢」として「第三項の神学」、すなわち「聖霊の神学」を論じたバルト死去の年・1968年の『シュライエルマッハー選集への後書』のことだと思われる。

 

 「カール・バルト――Wikipedia」を読んでみると、この「Wikipedia」作者は、バルトを、弁証法的な区別を包括した同一性においてではなく、すなわちその総体的構造においてではなく、形而上学的に何らかの抽象を施してある一部分を拡大鏡にかけて全体化した通俗的な言われ方である「前期」と「後期」等に二元主義的に分離し切り離して説明することを常にしているように見える。しかし、バルト自身は、そういう二元主義的に分離し切り離された説明の仕方に対して、通俗的な言われ方である「後期」の『神の人間性』(1956年講演、バルト70歳)において、次のように述べている――聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の「神の神性において、また(≪その神の父、子、聖霊という「失われない差異性」の第二の存在の仕方、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて≫)神の神性と共に、ただちにまた神の人間性もわれわれに出会う」・「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異の下で(『ローマ書』)、「神が神であるということがいまだに決定的となっていないような人は、今神の人間性について真実な言葉としてさらに何か言われようとも、決してそれを理解しないであろう」。通俗的な言われ方である「後期」の『神の人間性』における「第二の方向転換」の「神の人間性」の「主文章」化は、通俗的な言われ方である「前期」の『ローマ書』「第二版序言」における「第一の方向転換」の「神の神性」の「主文章」化と対立・分離関係にあるのではなく、その主文章化と副文章化とのベクトル変容は、あくまでもある不可避的な状況(例えば、バルト自身の信仰・神学・教会の宣教における思惟と語りが、ある不可避的な社会構成・支配構成・文明的文化的構成の時代水準)に規定された言表なのである。バルト自身、不可避なある社会構成・支配構成・文明的文化的構成の時代水準・時代状況のただ中で生き生活し喜怒哀楽し思惟し信仰し神学し宣教をしているのであるから、ある時はその一方が「中心部から周辺部へ、強調された主文章からさほど強調されない副文章へ」と退いたりするだけなのである。このような訳で、バルト自身の神学においては、通俗的な言われ方である前期の『ローマ書』と後期の『神の人間性』は、二元主義的に分離させられ切り離されているわけではないのである。言い換えれば、バルト自身は、「Wikipedia」作者とは全く違って、木を見て森を見ないというような形而上学な思惟と語りを決してしないのである。
 因みに、バルトは、次のようにして著作活動をしている。1922年の『ローマ書』――「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を、キリスト教信仰・神学・教会の宣教における「決定的に重要な構成要素」としたバルトの本当の意味での処女作、1927年の『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』、1931年の『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』を経由した1935年の『福音と律法』――主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリスト信仰」、すなわち神の側の真実としてある、客観的現実性としてある、成就と執行としてある、永遠的実在としてある、単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間「イエス・キリスト信ずる信仰」による、「律法の成就」、「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済および平和を、キリスト教信仰・神学・教会の宣教における「決定的に重要な構成要素」とした成熟したバルトの凝縮した著作、なお『教会教義学』に関しては1932年46歳の時『教会教義学T/1 神の言葉の教説』を出版しはじめ、……父なる神に関わる1945年の『教会教義学V/1 創造論』、子なる神に関わる『教会教義学W/1 和解論』、……1959年の『教会教義学W/3 和解論』、1967年81歳の時の『教会教義学W/4 和解論断片』、1968年には「第三項の神学」・「聖霊の神学」についての「夢」を論じた『シュライエルマッハー選集への後書』を出版している。ただ聖霊なる神に関わる『教会教義学X 救済論』は未完に終わった。このバルトは1968年の12月、82歳で死去した)。

 

(1)「Wikipedia」作者は、カール・バルトについて、「その思想は……あるいは新正統主義と呼ばれ」ている、ただ「バルト自身は自らの神学を『神の言葉の神学』と呼んでいる」とだけ書いている。因みに、W・E・ホーダーンは、『現代キリスト教神学入門』で、カール・バルトを、第五章・新正統主義――キルケゴール、エミール・ブルンナー、ブーバーと、第七章・アメリカ正統主義――ラインホルド・ニーバーとの間、第六章において別枠で論じている。
 「その思想は……あるいは新正統主義と呼ばれ」ている・ただ「バルト自身は自らの神学を『神の言葉の神学』と呼んでいる」――これでは、「何らかの抽象で以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」あるいはそれに類する神学(形而上学的な神学)における単なる一般的知識の教示であって、それ故にその場合、「ただ新正統主義と呼ばれ」ている・「バルト自身は自らの神学を『神の言葉の神学』と呼んでいる」という一つの「単なる一般的知識」を得られるだけであって、それ故にその場合、その通俗的な一つの「単なる一般的知識」は、キリスト教的な信仰・神学・教会の宣教における思想の問題にとって、すなわち包括的に総括して言えば、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階を、単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方、起源的な第一の形態の神の言葉、イエス・キリスト自身(具体的には、その第二の形態であるその最初の直接的な第一の預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言のそれ)を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、絶えず繰り返しそれに聞き教えられることを通して教えるという仕方の自らの立場において、包括し止揚し克服して、<非>自然神学あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階へと移行するという思想の問題にとって、全く何の役にも立たない水準の知識でしかないものなのである。

 

(2)「Wikipedia」作者は、弁証法的な区別を包括した同一性においてではなく、すなわちその総体的構造においてではなく、バルトを、形而上学的に通俗的な言われ方である前期と後期に二元主義的に分離し切り離してしまって、「彼の思想の変遷を表す著書として『ローマ書』(≪通俗的な言われ方である前期≫)において神という一般的抽象的言葉を用いたのに反して」、「『教会教義学』前半(≪通俗的な言われ方である後期≫)では、特に倫理問題を扱うにあたり、『神』よりも『イエス・キリスト』という言葉を多く用いるようになり、キリスト論に彼の神学が集中していった(「キリスト論的集中」)」と書いている。
 先ず以て「Wikipedia」作者は、そのことを、バルト自身に対する全くの誤解と曲解のただ中で発言しているのである。何故ならば、バルト自身の『ローマ書』における「神」は、「一般的抽象的言葉」では決してないからである。すなわち、バルト自身にとって神は、「一般的抽象的言葉」における神では決してなく、あくまでも明確に神と人間との無限の質的差異の下におけるキリストにあっての神である。このことは、バルト自身の『ローマ書』「第二版序言」(1922年、「序言」は1921年9月に書かれている)を読んでみれば明々白々のことである――『ローマ書』「第一版序言」(1919年、「序言」は1918年に書かれている)で「パウロはその時代の子としてその時代の人々に語った。けれどもこの事実よりはるかに重要な事柄は、いま一つの事実、すなわち彼は神の国の預言者ならびに使徒としてあらゆる時代のあらゆる人々に語っている、ということである。(中略)聖書の精神は永遠の精神なのである。かつての重大問題は今日もなお重大問題であり、今日の重大問題で単なる偶然や気まぐれでない事柄は、またかつての重大問題と直結している」と書いたバルトは、「第二版序言」で次のように書いている――「『ローマ書』の「理解を志すかぎり、私は文書自体に関する謎はもはやほとんど解消して、ただ主題的内容に関する謎だけが問題となる、というような境域にまで突進しなければならない。そうなれば私は、(≪聖書的啓示証言に全く信頼し固執し連帯しきって、あるいは『説教の本質と実際』によれば「聖書への絶対的信頼」に基づいて≫)自分がその文書の筆者ではないということをほとんど忘れてしまい、私が私の名によって筆者に語らせ、私自身が筆者の名によって語りうると言ってよいほどに筆者をよく理解しおえるわけである」(バルト自身、1968年の『シュライエルマッハー選集への後書』で、次のように述べている――「ほんとうの神学的言語なるものは、自分が語っていることについて知的に知識を得た者の言語であるだけでなく、むしろ実存的 に、すなわち自分が語っている事柄に(≪単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方、神の子、啓示・和解、起源的な第一の形態の神の言葉、完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和そのもの、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにのみ≫)、自分自身の人間的存在において、直接に、つまり逃れることもできない仕方で打たれている人間の言語でしかあり得ないであろう」、と)・「……もし私が『方式』なるものをもっているとすれば、それは、私がキェルケゴールのいわゆる時間と永遠との『無限の質的差異』(≪神と人間との無限の質的差異、神と人間との無限の質的「対立、矛盾、深淵」≫)なるものの否定的および肯定的意味をあくまで固守した、と言うことである(下記の【注1】を参照)。『神は天にいまし、汝は地に在り』。私にとって、この神とこの人間との関係、ないしはこの人間とこの神との関係が聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」・「……私が、パウロはローマ書の中で本当にイエス・キリストのことを語ったのであり、それ以外の何かに語ったのではない」という「仮説」を立てたとして、「もしその仮説が間違っているなら、すなわち本当にパウロが時間と永遠との恒常的危機以外の何かに語っているなら、パウロのテキスト自体が進展してゆくうちに(≪啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である証の力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動によって進展してゆくうちに≫)、私は自ら不条理に陥ることであろう」・「もし人々がパウロの名のもとに、表面はイエス・キリストを説きながら、実は(≪所与の≫)絶対的な相対物や相対的な絶対物(下記の【注2】を参照)から成る全く人智学的混沌を説くとすれば、それこそパウロを歪めるというものである」・「人々はテキストに対する私のこの態度を聖書主義と呼んだ」・この「私について指摘しうる『聖書主義』なるものは、『聖書は良書であり、聖書の思想を少なくとも自分自身の思想と同じほど真剣に扱う人はそれだけ利益を受ける』という先入観(下記の【注3】を参照)を私がもっているということに帰する、と言ってよかろう」(因みに、作家・太宰治は『正義と微笑』で、次のように書いている――「聖書を読みたくなって来た。こんな、たまらなく、いらいらしている時には、聖書に限るようである。他の本が、みな無味乾燥でひとつも頭にはいって来ない時でも、聖書の言葉だけは、胸にひびく。本当に、たいしたものだ」)・「さて、この私のローマ書注解の内容について言えば、私は、三年前と同様、今もいわゆる福音の全体ということよりも真の福音ということを問題にした、ということをみずから認める。けだし、私見によれば、福音の全体に至る道は真の福音の把握を通じてよりほかになく、しかもこの真の福音はいまだ何人にもその全側面を同時に顕わしたことがないからである」(それ故に、われわれは、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」、すなわちキリスト教に固有な類・歴史性の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉を、具体的にはその第二の形態の聖書的啓示証言のそれを、第三の形態に属する全く人間的な教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、絶えず繰り返しそれに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋なキリストの福音、純粋なキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」、すなわちキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令、換言すれば純粋なキリストの福音をすべての人々が現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指していかなければならないのである、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリストをのみ主・頭とする「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指していかなければならないのである)、と。
 このような訳で、私は、この「Wikipedia」作者が、本当に『ローマ書』「第二版序言」を精読し理解しているのであろうかという疑問が湧いてくるのである。というのは、私は、『希望の資本論』(池上彰×佐藤優)で、佐藤優が、マルクスの『資本論』「第一版の序文」を精読せずにあるいは理解せずに、それ故に全くの誤解と曲解のただ中で、「実はマルクスの『資本論』のもう一つのポイントは、どうやって資本主義が出てくるかということで、資本主義とは実は偶然からできている」というような原理的な根本的包括的な誤謬にメディア的な普遍性と組織性の後光をかぶせて、全く頓珍漢な発言をしていた時、キリスト教的著述家のどうしようもない<水準の低さ>と<質の悪さ>を見せつけられたからである。この頓珍漢な発言をする佐藤とは全く違って、マルクス自身は、『資本論』「第一版の序文」で、次のように述べているのである――「私の立場は、経済的な社会構造の発展を自然史的過程として理解しようとするものであって、決して個人を社会的諸関係に責任あるものとしようとするものではない。個人は、主観的にはどんなに諸関係を超越していると考えていても、社会的には畢竟その造出物にほかならないものであるからである」、と。すなわち、マルクス自身は、経済社会構成の拡大高度化は、それ故に人類史における西欧近代における資本主義というものは、自然史的必然だと言っているのである(換言すればマルクス自身は、人類史の西欧近代における経済社会構成の資本主義化は、偶然ではなくて、それは、自然史の一部である人類史の自然史的過程における自然史的必然であると言っているのである)。自然史の一部である人類史の自然史的過程における経済社会構成の拡大・高度化、科学・技術の進歩・発達、それら知識の発達・増大、人間の感覚的部分の発達、生活の利便性の向上は自然史的必然であって、それ故にそれは、法的制度的政策的にある程度は制御できるとしても、停滞や後退や逆行させたりすることはできないのである。ただ、そこから疎外された・外化された、疎外される・外化される観念諸形態は、それらが観念を本質としているが故に、停滞や後退や逆行したりすることがあり得るのである。

 

【注1】「キェルケゴールのいわゆる時間と永遠との『無限の質的差異』なるもの否定的および肯定的意味」について――
 バルトは、キルケゴールの質的弁証法から、「キルケゴール・ルネサンス」に参与したその内容からしてバルトの本当の処女作とも言える『ローマ書』から『神の人間性』や『教会教義学W/4』や『シュライエルマッハー選集への後書』に至るまで持ち続けた、神と人間との無限の質的差異(これは、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」)の一貫性を獲得したのである。そのキルケゴールは、信仰としても、文学としても、思想としても、「あまりにも安っぽいキリスト教的性格と教会的性格」に対して、「福音の絶対的要求と、自分自身の決断(≪実存的決断≫)において福音に従う必要」を主張した。このことが、「キェルケゴールのいわゆる時間と永遠との『無限の質的差異』なるものの……肯定的意味」である。しかし、バルトには、現存する社会構成・支配構成・文明的文化的構成の時代的水準のただ中で生き・生活し・喜怒哀楽し・思惟し・意志し・信仰し・神学し・宣教する牧師、神学者、信仰・神学・教会の宣教における思想家として、純粋な福音への奉仕におけるその内容とその方法の問題が浮上したのである――すなわち、神の「自由な恵みの福音を宣べ伝え、説き明かすことが問題である」とするならば、バルトには、「神の民、教団、教会」および「その奉仕と宣教の任務」ならびに人間存在の三様式における不可避的な「その政治的・社会的課題」を後景へと退け、「単独者」と「個人救済主義」を前景に押し出し強調するキルケゴールの言説をそのまま受け入れることはできなかったのである。このことが、「キェルケゴールのいわゆる時間と永遠との『無限の質的差異』なるものの……否定的意味」である。バルトは、不可避的なこの問いを自らに課したその時点で、信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法および概念構成それ自体において、ルターの宗教改革・シュライエルマッハーの神学・キルケゴールの敬虔主義等々にもある神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという「人間中心的=キリスト教的思考」を、近代主義的プロテスタント主義的キリスト教的な思惟と語りを、すなわち包括的に総括して言えば、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階を包括し止揚し克服するために、『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』へと向かい、またその内容からしてバルトの本当の成熟の書と言える『福音と律法』へと向かったのである(吉本隆明も評価していた文芸批評家でもあった井上良雄が、『福音と律法』の訳者「あとがき」で「決して平易とは言い得ない」が、「この難解さは、ここに論じられている事柄そのものの重さとこれを論じるバルトの洞察から来て」おり、「この難解さに堪えて読まれる人には、それに報いて余りある喜びが分かたれるにちがいない」ということは、本当のことなのである。この書は、その内容そのものが、徹頭徹尾、ただイエス・キリストによる救いの喜びに充たされる説教を聞いているような文体になっている)。何故ならば、キルケゴールの世界にもある自然神学的な側面は超えられるべき対象であるから、キルケゴールの世界は、あくまでも「料理のための『ほんの少しの肉桂』であって、教会やすべての人びとに勧める料理そのもの、すなわち正当な神学の課題ではない」からである、換言すればキルケゴールの世界は、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉に、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言のそれに信頼し固執し連帯して純粋なキリストの福音、純粋なキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」――すなわちキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請を志向し目指すという「正当な神学の課題」を、そのようにしてイエス・キリストをのみ主・頭とする「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すという「正当な神学の課題」を持っていないからである≫)。「感謝」とは、「応答のこと」であり、神の側の真実として、神の側から一方的に与えられる、「神の恵み」、「求めずしてあたえられる」「憐れみ」、「無償で授けられる賜物に対する」「応答」、「気持ち」、「態度」のことである。したがって、この「感謝の応答」は、われわれを、あの「神への愛」と「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」という連関と循環の中で、純粋なキリストの福音をすべての人々が現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えへと向かわしめるのである。また、イエス・キリストにおける神のもとにある慰めは、「キリスト者」の「慰め」であると同時に、「全世界の慰め」である(『カール・バルト著作集4』「感謝と表敬――デンマークとの接触」・「キルケゴールと神学者」)。

 

【注2】「表面はイエス・キリストを説きながら、実は(≪所与の≫)絶対的な相対物や相対的な絶対物から成る全く人智学的混沌を説くとすれば、それこそパウロを歪めるというものである」というバルトの為している批判的な指摘について
 バルトは、『カント』で、「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰である」とした「カントは、本源的であるゆえに、すでに前もってわれわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で、アウグスティヌスの教説と一致する」と述べているように、人智学における「絶対的な相対物や相対的な絶対物」も、人間の意識に内在する<所与>のそれを信仰するところの「宗教」である。近代の宗教的形態は、科学を絶対化する(信仰する)科学<主義>である。バルトは、『教義学要綱』で、次のように述べている――「人間が人間自身の力によって、自然的な能力・その悟性・その感情に応じて、認識しうるもの、それは精々、最高の実在・絶対的存在のようなもの・絶対に自由な力の精髄・一切事物を超越する存在の精髄であろう。このような絶対最高の存在・このような究極最深のもの・このような『物自体』は、(≪人智学における人間の自己意識・理性・思惟が恣意的独善的に対象化したに過ぎない「絶対的な相対物や相対的な絶対物」ではあり得ても、神と人間との無限の質的差異の下におけるキリストにあっての≫)神とは何の関りもない」。

 

【注3】バルトの「聖書主義」について
 バルト自身の「聖書主義」は、『教会教義学 神の言葉T/1・2』の言葉に即して言えば、自らの思惟と語り(第三の形態に属する全く人間的な教会の思惟と語り)における「先ず第一義的に優位に立つ原理」・規準・法廷・審判者・支配者を、起源的な第一の形態の神の言葉、「啓示の実在」そのもの、啓示の客観的現実性そのものであるイエス・キリストにのみ置くという立場である、それと共に具体的には、その最初の直接的な第一の預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」である第二の形態の聖書(啓示の「概念の実在」、啓示の概念の客観的現実性)に置くという立場である。また、『説教の本質と実際』に即して言えば、次のように言うことができる――第三の形態に属する全く人間的な教会の「説教の無条件的な出発点と目的」は、「新約聖書において聞く啓示、和解」、イエス・キリストの死と復活の出来事の啓示、その内容である「インマルエル、神われらと共にいます」である。したがって、われわれは、「キリストからすべてのことを期待しなければならない」。このことが復活したキリストの再臨、完成としての「終末論」である。したがってまた、「キリスト教的終末論とは、キリスト論にほかならない」。キリストの復活から復活したキリストの再臨、完成、終末までの聖霊の時代において説教は、「感謝と確信と共に期待の態度と行動」である。「第一の来臨(≪イエス・キリストの誕生・死と復活≫)と第二の来臨(≪復活したキリストの再臨、終末、完成≫)との間(≪の聖霊の時代≫)に、説教と、また同時にキリスト者の生活全体」とがある。このような訳で、説教は、説教者の自由事項や裁量事項や独占事項ではないのであるから、自分自身の言葉から由来すべきではなく、「どのような場合であれ、その形式と内容において聖書への絶対的信頼」に基づく、「聖書講解であることの義務」を負っているという立場が、バルトにおける聖書主義である。したがって、「説教者が、実際の生活にはなお多くのことが必要であって聖書は生きるために必要なことを言いつくしていない(≪すなわち、近代主義的な人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍、情報が不足している≫)と考えるようなことがある限り、彼は、この信頼、信仰を持っておらず、真に信仰によって生き」ようとしていないということである。したがってまた、イエス・キリストにおける福音は、「われわれの思考や心情の中にあるのではなく」、第二の形態の神の言葉である啓示の「概念の実在」(啓示の概念の客観的現実性)としての「聖書の中にある」から、われわれは、われわれの「思想」、われわれの「最高の習慣、最良の見解、そのようなものいっさい」を、聖書に「聴従」することの前で、「放棄」しなければならないのである。その「聖書は(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて≫)神の言葉となる」(信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰となる)ところで、すなわち神の側からするこのような出来事を通して「聖書は神の言葉なのである」。『教会教義学 神の言葉T/1・2』によれば、教会の一つの機能である教会教義学は、「人間的な問いの中で、人間的な問いと共に、人間的な問いのもとで、……神的な答えについて語る」ことができるのであるが、しかし、その思惟と語りが「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項」なのであって、われわれ人間の決定事項・自由事項・裁量事項ではないのである。したがって、教会の一つの機能である教義学の在り方は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対して、神が応じて下さるということに基づいて(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて≫)成立」しているのである。教会の一つの機能である教義学は、聖書に「聴従」するために、起源的な第一の形態の神の言葉自身の「出来事」の自己「運動」の中で、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて、聖書によって導かれなければならないのである」。説教者にとって、「彼らに語らなければならない彼ら自身に関する真理」は、「神がすでに為した」「わたしの前にいるこの人々のために、キリストは死に、甦られた」――神、罪深きわれらと共に、ということである。そこにおいて、説教は、「会衆」、「特定の場所と時における全く特定の現在の人間」の生活、「彼らの生活がイエス・キリストの中に根拠と希望とを持つことを語ること」である。その場合、説教者は、「ただ聴衆にだけ目をとめてはならない」のであって、全き自由の神の側からする、神の側の真実としてある、先行する神と人間との架橋であり、信と不信の架橋である、主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」、すなわちイエス・キリストが信ずる信仰による「神の義、神の子の義、神自身の義」そのものであるイエス・キリストとの連続性において、その現にあるがままの現実的な人間存在すべてにも眼をとめて語らなければならないのである、また「『貧しい、低きにいる民』に下っていかなければならない」のである。何故ならば、イエス・キリストにおいては、個と共同性は近代主義的に逆立し対立するのではなく、正立し平和であり、単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける「『神われらと共に』という言葉」、「キリスト教使信の中心」は、教会共同性・教団共同性のような「狭い共同体」から「その事実をまだ知らぬ」「すべての他の人々」、「広い共同体」に向かっての運動において、「完全に開かれている」からである(『カール・バルト教会教義学 和解論T/ 1』「和解論の対象と問題」)。また、説教者は、説教として語る場合、東京神学大学の実践神学者の小泉健のように聖霊や聖霊の言葉を「勝手気ままに」恣意的独善的に<実体化>することは許されないし、それ故に聖霊や聖霊の言葉を恣意的独善的に説教者の自由事項・裁量事項・決定事項にすることも許されないのである。すなわち、「聖霊が(あるいは別の霊であっても)言葉を吹きこむこととか、あるいは一つの構想を持っていることなどあてにしてはならない」、「説教は語ることであるが、……一語一語準備し、書き記しておいたもののこと」である。また、説教者における会衆の状況認識について言えば、現在、高度情報社会下において会衆はすべて知的化しており、「その生活を十分に知っており、実際のところ、牧師によって手ほどきされる必要はない」のである。