6−1.『教会教義学 神の言葉T/2 神の啓示<上> 三位一体の神』(邦訳195-223頁、その2-1)
6−1.『教会教義学 神の言葉T/2 神の啓示<上> 三位一体の神』(邦訳195-223頁、その2-1)
再推敲・再整理版です。
この『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中> 言葉の受肉』について、さらに推敲し整理した論稿が下記のJimdofreeホームページにあります。
https://karl-barth-studies3.jimdofree.com/
このJimdoホームページの論稿は、現在のホームページにある論稿よりも文章構成に関しても内容に関しても、さらに推敲され整理されており断然読み易く・分かり易くなっていますから、最初からをこのJimdoホームページの論稿を読んだ方が大切な時間を有効に使えます。
(1)和解主としての神
バルトは、次のように定式化している。
ご自身の中での神としての、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての「ひとりの神は、聖書によれば」、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方――すなわち啓示者である父なる神の子としての「啓示ないし和解の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉そのもの、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて「和解主として、換言すれば、われわれの、彼に対する敵意のまっただ中において主として、ご自身を啓示し給う。彼はかかるものとしてわれわれのところに来られた神の子あるいはわれわれに対して語られた神の言葉である」。何故ならば、「彼は、前もってご自身の中において、父なる神の子として、あるいは言葉として、そのような方であるから」(「三位相互内在性」における内在的な<起源的・根源的な>な第一の存在の仕方である父は、「子として自分を自分から区別するし自己啓示する神として自分自身が根源である」、それ故にその区別された第二の存在の仕方である子は「父が根源」であり、愛に基づく父と子の交わりとしての第三の存在の仕方である聖霊は「父と子が根源である」から。したがって、これが、「三位相互内在性」――その内在性における神の本質の「単一性と区別」、神の本質の区別を包括した単一性と言うことができる。「われわれは、神の人格性という概念を取り上げる時、……人が神の三位一体に関する教説の中ででも最近に至るまで(大多数の人たちによって!)神の人格(Personen)について語ってきたことから生じる不明瞭さを意識しなければならない」――すなわち、「神の人格(Personen)」という概念(複数形)から生じる「三つの神的我」、「三つの対象」、「三神」という概念像を喚起させる「不明瞭さを意識しなければならない」。したがって、「われわれは、三位一体論と取り組んだ際」、三位一体の「事柄を言い表す」時、この「『人格(Personen)』という概念」(複数形)――すなわち「三つの神的我」という概念を「用いることをやめることに賛成する立場をとった」のである。何故ならば、この「『人格(Personen)』という概念」は、「古典的な神学全体」においては、「人が今日『人格(Person)』という概念(≪「他との関係なしにそれ自身で存在している」近代的な「個体」概念≫)によって理解するのを常としているような方向では決して理解されたり解釈されたりすることはなかったからである」、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を教会の宣教の原理・規準・法廷・審判者・支配者とした「キリスト教会は、神の中に三つの人格」、「三つの神的我」が、それ故に「三重のわれ、三重の主体」、「三神論」、「三重の対象」の「意味で三つの人格性が存在しているということを決して教えたことはなかった」からである。キリストにあっての神は、「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」において、「ご自身の中で父・子・聖霊であることによって、ご自身の中で生き給う方、愛し給う方」、それ故に「ただ一人の方であり」、「また常に、われわれは、神を(≪われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における三つの存在の仕方――すなわち≫)父・子・聖霊として認識することによって、神をわれわれを愛する方として」、換言すれば神の愛の行為の出来事としての神の存在として、それ故に「われわれに出会い、われわれに対して、汝と呼びかけ、働きかけ給う一人の方として、認識するのである」。先行する神が、それに後続するわれわれが、「人格性として言い表すことのできる者」とすれば、それは、ご自身の中での神としての「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての「神ご自身の中および(≪われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における三つの存在の仕方における≫)その業の中での父・子・聖霊の共存の中での三位一体性<全体>の中において」であって、「決して個々の存在様式それ自体の中」においてではない。「三重ではなく、三度」、「三位相互内在性の中で、一人の三位一体の神が、人格性であり給う」のである。「神の三つの顔があるのではなく、一つの神の顔が、神の三つの意志ではなく、ただ一つの神の意志が、神の三つの義があるのではなく、ただ一つの神の義が、神の三つの言葉と業があるのではなく、ただ一つの神の言葉と業があるのである」。「徹頭徹尾、(≪内在的な≫)一人の神が、われわれに対して、(≪われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方である≫)イエス・キリストの中で啓示されているのであり、徹頭徹尾、同じ一人の神が、ご自身の中でも神であり給う)。
ヨハネ1・14の「言葉は肉となった」という新約聖書の中心的命題、そのヨハネの「言葉」は、ご自身の中での神としての「失われない単一性」を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の「神であり給う言葉が(≪すなわち、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方である起源的な第一の形態の神の言葉が≫)人間となった」ということであって、「決して(≪その「失われない単一性」を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の≫)神性それ自体が人間となったのではない」のである。ご自身の中での神としての「失われない単一性」を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神は、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における「神われらと共にいます」(インマヌエル)という第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおいて、自己啓示・自己顕現されたのである。したがって、この自己啓示は、その外在的な第二の存在の仕方である「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」(イエス・キリストの名)において、その聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする内在的な「三位相互内在性」における三位一体の神の認識と信仰(啓示認識・啓示信仰)を要求する啓示である。まことの神にしてまことの人間イエス・キリストは、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」。
さて、新約聖書は、「主という賓辞の中で表現されているような、まことの、実在の神性」を、「先ず第一に、イエスとは別の方に帰している」。すなわち、「子としてのイエスが主であることは明らかに、ただ、父なる神が主であることを現わす現われ、行使、適用である」。「この父なる神を代表すること、それがイエスに帰せられた神性の本質である」。言い換えれば、ご自身の中での神としての聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の<起源的・根源的>な第一の存在の仕方である父は、「子として自分を自分から区別するし自己啓示する神として自分自身が根源」であり、それ故にその区別された第二の存在の仕方である子は「父が根源」であるから、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方である「子としてのイエスが主であることは明らかに、ただ、父なる神が主であることを現わす現われ、行使、適用である」。「この父なる神を代表すること、それがイエスに帰せられた神性の本質である」。したがって、ご自身の中での神としての「失われない単一性」を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の「子と霊は父とともにひとつの本質である(≪「失われない単一性」を本質とする≫)」。前述したように、「神的本質のこの単一性(≪「失われない単一性」≫)の中で子は父から、霊は父と子からであり、他方、父は自分自身以外の何ものからでもない」。何故ならば、自己還帰する対自的であって対他的、すなわち完全に自由なその<起源・根源>としての父(「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする内在的な起源的・根源的な第一の存在の仕方)は、「子として自分を自分から区別するし自己啓示する神として自分自身が根源である」からである、それ故にその区別された子(「失われない単一性」を本質とする内在的な第二の存在の仕方)は「父が根源」であり、「父なる神と子なる神の愛の霊」としての聖霊(「失われない単一性」を本質とする内在的な第三の存在の仕方)は「父と子が根源」であるからである。それからまた、この三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における三つの存在の仕方(性質、働き、業、行為、行動、活動)は、起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造主、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉・和解主、愛に基づく父と子の交わりとしての第三の存在の仕方である聖霊――啓示されてあること・三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事であるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観性可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)・救済主なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体としてのそれである。
われわれは、「聖書の証言に従えば」、「父の啓示」が、「終始、決して」「仲介者のイエス・キリスト」(「子なる神」)から「抽象され〔切り離され〕ていない、ということを見た」。すなわち、われわれは、それが、その一面だけを抽象して、換言すればその一面だけを拡大鏡にかけて全体化して語られてはいないということを見た。言い換えれば、「聖書的証言の本来的テーマ」は、ご自身の中での神としての聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの名」の「神性」、「子なる神、キリストの神性」を問う問いの中に、「父を問う問い」と「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊を問う問いとが包括されている点にある。「失われない単一性」を本質とする「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」は、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方である「イエス・キリストの名」において、自己啓示・自己顕現したのである。言い換えれば、ご自身の中での神としての内在的な「失われない単一性」・「神性」・「永遠性」を本質とする「自己を覆い隠す」・隠蔽性、秘義性、「聖性」において存在する神が、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方(「イエス・キリストの名」)において自己啓示・自己顕現したのである。したがって、このキリストにあっての神の自己啓示は、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方である「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」――すなわち「イエス・キリストの名」(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)において、ご自身の中での神としての聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の認識と信仰(啓示認識・啓示信仰)を要求する啓示なのである。まことの神にしてまことの人間イエス・キリストは、「まさにアラワサレタ神こそが隠サレタ神である」。このような訳で、「われわれは父としての神の概念」を、「仲介者のイエス・キリスト」から、決して切り離してはならないということが啓示認識・啓示信仰の前提である。キリスト教に固有な神は、「父であることを永遠の父であることとして理解しなければならない」。すなわち、「父であること」を、ご自身の中での神としての「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の<起源・根源>としての父であることとして理解しなければならない。何故ならば、自己還帰する対自的であって対他的、すなわち完全に自由なその<起源・根源>としての父(「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする内在的な起源的・根源的な第一の存在の仕方)は、「子として自分を自分から区別するし自己啓示する神として自分自身が根源である」からである、それ故にその区別された子(「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする内在的な第二の存在の仕方)は「父が根源」であり、「父なる神と子なる神の愛の霊」としての聖霊(「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする内在的な第三の存在の仕方)は「父と子が根源」であるからである(「三位相互内在性」)。
このような訳で、聖書的啓示証言において、ご自身の中での神としての「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての「子が父と一つであることが、したがって、イエス・キリストの神性が、決定的な、本来的な、本質的な、一つである、および神性であるとして理解されるべきであるなら、われわれは……三位一体教義に従わなければならないであろうことが、はじめから期待されているのである」。聖書的啓示証言において、キリストにあっての神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示する。したがって、この啓示が、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者とした教会の宣教の<客観的な>信仰告白および教義である三位一体論の根拠である。したがって、「イエスは主である」――この主は、「ヘレニズム的エジプト」の「神的な世界支配者の称号」のことではない、「ローマ皇帝崇拝における皇帝の称号」等のことではない。「聖書の主題であり、同時に哲学(≪人間学≫)の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下で語られている(『ローマ書』)、「主」、である。すなわち、その啓示認識・啓示信仰は、「原始教会と、パレスチナおよびヘレニズム世界の会堂との密接な関連性を考慮に入れ」た「旧約聖書の神の名、ヤハウェ」、「旧約聖書において、……人間に啓示されたヤハウェ」の「翻訳」としての「主」である。その名は、「その中で、彼らの言葉と業全体が演じられるべき(コロサイ3・17)場所……領域である……。それは正確に、旧約聖書においてヤハウェの名がもっているのと同じ包括的で、決定的な意味である」。「神は、すべての名にまさる名を彼に賜わった(ピリピ3・17)」。イエス・キリストにおける神の外在的な第二の存在の仕方(働き、業)は、「言葉」と「行為」の相互規定的な総体的構造である「行為言語」としてある(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事としてある)。したがって、ブルトマンの『イエス』の「限界」(問題性)は、「イエス」を「イエスの言葉から」「一面的に組み立てている」点に、その抽象的な思惟と語りに、すなわち「行為言語」を「無視してしまっている」点にあるのである。
さて、新約聖書においては、イエスに、「メシヤ・キリストの称号、人の子の称号、神の子の称号」が帰せられている。しかし、このイエスに帰せられた「神の子」の称号は、「古代オリエント」における「国王の……名称」とは異なっている。すなわち、それは、「存在するすべてのはじめに、(≪ご自身の中での神としての「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての≫)神と共に、神に属しつつ、したがって、みずから神であり、本性からして神であり(ヨハネ1・1)、それを通して」、「神が、存在するすべてのものを存在と〔現〕存在の中へと呼び給う(ヨハネ1・3)ところの言葉と同一である(≪すなわち、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、啓示者である父なる神の子としての「啓示ないし和解の実在」、起源的な第一の形態の神の言葉と同一である≫)」。このイエスは、「彼を見る者は、父を見るのである(ヨハネ14・9)」、「彼は……初めであり、終わりである(黙22・13、なお1・8、17を比較せよ)」、彼は、「今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者であり、きのうも、きょうも、いつまでも変わることがない方(ヘブル13・8)である」、「神は彼によってもろもろの世界を造られた(ヘブル1・2)」、「彼はすべてのものの主(使徒行伝10・36)」、「すべてのものはわたしの父によってわたしにゆだねられた……!(マタイ11・27)」、「万物は言葉によって成った。成ったもので、言葉によらずに成ったものは何一つなかった(ヨハネ1・3)」。したがって「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示の場所は、われわれ人間の、その類と歴史性(人間の類の時間性)――個と現存性(この時間性、個体史、自己史)との生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所なのである。『証人としてのキリスト者』で、バルトは、最終的に離脱した宗教的社会主義における「そこでの人間の困窮と人間に対する助けとが、聖書が理解しているほどには、真剣に理解されておらず、深く理解されていなかった」と述べている。宗教的社会主義は、現在的問題を、すなわち現在を止揚する問題を、その過渡的課題と究極的課題との全体性において明確に提起する往還<思想>を持っていなかっただけでなく、次のような問題を認識し自覚していなかったのである。したがって、バルトは、宗教的社会主義の体験の思想化を介して次のように述べている――「ドストエフスキーの書いたあの大審問官は、神と人間に対して、疑いもなく善意をいだいていたのであるが、彼が神と人間に仕えようと願ったのは、ただ彼の善意(≪その人間の人間的理性や人間的欲求やが対象化した「救いの計画と救いの方法」、平和の計画と平和の方法≫)によってに過ぎなかった。したがって、彼の奉仕は、最も洗練された支配行為に過ぎなかったのである。神と人間についての独断的な観念に基づく独断的に考え出された救いの計画と救いの方法(≪平和の計画と平和の方法≫)が支配するところ、そのようなところでは、その意図がたとえどのように心から善いものであり、敬虔なものであっても、神に対しても人間に対しても、真に奉仕が行われることはないであろう。またそのようなところには、教会は存在しないのである。そのような救いの計画と救いの方法(≪平和の計画と平和の方法≫)の独断性が、神に余りに僅かしか信頼せず、人間に余りに多く信頼するという点に現われるということは、疑いない」(『啓示・教会・神学』)。
「イエスは主である」、「あなたこそ、生ける神の子キリストです(マタイ16・16)」――このことは、イエス・キリストは「神性」を本質とするということである。この「キリストの神性」は、神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>と共に、人間中心主義的な人間の神化あるいは神の人間化の原理を発見したヘーゲル哲学、またその「強力な痕跡」を持つシュライエルマッハーやブルトマンやモルトマン等、また一切の近代主義、近代主義的プロテスタント主義的キリスト教、総括的言えばローマ・カトリックを含めた一切の自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教に抗することができるところのキリスト教に固有な信仰・神学・教会の宣教における<思想的武器>である。近代主義的プロテスタント主義的神学あるいは近代主義的プロテスタント主義的キリスト教会が、「キリストの永遠のまことの神性の告白」を信用しない場合、それは、「視覚的錯覚」あるいは人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍に依拠しているからである。この時、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方(働き、業、行為)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける「和解」に関して言えば、「赦す神」が人間に内在しなければならないことになり、その認識自体が「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」自然神学的な思弁でしかないものなのである。第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を教会の宣教、その一つの機能としての神学、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とはしないところの、そのような認識方法、そのような概念構成においては、イエス・キリストは、「下からの半神」、「超人」、人間の「最深の本質」、「最高の理想」、「根底」的「真実」的「人間存在」・「ただの人」(八木誠一『イエス』)という単なる「空虚な概念」、「単なる知識」でしかなくなってしまうのである。