カール・バルト(その生涯と神学の総体像)を理解するためのサイト

5.『教会教義学 神の言葉T/2 神の啓示<上> 三位一体の神』(邦訳167−194頁)

5.『教会教義学 神の言葉T/2 神の啓示<上> 三位一体の神』(邦訳167−194頁)
再推敲・再整理版です。
この教会教義学 神の言葉U1 神の啓示 言葉の受肉』についてさらに推敲し整理した論稿が下記のJimdofreeホームページにあります
https://karl-barth-studies3.jimdofree.com/
このJimdoホームページの論稿は、現在のホームページにある論稿よりも文章構成に関しても内容に関しても、さらに推敲され整理されており断然読み易く・分かり易くなっていますから、最初からをこのJimdoホームページの論稿を読んだ方が大切な時間を有効に使えます。

 

 

(1)創造主としての神
 「創造」は、「父なる神に固有ナモノ」であり、そのような方として「父なる神」は「創造主」である。言い換えれば、それは、ご自身の中での神としての「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における三つの存在の仕方(性質、働き、業、行為、行動、活動)、すなわちイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造主、子としてのイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉・和解主、「父なる神と子なる神の愛の霊」である聖霊――啓示されてあること・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済主なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体における創造主である「父なる神に固有ナモノ」、父なる神に固有な行為に関わる。三位一体の根本命題に即して理解すれば、父なる神は、創造主としての神である。神の本質の「単一性と区別」(区別を包括した単一性)の中で、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする起源的な第一の存在の仕方である父は子として「自分を自分から区別するし自己啓示する神」として「自分自身が根源」であり、その区別された第二の存在の仕方である子は「父が根源」であり、愛に基づく父と子の交わりとしての第三の存在の仕方である「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊は「父と子が根源」であるところの内在的な「一神」、「一人の同一なる神」、「三位一体の神」である――このキリストにあっての神は、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における三つの存在の仕方(父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、すなわちその第二の存在の仕方(「和解主」)である子としてのイエス・キリスト自身の中で、起源的な第一の存在の仕方である「創造主」として、「われわれの父として自己啓示する」のであるが、その存在の本質からして「父だけが創造主なのではなく、子と霊も創造主」であり、同様に「父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもある」。このような訳で、「創造された世界」における「神の愛」と「われわれの世界」における「イエス・キリストの事実の中における神の愛」との間には差異がある。すなわち、後者の神の愛は、「まさしく神に対し罪を犯し、負い目を負うことになった人間の失われた世界に対する神の愛」である。すなわち、「和解ないし啓示」は、「創造の継続」や「創造の完成」ではない。この意味は、「和解ないし啓示」は、「失われない差異性」における「第二の存在の仕方」(イエス・キリスト自身)の「新しい神の業」(働き、行為)であるということである。それは、「神的な愛の力」、「和解の力」である。イエス・キリストは、「和解主」として、「創造主」の後に続いて、その「失われない差異性」における「第二の存在の仕方」において「第二の神的行為を遂行」したのである。この「失われない差異性」における存在の仕方の「創造と和解のこの順序」に、「キリスト論的に、父と子の順序、父(≪啓示者・言葉の語り手・創造主≫)と言葉(≪啓示・語り手の言葉・和解主≫)の順序」が対応しており、「和解主としてのイエス・キリスト」は、創造主である父に先行することはできないのであるが、しかしその存在の本質からしては、この存在の仕方における従属的な関係は、その「存在の本質」の差異性を意味しているのではなく、その「存在の仕方」の差異性を意味しているだけなのである。

 

 バルトは、次のように述べている――「神の支配的な名は、旧約聖書においてはヤハウェ、新約聖書においては主(キュリオス)である。(中略)そこで語られている主は、(≪われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における三つの存在の仕方において≫)……この人間の歴史自体のただ中に向かう……」、「聖書の証言の最高点において(中略)ナザレのイエス(≪人間の歴史的形態≫)が主である」(それ故に、イエス・キリストにおける神の自己啓示は、その「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト自身(第二の存在の仕方)において、その存在の本質である「失われない単一性」・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示なのである、「三神」・「三の対象」・「三つの神的我」ではないところの内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の認識と信仰を要求する啓示なのである)。しかし、新約聖書は、この「主という賓辞の中で表現されているような、まことの、実在の神性」を、「先ず第一に、イエスとは別の方に帰している」。したがって、「子としてのイエスが主であることは、明らかに、ただ、なる神が主であることを現わす現われ」、顕現、「行使、適用である。(中略)この父なる神を代表すること、それがイエスに帰せられた神性の本質である」。すなわち、「聖書的証言の本来的テーマ」は、「三位一体の第二の位格」、すなわち内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における「第二の存在の仕方」(業、働き、行為)である「子なる神、キリストの神性」を問う問いの中に、「父を問う問い」と「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊を問う問いとが包括されている点にある。

 

 さて、「聖書の中で主と呼ばれている方を問う問いに答えるに際し、イエスは主である、という告白から出発するのが正しい」とすれば、「主イエス・キリストの父」は、その「イエスを通して」「イエスの身に起こることを通して」、「誰をあるいは何を啓示」しているのか? その答えである誰は、「天の父」であり、「創造主」であるとすれば、それでは「何を啓示」しているのか? それは、「人間存在を徹底的に疑問化すること…廃止する」こと、人間に罪に対する罰としての死(人間を救い生かすための死)を求めることである――キリストにあっての「神(≪聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする起源的な第一の存在の仕方である天の父・父なる神≫)は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けたということ――これが恩寵本来の業である。これこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。彼は全く端的に、信じ給うたのである(ローマ3 ・22、ガラテヤ2 ・16等の「イエス・キリストの信仰」は、明らかに主格的属格として理解されるべきものである)」(『福音と律法』)、「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――(≪人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ≫)一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。(≪したがって、≫)自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(≪すなわち、≫)(中略)信じる者は、自分が――つまり(≪自然的な生来的な≫)『自分の理性や力(≪知力、感情力、悟性力、意志力、自然を内面の原理とした禅的修行等≫)によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』)。

 

 前述したように、「父なる神は、人間の生と死を支配する主である限り、厳格な意味で、われわれの存在の主である」、「われわれの『存在の主』」、「換言すれば、創造主」である「父なる神の意志」は、「われわれの生命意志を絶対的に左右する力を行使」する。「イエスの中で再発見されるのは、……イザヤ書53章の苦難の僕である(使徒行伝8・26以下)。イエスの生涯の歴史は、四つの福音書のいずれにおいても、……死ぬことの歴史と述べられている」、「人間ナザレのイエスの死の彼方に、彼を父なる神の啓示たらしめる光が彼の上に落ちてくるところの場所がある。死人からの復活により、彼は『神の御子と定められた』(ローマ1・4)。イエスを死人のうちからよみがえらせることの中で、父なる神は彼に対し、また彼を通し、行動し給う(ガラテヤ1・1、Tコリント6・14、ローマ4・24、6・4、エペソ1・20)」。「イエスにあってそのようにご自身を啓示し給う方を信者は『アバ、父よ』と呼ぶ(ガラテヤ4・6、ローマ8・15)。マタイ6・9以下の『天にいますわれらの父』、すなわちあなたの『御名』・あなたの『御国』・あなたの『御心』に対するこの三つの願い」は、「新約聖書の脈絡においては」、「われわれに、死ななければならないこと(≪ほんとうは、われわれは救われ生きるためには死ななければならないこと≫)を考え」・認識し・自覚することを「教えてくださいということと同意義のもの」である。このように、「イエスが父として啓示する方は、徹頭徹尾」、人間が救われ生きるためにのみ死を欲するという意味においてであるが、「人間の死において、人間の現実存在の終わりにおいて、認識される」。「父なる神は、われわれの生を、死を通して永遠の生命へと導くために、死を欲し給う……われわれの生が、死を通して永遠の生命へと貫き進むことを欲し給う。父なる神のみ国はこの新しい誕生のことである」。この意味で、復活と死との単一性と区別(復活に包括された死)におけるイエス・キリストの「十字架の死」は、「死において死が、否定において否定が、克服された」それである(否定の対象を否定的に媒介することを通して新しい段階へと移行すること、否定の対象を包括し止揚し克服すること、「問題を明確に提起すことはその問題の解決である」――「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」、すなわち「旧約(≪「神の裁きの啓示」・律法≫)から新約(≪「神の恵みの啓示」・福音≫)へのキリストの十字架でもって終わる古い世(≪・時間≫)は、復活へと向かっている」、このキリストの復活(「成就された時間」)は、「新しい世(≪・時間≫)のはじまりである」)。「十字架の力は……復活であり、生命を失うことの力は生命を得ることである」。「キリストにあって」、「イエス・キリストの父」としての父なる神は、存在的にも認識的にも徹頭徹尾全き自由の創造主なる神(創造の神)である。われわれは、このことを、「三位一体論の根本命題を手にして理解しなければないらない」。何故ならば、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、「啓示ないし和解」の「概念の実在」)およびこの聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とする第三の形態の神の言葉である教会の宣教において神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示されたが故に、この啓示が、教会の宣教の<客観的>な信仰告白および教義である三位一体論の根拠であるからである。

 

永遠なる父
 「神が父であることの永遠性は、父の、子および霊との交わりの永遠性を意味するばかりでなく(≪何故ならば、ご自身の中での神としての「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」であるから≫)、また、父を子および霊と一つにしてしまうことから保護する」、すなわち「父と子をあくまでもそれらの相違性の中で一つであらしめている」――このことは、「聖書の証言……と一致している」。何故ならば、イエス・キリストにおいて自己啓示された神は、先ず以てご自身の中での神としての聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」であるから、「神が父であることの永遠性は、父の、子および霊との交わりの永遠性を意味する」し、それからまたわれわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における三つの存在の仕方(性質、働き、業、行為、行動、活動)、すなわちイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造主、子としてのイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉・和解主、「父なる神と子なる神の愛の霊」としての聖霊――啓示されてあること・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済主なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事において、「父を子および霊と一つにしてしまうことから保護する」からである、すなわち「父と子をあくまでもそれらの相違性の中で一つであらしめている」からである。先にも述べたように、「父は、自分自身の中で父である方として、自己を啓示する」。「この方は、ご自身神であるみ子、イエス・キリストの父」であり、そして子としての「イエス・キリストの父」として、「われわれの父である方」である。そして、「聖霊はみ子の霊であり、それ故、子たる身分を授ける霊である」から、われわれは、「恵みの賜物」である「聖霊を受けることによって」、「イエス・キリストが神の子であるという概念を根拠」として、「神の子供」・「世つぎ」・「神の家族」であり、「『アバ、父よ』と呼ぶ(ローマ八・一五、ガラテヤ四・五)」ことができるし、「和解者が神の子であるが故に、……和解、啓示の受領者たち」は、受領者(われわれ人間)と授与者(キリストにあっての神)との無限の質的差異の下で、「神の子供」なのである。――「わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く」。

 

 このような訳で、キリストにあっての「神は、イエスを通して知られない限り、われわれの父として、創造主として、全く知られない」――この「排他独占性」、すなわちわれわれは、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事その啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で初めて、信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事が与えられるのである。何故ならば、すでに述べたように、「父なる神」は、「イエスの中でのみ、創造主として、したがってわれわれの父として、啓示される」からである。「神は前もってご自身の中で父であり給う」、すなわち神は、前もって、内在的な「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における三位一体の神としてのご自身の中で「父であり給う」。これは、神の存在の本質である「失われない単一性」・神性・永遠性の規定である。このことを念頭に置いて、第三の形態の神の言葉に属する教会における「三位一体教義は、父なる神の位格」・「存在の仕方」について語るのである。父なる神は、創造主としての神(創造の神)、永遠の父である――この「神だけが、ご自身で現にあるところのものとして、したがって彼の永遠の子の永遠の父として、本来的なまた全く適した意味で父と呼ばれることができる方」である。したがって、われわれは、例えば「内被造物界での……父という呼び名は確かに真実である」が、現存するわれわれ人間の父を、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事その啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)に依拠した、信仰の類比・関係の類比を通して、「神の内三位一体的父の名の力と威厳に依存しているとして理解されなければならない」のである。したがって、われわれは、「内被造物界での……父という呼び名は確かに真実である」としても、存在の類比を通して、すなわち現存するわれわれ人間の父に依存して、神と人間との無限の質的差異の下にある創造主なる神としての永遠なる父を理解してはならないのである・理解することはできないのである。何故ならば、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書においては、現存するわれわれ人間の時間・世は、徹頭徹尾、「時間の主の時間」、「実在の成就された時間」、「キリスト復活の四〇日(使徒行伝1・3)」、「イエス・キリストの啓示の時間」、「本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間」・世から「『攻撃』された時間」・世、「『失われた』時間」・世、「否定された時間」・世、「否定的判決の時間」・世、「非本来的な時間」・世であるからである。

 

 さて、「神は神である」――この神は、「ご自身を子の中で創造主として、またわれわれの父として啓示する神である」。「神の内三位一体的な父の名、神が永遠の父であることは、神が神の(それ以外の)ほかの存在の仕方の創始者である神の存在の仕方を表示している」。内在的なご自身の中での神としての神は、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を存在の本質としているから、起源的な父は「子として自分を自分から区別するし自己啓示する神として自分自身が根源」である、すなわち内在的な起源的な第一の存在の仕方である、それ故にその区別された子は「父が根源」である、すなわち第二の存在の仕方である、それ故にまた愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊は「父と子が根源」である(「父ト子ヨリ出ズル」第三の存在の仕方である)、もしもそうでないとしたら存在的にも認識的のも概念的にも矛盾してしまうことになる、キリストにあっての神は徹頭徹尾決して矛盾し給わない(「三位相互内在性」――ここで「父、子、霊の働きの単一性は、……三つの存在の仕方の交わりとして、理解されるべきである」。この神は、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における三つの存在の仕方のその第二の存在の仕方である子の中で「創造主として、われわれの父」として自己啓示する。したがって、その内在的な存在の本質から言えば、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における起源的な第一の存在の仕方である父だけが創造主なのではなく、第二の存在の仕方である子と第三の存在の仕方である霊も創造主であり、同様に起源的な第一の存在の仕方である父も創造主であるばかりでなく、第二の存在の仕方である子に関わる和解主であり、第三の存在の仕方である聖霊に関わる救済主でもある。これらの出来事は、先ず以て全き自由の「神の中での出来事」としてある――ご自身の中での神としての「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての「子と霊は父とともにひとつの本質である」。「神的本質のこの単一性(≪「失われない単一性」≫)の中」で、起源としての、あるいは根拠としての、あるいは内在的な聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする起源的な第一の存在の仕方としての父が区別した、あるいは父が対象化した内在的な第二の存在の仕方としての「子は父からであり」(子は、父を根源とする)、また愛に基づく父と子の交わりとしての、あるいは内在的な第三の存在の仕方としての「父ト子ヨリ出ズル」「霊は父と子からであり」(聖霊は、父と子を根源とする)、「他方、父は自分自身以外の何ものからでもない」(内在的な聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする起源的な第一の存在の仕方としての父は、子として「自分を自分から区別するし自己啓示する神として自分が根源である」、あるいは内在的な自己還帰する対自的であって対他的、自在であって他在、完全に自由な「三位相互内在性」における起源的な第一の存在の仕方である)。