カール・バルト(その生涯と神学の総体像)

11.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」

11.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」
再推敲・再整理版です。

 

(7)「アンセルムスの規則は、……次のようなものである」――ある「命題が、聖書の本文とあるいはその直接的な結果と一致する時には、その命題は確かに絶対的な確実性をもって妥当するのであるが」、「この一致の中では、まだ本来的に(≪第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の一つの機能としての≫)神学的な言説ではない」。「それに対して」、ある神学的な「言説が、本来的に神学的な……命題であるならば」、「換言すれば聖書の本文に対して独立的に形成された命題」、すなわち第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした自らの神学的立場、神学的な言説、概念規定、概念構成であるならば、「その時」、「それが聖書に矛盾しないという事実」が、その神学的な「言説が信頼に値していることについて決定する……」、ちょうど例えばバルトにおける徹頭徹尾神の側の真実としてある主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(ローマ3・22、ガラテヤ2・16等)――すなわち、「イエス・キリストが信じる信仰」による「律法の成就」・完了、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、それ故に成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(救済概念に包括された平和)としての、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした<非>自然神学の段階へと移行したところでの自らの神学的立場、神学的な言説、概念規定、概念構成がそうであるように。このようにして、「独立的に形成された」自らの神学的立場、神学的な言説、概念規定、概念構成は、「聖書に矛盾しないという事実」が、その神学的な「言説が信頼に値していることについて決定する」のである。したがって、「独立的に形成された」神学的な「言説が、聖書に矛盾しているという事実」は、それが「どんなに輝かしい基礎づけがそこにあるとしても、……信頼に値しないものであることについて決定する」のである、ちょうど例えば「新約聖書の釈義に役立つ新しい哲学的な鍵」(人間学的な鍵)を前期ハイデッガーの哲学原理(人間学)に見出しそれを第一次化したブルトマンの神学的立場、神学的な言説、概念規定、概念構成がそうであったように。したがって、当然のことながら、前期と後期の総体を生き思惟したハイデッガー自身から、客観的な正当性と妥当性のある根本的包括的な原理的な「揶揄」・批判をされてしまった――「『今日まさにこのマールブルクでは、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか』」(木田元『ハイデッガーの思想』岩波書店)。

 

 前述したことに「引き続いての知解スルintelligereことの条件」は、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における起源的な第一の形態の神の言葉(「啓示ないし和解の実在」そのもの、イエス・キリスト自身)、それ故に具体的にはそのイエス・キリストによって直接的に唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」(最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、聖書)を、教会の宣教、その一つの機能としての神学、その思惟と語りにおける「原理」・「規準」・「法廷」・「審判者」・「支配者」(バルトはこれらすべての言葉を使っている)として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(ここで「隣人愛」は、キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請のことである)という連関において、「credereそのもの(≪「Credoを信じる信仰自身」、すなわち教会の<客観的>な信仰告白および教義を信ジルこと≫)の実在である」。したがって、「知解にとって」は、前述したような仕方で「正しいことが正しく信じられるということは、徹頭徹尾決定的なことである」。したがってまた、ここで「正しく信じること」は、前述したような仕方で「人間の対応する行為であり、定義からして、神ニ向カウコトであるところの信じることだけである」――「ソレニ向カワナイナラ、ソレヲ信ジルコトハ誰ニトッテモ無益ナコトデアル」。このような訳で、「信仰はただ単にソレヲ信ジルということだけでなく」、「信ズベキコトヲ信ジルコトである。そうでないとしたら、それは、……無益な死んだ信仰である」。

 

 「信仰とその知解は、神の言葉に基づいている……」。全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)に依拠して「神の言葉の賜物について語られるところでは、……それを聞くことの出来事のことも(≪啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊」である聖霊の証しの力において、神のその都度の自由な恵みの決断により常に先行して神語り給うが故に後続して神語り給うことを聞くという出来事のことも≫)共に理解されなければならない」――「ソシテ、コノ畑ノ種ハ神ノ言葉、イヤ言葉デハナク、コトバヲ通シテ把握サレル意味デアル。意味ノナイ声ハ心ノウチニ何モ構築シナイ」。この時、「意味」は、具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音へと向かって「別の言葉で同一のことを言うこと」、「解釈する」ことである。したがって、一般的な人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍に依拠した「存在の類比」を通して「例示する」ことではない。あの「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)に依拠した「信仰の類比」・「関係の類比」を通して純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音へと向かって「別の言葉で同一のことを言うこと」、「解釈する」ことである。

 

 「信仰とその知解は心の事柄である……」。「まさにそれだからこそ、それは意志の事柄である。何故と言って、信じることとその知解の正しさが望まれないところでは、どうして正しい心があるはずがあろう」。われわれは、先に述べたような仕方で、<純粋>な教えとしてのキリストにあっての神キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」という連関においてイエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指さなければならないのである――「心デ望ムヨウニ、私タチハ心デ信ジまた理解スルガ、正シク信ジアルイハ理解シテモ、正シク望マナイ者ヲ、聖霊ハ正シイ心ヲ持ツ者トハ判断シテシナイ。ナゼナラ、正シク信ジマタ理解スルコトハ、正シク意志スルタメニ理性的被造物ニ与エラレテイルノニ、ソノヨウナ者ハ、正シイ信仰ト理解ヲソノタメニ行使シテイナイカラデアル」。「この正しい信仰が存在しないところ、そこでは、また正しい知解もあり得ない」。ここでは、具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者としないところの、「キリストの永遠のまことの神性の告白を信用しない」近代主義的プロテスタント主義的神学の学問性(『教会教義学 神の言葉』)が、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところ」「すべての大学社会の神学」(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)の「学問性が、ちょうど正しいことが信じられないところにおけると同じように、問いに付されているのである」――「ソモソモ、正シイ理解ニ従ッテ正シク意志シナイ者ハ、正シイ理解ヲ持ッテイルトハ言エナイシ」・「シカモ、精神ハ、信仰ト神ノオキテニ対スル従順ナシデ、ヨリ高イモノノ理解ヘト登ルコトガ禁ジラレテイルダケデハナク、善キ良心ノ欠如ハ、時ニ与エラレテイル理解ヲモ除去スル……コトサエアリマス」。

 

 「すべての神学的に答えようとすることと答えることができる」ためには、「神学者自身に向けられた禁欲的な問い」、すなわち神学者(第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の神学者)には「純粋な心、明らかにされた目、子供のような服従、霊にあっての生、聖書からの豊かな養いが必要である」という「問いがよく考慮されなければならない」のである――「ソコデ、マズ心ガ信仰ニヨッテ清メラレナケレバナリマセン。マタ、……主ノオキテヲ順守スルコトニヨリ、マズ眼ガ照ラサレナケレバナリマセン。マタ、……(≪第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示≫)証言ニ対スル謙虚ナ従順ヲ通シテ神ノ子供トナラナケレバナリマセン。……デハ、信仰ノ奥義ヲ非難シ議論スル前ニ、肉ノモノヲアトニシテ、霊ニ従ッテ生キマショウ。(≪第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である≫)聖書ノウチデ、私タチガ従順ヲ通シテ養ウ糧ニヨッテ豊カニ養ワレレバ養ワレルホド、知性ヲ通シテ満足ヲ与エルモノヘト、ヨリ深クヒカレルコトハ真実ダカラデス」。「実在の信仰であるところ」のあの「他律的服従」と「自律的服従」との全体性における「服従に基づいた」信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)であるためには、常に先行する神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」を必要とするということが「よく考慮されなければならない」のである。したがって、具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした「服従の信仰に基づいた神学は、積極的な神学である……」。アンセルムスは、「正しいことを信じることと正しく信じること(そしてまたそれと逆の)この必然的な共存が、そこで知解されるためには、信じられなければならないことを付け加える。何故ならば、ただ信仰(≪「単なる知識」ではないところの、信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事≫)の中でだけ、服従の信仰(≪credere――教会の<客観的>な信仰告白および教義を信ジルこと≫)と教会の信仰(≪Credo――教会の<客観的>な信仰告白および教義≫)のこの共存が経験されることができ、またただその経験の中でだけ、それは知解されることができるからである」――「実にコレコソ、私ノ言ウ『信ジナカッタナラ、理解シナイデアロウ』トイウコトデス。ナゼナラ、信ジナカッタナラ、人ハ体験シナイデショウカラデス、ソシテ体験シナカッタナラ、人ハ分カラナイダロウカラデス」――アンセルムスの「この文章……は、よく知られているように、シュライエルマッヘルの信仰論の表題の頁に、私ハ理解スルタメニ信ジマスと並んで現れているのであるが」、「正しい個人的な服従信仰(≪credere≫)と教会の信仰(≪Credo≫)の間の相関関係の必然性の『体験』について語っており、(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる≫)信仰(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事≫)はこの体験に対し優位な立場に立ちつつ秩序づけられているということを語っている」。

 

 しかし、シュライエルマッハーは、それとは違っている。すなわち、『教会教義学 神の言葉』に即して言えば、ヘーゲルの宗教版である近代主義者のシュライエルマッハーにとって「教会とは、『ただ自由な人間的行為を通して発生し、またただそのような自由な人間的行為を通して存続することのできる共同体』であり、『敬虔性と関連した共同体』である」、またシュライエルマッハーにとって、「信仰も、人間実存の歴史的存在の一つの在り方として理解される」、この神学における人間中心主義的な「近代主義的思惟」は、「人間(≪人間の自由な自己意識・理性・思惟≫)が、誰かによる呼びかけを受けることなしに、(中略)人間がじぶんを相手に自分だけでひとりごとを言っているのを聞く」のである。このことについて、ルートヴィッヒ・フォイエルバッハは、客観的な正当性と妥当性のある根本的包括的な原理的な批判をしている――「人間の内的生活は、自分の類・自分の本質に対する関係における生活である。人間は思惟する、すなわち人間は会話をする、人間は自分自身と話をする。動物は自分以外の他の個体がいなければ類の機能をひとつもはたすことはできない、しかし人間は他人がいなくとも考えるとか話すとかという類的機能……を果たすことができる」・「もし君が無限者を思惟するならば、そのとき君は思惟能力の無限性を思惟し且つ確証しているのである。そして、もし君が無限者を情感するならば、そのとき君は感情能力の無限性を情感し且つ確証しているのである。理性の対象とは自己自身にとって対象的な理性であり、感情の対象とは自己自身にとって対象的な感情である」(『キリスト教の本質』)、と。したがって、近代主義的プロテスタント主義的な信仰・神学・教会の宣教における近代主義的思惟にとって、宣教は、「『教会』と呼ばれる人間的な共同体の一つの必然的な生の表現」となる。言い換えれば、具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者としないが故に、近代主義的プロテスタント主義的な信仰・神学・教会の宣教者たちは、「実際の生活にはなお多くのことが必要であって聖書は生きるために必要なことを言いつくしていない」、聖書には近代主義的な人間の感覚と知識を内容とする経験や情報が不足している、聖書では救済・平和の現在的問題を解決することが不可能である等々と考えると同時に、人間の「精神的な促進のために、自分と彼らに共通な宝庫からくみ取りつつ、この宝庫をさらに豊かにするために」、「自分自身の歴史」と「現在の解釈」を表現しようとする、すなわち恣意的独断的な「自己表現としての宣教」を企てる、換言すれば人間的理性や人間的欲求やによって対象化されたに過ぎない「存在者レベルでの神」信仰(偶像信仰)、「存在者レベルでの神への信仰」・神学・教会の宣教を企てる、総括的に言えば自然的な信仰・神学・教会の宣教を企て目指す。

 

 ここで、かつて近代主義的神学者たちが「『実存的な』思惟の要請でもって為した……のと同じような」「死んだ正統信仰ただあまりにも動きの激しい活動的な精神性(≪人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能、無限性≫)へのへつらいの危険に対して」、アンセルムスが「矯正をして力を奮わせたということは見損なわれてはならないことである」。しかし、アンセルムスは、この「知解スルintelligereことの条件」も、すでに述べた(4)・(5)・(6)からして最後法廷的には、それは、終末論的限界の下でのそれであるし、われわれの思惟と語りが「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」し、それ故に「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基づいて成立している」のであるから、「最後の一歩手前のものである」ということについて「意識していた」(自覚していた)し、「多くの真剣な問い」の中の「一つ」であった――「ソレユエ、誰モ慎重サヲ欠イタ軽率サヲモッテ種々雑多ナ詭弁ヲ弄シ、アル抜ケ難イ誤謬ニ陥ルコトノナイヨウニ、マズ堅固ナ信仰ヲモッテ真摯ナ生活ト知恵ヲ身ニツケズニハ、軽ハズミニモ複雑ナ神ニ関スル諸問題ト取リ組ムコトガアッテハナリマセン」。