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12.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」

12.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」
再推敲・再整理版です。
この知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明についてさらに推敲し整理した論稿が下記のJimdofreeホームページにあります
https://karl-barth-studies.jimdofree.com/
このJimdoホームページの論稿は、現在のホームページにある論稿よりも文章構成に関しても内容に関しても、さらに推敲され整理されており断然読み易く・分かり易くなっていますから、最初からをこのJimdoホームページの論稿を読んだ方が大切な時間を有効に使えます。

 

 

(8)われわれは、「アンセルムスにとって必然的」であった「神学と祈りの関連性に注意する時」、先に述べてきたような「知解スルintelligereことの……それの側として、すべてのそのほかの条件を条件づけ・相対化している条件に、……触れることになる」。言い換えれば、「知解スルintelligereことの……それの側として」の「祈り」は、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示認識、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)を願い求める「祈り」であるということである。また、「知解スルintelligereことの……それの側として」の第三の形態の神の言葉である教会の宣教の一つの機能としての「神学」は、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、「他律的服従」と「自律的服従」との全体性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方における途上の神学であるということである。何故ならば、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(神の側からする、神の人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性であるご自身の中での神としての「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち啓示者である父なる神の子としての「啓示ないし和解の実在」、起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいてのみ、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事≫)に向かっての人間の用意が存在する」からである。したがって、「最後に名ざされた……信ジルコトの真正性も、まさにそれこそが、条件づけられ、相対化される。アンセルムスは、一度祈りつつ、(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事という≫)神の明るく照らし出す恵みに感謝しつつ」、それ故に「そのことが看過される時には、この箇所はただ誤解されることができるだけである」が、「……今や自分はそれほどまでに明らかに理解したので、たとえ信じようと欲しなくても、この理解は自分にとって残るであろうという主張をあえてなした――『善キ主ヨ、アナタニ感謝シマス。以前アナタノ恩寵ニヨリ信ジテイタコト、今アナタノ光ニヨッテ理解シ、ソノタメニ、タトエ私ガアナタノ存在スルコトヲ信ジルコトヲ望マナクテモ、存在スルコトヲ理解シナイコトガ私ニハ不可能デアルコトヲ、アナタニ感謝シマス』」。

 

 アンセルムスの思惟と語りの態度は、「『プロスロギオン』の中で明らかになってくる」。「アンセルムスのおそらく学問的に最も完全な書物、『神ハナゼ人間トナラレタカ』こそが、この態度を繰り返し看破させているのである」――「『そのような箇所の魅惑する言葉を、人は、啓蒙主義がヘンデル、古典主義、ロマン主義によって克服されて以来確かに聞くことができる。……また今日でも、人は、(≪アンセルムスの思惟と語りの生きた総体性を後景に退け、二元論的に分断して、≫)それらのものを心の純粋に主観的な実行として受け取り、……その後に続く論理的なことを、悟性の、純粋に客観的な実行として受け取っており、そのように打ち込まれた楔によって、初めから、両者に対する生きた理解に対して自分を閉ざしてしまっているのである』」――この「W・シュタイネンの……苦情は、あまりにも正当なものである」。『教会教義学 神の言葉T/1・2』に即して言えば、アンセルムスは「キリストが人間となり給うこと、キリストの贖罪死の必然性を理解シヨウ、理性的に論証シヨウとした」が、そのことを「人は合理主義だと批判」した、しかしアンセルムスは、「教義学的な合理主義を明確に否定している」、すなわちアンセルムスは、神学を一般的真理としてではなく、「啓示から得られた認識」、常に先行するイエス・キリスト自身から、それ故に具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、「啓示ないし和解」の「概念の実在」)から信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)の可能性について考えたのである。アンセルムスは、「神ガオソレ多クモ私ニ教示サレルコト、というように説明しようとする」――「神ノオ援ケト貴君(≪「会話相手」≫)タチノ祈リニヨリ、……ソモソモ、貴君タチガコノコトヲ要望シ、私ガコノタメニ祈ルヨウニ願ッタ時、貴君タチハ繰リ返シソレヲ約束シテクレタ」。アンセルムスは「その会話相手に対して」、「その質問と共にそれを引き受けた教師のための執り成しの祈りの義務のことを思い出させる」。「論証を実行しつつあるその特別な高所において、ボゾ自身は、祈り求める『神ハホムベキカナ』で、論述を中断する」――「……スデニ私タチノ求メテイルモノニ関シテ、アル偉大ナコトヲ見イダシマシタ。ドウゾ、始メラレタトキノヨウニ、ソノママ続ケテクダサイ。神ノゴ援助ヲ希望シマス」。何故ならば、「真理の道において導くことは、実際には、ただ神の事柄でだけあり得るであろう」からである――「貴君ヲ導イテイルノハ私デハナイ。ムシロ、私タチガソノ方ニツイテ今語リ、ソノ方ナシデハ何事モ私タチニハ出来ナイ方コソ、真理ノ道トシテ私タチガ信ジテイルスベテニ私タチヲ導イテクダサルノデアル」。

 

 このことに「著作の結論の言葉が対応している」――「シカシ、私タチガ理性ニヨッテ発見シタト推察スルコトガ、真理ノ証言(≪第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言≫)ニヨッテ確認サレルナラバ、ソレヲ私タチハ自分タチニダケデナク、永遠ニ祝別サレル神ニ帰スベキデアル」、「ソノウチデ疑問ニ対シテ満足ノイク回答ヲ与エ得タナラ、ソレハ私ノシタ業デハナク、(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」という≫)神ノ恩寵ガ私ト共ニシタコトデ、私ニ帰セラレルベキデハナイ」。「正しい知解」は、「アンセルムスによれば、それに先行し、共に働く神の恵みを通して条件づけられているということを指し示す一般的な指示でもって、それ自体正しい指示でもって言い尽くしてはいない」とされる――第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の宣教における一つの機能としての神学における「知解は、教会の主(≪起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身≫)が教会の中で分与することをやめ給わない恩寵の賜物に属している。『宣教モ恩寵デアル、マタ聞クコトモ恩寵、聞クコトカラ理解スルコトモ恩寵、意志ノ正直モ恩寵デアル』」。「この一般的なものでもって、そしてこの恵みがその都度祈られなければならないということでもって」、「信仰の知解への最後の、決定的な能力は、(≪自然的な生来的な≫)人間的理性の自発的な活動とそのまま一致せず、そのような能力は(≪自然的な生来的な≫)人間的理性の自発的活動に対して」、先に述べたように「知解スルことが意志的行為であることが確かである限り」、「ただその都度(≪神のその都度の自由な恵みの決断により≫)、贈り与えられることができるだけであるということが言われている」(人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰には、聖霊によって更新された理性を必要とする。したがって、「聖霊」は、徹頭徹尾、その「更新された理性」と同一では決してない、すなわち「聖霊」は「人間精神の一形姿」では決してない」)――「ソコデ、信仰ニ理解ヲ与エル主ヨ、……私ガ理解スルヨウニ計ラッテクダサイ」・「アナタノミモトニ私ヲ引キ上ゲテクダサイ!」。この神のその都度の自由な恵みの決断により「贈り与えられた能力」は、すなわち聖霊によって更新された理性の能力は、「知解が行われるために必要な論理的な作業の遂行が正しく為されることから成り立っているということも正しい」。「恵ミノ賜物、換言すればアンセルムス的祈りの対象」は、「この側面から見て、人間的な思惟の、願望されそこで起こる最高業績と同一である――「アナタヲ凝視スルタメニ、私ノ精神ノ眼ヲ浄化シ、イヤシ、鋭クシ、『照ラ』シテクダサイ」。しかし、このことは、「事柄の一つの側面でしかない」。

 

 ここで、「決定的なテキスト、『プロスロギオン』への導入の祈りを注意深く読むならば、アンセルムスは、彼の祈りの対象として常に二重のことを念頭に置いていたことが示されるのである」――それは、「一つには、確かに、神が彼の心に、『ドコデ、ドノヨウニシテ、アナタヲ求メタラヨイノカ』教えて下さるように、神が彼の目を照らし出し、神を見ることができるように、神が生まれながらにして地にのたうち回っているものの身を起こしてくださるようにということである」、人はこのことの中で、「事柄のあの一つの側面」、「人間に対してもともと起源的に創造と共に与えられている認識能力を実現させることとしての恵みを再認識しなければならないであろう」(何故ならば、啓示認識・啓示信仰には、自然的な生来的な理性ではなく、「聖霊の注ぎ」によって更新された理性を必要とするからである、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」を必要とするからである)。「しかし、知解の出来事」は、それ故に「祈り求められた恵みは、明らかにもう一つの客観的な側面を持っている」。「アンセルムスは、あの願いと共に第二の願いを置いている」。「このテキストの基本的な調子と直面して、その第二の願いを、第一の願いの単なる修辞的な繰り返しとして受け取ることは、排除されている……」。アンセルムスの「第二の願いは、こうである」――「神が彼の心に、『ドコデ、ドノヨウニシテ、アナタヲ見イダシタラヨイノカ教えて下さるように。神が彼に対して、そのご容顔を、ご自身を、顕わして下さるように』」、「私タチニアナタゴ自身ヲ顕ワシテクダサイ」、「神がご自身を彼に対してもう一度贈り与えて下さるように」。アンセルムスは、「信仰者も圧迫されている」「人間が神を認識できないという人間的な非認識の困窮状態」を、「信仰者も原罪を持った人間性」により、「神から遠ざかっている……ということから説明する」――「アナタハ私ヲ創造サレ、マタ再創造シ、私ノスベテノ善ハアナタガ私ニ付与サレマシタ。シカシ、私ハアナタヲマダ仰ギ見タコトハナイノデス」、「神ヨリ遠ザケラレタエバノ子孫ノ一人デアル私ハ不運デアル!」。聖性・秘義性・隠蔽性において存在する神の不把握性からして、人間論的な自然的人間だけでなく、教会論的なキリスト教的人間も、「客観的に、神ご自身が遠くにいます……」。人間論的な自然的人間だけでなく、教会論的なキリスト教的人間も、自主性・自己主張・自己義認の欲求(無神性・不信仰・真実の罪)を持っていることからして(『福音と律法』)、「神に敵対し神に服従しない」ことからして、また「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持ってはいない」ことからして(『教会教義学 神の言葉』)、また「『自分の理性や力(≪知力、感情力、悟性力、意志力等々≫)によっては』――全く信じることができないこと」からして(『福音主義神学入門』)、「神は不在」である……」。したがって、キリストにあっての神に祝福された信仰者であるためには、「祈り求められた恵み」――すなわち常に先行する神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」、聖霊によって更新された理性、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」を必要とするのである。

 

 「神をあこがれ求める人間は何をすべきであろうか」。「アナタヲ仰ギ見ルコトヲヒタスラ願イマスガ、アナタノゴ容顔ハアマリニモ遠ク離レテオリマス。アナタニ近ヅクコトヲ望ミマスガ、アナタノ住マイハ近ヅキガタイノデス。……シカモ、『主ヨ、イツマデ』私タチヲ『主ヨ、イツマデ忘レラレルノデスカ』。私タチカラ『イツマデソノゴ容顔ヲソムケラレルノデスカ』。私タチヲ主ハイツ顧ミ、私タチノ言葉ヲ聞カレルノデスカ。……イツ『アナタノゴ容顔』を私タチニオ示シニナラレルノデスカ」。「アナタガオ教エクダサラナケレバ、アナタヲ求メルコトハ出来ズ、アナタガ顕ワシテクダサラナケレバ、アナタヲ見イダスコトハ出来マセン」。この二重性が「まさに力を奮う」。「ただ単に、(≪人間の側からする≫)神を正しく尋ね求めることが問題であるだけでなく、同時にそれと共に、(そしてそれが初めてキリスト教認識の全き恵みであるのであるが)、(≪常に先行するあの≫)神の現臨」が、人間の側からする「われわれが神を尋ね求めることを通しては、たとえそれがどんなに純粋なものであろうとそれ自身ではつくり出すことができない(もっとも純粋な心をもって神を尋ね求める者の身にのみ起こるのであるが)、(≪常に先行する神の側からやって来る、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいた終末論的限界の下での≫)神との出会い」が「問題である」。また、ここでは、「資格づけられた知解スルintelligereこと」が問題である、それ故に「人間は、神のご容顔のいくらかを見るようになる資格づけられた知解スルintelligereことこそが、祈り求められなければならない」。「なぜならば、すべての正しい尋ね求めることも(それもまた恵みなのであるが)、もしも神がご自身を『示され』ないならば」、換言すればご自身の中での神としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」を本質とする内在的な三位一体の神が、われわれのための神のとしての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における三つの存在の仕方、すなわちイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造主、子としてのイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉・和解主、「父なる神と子なる神の愛の霊」としての聖霊――啓示されてあること・啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」・救済主なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体において「ご自身を『示され』ないならば」、「もしも神との出会い」が、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で常に先行する「神からして現実となり、まさにそのことでもって見出すこと・資格づけられた知解スルintelligereことが出来事となって起こらないならば」、「何の役にも立たないからである」。

 

 前述したことからして、「『プロスロギオン』の中で明らかになってくるアンセルムスの態度が初めてよく理解できるものとなる」。そのアンセルムスの「態度」は、「それがよく為されるように自分の行為を神の行為に奉仕させる『敬虔な』思想家の態度であるだけ」でなく、「それは、そのことを超えて、彼の学問的な即事性の特定の……決定的な表現である」――「私ノ願イヲ増シ、私ガ望ムモノヲオ与エ下サイ。ナゼト言ッテ、仮ニアナタガ、造ラレタモノスベテヲ私ニ下サッテモ、モシモアナタゴ自身ヲオ与エ下サラナケレバ、アナタノ僕ハ満足シナイカラデス。デスカラ、アナタゴ自身ヲ私ニ与エ下サイ、ワガ神ヨ、アナタヲ私ニ下サイ」、「造ラレタモノスベテヲ」ではなく、「単なる知識」をではなく、終末論的限界の下においてであれ、客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて、人間的主観に実現された神の恵みの出来事を、信仰の認識としての神認識を、啓示認識・啓示信仰を与えて下さい。そのアンセルムスの「態度」は、「ただ単に彼に対して、神が、神について正しく考えるよう恵みを与え給うということによってもってかかっているだけでなく」、「神ご自身がこの思惟の対象として舞台に登場され、ご自身を思想家に対し『示し』、それと共に『正しい』と考えることを実在トシテ存在スルコトヲ知解スルことへと資格づけ給うということによってもってかかっている」。このことと共に、「初めてキリスト教認識の恵みが完全となる」。『プロスロギオン』の著者」は、「この完全な恵みを無理に奪い取る」ことの中でではなく、「この完全な恵みが欠けてはならないことを知る知識の中で」、「彼がはじめた神への語りかけの中に」、「神に相対して立っている者……の態度の中に」、「あくまでも堅くとどまるのである」、何故ならば彼は、「彼の知解スルintelligereこと」が、自然神学の段階で停滞と循環を繰り返している「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」・学問(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)におけるような「空しい泡沫ではなく」、「彼自身が結局、愚か者であるべきではないとしたら、(≪イエス・キリストにおいて自己啓示・自己顕現されたキリストにあっての≫神が彼に相対して立たなければならないということを知っている」からである、そのことを認識し自覚しているからである、「単なる知識」が問題であるのではなく、あの信仰の認識としての神認識が、啓示認識・啓示信仰が、人間的主観に実現された神の恵みの出来事が問題であることを認識し自覚しているからである。このような「態度の中で」・「知識の中で」、「『プロスロギオン』二−四章の証明はなされる。そのことは、その理解とその解釈にとってどうでもよいものではあり得ないのである」。したがって、キルケゴール自身、「確実な本能をもって」、人間の神化あるいは神の人間化の原理を発見したヘーゲルの「強力な痕跡」を持った近代主義的プロテスタント主義的神学(総括的に言えば、自然神学、神学者で言えばシュライエルマッハー等々)の悪しき否定的側面(神と人間との無限の質的差異に対する無自覚、「人間の自己運動を神のそれと取り違えるという混淆」、「神の自由を認識していないという事態」)を感じ取ったのである。「このところで、アンセルムスの神証明に関し、彼にとって興味あるものを見出したのである。『それにしても、これは、証明する独自な仕方である。アンセルムスは言う、私は神の存在を証明しよう。この目的のために、私は神に、私を力づけ、助けて下さるようにと祈る、と。しかし、そのことは、神の存在証明するはるかによりよい証明である。それはすなわち、人が、神の存在を証明するためには、神の助けを得なければならないとあのように強く確信していることである。もしも人が、神の助けなしに神の存在を証明することができるとしたらならば、神が存在することは、それほど確かではなくなることになるであろう』(W・ルッテンベック『セーレン・キルケゴール』)」。

 

 最後に、「確かめたことを総括する」。
(1)「アンセルムスにとって問題であるところの学問、知解は、信仰ノ知解である」。
(2)「アンセルムスにとって問題であるところの学問、知解は、信仰ノ知解である」。言い換えれば、それは、第三の形態の神の言葉である教会の宣教、その一つの補助的機能としての神学が、具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を、(それ故にその聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義を)、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」から「成り立つことができるだけである……」。
(3)したがって、「信仰ノ知解は、信仰の規範をそれとして基礎づけはしない……」、「まさにそれを、その理解を絶した不把握性の中で知解しなければならない……」。何故ならば、ご自身の中での神としての「三位相互内在性」における三位一体の神は、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質としているからである。したがって、われわれは、その内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち啓示者である父なる神の子としての「啓示ないし和解」、起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、知解しなければならないのである。また、「聖書こそが、教会に宣教を義務づけている」のであるから、「聖書が教会を支配するのであって、教会が聖書を支配してはならないのである」(『教会教義学 神の言葉』)。
(4)したがってまた、「信仰ノ知解は、信仰の規範に相対して」、その「反映」、その「比喩の平面の上を動かなければならない……」。それは、その深化と豊富化において、キリスト教に固有な類と歴史性に時間累積させて行く奉仕の作業でなければならない。
(5)したがってまた、「信仰ノ知解は、その結果として」、「信仰の確実さではなく」、「ただ……学問的な確実さだけを主張することができる」。ここで「学問的(神学的)な確実さ」とは、神学が教会の宣教の一つの補助的機能である限り、それが、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を、(それ故にその聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義を)、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者としたそれであるかどうかという点にある。したがって、聖書の中で証しされている教会の宣教の課題であるイエス・キリストにおける神の自己啓示(純粋な教えとしてのキリストにあっての神、キリストの福音)の宣べ伝えを目指すことのない「単なる知識」としての「形而上学的な教義学」(自然神学としての教義学)は、「それがどんなに考え深い才知豊かな、また首尾一貫した仕方のものであっても、その教義学は、教義学としては非学問的なのである」。
(6)したがってまた、「信仰ノ知解」は、「これらのその結果の原則的な完全性を否定しはしはしないであろう」。
(7)したがってまた、「信仰ノ知解は、啓示された信仰の規範の基本的なテキストとしての聖書(≪第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉≫)と、いかなる場合にも決してはっきりとした矛盾の中に自分を置くことはできない……」。
(8)したがってまた、「信仰ノ知解は、もしもそれが(≪あの「他律的服従」と「自律的服従」との全体性における≫)服従の信仰の知でないならば、それは、現にあるところのものでないし、現に為すところのことを為していない……」。
(9)したがってまた、「信仰ノ知解が目標にまで来るということは、最後に、人間的な運動に関しても、それからまた目標が与えられることに関しても、恵みである」、
 このような訳で、「信仰ノ知解」は、「最後的には祈りおよび祈りの聞き届けの問題である」。教会の宣教、その一つの補助的機能としての神学、その思惟と語りが――「それが、キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」が故に、それは、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの(≪祈りの≫)人間的態度に対し神が応じて下さる(≪祈りの聞き届け≫)ということに基づいて成立している」のである(『教会教義学 神の言葉』)。