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6−1.『教会教義学 神の言葉T/2 神の啓示<上> 三位一体の神』(邦訳195-223頁、その2-2)

6−1.『教会教義学 神の言葉T/2 神の啓示<上> 三位一体の神』(邦訳195-223頁、その2-2)
再推敲・再整理版です。
この教会教義学 神の言葉U1 神の啓示 言葉の受肉』についてさらに推敲し整理した論稿が下記のJimdofreeホームページにあります
https://karl-barth-studies3.jimdofree.com/
このJimdoホームページの論稿は、現在のホームページにある論稿よりも文章構成に関しても内容に関しても、さらに推敲され整理されており断然読み易く・分かり易くなっていますから、最初からをこのJimdoホームページの論稿を読んだ方が大切な時間を有効に使えます。

 

 

(1)和解主としての神
 神性否定のキリスト論の「エビオン主義」は、その「あとにつづいて歴史的に再構成され」続けている。ここで、神性否定のキリスト論におけるイエスは、「個人主義的なものとしての」一人の「『偉大な人間』」の「神化」・「神話化」されたナザレのイエスである、「下からの半神」としてのナザレのイエスである、すなわち「未だかつて聞いたことのない純真さ、自由さ、従順、愛、死いたるまでの真実の生活態度の開始者、宣教者」のナザレのイエスのことである、またそうした「キリスト教宗教の創始者」・「キリスト教会の創設者」としてのナザレのイエスのことである。ここで、イエスは、「超歴史の中へと突入していく歴史の本来的な山頂」である。すなわち、イエスは、「人間的な生の最高の現象である」。「エビオン主義的な思惟の宿命的な出発点は、人格性」である。

 

 一方で、神性否定のキリスト論の「仮現論」は、その「あとにつづいて歴史的に再構成され」続けているのである。ここで、神性否定のキリスト論におけるイエスは、「集団主義的」なものとして「よく知られた先在的ロゴス……世界救済者として」の「最深の本質」・「最高の理想」・「ひとつの理念、一般真理」の「人格化」されたナザレのイエスのことである、「ひとつの理念、一般真理」等々のために要請されたナザレのイエスのことである、「地上の現実存在の具体的な人間性」・「究極的には……その人間性の歴史的実在性」を揚棄された「神的実体の一つの類似性」・「象徴」として「信じられた」ナザレのイエスのことである。ここで、イエスは、上から「歴史の中へと……下ってくるところの超歴史」の寄生根である。すなわち、イエスは「神的現臨」の「最も完全な象徴」である。

 

 このように、自然神学の系譜に属する両者の教説は共に、人間を先行させた人間の側からする人間と神との「混淆」・「混合」論である、スフィンクス的思惟である。何故そうなってしまうかと言えば、両者とも、自らの認識方法と概念構成それ自体に、次のような認識と自覚を持たないからである。「キリストの神性」についての「新約聖書の命題は、一人の人間の神化とも、一つの神の理念あるいは神的理念の人格化とも全く関係がないという前提のもとでだけ、理解されることができる」という認識と自覚を持たないからである。先にも述べたように、イエス・キリストは、「彼が自分の父と呼んでいる神から」、すなわち「彼が(≪<起源・根源>としての≫)自分の父と呼んでいる」ご自身の中での神としての「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」から、「主であることをもつ故に、……彼の父とともに、父の子として、『永遠の父の独り子』として、主である」。「それ故、イエスは主である」。「この新約聖書の命題を、古代教会と一致しつつ理解しなければならない」。したがって、「キリストの神性」は、次のように理解すべきである――「キリストは彼の父を啓示する」、すなわち「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な起源・根源としての父から区別された子としてのキリストは、自分を自分から区別するし自己啓示する神として自分が起源・根源である父を啓示する、このように「この彼の父は神である」。したがって、父の「意志」と「業」を啓示する者、啓示者である「父を啓示する者は、神を啓示する」。したがってまた、イエスを「彼の父の啓示として告白する者」は、イエスを、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の起源・根源としての「彼の父と神性において本質的に等しいものとして告白する」、「父なる神のまことの子として告白する」。このことは、「われわれにわれわれの主を知らせるばかりでなく、……同時に、イエスご自身われわれの主であり」、それ故に「イエス・キリストは父の子として……自分自身も啓示する」。この「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方である和解主なる神の業と行為は、起源的な第一の存在の仕方である創造主なる神の行為とは別である、差異がある。すなわち、それは、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の「神によって始められた」(≪われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における三つの存在の仕方における「神とわれわれとの間の交わりの実在〔性〕を意味する」。神の「意志と働き」(父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)の「開示」を意味する。れわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方である「子あるいは言葉の業」は、「人間の闇の中で」「神の現臨とご自分を知らせる」啓示の出来事である。「和解という言葉」は、「われわれによって破壊され……無とされた神と人間の交わりの回復」としての「啓示」と「同一の事柄を意味する別の言葉である」。この「啓示の中」では「神の敵はすでに神の友人である限り、啓示そのものが和解である」。したがって、「使徒的奉仕は和解の務めである。それは、神の和解を受けなさい(Uコリント5・20)という要請(≪キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令≫)の中で執行される」。

 

 しかし、「啓示あるいは和解」に基礎づけられた「救贖」は、新約聖書においては「啓示あるいは和解から見てなお未だ来ていない、未来の、完成させる神の行為」、すなわち神の第三の存在の仕方である聖霊の業と行為に属している。「復活と完成との間」は、「イエス・キリストの父であり、イエス・キリスト自身であり、この父とこの子の霊」としての「聖霊の時代」である、終末論的な信仰に生きる時代である(新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」、「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」。ここで、「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」にとっての、すなわちわれわれ人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍にとっての<いまだ>であり、神の側の真実としてある「成就と執行」、「永遠的実在」として<すでに>ということである)。したがって、「救贖」、「完成」(『バルトとの対話』)には、終末、復活されたキリストの再臨を待ち望まなければならないのである。

 

 さて、神は、イエス・キリストにおいて、「われわれを……力として物を支配するような仕方ではなく、人格が人格を扱うような仕方で扱う」、「永遠の神は汝の兄弟となり給う」。ここでは、「罪人ハ神ノ言葉ニ対シテ能力ガナイという命題が、取り去られている」。「新約聖書のテキストの中」においては、「イエスの中でまさしく神が見出される」、「また神はまさにイエスの中で見出される」。イエス・キリストは、啓示者である父なる神の子としての「啓示ないし和解の実在」そのものとして、「父の啓示」であり、「父の啓示」は啓示者である父なる神の子としての「啓示ないし和解の実在」そのものとしてのイエス・キリスト自身である。したがって、このことを理解の前提としない場合、「一つの歴史的形姿から一つの天的本質」を、「一つの天的本質から一つの歴史的形姿」を生み出すことになる、総括的に言えば自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教を生み出すことになる。人間的理性や人間的欲求やが恣意的独断的に対象化した「思惟の対象としてのイエス」を語るだけになる。「仮現論的な思惟の宿命的な出発点は、理念」である。「われわれが神の敵」であること・真実の罪人であることの認識は、「〔存在論的〕存在および〔具体的〕存在」的には得られない、人間学的な哲学原理・認識論・世界観に依拠した存在の類比を通しては得られない。すなわち、そのことの認識は、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」により信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる啓示認識・啓示信仰に依拠した「啓示の類比」、「信仰の類比」、「関係の類比」を通して得られる、ちょうど前述したような仕方で、その死と復活の出来事におけるイエス・キリストが、われわれ人間に対して、「生来人間は、神の恵みに敵対」し、「神の恵みによって生きようとしないが故」に、「このことこそ、第一に恵みが解放しなくてはならない人間の危急であった」ことを自己認識・自己理解・自己規定させるように、そして「神の選び」を「イエス・キリストの復活」において自己認識・自己理解・自己規定させ、「神の放棄」を「イエス・キリストの十字架」において自己認識・自己理解・自己規定させるように、もっと言えばわれわれ人間は、「『自分の理性や力(≪知力、感情力、悟性力、意志力、自然を内面の原理とした禅的修行等≫)によっては』――全く信じることができない」ということを(『福音主義神学入門』)、また「神に敵対し神に服従しないわれわれ人間は、肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持ってはいない」ということを、徹頭徹尾神の側の真実としてある主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・完了、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのものであるイエス・キリスト自身によって認識させられ自覚させられるように(『福音と律法』および『ローマ書新解』)、また前述したような仕方で、ちょうどそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)は、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事としてあるということを認識させられ自覚させられるように。したがって、われわれは、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」により信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で「本当に神の啓示を認識(≪啓示認識・啓示信仰≫)する時、(≪その啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比を通して≫)われわれは初めて」、「神に対する人間的反抗」、「神の敵」、「神に相対して、自分の力を誇り、まさにそのことの中でこそ罪深い堕落した人間として自分自身」を、また「そのような人間の世」を自己「認識」・自己理解・自己規定することができるのである。

 

 われわれは、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な「三位一体の神」を、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおいてのみ、常に先行して「われわれとの間の交わり」を「すでに始め給うたことを通して初めて知るのである」。言い換えれば、「神に聞くこと」をしない「神に敵対する」われわれ人間が、「にもかかわらず聞く」という場合、そのことは、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(神の側の真実としてある、神の側からする神の人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性である聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の~の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち啓示者である父なる神の子としての「啓示ないし和解の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事≫)に向かっての人間の用意が存在する」からであると言わなければならない、すなわち先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」からと言わなければならない。

 

 さて、「創造された世界における神の愛」(神が「創造することを欲せられ」、創造された「起源的人間、世に対する神の愛」)と「われわれの世界におけるイエス・キリストの事実の中における神の愛」(「神に対し罪を犯し、負い目を負うことになった」「罪に落ちた人間」、「罪と死がある」「われわれの世界」、「人間の失われた世に対する神の愛」)との間には差異がある。後者における「和解ないし啓示」は、「創造の継続」や「創造の完成」ではない。すなわち、後者における「和解ないし啓示」は、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方(性質、働き、業、行為、行動、活動)であるイエス・キリストの「新しい神の業」である。それは、「神的な愛の力」、「和解の力」である。このような訳で、イエス・キリストは、和解主として、創造主のあとに続いて、神の第二の存在の仕方において第二の神的行為を遂行したのである。この「失われない差異性」における神の存在の仕方の「創造と和解のこの順序」に、「キリスト論的に、父(≪啓示者・言葉の語り手・創造主≫)と子(≪啓示・語り手の「言葉」=起源的な第一の形態の神の言葉・和解主≫)の順序」が対応しており、「和解主としてのイエス・キリスト」は、「創造主としての父」に先行することはできないのである。しかし、この父と子の従属的な関係は、ご自身の中での神としての「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の観点からは、その内在的な本質におけるそれではなくて、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における起源的な第一の存在の仕方と第二の存在の仕方の差異性におけるそれを意味しているのである。「創造が無からの創造であるように、和解は死人の甦り」である。「われわれは創造主なる神に生命を負うているように、和解主なる神に永遠の生命を負うている」。したがって、「創造された世に向かっての神が主(≪創造主≫)であるところでは」、ご自身のなかでの神としての「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における「神の第一の存在の仕方(≪存在の様態、働き・業・行為≫)について語られなければならない」、また「神に対する人間の敵意のまっただ中で神が主(≪和解主≫)でありところでは」、ご自身のなかでの神としての「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における「神の第二の存在の仕方(≪存在の様態、働き・業・行為≫)について語られなければならない」。しかし、三位一体論を様態論的に理解したシュライエルマッハーは、このことについて、認識し自覚していなかったのである。しかし、聖書証言における「和解あるいは啓示の出来事」は、先にも述べたように、それ自体が、「キリストの神性」の「承認(受認)」を要求するそれである。「子と霊を被造物だと考える者、したがって、被造物に服従する者、その者は、自分の希望を神におかず、キリスト者としてよりよい状態に移されていると考える点において自分をあざむいている」。ルターは「ワレワレガ、人間ハキリストニヨッテ義トサレ、キリストハ罪、死、永遠ノ呪イノ征服者デアリ給ウト教エル時、ワレワレハ、ソノコトデモッテ同時ニ、キリストハ本性ニオイテ神デアリ給ウトイウコトヲ証シシテイル」と述べている。

 

 エビオン主義的・仮現論的なキリスト論に対する、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者とした教会の批判は、新約聖書の「使徒たちのイエス・キリストの思惟」における「キリストの神性の認識」でもって、「始まりそして終る」。すなわち、エビオン主義的・仮現論的なキリスト論に対する根本的包括的な原理的な批判は、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるイエス・キリストは、ご自身の中での神としての「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」であるという認識でもって、「始まりそして終る」。したがって、次のように言うことができる――われわれは、「和解主として十字架および復活を通してわれわれに働きかけてくる方の中にのみ、われわれは創造主を認識すること」ができる、と。同時に、「われわれの敵意にもかかわらずわれわれの存在の主であり続ける創造主の中にのみ、われわれは和解主を認識できる」、と。「この世におけるこの時間的な過ぎ去りゆく生命をわれわれは、われわれキリスト教信仰の第一条件の中で告白するように、そこにおいては、天と地の全能の創造者であるところの神を通してもつ。しかしながら、永遠の、過ぎ去ることのない生命をわれわれは、われわれのキリスト教信仰の第二の条件の中で告白するように、神の右に座し給うたところのイエス・キリストの苦しみと甦りを通してもつのである」――「私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである )」(ガラテヤ2・19以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである(『福音と律法』)。