「カール・バルト――Wikipedia」および「新正統主義――Wikipedia」の記述にある、バルトの思想に関する記述内容は、客観的に言って正しいだろうか?(5−5)
「カール・バルト――Wikipedia」および「新正統主義――Wikipedia」の記述にある、バルトの思想に関する記述内容は、客観的に言って正しいだろうか?(5−5)
さて、単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト(起源的な第一の形態の神の言葉、「啓示の実在」そのもの、啓示の客観的現実性)にのみ感謝をもって信頼し固執し固着したバルト自身の立場は、それ故に具体的には聖書的啓示証言(第二の形態の最初の直接的な第一の預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」、啓示の概念の客観的現実性)に信頼し固執し連帯したバルト自身の立場は、換言すればそのような牧師であり神学者でありキリスト教的信仰・神学・教会の宣教における思想家でもあったバルト自身の立場は、次のように明確、明白、明瞭である――単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方、神の子、啓示・和解、主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」、すなわち「律法の成就」・完了、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストが信ずる信仰による「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和――この「一つの事柄に仕えなければならないのであって(≪ただこの主イエス・キリストにのみ感謝をもって信頼し固執し固着しなければならないのであって≫)、ひとつの党派(≪ある教派、ある学派、ある思想傾向、ある主義、ある人間学的な哲学原理・認識論・世界観、ある時流や時勢、ある社会的政治的な言説や運動、ある党派性、ある二元主義、ある多元主義≫)に仕えなければならないことはない……」(『教会教義学 神の言葉T/1・2』)、それ故にバルト自身は、その立場において、「世界の救いを何かある国家的、政治的、経済的または道徳的な諸原理や理念や体制の内に求め」ようとしないで、「私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストを、いっさいのものにまさって恐れ、かつ、愛すること、神を、大きな問題においても、小さな問題においても、彼がかってあり、いまあり、やがてあり給う権威のままに肯定し、是認すること、私たちの個人的、社会的生活を敢えて律して、すべての善きものを神から、神からすべての善きものを期待」しなければならないし・「不毛な反抗や反論を避けて」、「西でも東でも等しく通用し、西でも東でもひとしく稀であり、人々に好まれぬ福音に、無償の恩寵によって、素直に止ま」らなければならないし、「西の獅子に全力をあげて抵抗しないような人びとは、決して東の獅子にも抵抗しえないし、また事実、抵抗しない」(『共産主義世界における福音の宣教 ハーメルとバルト』)と述べ、また「人間の公私の生活においては、絶えず新たな支配が行われるような仕組みになって」おり、「国家は支配であり、文化は支配」であるから、「どのような国家形態にも、どのような文化傾向にも、無条件に『然り』とは言わぬ」(『啓示・教会・神学』)と述べたのである。このバルトは、1957年当時の事実的政治の枠組みの中で、通俗的な区分の仕方においては「新正統主義」者である「幼稚な反共主義」者であったキリスト教的政治屋ニーバーが「なぜ、カール・バルトはハンガリー問題について黙っているのか?」と語り、バルトを「反共主義の味方に引きずり込むか、さもなければ、実はひそかな容共派であるという……正体を暴露」するような仕方で、バルトの神学者としての「信用を失墜させようとした」ところの「政治的強要」や「政治的陰謀」に対して、またニーバーによって倫理化(宗教化)された<西側イデオロギー>による<啓蒙の恐喝?>に対して、覇権主義としての東西イデオロギーのどちらにも加担せず、また「一言も答え」えず、断固として拒否する仕方で対応したのである。したがって、戦争の元凶である民族国家をどのように始末することができるのか(どのように止揚し無化することができるのか)・どのように始末するのか(どのように止揚し無化するのか)という問題を明確に提起することをしないで、ただ皮相的に表向きだけ平和主義者であろうとする平和主義者たちとは違って、バルト自身は、確かに「われわれは平和を維持するためにできる限りのことをしなければならない」、しかし「このことは、われわれは平和主義者でなければならないということを意味しない。平和主義は一つの絶対主義だ(すべての主義のように)。われわれは(≪キリストにあっての≫)神には服従するが、一つの原理や理念にはしない。したがって、われわれは最後の手段のために、(≪戦争の元凶である民族国家が存在する限り≫)戦争の可能性はあけておかなければならない」、「規準はただ方向を与えることしかできない。(中略)ある特定の瞬間になした決断はおそらく、もっとも重要なキリスト教の教義よりもっと重要であるかもしれない」という還相的観点からバルト自身は、事実、あくまでも<相対的>な評価において、自由および直接民主制と武装永世中立の「スイスをナチズムからまもるために私は軍隊に参加」し、「両国を区分しているライン河にかかっている橋を護衛」するために、「もしもドイツのキリスト者の友人の一人が、その橋を爆破しようとしたら、私は射殺しなければならなかったであろう」ということを述べ実践したのである。
このバルトに、例えばパンネンベルクのようにバルトについて悪意のある故意に捻じ曲げた曲解を為す神学者や牧師や著述家たちが言う「抽象的な超越神、現代にとっての意義を伴わない抽象的な終末の待望、この超越的な神にのみに専念し、深淵によって国家や社会から分離された同様に抽象的な教会」を目指す姿を見ることができるだろうか。バルト自身は、次のように述べている――「私は、福音宣教から独立し、それと接触しない、『自己決定の権利』を国家に与えている、いまわしいルター派の教説をこれまで決して承認しようとはしなかった。(中略)私の神学的思惟は、神の主権と、キリスト教の使信全体の終末論的性格と、キリスト教会の唯一の課題としての純粋な福音の宣教の強調に中心があり、またそれにこれまで中心をおいてきた。現実の人間を考慮しない(『神はすべてであって人間は無である!』)抽象的な超越神、現代にとっての意義を伴わない抽象的な終末の待望、この超越的な神にのみに専念し、深淵によって国家や社会から分離された同様に抽象的な教会――それらすべては私の頭に存在したものではなくて、私の本を読んだ多くの人々の頭のなかに、また特に私についての評論をしたり、一冊の本を書いたりした人々の頭(≪原理的な根本的包括的な誤謬にある普遍性や組織性の後光かぶせて語る、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階で停滞と循環を繰り返す神学者、牧師、著述家たちの頭、思惟と語り≫)のなかにのみ存在していたのである」(『バルト自伝』)。
このバルトに、「Wikipedia」作者の言う「近代神学(≪包括的に総括して言えば、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教≫)に回帰している」バルトの姿を見ることができるだろうか、「近代神学」(包括的に総括して言えば、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教)に逆行し復古しているバルトの姿を見ることができるだろうか。
このような訳で、私は、「Wikipedia」作者の誤解と曲解のただ中における「Wikipedia」作者の言うバルトは「晩年に自身の出発点である近代神学に回帰していると言える」という出鱈目極まりない記述におけるこの主張の言葉は、徹頭徹尾聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯するという仕方でレンガを積み上げるようにして構成し展開した教会の宣教にとって最も良質なバルトの神学を、全く以て、台無しにしてしまうだけでなく、多くの人々に誤解させてしまうことになるであろうし、死去しているバルト自身にも迷惑をかけてしまうことになるし、またその誤解と曲解のただ中における主張は、まさに原理的な根本的包括的な誤謬に「Wikipedia」というメディア的な普遍性と組織性をかぶせて記述しているものでしかないから、絶対に容認することはできないし、決して見過ごすことはできないのである。もっと言えば、本当は、この異議申し立てと原理的な根本的包括的な批判は、わざわざドイツにまで留学して研究したところの日本のバルト研究者の誰かが行うべき事柄なのである。しかし、彼らは、外国留学経験を生かし役立てようとしないで、ただ傍観者的態度を貫き外部から眺めているだけなのである。したがって、吉本が自らをマルクス主義者ではなくマルクス者であると述べたように、バルト主義者ではないバルト者の私は、あくまでもこのような不可避性に強いられて、拙いながらも、今回この記事を書くことにしたのである。
次に、「新正統主義――Wikipedia」を見てみよう。「この記事は中立的な観点に基づく疑問が提出されているか、議論中です。そのため偏った観点から記事が構成されているおそれがあります……(2016年6月)」という但書きが付されているのであるが、この「Wikipedia」作者は、「新正統主義」について、次のように述べている――「16世紀の宗教改革の強調点を新しく捉え直そうとする20世紀の神学の流れに対して、アングロ・アメリカの神学界が与えた名称。内在主義と楽観主義が強い19世紀の自由主義神学に対抗して、神の超越性、人間の罪性、神の恵みのみによる救いなどを、従来の宗教改革的な正統主義ではなく、啓蒙主義以降の近代的視点から捉えなおそうとした。弁証法神学とも呼ばれる」・「20世紀のスイスのカール・バルト、エミール・ブルンナー、ゴーガルデン、トゥルナイゼンなどを中心としてヨーロッパで始まり、……イギリスのドッド、……アメリカのラインホルド・ニーバーなどに国際的に広がっていった」とし、この「Wikipedia」作者は、「バルトの特徴は『神の言葉の神学』と呼ばれる神学にある」・バルトは、「誤りだらけの人間のことばに過ぎない聖書」が、「神との出会いの契機において、神のことばと見なされるときがあるとし」、「聖書の客観的な権威を認めない」と述べている。このように述べているWikipedia作者のその<内容的な問題点>について述べてみたい。
先ず以てバルト自身は、Wikipedia作者が誤解と曲解のただ中において主張している後半部分のようなことを決して言ってはいない。バルト自身は、『教会教義学 神の言葉T/1・2』において、次のように述べている――先ず以て、「神の言葉」は、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての可視的に存在している「神の言葉の<三形態>」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性において<客観的>に存在している、と述べている。起源的な第一の形態の神の言葉、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」・「イエス・キリストの名」、まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、「啓示の実在」そのもの、啓示の客観的現実性、その第二の形態の最初の直接的な第一の預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」(聖書)、啓示の「概念の実在」、すなわち啓示の概念の客観的現実性、第三の形態に属する全く人間的な教会の<客観的>な信仰告白および教義(神の言葉の第一の形態、具体的には第二の形態に信頼し固執し連帯して時間累積された概念、すなわち対象化された啓示の「概念の実在」、対象化された啓示の概念の客観的現実性)という形態で、<客観的>に存在しているのである。単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方、起源的な第一の形態の神の言葉、「啓示の実在」そのもの、啓示の客観的現実性、啓示・和解、換言すれば単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の起源的な第一の存在の仕方である父が子として自分を自分から区別した神の子、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト自身は、まさに「直接的な、絶対的な、内容的な」「権威」と共に「直接的な、絶対的な、内容的な」「自由」を持つところの、第三の形態に属する全く人間的な教会の宣教における「先ず第一義的に優位に立つ原理」・規準・法廷・審判者・支配者である。また、このイエス・キリストにより唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、すなわち第二の形態の神の言葉、「その人間性と共に神性を賦与され装備された」啓示の「概念の実在」、啓示の概念の客観的現実性、換言すれば「直接的な、絶対的な、内容的な」イエス・キリストのまことの<神性>――「権威」性と、「直接的な、絶対的な、内容的な」イエス・キリストのまことの<人間性>――「自由」性によって賦与され装備された「間接的・相対的・形式的」な「権威」と「自由」を持つところの聖書は、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリストと共に、第三の形態に属する全く人間的な教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者である。このような訳で、バルトにとって神の言葉の第二の形態である聖書は、「誤りだらけの人間のことばに過ぎない」ということはあり得ないのである、またバルトが、聖書に、「客観的な権威を認めない」ということもあり得ないのである。このWikipedia作者も、バルトを、弁証法的な区別を包括した同一性においてではなく、すなわちその総体的構造においてではなく、形而上学的にある抽象を施しある一部分を拡大鏡にかけて全体化して、それ故に全くの誤解と曲解のただ中であの記事を書いているのである。神の言葉の第二の形態である聖書またこの聖書に信頼し固執し連帯した第三の形態である教会の宣教において神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、愛に基づく父と子の交わりである聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示・自己顕現するのである。したがって、このイエス・キリストにおける神の自己啓示・自己顕現が、第三の形態に属する全く人間的な教会の宣教の<客観的>な信仰告白および教義における三位一体論の根拠なのである。この三位一体論は、「神論の決定的に重要な構成要素」であり、「啓示の認識原理」である。したがって、「教会の宣教の批判と訂正」は、常に、絶えず繰り返し、この三位一体論に即して行わなければならないのである。何故ならば、この三位一体論を啓示認識の原理としない場合は、すぐにその存在の本質に関わる神性否定のキリスト論や半神・半人キリスト論や三神論や神と人間および神学と人間学との混淆・共生・混合・共働・協働・折衷という自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階へと埋没していく以外にないからである。このように第二の形態の聖書でイエス・キリストにおいて自己啓示・自己顕現された神は、神の本質の区別を包括した単一性における「失われない差異性の中」で三つの存在の仕方(性質、働き、業、行為、行動)において「三度別様」に父、子、聖霊なる神であって、その存在は「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「一神」、「一人の同一なる神」なのである。したがって、「三神」、「三の対象」、「三つの神的我」ではなく、父、子、聖霊の三つの存在の仕方の、単一性・神性・永遠性を存在の本質とする「一人の同一なる神」、すなわち三位一体の神なのである。したがってまた、単一性・神性・永遠性を存在の本質とする神の完全さ・自由さは、父、子、聖霊の三つの存在の仕方の完全さ・自由さなのである。「われわれに出会う神」であるイエス・キリストの父――創造主・啓示者・言葉の語り手、子としてのイエス・キリスト自身――和解主・啓示・語り手の言葉、愛に基づく父と子の交わりである聖霊――救済主・啓示されてあること・それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性という三つの存在の仕方は、「啓示者、啓示、啓示されていること」、「神の聖(≪隠蔽≫)、あわれみ(≪顕現≫)、愛(≪愛に基づく、父――隠蔽と子――顕現の交わり、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて、「聖霊の注ぎ」により与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、すなわち人間的主観に実現された神の恵みの出来事≫)、「創造主なる神、和解主なる神、救済者なる神」という三つの存在の仕方(働き、業と行為、全き自由の神の愛の行為の出来事としての神の存在)に対応している。このキリストにあっての神は、神の側の真実として、「神の側から」、「隠蔽」と「顕現」において、また全き自由の神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて、「聖霊の注ぎ」により、「人間に対して」、「自己を伝達」するのである、信仰の認識としての神認識を、すなわち啓示認識・啓示信仰を与えるのである、神の恵みの出来事を人間的主観に実現させるのである。したがって、バルト自身は、Wikipedia作者が誤解と曲解のただ中において「神との出会いの契機において、神のことばと見なされる(≪「人間の側から」人間によって神のことばと見なされる≫)ときがある」というようなことは、一言も述べてはいないのである。神の側の真実としてある、それ故に客観的現実性としてある、「永遠的実在」としてある、起源的な第一の形態の神の言葉は、Wikipedia作者が誤解と曲解のただ中において言っているように、別に、「人間の側から」人間によって「神のことばと見なされる」必要はないのである。それ以前にある本質的な問題から言えば、キリストにあっての「神に敵対し」・「服従しない」、「肉であって、それ故に神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力」を全く持っていないわれわれ人間は、人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、キリストにあっての神を「『自分の理性や力によっては』全く信じることができない」ということを、素直に正直に告白しなければならないのである、それ故にそのようなわれわれは、ただイエスに対して「信じます。信仰のないわたしをお助けください」(マルコ9・24)と祈り願い求める以外にはないのである。このような訳で、信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)の授与・神の恵みの出来事の人間的主観への実現は、カトリック主義神学、近代主義的神学、自由主義的神学、近代主義的プロテスタント主義的神学、包括的に総括して言えば自然神学の段階で停滞と循環を繰り返している神学が手放すことができないところの、目的格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」における人間的契機の<直接性>によるのでは全くなくて、神の側の真実としてのみある、主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」における、徹頭徹尾、啓示自身・起源的な第一の形態の神の言葉自身が持っている、「神の側から」の、啓示に固有な証明能力によるのである、キリストの霊である聖霊の証の力によるのである、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動によるのである、全き自由の神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて、「聖霊の注ぎ」によるのである。したがって、われわれは、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて、「聖霊の注ぎ」により、あくまでも「神の側から」やって来る信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)の出来事が惹き起こされることを祈り願い求め続けつつ、起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には、第二の形態の聖書的啓示証言のそれ)を、教会の宣教における、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、絶えず繰り返しそれに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋なキリストの福音、純粋なキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、すべての人々がキリストの福音を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)を志向し目指していかなければならないのである、イエス・キリストをのみ主・頭とする「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指していかなければならないのである。このような訳で、「Wikipedia」作者の言う「バルトは、誤りだらけの人間のことばに過ぎない聖書が、神との出会いの契機において、神のことばと見なされるときがあるとし、聖書の客観的な権威を認めない」という全くの誤解と曲解のただ中における記事内容は、全く以て原理的な根本的包括的な誤謬に、「Wikipedia」というメディア的な普遍性や組織性の後光をかぶせて記述されたものなのである。
このような訳であるから、神学者や牧師やキリスト教的著述家の神学・知識・情報を、そのまま鵜呑みにしたり模倣したりすることをしないほうがいいのである――「あらゆるキリスト者の生が、意識するにせよ、しないにせよ、やはりひとつの証しである」限 り、「教会とその信仰を基礎づけている神の言葉から、提起される」「真理問題はあらゆるキリスト者に向けられている。この証しにおいてこの真理問題に対する責任を負う限り、いかなるキリスト者も彼自身がまた、神学者としても召されている」(『福音主義神学入門』)し、「教授でないものも、牧師でないものも、彼らの教授や牧師(≪やキリスト教的な著述家≫)の神学が悪しき神学でなく、良き神学であるということに対して、共同の責任を負っている」(『啓示・教会・神学』)のである。
ここまで論じてきて、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」においてではなく、真剣に、キリスト教的な信仰・神学・教会の宣教における思想の問題に引き寄せて全キリスト教を包括的に総括して言えば、キリスト教は、客観的には、本当は、新正統主義も含めて自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階に属するそれか、それともその段階を、起源的な第一の形態の神の言葉(イエス・キリスト自身)およびその第二の形態の神の言葉(聖書的啓示証言)にのみ信頼し固執し連帯した自らの立場において包括し止揚し克服して、<非>自然神学あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階へと移行したところの<非>自然神学あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階に属するそれか――この<二つの系譜>しか存在しないと言えるのである。
最後に、私は、あの二つの「Wikipedia」記事の作者の方が、もう一度、あくまでもバルト自身の著作に即して、「Wikipedia」にあるカール・バルトについての既存の記事を再検証・再検討され、その既存の記事を正しく改訂されることを願う者である。何故ならば、私は、教会の宣教にとって最も良質な神学を構成し展開しているバルトの神学を、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に連続させ時間累積させたいからである。