本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

拙著『全キリスト教、最後の宗教改革者カール・バルト』、バルトの読み方・分かり方(その7)

拙著の『全キリスト教、最後の宗教改革者カール・バルト』について正直言えば、内容的な推敲不足を否むことはできませんので、この記事は、この拙著<以降の論述>との関連でお読みください。

 

シュライエルマッハーとの訣別:
 バルトは、「よい聖霊論」だったら、自然神学の系譜に属する「シュラエルマッハーおよびすべての近代主義に対する最高の批判になっただろう」と述べています。一切の近代主義・自然神学的な神学群や教会の宣教に抗するバルトのこの言葉は、神と人間との混淆論・共働論を超出したところで構成された「超自然な神学」(<非>自然的な神学)における良質な聖霊論構築の不可避性を述べているのです。またバルトは、シュライエルマッハーとの関わりの中で、自問し続けました――「すべてを最もよく解釈すれば、一種の聖霊の神学というものが、シュライエルマッハーの神学的行動」、「事実上彼を支配している、正当な関心事であったという可能性を、わたしは予想したい」。例えば「絶対依存感情」(敬虔心)の概念に対する「問いに弁証法的に答える」場合、その概念は、人間の自己意識の働きとして、ある対象を知覚作用により対象化し、その内在化された対象を概念的対象として対象化(概念化作用・内在化された対象の時間化)するという点においては、あるいはまた感情的対象として対象化(内観的作用・内在化された対象の空間化)する感情作用と同じであるという点においては、それは人間論・人間学的概念であるとしても、もしもその概念を「イエス・キリスト自身の霊的現臨またはその力」として根拠づけ得るとすればどうであろうか、という自問です。しかし、いずれにせよその概念は、対象化された人間の自由な自己意識の類的本質・フォイエルバッハの宗教批判の対象そのもの・ハイデッガーの批判した「存在者レベルでの神への信仰」・人間の感覚や知識を内容とする経験、すなわち人間論や人間学的概念にすぎないから、シュライエルマッハーに対して、バルトは、最終的に次のように言わなければならなかったのです――「わたしは、事柄そのものにおいて、シュライエルマッハーと一致できないのだということを明言した(中略)わたしがシュライエルマッハーを今までに理解した限り、自分は、彼のそれとは全く違った道(≪<非>自然的な神学の道≫に踏みこみ、それをあゆんでいかなければならないと思ったし、今もそう思っているのである」、と(1968年、バルト急逝の年の言葉)。

 

バルトの根本的なシュライエルマッハー批判:
 バルトは、次のように述べています――シュライエルマッハーは、人間学的に「教会とは、『ただ自由な人間的行為を通して発生し、またただそのような自由な人間的行為を通して存続することのできる共同体』であり、『敬虔性と関連した共同体』である」と言う。またシュライエルマッハーおいては、信仰も、人間実存の歴史的存在の一つの在り方として理解される。神学における「近代主義的思惟は、人間が、誰かによる呼びかけを受けることなしに、(中略)人間がじぶんを相手に自分だけでひとりごとを言っているのを聞く。それ故、近代主義にとっては、宣教は、『教会』と呼ばれる人間的な共同体の一つの必然的な生の表現」となる。シュライエルマッハー等近代主義者は、人間の「精神的な促進〔霊的な奨励〕のために、自分と彼らに共通な宝庫からくみ取りつつ、この宝庫をさらに豊かにするために」、人間の自由な自己意識の意味的世界、感情・理性・実存等の人間的契機の直接性、人間学的な哲学的原理や認識論や世界観に信頼し固執して、自分自身の恣意的なプログラム・「自分自身の歴史」と「現在の解釈」を表現しようとする。すなわち、「自己表現としての宣教」を企てる、と。
 これらは、バルトの根本的なシュライエルマッハー批判です。私たちは、自然神学的なシュライエルマッハーやブルトマンのその神学の認識方法および概念構成が、次に引用するフォイエルバッハの宗教批判の言葉に直通していくことをすぐに理解することができます。「人間の内的生活は、自分の類・自分の本質に対する関係における生活である。人間は思惟する、すなわち人間は会話をする、人間は自分自身と話をする。動物は自分以外の他の個体がいなければ類の機能をひとつもはたすことはできない、しかし人間は他人がいなくとも考えるとか話すとかという類的機能……を果たすことができる。(ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ『キリスト教の本質 上』船山信一訳、岩波書店)、「もし君が無限者を思惟するならば、そのとき君は思惟能力の無限性を思惟し且つ確証しているのである。そして、もし君が無限者を情感するならば、そのとき君は感情能力の無限性を情感し且つ確証しているのである。理性の対象とは自己自身にとって対象的な理性であり、感情の対象とは自己自身にとって対象的な感情である (前掲書)、「神とはまさに、人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない(『フォイエルバッハ全集第12巻』「宗教の本質にかんする講演 下」船山信一訳、福村出版)。

 

バルトの夢:
 それは、「霊的に精神的(≪学識的≫)にきわめてしっかりした基礎を持つ人々」による、「超自然な神学」の認識方法および概念構成における最善最良の「第三項の神学」・聖霊の神学の構成でした。したがって、バルトは、その聖霊の神学が、自然神学的な人間学的神学の認識方法および概念構成のそれでないことを、また勘違いして恣意的に自分がそれだと思い込んだ誰かによって「軽薄に書きあげられた」聖霊の神学が市場に出回らないことを、衷心から切望しました。しかし、その神学の動向は、バルトの衷心からの切望を容赦なく打ち砕き、一切の近代主義や自然神学的な全キリスト教を根本的にそしてトータルに包括し止揚し超出すべき状況的思想的な神学的教会的課題を自覚できず、したがってその課題を放棄してしまって、場当たり的な惨憺たるものとなっています。

 

 

バルト対、ルドルフ・ボーレンと佐藤司郎と小泉健
 寺園喜基によれば、ボーレンは、「キリスト論的思考によって聖霊論的思考の根拠が示されているにもかかわらず、それとして十分に展開されていない」とバルト神学を批判している、と言います。そして寺園は、それは「神学的立場の根本的相違によるものではない」といいます。このボーレンの聖霊論的説教論については、佐藤の「R・ボーレン以後の説教学の動向」および小泉の「R・ボーレンの説教学の教会論的基礎づけ」というWeb上の資料があります。それらの資料によれば、ボーレンのその聖霊論的説教論の内容は、次のとおりです――
1)バルトやトゥルナイゼンの神の言葉の神学における説教理解を継承しつつ批判した。
2)バルト神学においては人間の経験の位置づけが弱いから、人間の経験を尊重すべきである。
 この限られた資料から得られた私の理解によれば、ボーレンの聖霊論的説教論は、第一に、神の側の真実であるイエス・キリストにおける啓示の客観的現実性にのみ信頼し固執するバルトの説教論とは違って、会衆に対する牧師の説教の言葉の非疎通性や非呼応性という時代状況の中で、説教論の観点を人間の側の「聞き手」と「聞き手の置かれた状況」に移行させた。第二に、それは、その解決の方途を、人間の感覚と知識を内容とする「人間の経験」の尊重に、すなわち近代主義的な社会構成や支配構成や文明や文化の中での身体的体験や意識内経験・社会や政治との関わり・人間学との交流の尊重に置いた。言わば、ボーレンの聖霊概念は、そのための手段でしかないわけです。なぜなら、佐藤は、ボーレンは「聖霊論的出発が、人間的なるものと、(人間が)なしうることの新しい強調を可能とする」・彼の「聖霊論的出発」は、「神学の優位性を否定することなく」「人間学的局面にもその位置を正しく与える」と述べ、また小泉は、ボーレンの聖霊論的説教論は、「神学の優位性を確保しつつ、人間学を正当に評価する位置を与え得るもの」、と述べているからです。しかし、ボーレンや佐藤や小泉の根本的な錯誤性は、状況論なき思想なきその停滞した中世的思考にあるわけです。なぜなら、佐藤も小泉もボーレンを擁護して空想的に「神学の優位性を確保しつつ」と述べているのですが、客観的に判断すれば事実はその逆だからです。すなわち、中世においては哲学は神学の婢という幻想性が成立し得ましたが、近代以降は、神学としても人間学としても非自立的で中途半端な人間学の後追い知識としての自然神学的な人間学的神学は、誰のそれであっても、人間学の婢としかならないのです。「超自然な神学」者で思想家でもあるバルトだけが、そのことに自覚的でした。したがって、ボーレンはバルトを批判したと述べられていますが、その批判の位相は、バルトの「超自然な神学」のその認識方法および概念構成を根本的に批判し包括し止揚したそれでは全くないので、ただ単なる自然神学的立場からする皮相的な戯言でしかないものなのです。したがってまた、寺園の「神学的立場の根本的相違によるものではない」という認識も、全くの誤謬でしかないものなのです。そのような自然神学的な聖霊論的説教論は、決して現在から未来に生きることができるわけはないのです。このことは、状況論的思想的に自明的なことなのです。「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「大学社会の神学」者やそれに類する牧師や著述家においてのみ、成立している概念にしか過ぎません。したがって、その言葉・概念は、自然時空に死語化していく以外にないのです。ここに、ほんとうのところがあるわけです。
 さて、このようなボーレンらのいう人間の経験の尊重が「言語喪失の状況」を改善させ得ないことは、人間論的人間学的にも明らかなことです。彼らは、楽天的な空想家なのです。なぜなら、ボーレンや佐藤や小泉は人間の経験の尊重を語るわけですけれども、資料を読んだ限り彼らには、状況論や言語論や個体性の哲学や人間の意識と無意識の構造的把握やコミュニケーション論等についての言及が全くないからです。したがって、彼らの人間の経験の尊重とか「言語喪失の状況」の改善とかの空虚な言葉は、「まことに空の空なるかな、である」(バルト)。それに対して、バルトは、人間の対自的意識に関わる言葉で、「われわれ人間の間の伝達は――われわれが人間一般として互い相対立して立つ限り――事実いかに問題的であるかということを念頭におくならば」、「一体、誰が誰を知っているのであろうか」、誰が誰をその無意識の深層において知ることができるのであろうか、と述べています。私は、このバルトを首肯します。
 吉本隆明のコミュニケーション論を、私なりに簡潔に整理してみれば、次のように言うことができます――
1)現実の意識は、対自的となった人間的意識(自己意識の対自的意識、言語の自己表出)と対他的となった実践的意識(自己意識の対他的意識、言語の指示表出)の構造としてある。この自己意識における対自的意識と対他的意識・言語の自己表出と指示表出の構造である現実的意識の外化である言語表現は、「現実的人間との関係の意識、いわば対他的意識(《実践的意識》)の外化である」。このようにして人間は、自己を客体化し、他者の対象となり、社会的関係に入る。このとき〈表現〉された言語は、客観的な対象として百人百様の享受の対象となり、「交通の手段」となる。外化されたその実践的意識(対他的意識、言語の指示表出)は確かに「他の人々にとって存在するとともに、そのことによってはじめて私自身にとってもまた実際に存在するところの現実の意識」という意味で、コミュニケーションによる相互理解に根拠を与える意識である。しかし、
2)他方で人間には、他者からはどうしても窺い知ることのできない人間的意識(対自的意識、言語の自己表出)があることも確かなことなのである、と

 

 小泉は、ボーレンの「神律的相互関係」の概念に依拠して、「聖霊が説教者に言葉を与え、語ることへと導く。説教者は聖霊の言葉を伝え、聖霊の言葉に導く」、と直截的・断定的に聖霊や聖霊の言葉を実体化させて述べています。しかし、私たちは、その語り方に対してすぐに疑問が湧きます。聖霊が説教者に与えたどのような言葉がそれで、どのような言葉がそれではないのか、説教者が伝えた言葉のどれが聖霊のそれで、どれが聖霊のそれではないのか……。この自然神学的な認識の方法や概念構成においては、聖霊や聖霊の言葉は、神学者や説教者の自己意識そのものであり、その自己意識によって対象化された意味的世界・恣意的プログラムそのものでしかないのです。言い換えれば、そこでは、聖霊も聖霊の言葉も、神学者や説教者の自由事項にされてしまっているのです。私たちは、聖霊や聖霊の言葉が、人間が管理するプログラムにしたがって働く付属品にされてしまっているのを見ます。小泉の説教者の保護と正当化のための聖霊論的説教論に対して、バルトの良質な説教論は、こうです――説教の無条件的な出発点と目的は、「新約聖書において聞く啓示、和解」=イエス・キリストの死と復活の出来事の啓示、その内容である「インマルエル、神われらと共にいます」である。したがって、私たちは「キリストからすべてのことを期待しなければならない」。このことが「終末論」である。したがってまた、「キリスト教的終末論とは、キリスト論にほかならない」。ここで説教は、「感謝と確信と共に期待の態度と行動」である。「第一の来臨(≪誕生・死と復活≫)と第二の来臨(≪復活したキリストの再臨、終末、完成≫)との間(≪聖霊の時代≫)に、説教と、また同時にキリスト者の生活全体」とがある。説教は、説教者の自由事項や独占事項ではないのであるから、自分自身の言葉から由来すべきではなく、どのような場合であれ、その形式と内容において、「聖書への絶対的信頼」に基づく、「聖書講解であることの義務」を負っている。すなわち、私たちは、聖書証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」の歴史性(時間的連続性)に信頼し固執し連帯しなければならないのである。「説教者が、実際の生活にはなお多くのことが必要であって聖書は生きるために必要なことを言いつくしていない(≪人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍≫)、と考えるようなことがある限り、彼は、この信頼、信仰を持っておらず、真に信仰によって生き」ようとしていないのである。福音は、「われわれの思考や心情の中にあるのではなく、聖書の中にある」から、私たちは、「思想」、「最高の習慣、最良の見解、そのようなものいっさい」を、聖書に「聴従」することの前で、「放棄」しなければならない。その「聖書は神の言葉となる」ところで、「聖書は神の言葉なのである」。すなわち、聖書に「聴従」するために、神のその都度の自由な決断に基づく啓示の出来事と信仰の出来事において、その神の言葉の「出来事」の運動の中において、聖書によって導かれなければならないのである。説教者にとって、「彼らに語らなければならない彼ら自身に関する真理」は、「神がすでに為した」「わたしの前にいるこの人々のために、キリストは死に、甦られた」――神、罪深きわれらと共に(≪いままでも、いまも、これからも、とこしえに≫)、ということである。そこにおいて、説教は、「会衆」、「特定の場所と時における全く特定の現在の人間」の生活、「彼らの生活がイエス・キリストの中に根拠と希望とを持つことを語ること」である。その場合、「ただ聴衆にだけ目をとめてはならない」のであって、そのあるがままの不信・非キリスト者・非神学(非知)等にも眼をとめて語らなければならない。「『貧しい、低きにいる民』に下っていかなければならない」。このように、説教者は、一方通行的な信や知(神学)の上昇過程の場所からのみ語ってはならず、信や知(神学)における思想の往還において語らなければならない。バルトは一方で、神学的知識的に上昇する往相的な教義学的知識の頂を極める道を歩み『教会教義学』等を完成させましたが、他方では、その教義学的知識の頂から、その還相過程において、「町や村や料理屋や宿屋の人間の現実的生活」にまで意識的に下降し、その時代水準と究極的包括的総体的永遠的救済の課題を、その神学の認識方法および概念構成に繰り込み包括していく道も歩み『福音と律法』等を完成させたのです。すなわち、バルトは、大衆迎合・大衆同化・大衆啓蒙によってではなく、神学における思想の往還によって、その信仰・神学・知識のリアリティを獲得していましたし、反体制的でもあったのです。したがって、「福音と律法のテーマ」は、神学者・寺園喜基が述べているような「教会闘争という時代背景を抜きにしては考えられない」という一面的・皮相的な通俗性には全くないのです。また、説教者は、説教として語る場合、聖霊や聖霊の言葉を説教者の自由事項や独占事項にする小泉のように、「聖霊が(あるいは別の霊であっても)言葉を吹きこむこととか、あるいは一つの構想を持っていることなどあてにしてはならない」。「説教は語ることであるが、……一語一語準備し、書き記しておいたもののこと」である。また、説教者における会衆の状況認識について、会衆は現在すべて知的大衆であって、「その生活を十分に知っており、実際のところ、牧師によって手ほどきされる必要はない」のである、と。聖霊や聖霊の言葉は実体ではない、神学者や説教者や著述家の自由事項や独占事項ではないということは、その説教が「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神」自身の決定事項なのであって、私たち人間の決定事項では決してない、という認識・自覚が必要なのです。なぜなら、その事柄は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基」づいて成立しているからです。私は、このバルトを首肯します。

 

 

バルト対、喜田川信とモルトマン
 人間学的神学を目指す喜田川も、ルターとバルトの差異性を論じているのですが、それは、バルトの『福音と律法』における神の側の真実=主格的属格としての「イエスの信仰」=啓示の客観的現実性を理解せず、したがってバルト神学における思想の往還も理解せず、したがってまた自然神学群の根本的問題も理解せず、「福音と律法」理解におけるルターとバルトの根本的かつ究極的な差異性を論じないクラッパート等を介したただ単なる学問的な概念整理を行っているだけの位相のものなのです。結局は、自然神学的な神と人間・神学と人間学との混淆論・共働論を目指すモルトマンや喜田川が得たいのは、神学的な進歩史観を構成するための「歴史を完成に導く」神という概念であり、そのための聖霊概念なのです。それは、まさしくモルトマンや喜田川の管理する対象化された自己意識の意味的世界である神・聖霊・「理念……有神論的形而上学……プログラム」に過ぎないものなのです。モルトマンや喜田川の自由事項なのです。
 さて、喜田川は、モルトマンの歴史形成論について次のように述べています――モルトマンは、
1)「人間は希望をもつ存在であり、未来の希望(ユートピア)が歴史を推進する原動力」であるとする「ブロッホの哲学(《進歩史観に立つブロッホの対象化された自己意識の意味的世界であるユートピア》)を完成するもの」は、「人間の死の克服と人間と自然との完全な和合を含む」「真のユートピアは」は「イエス・キリストによって先取りされ、確実な希望の対象とされているから」、「キリスト教である」としている、
2)「終末論的」な『将来的なものの力』としての「御霊」の概念によって、「終末論」と「歴史」とを結び付けようとしている。「終末論的なものが、このような仕方で歴史的になることによって、歴史的なものが終末論的になる」。すなわち、「終末が歴史となり、歴史を動かしている」と考えている、
3)「神学と一般の学問との対話を目論見ている」、「特殊と普遍」・「救済史と普遍史」とを交叉させようとしている。
 このモルトマンの歴史形成論を、ヘーゲル学者の山崎純は、次のように論じています――ヘーゲルにおける神の彼岸性を克服した「神の内なる人間、人間の内なる神という神人一体、神人和解の理念」における宗教とは、人間の自己意識によって対象化された自由と理性の理念である。モルトマンは、このヘーゲルの歴史は自由の概念の実現過程であるということに基づいて、「律法・父の国・奴隷状態の歴史(≪世界史的段階で言えば、自然にまみれた原始未開の段階≫)」、「恩寵・子の国・神の子供状態(≪世界史的段階で言えば、自然から対象的にはなったけれども、その対象的自然を自己意識・理性・思惟によって対象化して自然から完全に超出でき得ていないアジア的段階≫)」、「自由・霊の国・神の友の状態(≪世界史的段階で言えば、自然から完全に超出し自由を獲得した西洋近代の段階≫)」、という神学的な三段階的進歩史観において救済史を構想した、と。
 これらのことを勘案すれば、モルトマンの歴史形成論は、神と人間との無限の質的差異を揚棄した、「イエス・キリストの出来事(神の国の先取り)」および「終末論的」な『将来的なものの力』としての「御霊」の概念と人間の歴史および対象化された人間の自己意識の意味的世界であるユートピアとの混淆論・共働論、すなわち神と人間・神学と人間学・救済史と歴史・「救済史と普遍史」との混淆論・共働論なのです。すなわちそれは、「自由・霊の国・神の友状態」へと進歩発展していくそれであるわけです。喜田川もモルトマンンに依拠して、「神の自己犠牲の愛の霊が十字架に基づけられた教会によって担われ、それによって歴史が進展し、この世が変革され、神の国を目指す」という神学的進歩史観を述べています。しかし、このような歴史形成論は、時代状況がゆるさないから、神学的にも人間学的にも成立しないことは自明なことなのです。欧米の危機の只中にある現在、ヘーゲルやマルクスのような西洋近代を頂点としたリニアな進歩史観は全く通用しないからです。したがって、この自然神学的なモルトマンや喜田川の歴史形成論は、自然時空へと死語化していく以外にないのです。したがってまた、現在から未来に生きることは決してできないのです。それに対して、バルトは、そこが世界的神学者・牧師・思想家と呼ばれる所以ですが、この両者とは全く違って、状況論的にも思想的にも質的に全くもって優れています――「先行する他のもろもろの時代のその問題意識にも……、真に耳を傾けることが出来るようになる」ために、私たちは、西洋近代を頂点とした歴史の直線的な進歩・発展というヘーゲルの思想を、「直ちに全面的に放棄」しなければならない。
 さて、メルロ・ポンティの「『知覚の現象学』における」身体性に基づく歴史への関わりを目指している喜田川は、次のように述べています――メルロ・ポンティは、主知主義(主観が客観を構成する)と経験論(経験が人間の一切の源泉と考える)を排し、主観(意識)は客観(対象、世界)に向かって自らを超出し、客観(対象、世界)は主観に向かって自らを現し主観の中に入り込んでくる。その両者が相互に入りこんでくる場所が身体性である。喜田川は、人間が自己身体・他者身体・環界という対象と出会う知覚の場所・身心相関の場所である身体性に関心を持っているのです。したがって、喜田川は、「メルロ・ポンティをそのまま受け取ることはできないが、人間を身体性として捉える見方は非常に示唆的だ」と称賛するのです。そして、一方で喜田川は、モルトマンを称賛して次のように述べています。
1)モルトマンは、「終末的神の国と歴史の流れ(目標)との間に対応関係を認める」。しかし、「人生と歴史の無意味性と無目的性の面」も見逃していない。と同時に、歴史は「十字架の傾向」を持つ。それは、「権力の非神話化、民主化、弱きものへの思考等である」。A「歴史は人間的にいえば進歩するとも進歩しないともいいきれない」。ただ、「イエス・キリストにおいて一つの方向、傾向を持っている」。それだけでなく、
2)「私たちは十字架を通し神が私たちを愛し、……切り開きつつあることを信じうる」。ここで、彼らは、「権力の非神話化、民主化、弱きものへの思考等」と尤もらしく聞こえる言葉を並べているだけで、国家・政治的権力の無化や観念的な法的政治的部分的解放と現実的な社会的人間的総体的解放との構造的把握については語らないのです。言い換えれば、彼らの人間学的神学における歴史形成論には、往還思想がないのです。一方通行的に信・神学(知識)の上昇を目指す往相過程しかないのです。それだけでなく、自然神学的な彼らの神学は、啓示・救済史は、常に、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・歴史の彼岸・外にある、という認識方法および概念構成を持たないのです。また、喜田川は、人間学的神学者として人間学的領域に片足を踏み入れていながら、あいまいな表現で「歴史は人間的にいえば進歩するとも進歩しないともいいきれない」、と述べています。このことは、ほんとうは、次のように言うべきでしょう。人間学的には、自然史の一部である人類史の自然史的過程としての経済社会構成体、科学・技術・その知識は、いずれにせよ進歩・発達のベクトルを持っており、そのことは自然史的必然としてそうであるから、その進歩・発達それ自体は倫理の問題とはならない。すなわち、そこにおける技術的問題は、技術的に解決をしていく以外にはない。現在の技術の水準を包括し止揚して、高次の段階に超出する以外にない。このことは、資本主義制度における貧困格差の問題が資本家諸個人の倫理の問題でないことと同じです。すなわち、その課題解決の方途は、資本制を根本的に包括し止揚して、高次の段階に超出するほかありません。その場合、ナチズムも、全体主義も、スターリニズムも、修正資本主義も、国家を第一義(価値)とする国家社会主義であって、革命の問題から言えば、すべて駄目なのです。吉本は、@「国家を〈棄揚〉する」課題に対する「理想的な共同体」や「堕落しない共同体」についての考察は、思想にとって「過渡的」な考え方・「緊急的課題」に属している。Aそれに対して、思想にとっての「究極的課題」・永続的課題は、「共同体あるいは共同体を観念的に支配する共同的な幻想」を「結局は全部」止揚し無化していくところまで考察を推進していくところにある、と述べていますが、私はこれを首肯します。バルトも、神学における終末論(救贖・完成)的立場において、法・政治的国家、権力の無化の観点を持っています。したがって、。日本ではアメリカ模倣の竹中・小泉路線がそれでしたが、場当たり的なアメリカにおけるキリスト教も加担した新保守主義と結びついた小さな政府を目指す新自由主義も、国家を第一義(価値)とする経済的自由至上主義・至上市場主義経済化でしかないから一切駄目なのです――「私の立場は、経済的な社会構造の発展を自然史的過程として理解しようとするものであって、決して個人を社会的諸関係に責任あるものとしようとするものではない。個人は、主観的にはどんなに諸関係を超越していると考えていても、社会的には畢竟その造出物にほかならないものであるからである」(『資本論』)・「歴史とは個々の世代(≪個体的自己の成果の世代的総和≫)の継起にほかならず、これら世代のいずれもがこれに先行するすべての世代からゆずられた材料、資本、生産力を利用(≪媒介・反復≫)する」(『ドイツ・イデオロギー』)。このマルクスの言葉や、<世界思想の水準に届く思想の在り方>におけるフーコーや吉本の言葉は首肯できるでしょう。また、そこを出自としながらも、いったん疎外された観念は、それ自体の展開過程と自己増殖過程を持ち時間累積されていく。その本質は時間であるから、退歩や復古もあり得る、という意味で、進歩するとは言い切れないだけである、と。フレイザーは西洋近代における自然宗教・アニミズムとしての「樹木崇拝の名残り」について述べているのですが、その「名残り」の根拠は、そこにあると言えるでしょう。
 また、喜田川は「肉体のみならず、社会や、経済や、政治次元をも含む概念」であるメルロ・ポンティの身体性を重視」していますが、吉本隆明は、このメルロ・ポンティの身体性の概念について、次のように述べています
1)「人間の身体を、精神の動きと肉体の動きとが集約される」場所と見なすと、「精神の動きは肉体の内部に起源を持ち、外側に拡がっていって、環界自然にまで及んでゆく」。一方「身体の動きの起源を肉体の表面の感官の動きに求めると、それは社会の具体的な像にまで拡がってゆく」。したがって、「人間にとって一番大切なのは、精神の動きと肉体の動きとが結びついてつくり出す姿や形や像がどんなものかという」構造的把握にある。
2)「情報科学や情報技術の専門家たちは、感覚(《人間の感覚部分に関わる心・精神》)というものと、心や精神(≪人間の非感覚的部分に関わる心・精神≫)というものとは、同じものであると信じて疑わない」ことが問題である。なぜなら、「情報科学や情報工学の発達」は、人間の感覚部分に関わる心・精神を発達させ知識を増大させたけれども、人間の情念・非感覚部分の心や精神を発達させることはできなかった。古代から「人間の喜怒哀楽は変」わらない。経済社会構成体が拡大・高度化し生活の利便性が増大し経済的に豊かになっても、人間の非感覚部分の心や精神は豊かにならなかった。
 しかし、喜田川は、根本的な誤謬に普遍性の後光をかぶせて、モルトマンが人間にとって部分でしかない知覚作用における身心相関領域・「身体性」「からバルトを批判」したと語るのです。このように、モルトマンも喜田川も、人間学的神学におけるその人間学の水準を明確に確定していないために、また神学としても非自立的で中途半端であるために、神学においても人間学においても、最初から「誤謬は必然」となるのです。
 吉本は、次のように述べています――「わたしの身体」は、知覚作用の座である。またその身体は、眼あるいは「人間の歴史の〈つみかさね〉」・知識・自己体験によって、外部から客観的に観察することができるし、「自分が自分の身体をどう思っているか」という意味で、「内からも直接」主観的に観察することができる、という二重の特異性を持つ自然物である。すなわち、それは、「もう一つの他の自然物に対して」「自分を区別することを知っている」・「関係づけられる」自然物である、と。そして、吉本は、現象学的な人間理解、現象学や実存主義の「本質直感」、自己身体を座とする自己意識を持った個体としての人間およびメルロ・ポンティの根本的な誤謬について、次のように述べています。「……自己抽象つけそして自己関係つけというものが、人間の個体を対象にたいして成りたたせている基本的な要素であるといえます。(中略)〔なぜかと言うと〕最初の意識は自然体としての人間、つまり身体としての人間があり、そして自己意識というものが、それを、〈現にここに自己がある〉という、その〈現に〉という時間性と、〈ここに〉という場所性として認知している、そういうことが人間の個体にとって本質的な問題だからです(吉本隆明『吉本隆明全著作集14』「個体・家族・共同性としての人間」勁草書房)、「(中略)けっして知覚作用自体が人間の存在にとってきわめて本質的なことであるということではありません。つまり、そこが現象学的な人間理解というものとわたしどものかんがえ方がまったく異なってくる最初の地点です (前掲書)、「わたしたちが〈知覚〉作用に感情的な選択の衣を着せる訳にいかないのは、直観本質を人間の存在の本質的な仕方と考えないのとおなじである。わたしたちはけっして対象の知覚がいつも科学者の経験の仕方に似ているとはいわない。それが歓びや悲しみや選択をともなうことをしっている。しかし、このような感情作用は〈知覚〉そのものに伴うとしても〈知覚〉とはかかわりないものである。感情作用は一般に対象の了解そのものを対象となしうるという〈内観〉的作用(《内在化された対象の空間化》)に属している(吉本隆明『詩的乾坤』「メルロオ=ポンティの哲学について」国文社)、「メルロオ=ポンティーはいったい〈知覚〉作用の考察によって個体をどうしようとしているのだろうか? すべての現象学的な人間解釈とおなじように、あるばあいには人間をしゃぶりつくして〈直観本質〉という骨ばかりに縮尺したいわけだし、あるばあいは人間個体を酵母のようにふくらませて、共に
 議論し共に生きている人々によって構成された人間空間のなかにおきたいわけである(「前掲書」)。

 

1)メルロ・ポンティでは「対象的に関係づけられて存在するのが個体」であるとしているけれども、それは個体性の哲学にとって本質的な誤謬であって、「個体は個体として自己に関係づけられるから、はじめて対象的に関係づけられる」という点に、個体性の哲学の本質がある。
2)例えば、個体の知覚作用に基づいて、「自体的な識知」=「生理過程の〈変容〉」(《空間化》)と「対象的識知」によって〈この対象は茶碗だ〉と了解(《時間化》)されるのであるが、それに伴う「歓びや悲しみや選択をともなう」感情作用は、その内在化された対象の空間化・「〈内観〉的作用」に属している。したがって、「感情作用は〈知覚〉そのものに伴うとしても〈知覚〉とはかかわりないもの」である。すなわち、対象了解された対象(内在化された対象)を抽象(時間化)する時には概念構成(《了解の抽象化度・時間化度》)の問題として現われるのであるが、感情作用は対象了解された対象を再び空間化する過程において現われる。
3)「人間個体を酵母のようにふくらませて、共に議論し共に生きている人々によって構成された人間空間のなかにおきたい」から、メルロ・ポンティの身体性に興味関心を示した神学者が、モルトマンと喜田川であす。なぜかと言えば、その身体性は、「肉体のみならず、社会、経済、政治次元をも含む概念」としてもあるからです。しかし彼らの場合、メルロ・ポンティがそうであるように、個体の身心相関は、均質な行動空間に還元されてします。しかし、人間の行動空間は均質であるわけではありません。すなわち、その行動空間には、個体が個体として存在する行動の場、個体が性・家族として存在する行動の場=他の個体と関係づけられて存在する行動の場、個体が観念の共同性(政治・法・制度)として存在する行動の場、という三つの位相があるわけです。