本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

『教会教義学 神論Ⅰ/3 六章 神の現実(下)』「三十一節 神の自由の様々な完全性  一 神の単一性と遍在」(その6-5)-1

カール・バルト『教会教義学 神論Ⅰ/3 六章 神の現実(下)』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

『教会教義学 神論Ⅰ/3 六章 神の現実(下)』「三十一節 神の自由の様々な完全性  一 神の単一性と遍在」(その6-5)(68-80頁)

 

「三十一節 神の自由の様々な完全性  一 神の単一性と遍在」(その6-5)-1

 

「六章 神の現実(下) 三十一節 神の自由の様々な完全性」について、バルトは、次のような定式化を行っている。
 神の自由の神性は、神ご自身の中で、またそのすべてのみ業の中で、ひとりでいまし、不変であり、永遠であられるということ、まさにそれと共にまた遍在され、全能であり、栄光に満ちた方であり給うということ、から成り立っており、そのことの中で真であることが確証される(この定式の詳述については、2018年12月28日の記事で行っています)。(3頁)

 

註:客観的な対象として存在している、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性等々については、<カール・バルトの『教会教義学 神の言葉』および著作全般を根本的包括的に原理的に理解するためのキーワードとその内容について――幾つかの註>(2016年6月13日作成)で論じています、参考にしてください。

 

「三十一節 神の自由の様々な完全性  一 神の単一性と遍在」(その6-5)-1
 「われわれの被造物的直観が考え出す、あの(≪「生命がなく、愛がない」≫)無場所的(≪無空間的≫)な場所原理ではなく」、本来的な現実的な起源的な実在的な場所と時間における神の場所とは異なる「すべてのそのほかの場所に立ちまさり、すべてのそのほかの場所を基礎づけ・支配する場所、すべての場所の場所を表示している……場所の原理」、すなわち「神的な根源実在の、まことの、それ故にそれ自身場所的な場所原理」としての「神的遍在の根本形式」は、すなわち「神の御座そのもの」は、「神の一つの本質の三位一体性そのものの根本形式」である。キリストにあっての神は、完全性・自由性・自存性におけるご自身の中での神として、すなわち「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における神として、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「失われない差異性」における三つの存在の仕方、起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父、父が子として自分を自分から区別した第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身、愛に基づく父と子の交わりとしての第三の存在の仕方である聖霊(「愛は、神にとって、最高の法則であり、最後的な実在である」、聖霊はその交わりの中で「父は子の父」・「言葉の語り手」であり、「子は父の子」・「語り手の言葉」である)なる神であり給う「三位一体なるものとしての神は、生き、愛し給い、まさにそのことこそが、神ご自身の中での場所の基礎づけおよび根源実在である」。このキリストにあっての「神の三位一体性は、……まさにそのようなものとして、すべての場所の場所となり」、われわれのための神として「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における三つの存在の仕方、父――啓示者・創造主、子――啓示・和解主、聖霊――啓示されてあること・すなわちそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・救済主なる神の存在としての全き自由の神の愛の行為の出来事全体において、「ご自身をすべての場所の場所とすることができるために、ただひたすら神にのみ固有な場所であるところの場所である」。「父、子、聖霊として神」は、ご自身の中での神として「ご自身のために場所を必要とし、持ち、また場所(≪神の本来的な起源的な実在的な場所と時間における場所≫)であり給う」。またキリストにあっての神は、「父、子、聖霊として、(≪われわれための神として≫)その存在(≪「失われない単一性」を本質とするその存在≫)と具体的存在(≪三つの存在の仕方としての「失われない差異性」におけるその具体的存在、父、子、聖霊なる全き自由の神の愛の行為の出来事全体としての神の存在≫)が、神の意志、決定、行為に対応しているすべてのものの創造主および主であり給うことによって」、神とは異なる「すべてのそのほかのもののためにも、……造られた場所の中での場所」を、それ故に「天と地の場所の中での場所」を、「そのようなものとして」「ちょうどそもそも世界が神と同一ではあり得ないのと同じように」、「神の場所とは……同一ではない」ところの、「(神を通して、神の中で、神の場所によって包まれて場所であることがゆるされる)われわれの場所の中での場所」を「必要とし、持ち、またそのような場所であり給う」。「……それ故にそれらの中で神の場所は、その神的三位一体性の中でのその固有性からして……(≪完全性・自由性・自存性の中で≫)制限なしに場所を持たなければならず、事実持っており」、神とは異なるすべてのそのほかのものに対して、「神は現臨され、それらの中で神が遍在し給う」ところの「われわれの場所の中での場所」を、「必要とし、持ち、またそのような場所であり給う」。この完全性としての神の本来的な現実的な起源的な実在的な場所と時間における神の場所は、常に、そのような神の場所とは異なるすべてのそのほかの時間と空間における場所の、外・彼岸にある・あり続ける。
 このようなご自身の中での神として「神的遍在の根本形式の差別(≪差異、区別を包括した単一性におけるそれ≫)の中で、神的遍在はまた(≪われわれのための神として≫)外に向かっての神の遍在であり、創造(≪神が創造されたものとしての神とは異なる「全被造物」≫)の中での神の遍在である」。キリストにあっての「神が三位一体なるものとしてご自身の中であり給う愛は、(≪完全な≫)自由の中で、……また外に向かっても身を向け、自分自身がまことであることを実証したのである」、自己証明したのである、自己認識・自己理解・自己規定したのである。この「神的存在の故に」、「神的存在と異なった被造物的存在がある」、そしてこの「神的な場所の故に」、「神的場所と異なった被造物的な場所、天と地の場所、われわれの場所が存在する」。そしてまたこの「神ご自身の場所性の故に」、「神は、その被造物の場所の中に、すべての場所の中に現臨し給う」。この「現臨し給う」ということは、「区別と関係を言い表している」。「われわれがわれわれの場所として持ち・知っているところのもの」は、「全体としても個々のものとしても、それとしてそのまま神の場所ではない」、それ故に「神ご自身ではない」。言い換えれば、それは、神と人間との無限の質的差異の下で、ご自身の中での神としての「神の場所なしではなく、むしろ(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰における≫)神の場所を通して、神の場所の中にある」場所である。このようにして「またわれわれの場所の中には、常に徹頭徹尾神の場所がある。それであるから、われわれは、われわれの場所の中にあることによって、いずれにしても常に同時にまた徹頭徹尾神の場所の中にある、いや、われわれがわれわれの被造物的場所の中にあるのと比べてはるかに多く神の場所の中にある」、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰においてわれわれは。したがって、『教会教義学 神の言葉Ⅰ/1・2』において、次のように述べられている――◎(ご自身の中での神として「その隠れの中での神の現臨」とわれわれのための神としての「その啓示の中での神の現臨」)「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」ところの、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストが、われわれ人間に対して、聖書およびその聖書に信頼し固執し連帯した教会の宣教を通して「同時的となる時と所」、「『神われらと共に』が神ご自身によって(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて≫)われわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを認識し承認し確認する、それ故にわれわれは、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として認識し承認し確認する、それ故にまたわれわれは、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定(≪裁き≫)、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ことを認識し承認し確認する、◎われわれは、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に信頼」し固執する、キリストの霊である聖霊の証しの力に信頼し固執する、起源的な第一の形態の神言葉自身の出来事の自己運動に信頼し固執する、それ故に第三の形態の神の言葉に属する全く人間的なわれわれは、「神学をただ啓示(≪起源的な第一の形態の神の言葉、「啓示の実在」そのもの≫)の中にのみ基礎づけ」るために、聖書(≪その第二の形態である聖書的啓示証言、その最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」≫)に信頼し固執し連帯する、それ故に「罪深い曲がった人間」の「究極的な限界性」を自覚した人間の言語を介したわれわれの宣教(その思惟と語り)は、「三位一体を、世界から説明しようと欲しない」で、「むしろ逆に、世界を三位一体から説明せんと欲する」、◎「啓示は歴史の賓辞ではない」・「歴史が啓示の賓辞である」、「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」、すなわち「旧約(≪「神の裁きの啓示」・律法≫)から新約(≪「神の恵みの啓示」・福音≫)へのキリストの十字架でもって終わる古い世」・時間は、復活へと向かっている――このキリストの復活(成就された時間)は、「新しい世」・時間のはじまりである。また、『福音と律法』においては、次のように述べられている――神の側の真実として、イエス・キリストが、われわれ人間のためにわれわれ人間に代わって、われわれ人間の「神の恩寵への嫌悪と回避」に対する神の答えである刑罰(死)を、「唯一回なし遂げ給うた」(「律法の成就」・完了)――このインマヌエルの出来事は、われわれ人間からは「何ら応答を期待せず・また実際に応答を見出さず」とも、「神であることを廃めず」に、「何ら価値や力や資格もない」「罪によって暗くなり・破れた姿」の「人間的存在を己の神的存在につけ加え、身内に取り入れ、それをご自分と分離出来ぬよう」に、「しかも混淆(≪われわれ人間の神との混淆・混合・協働・共働・折衷≫)されぬように、統一し給うた」ということを内容としている。
 「存在するすべてが、場所の中に、(≪それ故に≫)また神の場所の中に、(≪それ故に≫)また神ご自身の中にあり、(≪それ故に≫)神に固有の場所性の中」にあり、「神から身を引くことはできない……(詩篇一三九・五-一〇)」。キリストにあっての神は、ご自身の中での神として「その隠れ(≪その聖性・秘義性・隠蔽性、それ故に不把握性≫)の中で」、それからまたわれわれのために神として「その啓示(≪その顕われ、その自己啓示・自己顕現、それ故にあの「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰≫)の中で」、「それぞれ違った仕方で現臨し給うということ」は、神は、「いたるところおよびご自身の中にいます同一の方として現臨される……」ということを意味している。「神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。この神に対して、わたしたちは言い開きをしなくてはならない(へブル四・一三)」――このことが「どんなに恐ろしい事であるかを、われわれはアモス九・一以下からして学ぶ」。しかし、「そのことが、ただ単に恐ろしいだけではないということ」を、「いや最後的には、決定的に(≪神は、父、子、聖霊なる神の愛の行為の出来事全体としての神の存在における「まさにその愛の中で、その愛の故にこそ、すべてのものに対して、それ故にいたるところ現臨し給うから」≫)まさに恐ろしくはなく、むしろ慰めに満ちたものであるということ……をイザヤ五七・一五からして聞く」――「いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者、その名を聖ととなえられる者がこう言われる、『わたしは高く、聖なる所に住み、また心砕けて、へりくだる者と共に住み、へりくだる者の霊をいかし、砕けたる者の心をいかす』」。「いずれにしても、神ご自身が、その被造物を、包含し・包括し給う。そのようにして、神とは異なるすべてのものの中にいます神の遍在にまでくる」。キリストにあっての「神は、その高き所より見、まさに語り」、「民と人間に近づかれつつ、自らその高き所と異なったすべての所へと降りられるが故に、神の高き所について語られている」。「詩篇六八・一八-二〇で、具象的に描かれている通りである」――「神の戦車は幾千、幾万、主はそのただ中にいます。シナイの神は聖所にいます。主よ、神よ、あなたは高い天に上り、人々をとりことし、人々を貢ぎ物として取り、背く者も取られる。彼らはそこに住み着かせられる。主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を」。これらの「聖句は、……例外ではなく、場所との神の関係に関する聖書証言の通則を形作っている……」。このような訳で、「神の遍在は、厳格に遍在として理解されなければならないが、決して一種の経帷子として理解されてはならず」、「まさにその遍在こそが、動きのある動かすもの」、「この万物の中での、それ自身本来的な動きのある動かすもの」である。キリストにあっての「神の遍在は、神(≪の本質、神の本質の区別を包括した単一性≫)と同様、そもそも存在と行為が一つになったもの(≪神の本質の区別を包括した単一性、すなわち「失われない単一性」・神性・永遠性を「存在の本質」とする三位一体の神の「失われない差異性」における三つの「存在の仕方」、性質・働き・業・行為・行動、神の存在としての全き自由の神の愛の行為の出来事全体≫)である」――それは、「生ける神の遍在」、「生ける神の現臨」である。このような「生ける神の現臨が問題である」。
 前述したような訳で、「神の被造物の中」におけるわれわれのための神としての「生ける神の現臨」があるということは、「(神がご自身を啓示されることによって、神が世界をご自身と和解させ給うことによって為し給うこととの関連の中での)神の特別な現臨」があるということ、「(その被造物の中での神の一般的な現臨の中で、ちょうど山が平野から高くそびえ立っているように際立っている)神の具体的なことの、かしこでの存在の満ち溢れ全体がある……」ということである、すなわち「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における三つの存在の仕方、父、子、聖霊なる神の存在としての全き自由の神の愛の行為の出来事全体があるということである。「人は、まさにこの特別な神の現臨こそが、聖書的な思惟と語りの順序の中で」、「その価値ぶみと評価において」、「常に第一の、……常に本来的な決定的な現臨であると言わなければならない……」。したがって、「その被造物の中での神の一般的な現臨」は、人間の自己意識・理性・思惟や人間的な欲求やによって対象化された「神の特別な現臨の中で・特有な形態の中で啓示されるようになるであろう一般的な真理のような何かではない」。キリストにあっての生ける「神は、確かにいたるところにい給う。しかし、神は、ただ単にいたるところにい給うだけではない」――「この一般的な前提の現実こそが、聖書の記述によれば、神の特別な現臨の外でではなく、(≪前述したようなあの≫)神の特別な現臨の中で、神の特別な現臨と共に、人間と出会う」という点にある、神の側の真実として神の側からやって来るという点にある、ちょうど先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(神と人間との無限の質的差異の下で、それ故にあくまでも神の側の真実からする、神の人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性である聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方、神の子、啓示・和解、起源的な第一の形態の神の言葉、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰≫)に向かっての人間の用意が存在する」と言わなければならないように。このような訳で、「一般的な真理は、特別な真理の中に含まれ、特別な真理を通して保証されているのであって、決してその逆ではない」。自然神学の段階の思惟と語りあるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階における思惟と語りは、このことについて認識し自覚していないのである。その世界的レベルでの典型が、「新約聖書の釈義に役立つ新しい哲学的な鍵」を前期ハイデッガーの哲学原理に見出したルドルフ・ブルトマン(その学派)である。このブルトマン(その学派)に対して、ハイデッガー自身が、次のような根本的な原理的な批判を行ったのである――「『今日まさにこのマールブルクでは、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、(≪人間的理性や人間的欲求やによって対象化されたに過ぎない≫)『いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか』」(木田元『ハイデッガーの思想』)。何故ならば、フォイエルバッハが、やはり根本的に原理的に批判しているように、そこでの神や啓示や神学は、次のような水準のものに過ぎないからである――「人間は自分の本質を対象化し、そして次に再び自己を、このように対象化された主体や人格へ転化された存在者(本質)の対象とする。これが宗教の秘密である」(それ故に、このような「宗教」、このような「宗教」としてのキリスト教とは全く異なる、聖書的啓示証言におけるキリスト教的な信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰は、人間の裁量事項・自由事項・決定事項ではなくて、あくまでも啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいてのみ与えられるものなのである、それ故にまたその思惟と語りが「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるのか、それとも怠惰な思弁でしかないということ」は、神学者、牧師、教会の成員、われわれ人間の裁量事項・自由事項・決定事項ではなくて、あくまでも「神ご自身の決定事項」なのである)・その場合、「(中略)神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」・またその場合、「(中略)神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」のである(『キリスト教の本質』)。バルトは、両者のような根本的包括的なキリスト教批判を、正統性のある、妥当性のある批判として受け止め、それらの批判を包括し止揚し克服するために、換言すれば自然神学の段階の思惟と語りあるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階における思惟と語りに対する根本的包括的な批判を包括し止揚し克服するために、聖書的啓示証言(イエス・キリスト、「啓示の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉についての証言、その人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」)に信頼し固執し連帯して、<非>自然神学の段階の思惟と語りあるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階における思惟と語りを志向し目指したのである。存在的にも・認識的にも神の特別な現臨を拘束しているところの、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方、神の子、啓示・和解、起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト――この「神の特別な現臨」を通して(媒介・反復することを通して)、「さし当たって先ず、第一に、神の特別な現臨(≪起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――啓示者・創造主、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――啓示・和解主、愛に基づく父と子の交わりとしての第三の存在の仕方である聖霊――啓示されてあること・救済主なる神の存在としての全き自由の神の愛の行為の出来事全体≫)へと通じているのである」。このことは、「その根拠」を、「世界は……神の言葉を通して造られ、保持され、担われているということ、すなわち神の啓示の、それ故に世界の中での神の特別な現臨の本質と秘義であるその同じ言葉を通して造られ、保持され、担われているということの中に持っている」。神の「創造の内部(≪神の全被造物内部≫)で、啓示および和解の言葉として特別な場所を占めているその言葉(≪起源的な第一の形態の神の言葉、「啓示の実在」そのもの≫)の中で、神は、全世界に対して、はじめからすべての時代にわたって現臨し給う」。『教会教義学 神の言葉Ⅰ/1・2』においては、「偶発的な同時性」という概念(すでに論述済)を述べるに当たって「時の全くの厳格な相違性の中で、神の言葉は一つであり、同時的である(イエス・キリストは、きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない)」というように述べられている。「事情はこのようであるが故に、神の現臨は、ただ単に認識的に(われわれの認識にとって)だけでなく、また存在的に(その実在の中で)、まさにその啓示し和解する行為(≪三位一体の神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける神の存在としての全き自由の神の愛の行為の出来事≫)の中でのその現臨の特殊性に拘束されている」。このように、「ただ……ここのところで現臨される方だけが、また全体としての世に対しても現臨し給う神である」。『教会教義学 神の言葉Ⅰ/1・2』においては、総括的に、「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」・すなわち「旧約(≪神の裁きの啓示」・律法≫)から新約(≪「神の恵みの啓示」・福音≫)へのキリストの十字架でもって終わる古い世」・時間は、復活へと向かっている・このキリストの復活(成就された時間、換言すれば神の側の真実としてある完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和そのもの)は、「新しい世」・時間のはじまりである、と述べられている。このような訳で、あの「神の一般的な現臨を(≪「強調しつつ」≫)証ししている箇所、詩篇一三九・五以下、アモス九・一以下」は、「いかに神の一般的な現臨を念頭に置いて規則を適用したり」するのかということについて、「またいかに神が……イスラエルの民に対して主および裁き主として現臨されるのかということについて語っておらず」、「それとは逆に、まさに特別な現臨(≪その復活に包括されたところの、その生誕から受難・死と復活までのあの神性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける神の自己啓示・自己顕現≫)を念頭に置いて、あの一般的な現臨(≪イエス・キリストの父――啓示者・創造主、子としてのイエス・キリスト自身――啓示・和解主、愛に基づく父と子の交わりである聖霊――啓示されてあること・その「交わり」の中で、「父は子の父」「言葉の語り手であり」、「子は父の子」「語り手の言葉である」ところの性質、働き、業、行為・救済主なる神の存在としての全き自由の神の愛の行為の出来事全体)の想起と確認にまで来ているかということに、人はよく注意せよ」。「また、へブル四・一三の言葉も、それに先行する節によれば、生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭くて、(≪われわれ人間の「精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに」≫)すべてを刺し通し(≪われわれ人間の「心の思いや考えを」≫)見分ける神の言葉についての言明であるということに、人はよく注意せよ」(下記の【注1】を参照)。起源的な第一の形態の神の言葉(「神への愛」として、キリストにあっての「神を尋ね求め、祈り求めることができ、またそうすべきである一つの所、場所、住居」)――「この神の言葉に、神の遍在は帰せられている」。「決してその逆ではない。すなわち、神の一般的な現臨に対して、(≪神のそれとは異なる≫)そのほかのものと並んでそのような神の言葉の形態と働きを持つ特有性が帰せられているのではない」。われわれが、「例えば詩篇一〇三・二二で、『主に造られたものすべては、主をたたえよ、主の統治されるところの、どこにあっても(≪すべての場所・空間・延長・拡がりにおいて≫)』と記されているのを読む時、その統治の下にあるすべてのそれらの場所」、換言すれば「その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」という神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)を通して「神の支配の下に入る」場所は、「それらがたとえどれほど数多いものであろうと……それとして造られた空間全体(≪それとしての「世、歴史、社会」≫)と無造作にそのまま同一ではないのであって、……その空間の内部における特別な場所である」(「詩篇六八・一六」、「詩篇二・四」、「イザヤ三三・五」、「Ⅰテモテ六・一六」)。したがって、「われわれが、出エジプト二四・一六で、主の栄光(≪聖、全能、永遠、力、善、あわれみ、義、遍在、知恵等≫)がシナイ山の上にとどまると読む時」――このことは、「本来的に理解されなければならない」。したがってまた、「出エジプト二五・八」で、神がわれわれのための神として、「『彼らにわたしのための聖所を造らせなさい。わたしが彼らのうちに住むためである』と言われているのを読む時」――このことも、「本来的に理解されなければならない」。「出エジプト二九・四五以下」も「本来的に理解されなければならない」――ここでは、「すべての民に向かって、エジプト人……アッスリア人……モアブ人……ミデアン人に向かって、あなた方の神であるであろうと言われているのではなく、(≪「本来的に」≫)特別な民イスラエルに向かってあなたがたの神であるであろう言われているのである」。このように、「特別な場所に神が特別に住まわれることについての特別な言明も、すなわちエジプトからのイスラエルの脱出のさし当たっての目標としてシナイに住まわれること、また荒野を通っての放浪と土地占拠の間至聖所に住まわれること、また彼らがパレスチナに住みついた時代にエルサレムに住まわれることについての特別な言明も」、「本来的な」「意味で言われている」。「この民の選びと召命の具体性にそれらの場所の選びと聖別の具体性が対応している」。このような訳で、「ヤコブが、あの夢から覚めて(創世二八・一六以下)で、『まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった』と言い、恐れおののいて、『これはなんという恐るべき所だろう。これは神の家である。これは天の門だ』と語る時」――このことは、「ただ単に敬虔な感情の動きの表現であるだけでなく、神と人間の間の契約全体の基礎にある客観的な事情(≪「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異≫)を言い表している」。このように、「もしも主が、特別にこの特別な場所にいまさないならば、もしもそれが実際にこの特別なベテル〔神の家〕でなかったとしたら」、その時には、「あのところで、すべての時代にわたって、具体的な人間と結ばれた具体的な契約としての神と人間の間の契約全体は、崩壊してしまうであろう」。このような訳で、「(出エジプト三・五)モーセが神に向かって語るのではなく、神がモーセに向かって……『ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである』」と語りかけ給う。また、「イスラエルが、申命一二・一-一四で、『高い山で、丘の上で、青木の下で、その神々に仕えた』国々の民の流儀と全く対立して」、「あなたがたは、あなたがたの神、主にそのようにしてはならない。あなたがたの神、主がその名を置くために、あなたがたの全部族のうちから選ばれる場所、すなわち主の住まいを尋ね求めて、そこに行き、あなたがたの燔祭と、犠牲と、……をそこに携えて行って、そこであなたがたの神、主の前で食べ、喜び楽しまなければならない」と「厳しく命じられている時、そのことは、……(イスラエルの存在はそれと違った仕方ででは決して現実のこととはならなかったであろうが故に)契約の中にあるイスラエルの現実存在は全く考えられないであろう秩序の特別な形態である」。このような訳で、「人はよく注意せよ。異邦人の神々にとっては、彼らの住居と崇拝の場所を決めるに当たっての恣意と偶然は特徴的である」が、「しかし、イスラエルの神は、(≪神の側から≫)神ご自身によって選ばれ、特徴づけられた特定の場所に住み給う」。したがって、「イスラエルに対するもろもろの行為の中で示された(すべての神々と偶像に対し)ヤハウェが卓越し給う姿の描写をもった詩篇一三五編が、『主よほめたたえよ、主のみ名をほめたたえよ。主のしもべたちよ、ほめたたえよ。主の家に立つ者、われらの神の家の大庭に立つ者よ、ほめたたえよ』(一節以下)という言葉ではじまり、『エルサレムに住まわれる主は、シオンからほめたたえられるべきである。主をほめたたえよ』(二一説)の言葉で終わっている時」――このことは、「事柄から見ても、有機的にも必然的である」。このような訳で、「詩篇七四・二で」、「昔あなたが手に入れられた(≪先行する神の側からする≫)あなたの公会、すなわち、(≪先行する神の側からする≫)あなたの嗣業の部族となすためにあがなわれたものを思い出してください。(≪先行する神の側からする≫)あなたが住まわれたシオンの山を思い出してください」と「言われている時、そこでは実際に一つのことが祈られている」、「告白」されている――「主よ、わたしは(≪先行する神の側からする≫)あなたの住まわれる家と、(≪先行する神の側の真実としてある≫)あなたの栄光(≪聖、全能、永遠、力、善、あわれみ、義、遍在、知恵等≫)のとどまる所とを愛します(詩篇二六・八)」(詩篇八四・二以下、詩篇四六・五以下)。この時、「人は当然のことながら、それらすべてが、どんな地図にも見出せない住居」・「神のみ座(≪本来的な現実的な起源的な実在的な場所と時間における生き・愛する神の場所≫)との関連性の中で語られているということを理解しなければならない」。この関連性の中で、それらすべての場所は語られており、それ故に「旧約聖書の証言……すなわち啓示の旧約聖書的形態の中で、繰り返し、……地図上の上でもしるしづけられた(≪先行する神の側からする≫)神の住居が存在するのである」、ちょうど『教会教義学 神の言葉Ⅰ/1・2』によれば、聖書の中の歴史は歴史物語あるいは古譚であって、そのような「神と人間との間に起こったもろもろの歴史」は、「神的な側面」からは、常に、人間が人間的に所有する人間の一般的な歴史認識・概念の彼岸・外にあるものであるが、それ故に史実的歴史が重要なのではなく、重要なことは、聖書が、「シリアの総督のクレニオ」と「聖降誕の出来事」、「ポンテオ・ピラト」と使徒信条というように、神の啓示に対してその都度ごとに、一つの年代的・時間的と地誌的・地域的・空間的との限定性において、「出来事として起こったもろもろの歴史(Gschichten)」という点にあると語られているように(下記の【注2】を参照)。「旧約聖書の証言……すなわち啓示の旧約聖書的形態(エレミヤ七・三以下)」によれば、可視的なそれとしての「場所そのものを聖とみなし、……そのものを持つことによって……主を持っており、主を味方として持とうとしている者たちの思いは空しい」――「その道と行いを改め」ないまま、人間的理性や人間的欲求やによって、すなわち宗教的に、可視的なそれとしての神殿に対して、「あなたがたは、『これは主の神殿だ、主の神殿だ、主の神殿だ』という偽りの言葉を頼みとしてはならない」。神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)を通して「あなたがたは、その道と行いを改めよ」――エレミヤは、「彼らに向かってそのように全く非宗教的に繰り返し警告」しなければならない、神の側の真実として先行する「こそ、そこに住み給い、そのようなものとして認識され、救われることを欲し給うということが、預言者の悔改めと裁きの説教を通して、彼らの記憶に呼び覚まされなければならない」。神の側の真実として「神はまことに住み給う」、本来的な現実的な起源的な実在的な場所(空間)と時間における生き・愛する神の場所(空間)を持ち給う。「このことについてエレミヤ」は、「一瞬たりとも疑いはしなかったのである」。しかし、神は、あれらの「場所に拘束されてい給わない」――このことについて、Ⅰ列王記8:27-30の「ソロモンの祈り」が述べているが、そのことは、「旧約聖書全体の基調を言い表していると言ってよい」。何故ならば、キリストにあっての神は、「エレミヤ七・一四以下によれば、シロに対して為されたように、またこの家を破壊し、この家を見捨て給うことができる」からである。しかし、この神は、本来的な現実的な起源的な実在的な場所(空間)と時間における生き・愛する神の場所(空間)を持ち給う方として、「イスラエルの真中に住み給う方、そこで具体的な場所を占め給う方であったし、これからもいつもそのように場所を占め給う方であるであろう」、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)に依拠したそれぞれの個体的自己としてのキリスト者、その世代的総和としてのキリスト教に固有な類、イエス・キリストを主・頭とするイエスキリストの教会の中に、またその時間性(歴史性)の中に、「これからもいつもそのように場所を占め給う方であるであろう」。

 

【注1】「日米欧などの国際研究チームが10日発表した」ところによると、現存する尖端的な技術的成果を利用して、光をも閉じ込めてしまうブラックホールを映像として捉えられたということであるが(それでもその巨大ブラックホールの成因は分からないという、またブラックホールが映像化され、万物に質量を与えるヒッグス粒子が発見されても、まだ宇宙の謎の90%以上が未解明のままだという、換言すれば人間化されていない・非有機的身体化されていない自然としての宇宙、未知の宇宙が90%以上あるということである)、そのようにすべてを引き込み閉じ込めてしまうブラックホールも、それが自然としての宇宙である限り、全自然を創造し支配するキリストにあっての神の支配の下にあると言うことができる。全自然を支配し、人間の世、世界、歴史を支配し、それぞれの人間の内面――例えば「イエスは身を起こして言われた。『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女(≪姦通の女≫)に石を投げなさい』。(中略)これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った」(ヨハネ8・7-9)――を刺し通し見分けるキリストにあっての神、キリストにあっての神の自己啓示、具体的には聖書的啓示証言は、部分でしか科学を全体化・絶対化する近代の宗教的形態である科学<主義>を包括し止揚し克服していると言うことができる。イエス・キリストの自己啓示・自己顕現の場所(啓示者である父の子、啓示・和解、起源的な第一の形態の神の言葉、「啓示の実在」そのものの場所)は、われわれ人間の、その類・歴史性と個・現存性の生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所なのである、それ故に神と人間、神学と人間学との混淆・混合・共働・協働・折衷を志向し目指す自然神学の段階あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階におけるキリストの恵みの福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」、「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」、「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎ」ない「神秘主義へと変わって行く」ことが見渡せる場所でもあるのである。吉本隆明は、次のように述べている――「……<奇蹟>(中略)たとえば、お前は癒された、立てといったら癩患者が立ち上がった……。これは自分流(≪文芸批評あるいは思想≫)の言葉でいえば、比喩なんです。比喩の言葉というのは、あるばあいにはストレートな真実の言葉よりもっと真実を語るということがありうるわけで、これを実在論に還元してしまうと、田川健三はそうだとおもいますが、こんなのでたらめじゃないか、こういういいかげんなことを書いてる本だという以外にないわけです。しかし言葉としての聖書というのは、(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて≫)信仰の書として読んでも、文学書として読んでも、あるいは思想の書として読んでも、どんな読み方をしょうと人間をのめり込ませる力があるとすれば、これは叡知じゃないとこういうことは言えないという言葉が、そのなかに散らばっているからです。たとえばイエスが、『鶏が三度なく前に私を否むだろう』と言うと、ペテロはそのとおりなっちゃったみたいなエピソードをとっても、人間の<悪>(≪教会論的なキリスト的人間、人間論的な自然的人間、誰であれ、またその理性や意志力等によっても、キリストにあっての「神に敵対し服従しない」・できない、「肉であって、それ故に神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力」を一切持っていないわれわれ人間≫)というのが徹底的にわかっていないとだめだし、心というのがわかっていないとだめだし、同時にこれはすごい言葉なんだというのがなければ、やっぱり感ずるということはないとおもうんです(吉本隆明『<非知>へ――<信>の構造 対話編』「吉本×末次 滝沢克己をめぐって」)。「聖書が読みたくなって来た。こんな、たまらなく、いらいらしている時には、聖書に限るようである。他の本が、みんな無味乾燥でひとつも頭にはいって来ない時でも、聖書の言葉だけは、胸にひびく。本当に、たいしたものだ」(太宰治『正義と微笑』)。

 

【注2】聖書の中の歴史である歴史物語あるいは古譚は、すなわち『和解論』における「原歴史」あるいは「史実以前の歴史」は、無空間的無時間的な神話ではない。何故ならば、「神話が事実として報告していること」は、「少なくとも潜在的に存在している根源的なそして自然的な結びつきとの関係の中に立っている」ところの、「思弁の前形式」として、自然生に依拠した世界史のアフリカ的縄文的段階においては世界普遍的に起こり得た出来事であって、世界史的に「決して一回的な出来事ではなく、繰り返され得る出来事」だからである。史実史を第一義・価値(絶対)とする歴史<主義>は、人間精神が生み出したものを問題とする限り、「啓示を問おうとしない」で「人間精神の自己理解を第一義として」、「聖書の中でも神話を問う」ことをする。しかし、「啓示の証言としての聖書の理解」と、「神話の証言としての聖書の理解」は、相互排除の関係にある。したがって、聖書記事を歴史物語とみなし、聖書記事の「一般的な歴史性(Geschitlichkeit)を問題化すること」は、「証言としての聖書の実体を攻撃しない」が、聖書記事を「神話として受けとること」は、「証言としての聖書の実体を攻撃する」ことになる。何故ならば、啓示は、人間の類の時間、「歴史の枠に、はめ込まれてしまうような歴史的出来事ではない」からである、啓示、神の時間は、常に、人間の歴史、人間の時間の、<外・彼岸>にあるからである・あり続けるからである(『教会教義学 神の言葉Ⅰ/1・2』)。徹頭徹尾「イエス・キリストの名」にのみ感謝をもって信頼し固執し固着したバルトは、歴史的事実を否定しているわけではないことは、次のような論じ方を引き寄せれば明らかなことである――「(中略)確かに受肉は中心的にして重要なものではあるが……新約聖書の本来的内容であるというふうには言ってはならないのである。(中略)それはおよそすべての他の宗教世界の神話や思弁の中にも見出されるものである(≪このことは、すでにかつて述べた≫)。(中略)人は、聖書が語っている受肉を、ただ聖書からのみ、換言すればイエス・キリストの名からのみ……理解することができる。……神人性それ自体もまた新約聖書の内容ではない(このことも、すでにかつて述べた)。新約聖書の内容とは、ただイエス・キリストの名だけであり、そのイエス・キリストの名がたしかにまた、そしてとりわけ、彼の神人性の真理をその名に含んでいるのである。ただまったくこの名だけが、啓示の客観的現実を言いあらわしている」。歴史<主義者>ではない吉本も、次のように述べている――「神話にはいろいろな解釈の仕方があります。比較神話学のように、他の周辺地域の神話との共通点や相違点をくらべていく考え方もありますし、神話なるものはすべて古代における祭式祭儀というものの物語化であるという考え方もあります。また神話のこの部分は歴史的<事実>であり、この部分はでっち上げであるというより分け方というやり方もあります。そのどの方法をとっている場合でも、この説がいいということは、いまのところ残念ながら断定できません。プロ野球で三割の打率があれば相当の打者だということになるのと同じように、神話乃至古代史の研究において、打率三割ならばまったく優秀な研究者であるとわたしはおもっています。じぶんでそれ以上の打率があるとおもっているやつはバカだとかんがえたほうがいいとおもいます」(吉本隆明『南島論』)。バルトや吉本とは違って、『聖書の奇蹟』(講談社)を書いた金子史郎は、聖書の「信仰の書」としての側面、「文学の書」として側面、「思想の書」として側面を全く捨象し後景へと退けてしまって、「聖書考古学や地質学、地球物理学的研究」に依拠して、それ故に自然科学的解明を第一義・価値として、それ故に自然科学<主義>的に、旧約聖書的「奇蹟」の「小さな記述の『断片』も、みな真実に起こった事件の記憶であり、それを核とした伝承である」、と述べている。したがって、無味乾燥甚だしい本となっている。