本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

富岡幸一郎『使徒的人間――カール・バルト』の、この「使徒的」という概念の使い方は本当に正しいのだろうか?

 富岡は、バルト神学の中心的主題が、 「イエス・キリストの出来事に排他的に集中す ること」、 「キリストにおいて啓示された神への集中」、 「キリスト論的集中」にあると述べている。そ して、この「キリスト論的集中」概念から、バルトは「ナチズムという二十世紀の神話の無根拠性をあきらかにし」(【下記の注1参照】) 、「第三帝国の崩壊を、……予告しえた」(【下記の注2参照】)し、 「カトリシズムとプロテスタンティズム」における「 『人間の思考』の枠組」、 「神学的枠組」そのものを攻撃した(バルトの著作に即して言えば、バルトは、そのキリスト論的集中の立場に立脚して、自然神学の段階あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階で停滞と循環を繰り返す思惟と語りを包括し止揚し克服して、<非>自然神学の段階あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階へと移行した)とも述べている。 「イエス・キリストの出来事に排他的に集中す ること」が、イエス・キリストにおける啓示の出来事、その啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に信頼し固執するという意味においてなら、また 「キリストにおいて啓示された神への集中」ということが、起源的な第一の形態の神の言葉(きょうも、きのうも、いつまでも変わることがないイエス・キリスト、「啓示の実在」そのもの)、具体的には第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言(イエス・キリストによって直接的に唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、その最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」)を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋なキリストにあっての神、純粋なキリストの福音を尋ね求める「神への愛」(このような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」――すなわち、すべての人々がキリストの福音を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え、換言すればキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法・神の命令)を志向し目指すという意味においてなら、それ故にそういう仕方で「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すという意味においてなら、 また 「キリスト論的集中」がこのような意味においてなら、このことについては、首肯することができる。しかし、根本的な誤謬にメディア的「組織性と普遍性の後光をかぶせて」主張された富岡の問題点は、厳然としてあるのであり、それらのことについては明確に指摘しておかなければならない。それは、次の点にある〔なお、自然神学の概念については、また神の言葉論については、興味のある方は、私のホームページの「<自然神学>とは何か――バルトの、究極的包括的根本的な<自然神学>批判の、根拠・原理・原動力」および「カール・バルトの『教会教義学 神の言葉』および著作全般を根本的包括的に原理的に理解するためのキーワードとその内容について――幾つかの註」の(5)を参照されたし〕。

 

【注1】「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方、啓示者である父なる神の子、啓示・和解、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの教会は、「二人の主人に仕えることはできない」から。なお、富岡は「ナチズムという二十世紀の神話の無根拠性をあきらかにし」と述べているが、部分でしかない科学を全体化・絶対化する科学<主義>も、近代の宗教的形態(神話)である、歴史<主義>もそうである。また、政治的近代国家も共同宗教としてのキリスト教の最後的形態(神話)である、何故ならば、宗教は、 政治的共同体がまだ整備されていない段階では、自己の本質を至上のもの(第一義性・価値性)と考える人間の自己意識の表象であるが、政治的共同体が整備された近代国家では、宗教は、法(逆立した観念の共同性)を至上物と考える人間の自己意識の表象となって現われるから。この場合、人間は社会的現実的に自由でなくても、観念の共同性を本質とする国家は自由主義国家であり得るし、それ故にその場合人間は恣意的に自由であり得るだけである、またその場合人間は経済的社会的に不平等や格差があっても、法的観念的には平等である得る。このような訳で、政治的近代国家の場合、人間の思惟や現実的生活において、天上の観念的な非日常性(政治的生活)と地上の現実的な日常性(市民社会生活、個別的私的な現実的生活)との二重の生活を強いられる、換言すれば具体的に私人として、市民社会の精神である「私利・私意」に基づく利己主義的な私的他者との対立・争いの生活、利害共同性との対立・争いの 生活と、一方であたかもそうした対立や争いのない法的政治的な共同的観念によって統一された公的共同性の一員(公民、国民)としての生活との二重の生活を強いられる。
【注2】「キリスト者は、政治生活において神の正義が人間によって誤認され・蹂躙される場合にも、神の正義は、……天地の一切の力が与えられているイエスの苦しみのゆえに、優越しているという ことを確信している。悪しき矮小なピラトが、結局は無駄骨折をするというように、配慮がなされているのである。その場合、キリスト者が、どうして、ピラト(≪政治的権力、一切の国家、一切の国家の支配≫)のともがらと成ることができようか」(『教義学要綱』)、「世界の救いを何かある国家的、政治的、経済的または道徳的な諸原理や理念や体制の内に求 め」ようとしないで、「私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストを、いっさいのものにまさって恐れ、かつ、愛すること、神を、大きな問題においても、小さな問題においても、彼がかってあり、いまあり、やがてあり給う権威のままに肯定し、是認すること、私たちの個人的、社会的生活を敢えて律して、すべての善きものを神から、神からすべての善きものを期待するべきである」(『共産主義世界における福音の宣教 ハーメルとバルト』)、「人間の公私の生活においては、絶えず新たな支配が行われるような仕組みになっている」 、「国家は支配であり、文化は支配である」、それ故に「どのような国家形態にも、どのような文化傾 向にも、無条件に『然り』とは言わぬ」(『啓示・教会・神学』)。バルトは、常に、このように思惟し語ったが故に、「第三帝国の崩壊を、……予告しえた」のである。

 

(1)富岡は、自然神学とは「人間が生まれながらにもつ理性によって神の存在を捕えることができるという考え方」であると説明し、具体的にはトマス・ア クィナスの神学がその典型であって、トマスは「アリストテレスの哲学を神学にもちこむことで、人間の理性では自然的に神を認識することはできず、神の啓示と恩寵によらなければ、神を知ることはできないというアウグスティヌス的な信仰理解をこえようとした」と述べている。この富岡の主張は、まさしく高校の「倫理」(私の高校時代は2単位の「倫理政経」と言った)の教科書および資料集におけるそれの水準にあるものでしかないのである。したがって、バルト自身の著作に即した思惟と語りではないことは全く以て明らかなことである。何故ならば、富岡の主張とは違って、バルト自身は、先ず以て「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰である」とした「カントは、本源的であるゆえに、すでに前もってわれわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で、アウグスティヌスの教説と一致する」(『カント』)と述べているからである、換言すればアウグスティヌスも、トマスやカントと同じように、自然神学の段階に停滞し、自然神学の段階を循環しているのである。このような認識、理解、自覚が、富岡にはないのである。したがって、このような富岡に、自然神学について論じられるわけがないのである。

 

(2) 『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』に即して言えば、こうである――アウグスティヌスは、「三位一体の痕跡」である「想起(記憶)、知解、愛」としての「人間の中での神の像」を、「最も身近な最も高貴な認識根拠」とした。それは、アウグスティヌスにとって、「聖書的・教会的・教義的前提」であった。そして、アンセルムスにとってもそうであったが、アンセルムスの場合は、アウグスティヌスとは違って、徹頭徹尾「教えられつつ語る」のであって、「われわ れの理性に内在している神概念の再想起」において「創造しつつ神について語ろう」とはしなかった。 したがって、アンセルムスにおける「認識的なラチオ性〔理性性〕」は、 「啓示、恵み、信仰」を前提条件としていた、換言すれば神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰を前提条件としていた。このような仕方で、自然神学の段階で停滞と循環を繰り返すアウグスティヌスを紙一重で超える在り方に、アンセルムスの神学における<思想性>はあるのである。このような認識、理解、自覚が、富岡にはないのである。

 

(3)「存在するものそのもの」、「その純然たる造られた存在」に依拠した(換言すれば自然神学の段階、存在の類比に依拠した、人間学、人間論に依拠した)アウグスティヌスの「造ラレタモノヲトオシテ、知解サレタ創造主ヲ認識シテ、私タチハ三位一体ナル神ヲ知解スルヨウニシナケレバナラナイ、ソノ跡ハフサワシイカタチデ被造物ノウチニ顕レテイルノデアル」という語り方に対して、バルトは、根本的包括的な原理的な批判を加えている。すなわち、そのような三位一体の跡は、「世界に対 して超越する創造神の跡」として理解することはできない。すなわち、それは、ただ単なる人間的理性や人間的欲求やによって対象化された神(フォイエルバッハ)、「存在者レベルでの神」(ハイデッガー)、人間自身の「内在的に理解」された「宇宙の諸規定・人間的な現実存在の諸規定」、 「単なる宇宙論や人間論」でしかない。したがって、そのよう な三位一体論は、人間自身に基づく「人間の世界理解の、最後的には人間の自己理解」・自己認識・自己規定、 「神話」に過ぎない、ちょうど前期ハイデッガーの哲学原理に依拠したブルトマンの新約聖書の非神話化によって対象化された神、その神の啓示は、まさしく人間的理性や人間的欲求やによって対象化された神、「存在者レベルでの神」であり、その神の啓示でしかないものであるように。したがって、ハイデッガー自身は、自然神学の段階で停滞と循環を繰り返すブルトマンやその学派に対して、「『今日まさにこのマールブルクでは、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか 』」(木田元『ハイデッガーの思想』) と述べたのである。バルト自身は、『ヘーゲル』で、もっと包括的に、「われわれは、シュライエルマッハー以外の他の人々の所でも」、換言すればブルトマン、モルトマン、エーバーハルト・ユンゲル、ルドルフ・ボーレン、ベルトルート・クラッパート、滝沢克己、カトリック主義的キリスト教、近代主義的プロテスタント主義的キリスト教等々の所でも、自然神学の段階あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階の最後的形態である神の人間化・人間の神化を志向し目指す「ヘーゲルの強力な痕跡に遭遇するであろう」と述べている。このような認識、理解、自覚が、富岡にはないのである。

 

(4)自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教は、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に信頼しない」、キリストの霊である聖霊の証しの力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰に「信頼しない」。したって、バルトは、次のように言わなければならないのである――「神学をただ啓示の中にのみ基礎づけ」るために、換言すれば神学を「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方、啓示者である父なる神の子、啓示・和解、起源的な第一の形態の神の言葉、「啓示の実在」そのもの、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストの中にのみ基礎づけるために、その第二の形態の聖書的啓示証言(その最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」)に信頼し固執し連帯した教会の宣教およびその一つの機能としての神学は、「罪深い曲がった人間」の「究極的な限界性」を自覚した人間の言語を前提として、「三位一体を、世界から説明しようと欲」しないで、逆に「世界を三位一体から説明せ んと欲」する、と。すなわち、バルトは、あの「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)に依拠した啓示の類比・信仰の類比・関係の類比を通した人間の自己認識・自己理解・自己規定を志向し目指しているのである。総括的に言えば、キリスト論的集中において、自然神学の段階あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階を包括し止揚し克服して、次の段階、すなわち<非>自然神学の段階あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階へと移行していくことを志向し目指しているのである。したがって、アウグスティヌスとバルトとの根本的包括的な原理的な差異性は、アウグスティヌスにおいては「被造物ノ中デノ三位一体ノ跡」というように語られ、バルトにおいては「三位一体ノ中デノ被造物ノ跡」というように語られるという点にある。起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリストにおける神の 「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」。 「解釈する」とは、 「別の言葉で同一のことを言うこと」で ある、換言すればそれは、起源的な第一の形態の神の言葉(イエス・キリスト)、具体的にはその第二の形態の聖書的啓示証言を、現存する第三の形態に属する全く人間的な教会の宣教、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で 、「同一のことを言うこと」である。このことは、そういう仕方で、「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に連帯し、キリスト教に固有な類の時間累積を行っていくということである、キリスト教に固有な歴史性に連帯するということである。このような認識、理解、自覚が、富岡にはないのである。

 

(5)富岡は、響き具合的のよい、またインパクトのある『使徒的人間――カール・バルト』としたのだが、バルト自身は自分を「使徒的人間」として全く理解していないことは、バルト自身の著作に即して言って明瞭なことである。バルトにとって「使徒的」概念は特別なそれであって、それは、「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における第二の形態の神の言葉(イエス・キリスト、「啓示の実在」そのもの、すなわち起源的な第一の形態の神の言葉の最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」、聖書的啓示証言)と関わる概念である。言い換えれば、それは、イエス・キリストによって直接的に唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちのその人間性と共に神性を賦与され装備されたイエス・キリストについての最初の直接的な第一の「言葉、証言、宣教、説教」と関わる概念である。したがって、第三の形態に属する全く人間的な教会のわれわれは、バルトを含めて、「使徒的」という概念は全く馴染まないのである。むしろ使徒行伝(使徒言行録)10・26の使徒ペテロの「わたしもただの人間です」、14・15の使徒パウロの「わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません」という、この「ただの人間です」という言葉が馴染むのである。現存するカトリックやプロテスタントの組織や制度、職制や階級制があろうと、その頂点に立つ者であろうと、この「ただの人間です」という言葉が馴染むのである。このような認識、理解、自覚が、富岡にはないのである。興味のある方は、私のホームページにある「カール・バルトの『教会教義学 神の言葉』および著作全般を根本的包括的に原理的に理解するためのキーワードとその内容について――幾つかの註(2016年6月13日作成)」の(5)を参照されたし。

 

(6)この富岡は、靖国参拝推進者であり、権威としての天皇と権力としての国家という国体を主張している佐藤優と同じように、その発言内容からして、彼らが国家共同性に第一義性・価値性を置く国家<主義>者であることは明らかなことである。彼らは、バルトの神学者としての「信用を失墜させようとした」ラインホルド・ニーバーが「幼稚な反共主義」(『共産主義世界における福音の宣教 ハーメルとバルト』)であったように、「幼稚な」国家<主義>者である。何故ならば、両者共に、下記のような総括的な構想を持っていないからである。
 キリスト教的終末論的信仰からすれば、換言すれば完了・成就されたイエス・キリストにおける救済・平和に関して、それは、われわれ人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍にとっての<いまだ>であり、神と人間との無限の質的差異における神の側の真実としてある「成就と執行」、「永遠的実在」として<すでに>であるという啓示の弁証法におけるキリスト教的終末論的信仰からすれば、終末の時が、すなわち復活したキリストの再臨の時が、イエス・キリストにおける完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和の「完成」の時である。したがって、ドストエフスキーは、『罪と罰』で、マルメラードフに、 「ただ万人を憐み、万人万物を解する神様ばかりが、われわれを憐んで下さる」、「神さ まは万人を裁いて、万人を赦され」、「最後の日にやって来て」、「……われわれに、御手を伸ばされる。その時こそ何もかも合点が行く!……誰も彼も合点が行く」。「主よ、汝の王国の来たらんことを」と語らせたのである。また、このドストエフスキーと同じように、吉本隆明に<あなたはキリストの再臨を信じていますか>と問われて<はい、信じています>と答えたカトリック作家の小川国夫も、キリスト教的終末論的信仰に立っていると言うことができる。このことを、あの啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比において革命論の問題に敷衍すれば、観念の共同性を本質とする国家の無化を伴う、社会的な、すなわち現実的な個体的自己としての全人間の究極的総体的永続的な解放・平和が、革命論の究極像、究極的課題、最高綱領としてあると言うことができる。したがって、その過渡的課題、最低綱領は、国家を大多数の被支配としての一般大衆・国民にどこまでも開いていくという点にあると言うことができる。このような認識、理解、自覚が、富岡や佐藤にはないのである。
 佐藤なんかは、マルクス『資本論』「第1版の序文」を理解もせずに、池上彰と『希望の資本論』対談を行っていたのである。言い換えれば、学者を含めて現存するメディア的な知識人やその知識および情報はその程度の水準のものが多いのである。それを補うのがメディアにおける言語、映像、音響の技術であり、宣伝力である。それを使えば今の時代、三流の物書きや下手な役者も、その根本的な誤謬や演技力のなさも、三流の知識や三流の演技も、そのメディア的な組織性や普遍性の後光(力)によって、一躍一流の物書きや演技派となることができるのである。その対談における佐藤は、マルクスが「私の立場は、経済的な社会構造の発展を自然史的過程として理解しようとするものであって、決して個人を社会的諸関係に責任あるものとしようとするのではない」と述べていることを理解していなかったのである。その証拠は、佐藤が、その対談で、資本主義の出現を「偶然」性に還元してしまっている点にある。経済的基盤を農耕ではなく資本主義に置く資本主義的な経済社会構成は、自然史の一部である人類史の自然史的過程における尖端性、自然史的<必然>であるにもかかわらず、佐藤は「偶然」性に還元してしまっていたのである。そういう佐藤の発言に対して、池上は異議申し立てをしていないのである、批判をしないのである、すなわち池上も佐藤と同類の、根本的な誤謬にメディア的な「組織性と普遍性の後光をかぶせて」語るメディア的評論家でしかなかったのである。資本制的な経済社会構成は、『経済学批判』「序言」からしても、『資本主義的生産に先行する諸形態』からしても、それが<良き点>と<悪しき点>を同時に持っているとしても、それは、自然史的<成果>、自然史的<必然>である。(興味がある方は、様々な時評の中にある、「池上彰×佐藤優『希望の資本論』から垣間見ることができるメディア的知識人およびメディア的著述家の知識の位相」を参照されたし)

 

 最後に、総括的に言えば、富岡は、キリスト教会の宣教にとって最善・最良の神学を構成したバルトを、バルト自身の著作に即してトータルに認識し理解してはいなかったのである。