本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

世界思想の水準に届く思想の在り方

 カール・バルトの、神の側の真実=ローマ書3・22およびガラテヤ書2・16等の「イエスの信仰」の属格の主格的属格理解=「イエス・キリストが信ずる信仰による神の義」・救済(史)=啓示の客観的現実性にのみ信頼し固執する「超自然な神学」・キリスト教をキーワードにすれば、キリスト教を単純にしかし根本的にそしてトータルに把握できます。なぜなら、自由な自己意識の無限性(ヘーゲル哲学における人間の神的本質)を自覚した近代以降は、特に、神の側の真実だけでなく、人間の自主性・自己主張もという神と人間・神学と人間学の混淆・共働を目指す目的格的属格理解=啓示の主観的現実性に固執する旧来訳聖書や新共同訳聖書(「イエス・キリストを信ずる信仰による神の義」・救済)の場合、どのようなキリスト教も神学もすべて、そのベクトルは、不可避に、正当性のある根本的な全キリスト教・宗教批判――1)フォイエルバッハの宗教批判の対象そのもの、また2)それは、「存在者レベルでの神への信仰」であって、それよりは「むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がいい」と述べたハイデッガーの揶揄・批判の対象そのものである、人間の神化・神の人間化・神学の人間学化・人間学的神学や神学的人間学・キリスト教的哲学や哲学的キリスト教へと向かっていきます。
 したがって、バルトも、現存する自然神学の系譜に属するキリスト教・教会の宣教・信仰・神学における「福音が、理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと、鋭さをなくした……十字架象徴論へと、『そこでは神はもはや何も与えず、人間はもはやなにも受けることのない』ところの、イエス・キリストはたかだか≪暗号≫にすぎず、祈りはたかだか独りごとに過ぎないところの同一神秘論へと変わって行く」、と述べました。
 キリスト教・神学においても、人間学においても、現在から、未来に生きる世界思想の水準に届く思想とは、次のような在り方を意味していると思います。神学におけるその在り方は、バルト「超自然な神学」・キリスト教の認識方法および概念構成の在り方から理解することができます。また、人間学においては、次のようなミシェル・フーコーや吉本隆明の認識方法および概念構成の在り方に見ることができると思います。
(1)フーコーの場合―マルクスは資本主義の分析の際に、「労働者の貧困という問題に出くわして自然の希少のためだとか計画的な搾取のせいだとかといった、ありきたりの説明を拒」んだ。なぜなら、資本主義制度における生産は、制度的必然・「その基本的法則によって必然的に貧困を生産せざるをえない」ものだからである。すなわち、資本主義制度は、「何も働き手を飢えさせるために存在しているわけではないが、かといって彼らを飢えさせずに発展することもできない」ものなのである。したがって、「マルクスは搾取を告発するかわりに、生産を分析した」のである。「このマルクスのやり方にちょっと手を加えますと、ほぼわたしのしたかったことになります。(中略)問題は、何らかの様式に基づいてセクシュアリティを生産し、不幸な結果をもたらす積極的なメカニズムとはどんなものかをとらえること、それだけなのです」。
(2)吉本の場合―資本主義が悪や欠陥を持っていることは、制度的必然として原理的に自明なことである。しかし、資本主義は「人類の歴史の無意識(《自然史の一部である人類史における自然史的過程》)の生んだ……最高の出来栄えの作品」である。したがって、「資本主義が産みだした文明も文化も人類の最高の作品」である。したがってまた、資本主義には「悪」と「欠陥」・搾取・貧困があるから資本主義が産みだした「文明や文化や商品も悪」で欠陥があると資本主義を批判しその文化や文明を批判しても、その「最高の作品たる根拠を揺るがすことはできない」。すなわち、その根拠を揺るがし資本主義を超えるには、資本主義とその資本主義が生み出した文明や文化や商品を包括し止揚する以外にない。言い換えれば、@還相的な究極的永続的課題として、根本的に資本主義を包括し止揚するためには、資本制的生産様式(交換価値論)とは異なる新たな生産様式(新たな価値論)を構成しなければ不可能である。その可能性は、世界普遍性としてある人類史の原型・母型であるアフリカ的縄文的段階における種々の贈与制の歴史的批判的な調査・解明に基づくその再構成にある。すなわち、民族国家の枠組みを超えた世界的規模での技術的・産業的・経済的な地域特性化に基づく贈与制の構成、等価交換的価値論を包括し止揚した高次の贈与価値論の構成にある。それができれば、経済社会構成体を資本制におく西洋近代を超え出て、次の段階に超出することができる。A往相的な過渡的緊急的課題としては、例えば「西武」や「電通」や「自民党の手先」であっても、優れたCM作家の優れたCMは評価すべきであるから、創造的な批判は、それを包括し止揚してそれを超えた作品を創造する以外にない。
 吉本は、人類は「文明の進展やエリート層への従属のために存在しているのではない」から、大多数の被支配としての一般大衆・一般市民が、「歴史の主人公だとおもうためには、まだやること、創られるべき物語はたくさんあるのです。意識のなかの転倒、知識のなかの転倒、政治のなかの転倒をふくめて、すべてひっくり返さなければいけない反物語ばかりです」。知識(非日常)は非知識(日常)より優れているとか、「知識人が非知識人を導くというようなかんがえ方は、絶対に転倒されなければいけない」、と述べていますが、私はこの考え方を首肯します。
 バルトの聖書における歴史認識の方法について、一つ例示してみます。バルトの「超自然な神学」・キリスト教にとっては、復活の出来事は、無空間的無時間的な神話としてでもなく、史実時空においてでもなく、歴史物語時空において起こっているのです。したがって、聖書の歴史・歴史物語あるいは古譚・「原歴史」・「史実以前の歴史」は、まさに一つの年代的および地誌的地域的時空の中で起こったことなのですが、証明されることもされないこともあるわけです。しかし、バルトは確信を持って語ります――「〈史実的に〉確定することのできることだけがじっさいに時間の中で起こり得たに違いないというのは、迷信に基づく。〈歴史家〉たちがそれとして確証できるすべてのことよりも、はるかに確実に、じっさいに時間の中で起こった出来事というものがたしかにあり得る」のであり、「そのような出来事の中にとくにイエスの甦りの歴史が属していると受けとるべき根拠」をもっている、と。このバルトの聖書の歴史認識の方法においてはじめて、ブッシュも述べているように、「その後に続いて起る史実的出来事によって凌駕されて古くなったり、相対化」されたりしてしまうことはないのです『バルトの生涯』)。言い換えれば、このバルトの聖書の歴史認識の方法は、今後も登場してくるであろう人間学的領域における歴史実証主義的研究によっても、その後追い知識としての人間学的神学によっても、またそれらの盛衰によっても左右されることのない神学の認識方法および概念構成なのです。すなわち、バルトは、神学において自立した思想を構成しているのです。私は、このバルトを首肯します。
 私は、非自立的で中途半端な聖書の歴史実証主義的認識を含めて人間学的神学におけるその人間学の水準を確定するために、神話乃至古代史の研究の在り方や史的イエスの問題について論じている吉本隆明の言葉に耳を傾けます。「(中略)ぼくは、マタイ伝の象徴している思想内容にくらべたら、史実性はあまり問題にならない……。(中略)日本でいえば荒井献さんでもいいし、田川健三さんでもいいんですが、歴史的イエスをどこま で限定できるかとか、できないとか、そういう立証のしかたや歴史観があるわけでしょう。ぼくはいまで もそれほどの重要性があるとはおもってないんです。それからそれがほんとうに、そういうふうに実証で きているともおもえないところがあります。(吉本隆明『信の構造2―全キリスト教論集成』春秋社)、「神話にはいろいろな解釈の仕方があります。比較神話学のように、他の周辺地域の神話との共通 点や相違点をくらべていく考え方もありますし、神話なるものはすべて古代における祭式祭儀というものの物語化であるという考え方もあります。また神話のこの部分は歴史的〈事実〉であり、この部分はでっち上げであるというより分け方というやり方もあります。そのどの方法をとっている場合でも、この説がいいということは、いまのところ残念ながら断定できません。プロ野球で三割の打率があれば相当の打者だということになるのと同じように、神話乃至古代史の研究において、打率三割ならばまったく優秀な研究者であるとわたしはおもっています。じぶんでそれ以上の打率があるとおもっているやつはバカだとかんがえたほうがいいとおもいます」(吉本隆明『敗北の構造』「南島論」弓立社)。私は、もう一人ミシェル・フーコーにも耳を傾けます。フーコーは、「形而上史学的な歴史の科学」とは異なる評価の方法について論じています。「ダーウィンの進化論の主要な構成は、遺伝学によって完全なかたちで裏付けられることになりましたが、彼はその進化論において鍵となるいくつかの概念を、今日では批判され捨て去られている科学的領域から引き出しました。(≪しかし、そのことは、≫)、全く重大なことではないのです (M・フーコー『思考集成IV』「ミシェル・フーコーとの対話」大西雅一郎訳、筑摩書房)。ここに、歴史的科学的な実証主義者とは全く異なる、人間学的領域における吉本やフーコーの優れた歴史認識の在り方と根本的な評価の在り方を垣間見ることができます。