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吉本隆明「自己とは何か――キルケゴールに関連して――」

『敗北の構造』「自己とは何か――キルケゴールに関連して――」弓立社

 

キルケゴールのレギーネ体験と人間理解の位相
 キルケゴールが好きになった女性は、身体を持った女性のレギーネではなく、自分の自己意識がつくりあげた理想像・マリア像としてのレギーネだった。このことは、キルケゴールが、身体を持ったレギーネとの対的関係において、自然的な在り方でなく、反自然的な在り方において、対応していることを意味している。このキルケゴールは、人間存在には次元の異なる三つの世界があることを認識していないため、またレギーネとの対的関係を自己と自己との関係として錯誤し、したがってその関係の仕方が反自然的であったため、自己意識が自己に関係する世界で婚約破棄という間違いを犯すことになる。すなわち、キルケゴールは、自己意識が自己に関係する世界で、一方的に、レギーネを理想化し・マリア化し、自分はそのレギーネにはふさわしくない男と認定し、婚約破棄した。もちろん、こうした、自分がもっとも愛した女性を得られなかったという失恋体験における絶望は、その絶望の只中にある者に、自己の「卑小」さの認識と自己相対化視座を獲得させる。すなわち、自分のその存在・その思考・その実践は向こう側の世界から強いられてきて、こちら側の世界の自分の意志の通用する範囲は、どんなに一生懸命頑張っても半分にしか過ぎないことを知らされる。体験を介して、正直に素直に言えば、ここに、ほんとうのところがある、と言えるでしょう。
 さて、キルケゴールは、レギーネとの関係を考える場合、常に個としての人間の世界、個(自己)としての人間がその個(自己)に関係する世界、自己幻想・「自己意識が自己に関係する」世界、個体の世界、「主観的契機」の世界、「内面的倫理」の世界を行き来しています。しかし、人間の存在様式・存在の仕方は均質ではありません、「のっぺらぼう」ではありません。個としての人間が初源であり価値であるわけですが、人間は「先験的に男あるいは女であるわけではなく、人間は人間である」わけです。すなわち、客観的には、個としての人間の自己意識の世界・自己幻想の世界が、「他者の一人と関係するときには、その関係においては、男または女(≪対、夫婦関係、親子関係、兄弟姉妹関係、友人関係≫)としてしか現れることはできない」。また、他方で、個としての人間の自己意識の世界・自己幻想の世界が、「共同体の一員として存在」する世界がある。そして、この「共同性」(三人以上で構成される)のなかの個としての人間は、「あたかも観念が肉体で、肉体が観念であるかのように逆立して現れる」。なぜなら、身体を持った個人が自己に関係する世界でもないし、身体を持った個が他の身体を持った個と対的に関係する世界でもないからであり、自然としての身体を持たない観念の共同性・共同的な観念と関係する世界だからです。したがって、国家の場合も、個としての人間が「参加しているのは観念だけであって、肉体の方は市民社会の中に存在」しています。このように個体としての人間の自己意識の世界・自己幻想の世界・自己思想の世界・自己の観念的世界を考えない場合は、「自己が自己であるという世界も、存在し得ない」でしょう。しかし、キルケゴールは、人間理解において、人間存在を、個としての人間の自己意識の世界・自己幻想の世界が自己と関係する世界を総体性とする錯誤に陥ってしまいました。人間存在を均質に・のっぺらぼうに考えてしまいました。
 この世界には、百人百様の、多種多様な「思想の数」・「立場の数」があり、また、ある「社会秩序」・「国家秩序」・「観念の秩序」があり、これに反逆する思想や立場があり、自分たちこそ真理の保有者であり共同性である、と標榜しています。しかし、百人百様・多種多様の中で、「なにが真理を保有するものの規準になる」かという場合、吉本は、その基準を「関係の絶対性」に置きました。この「関係の絶対性」は、思想の自立・自立的思想に関わるものです。それでは、その人間理解の「客観的な契機」とは何か? 「関係の絶対性」とは何か? 
1)思想にとっての普遍的な価値規準は、社会的存在の自然規定である大衆原像の、自己思想への意識的・還相的な繰り込みにある、ということです。もちろん、この大衆原像は、社会構成・支配構成・文化や文明の時代的な水準によっ変容しますから、その確定と、その大衆像と大衆的課題の自己思想への意識的・還相的な繰り込みは不可避的な課題としてにあります。したがって、思想にとっての普遍的な価値規準からすれば、知識の上昇過程は、人間にとって意味ではあっても価値ではないし、その過程は知識にとって自然的過程に過ぎない、ということになります。したがってまた、もし知識人がその価値としての大衆原像・大衆像・大衆的課題を無視したり・驕ったり・偉ぶったりした場合、その知識人は最低の知識人だとみなすことができるわけです。そして、その知識も、根本的な誤謬に「普遍性や組織性の後光かぶせて語」られたものでしかない、と言えるでしょう。そういう知識人や知識やメディア情報は、鵜呑みにしたい模倣したりしない方がいいに決まっています。
2)人間存在の、根本的で総体的・構造的な理解・認知のことです。すなわち、前述した人間における次元の異なる三つの存在様式の理解・認知・自覚ということです。そうしない場合、党派的思想や宗教としての絶対的思想において、根本的な「誤謬に普遍性や組織性の後光をかぶせて語」ることになります。
 私は、これらの吉本の人間学を、その認識方法と概念構成を、首肯します。対立する人間存在、対立する共同体があった場合、「いずれがより多くの真理を保有しているか」を決定するのは、「関係の絶対性」の規準の認知の度合にある、そのことの自覚にある。したがって、そのことに自覚的でない場合、その一切は、相対的規準におけるものとして、相対性の中に解体していく、と言えると思います。