本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

K・バルト、滝沢克己、そして吉本隆明の聖書論の場所

 信仰を持たない、という文芸批評家で思想家の吉本の聖書論は、文学書・思想書としての聖書においてなされている。したがって、イエス・キリストの実在そのものは「たいして重要ではない」のであり、文学的思想的なマタイ論やマルコ論が展開されるわけです。また例えば、「ヨブ記」の旧約の神については、世界史・人類史におけるアジア的段階の自然原理から展開するわけです。その展開は、それ自体として読めば、納得も首肯もできるものです。また、一キリスト者となった哲学者で思想家の滝沢の聖書論は、哲学書としての聖書においてなされている。したがって、滝沢はイエス・キリストの実在の第一次性を否定(揚棄)し、滝沢自身が構成した哲学的理念・「最深の本質」である「根本的事実」を第一次化し、イエス・キリストはあくまでもその「根本的事実」に従属する限りの第一次的な「徴」に過ぎないとしたわけです。この場合、滝沢は、哲学的キリスト教あるいはキリスト教的哲学の構成に向かったと言えるわけです。この神学的原理は、ハイデッガーの哲学原理を介したものではないと言えますが、ブルトマンと同じ神学的原理の方法を採用していますから、私は一キリスト者として首肯できません。そしてまた、一信仰者で神学者で教会の宣教の現場における説教者で思想家のバルトの聖書論は、主格的属格としてのイエス・キリストにおいて啓示された三位一体の神の「存在の本質」(単一性・神性・永遠性)と「存在の仕方」(父・子・聖霊の性質・行為・働き)への集中においてなされている。したがって、キリスト論的集中聖書論であり、キリスト論的集中終末論であり、キリスト論的集中救済(史)論であり、キリスト論的集中神論であり、キリスト論的集中聖霊論であり、キリスト論的集中における人間の啓示認識論であり、キリスト論的集中における人間の自己認識論なのです。このバルトの信仰的神学的説教者的思想的営為は、バルトを取り巻いていた社会や政治や文明や文化や神学やの時代状況の只中におけるそれです。吉本は、バルトよりも滝沢の方を評価しているのですが、一キリスト者の私は、私自身の生や生活・信仰体験や信仰実態を介する時、明確に確信をもってバルトの方を首肯することになります。なぜなら、理由も説明もないらないところでの、イエス・キリストの方からやってくるイエス・キリストとの出会い、というものを、私は素直に聞き認識し(信じ)首肯するからです。したがって、私は、わたし自身も含めて、確かに人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍性から言えば、「人が信じないようなことだという以外」にないわけですが、使徒言行録9・4−5パウロのダマスコ体験、使徒言行録7・55−56ステファノへのイエスの顕現、キリストの出現物語に反発していたヴェイユへのキリストの顕現と触手、すべてイエス・キリストの方からのイエス・キリストとの出会いですが、私はこの出会いを、素直に聞き認識し(信じ)首肯します。真実のことは、「何もかも合点が行く」「誰も彼も合点が行く」真実のことは、終末論に属する事柄であるわけですが、そのことを私は、終末論的に素直に聞き認識し(信じ)首肯します。そうしたいわけです。
 さて、いつか、バルトの『教会教義学 和解論』の「ヨブ」論と、吉本の「ヨブ記」論を比較考量してみたいと思います。それは、先ず以ては、私自身がわたし自身のために比較考量をしてみたいからです。