ミシェル・フーコーにおけるキリスト教
フーコーが解明しようとしたことは、「政治組織の典型としての国家」やその機構ではありません。それは、「個人の生活を構成するいくつかの要素を発展させ」、「しかもそうした発展が同時に国家の力をも強化するようなやり方で発展させる」政治的合理性の形態・近代的な統治技法についての歴史的批判的な調査・解明にあります。、フーコーは、ギリシャ哲学と初期キリスト教の歴史的批判的な調査・解明によって、規律権力を重層化させた近代的な統治技法である国民諸個人に「生を与える権力」・「生―権力」・「司牧的権力」の系譜を、初期キリスト教に見ました。司牧・牧会は、神父や牧師による私的な諸個人の「魂への心遣い・配慮」のことです。このSeele・魂は、E・トゥルナイゼンによれば、人間の肉体と魂全体を意味しており、それゆえ司牧・牧会は、私的な諸個人の全人格への「心遣い・配慮」を意味することになります。すなわち、その「心遣い・配慮」は、市民社会においてそれぞれ異なった職業、身体、資質、感情、生活、思想、意志、行動を有したところの、「私」的な諸個人を対象としてなされます。「牧会Die Seelsorge は個人に向けられている。牧会は個人を追う」。と同時に、牧者は、牧会における「公」説教において、羊の「群れ全体」の運命にも配慮する。フーコーによれば、ギリシャ人にとって医者への「服属」は、病気を治すという目的を達成するための「手段」であったが、初期キリスト教では牧者への「服属」は「目的」や「美徳」として把握された。すなわち、この時点で、牧者と羊の関係は、羊が自己認識(自己了解)を放棄したところで「他者(牧者)の判断と命令に従って歩く」、従属と服従の関係へと変容した。したがってその関係は、「手段」ではなく「目的」へと変容したのである。そうした関係性を確立するために、牧者は、羊の良心を、牧者の配慮や導きを受け入れることが善であるというように指導すると同時に、羊が良心の在り方を、牧者にすべて晒すことができるように指導した。キリスト教の統治技法は、「個人が現世において自己の『抑制』に向けて努力するよう導く」ことにあるが、「抑制」とは具体的には「現世と自己の放棄」を意味していた。そして、「羊は牧人に四六時中、従わなければならないシステムになっていた」。このような司牧システムの在り方は、社会的には教育制度・医療制度・監獄制度等に適用され、政治的には福祉政策として適用されました。
フーコーにとっては、「市民の生活」と「西欧の歴史の全体を覆って」いて、「現代社会にとっていまなお最高度に重要な問題」は、「国家の統一性の法的枠組みとして機能している政治的権力」と、一方の「すべての諸個人の生命に四六時中こころを配り、彼らに助けを与え、彼らの境遇を改良することを役割」とする「『牧人的』と呼ぶことのできる権力」の無化にありました。このように、フーコーにとっても、権力は実体ではなく、「個人間に存在するひとつの個的な関係タイプ」なのです。すなわちそれは、ある価値基準ある時ある場所において、「聖なる者」と「俗なる者」、「教えるもの」と「教えられるもの」、「正常なもの」と「異常なもの」、「支配されるもの」と「支配するもの」等へと関係を規定する政治的合理性の形態である。言い換えれば、それは、権力的、強制的、弾圧的にではなく、司牧システムが生み出す無意識の共同性によって、その権力的在り方に服属させられる関係性のことである。したがって、国家・政治的権力からの解放とその無化のためには、国民の個別化と「生活の隅々までを監視する全体主義」化という無意識の共同性を生み出す司牧システムそのものへの攻撃が必要となるわけです。このようなフーコーの思想について吉本は、次のように述べています。
ぼくはフーコーの全貌は知りませんが、翻訳されたものだけでいえば、(中略)これを通らなけ
れば現在の世界の思想については何もいえないのではないかとおもっています。(中略)フーコー
の『言葉と物』は、マルクス主義とはぜんぜん別個に、これは国家論としても読めるし、革命論
みたいなものとしても読める。 (吉本隆明『マルクス―読みかえの方法』深夜叢書社)