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「昭和天皇実録」公表と吉本隆明「天皇制(論)の難しさ」

(1)「昭和天皇実録」の新聞記事を読んで感じたこと・考えたこと
ア)宮内庁は、「昭和天皇実録」の閲覧を今月の9日から11月30日まで行うということである。新聞報道によれば、研究者たちにとって、通説を覆すような記述はない、らしい。また、この実録の編集方針は、宮内庁のそれであってみれば至極当然のことと思うのだが、天皇には戦争責任はなかった、という天皇の戦争責任回避を前提としたものである、ということである。
 そういえば、例えば、張作霖爆殺事件について、この「実録」は、「昭和天皇独白録」を根拠に、天皇は、1929年6月、首相の田中義一に「辞表の意をもって責任を明らかすることを求められた」と明記し、最初で最後の政治介入によって田中内閣を総辞職させたようになっていた。また、その「独白録」は、その辞職要求を「若気の至り」として、それ「以来、内閣の上秦する所のものは自分が反対の意見を持っていても裁可を与えることに決心した」、と回想していることを記述している(←→それに対して、内大臣牧野伸顕の日記には、天皇の田中に対する辞表要求の記述はない)。この記述の流れの中で、GHQのマッカーサーに対する天皇の言葉は、「この戦争については、自分としては極力避けたい考えだったが、戦争となる結果を見たことは自分の最も遺憾とするところ」というものである。すなわち、統帥権者としての天皇の戦争責任の発言は避けられており、それゆえにその天皇の言葉は、論理の言葉としては発せられていない。「遺憾」という情緒の言葉で総括されている。

 

 1941年9月6日、御前会議で、米英蘭との太平洋戦争開戦を前提とする「帝国国策遂行要領」が決定された。その前日に、天皇は、参謀総長杉山元・軍令部総長永野修身・首相近衛文麿を呼んで、戦争へと暴走していく軍部に対して、「無謀な戦いを起こすことがあれば、皇祖皇宗に申し訳ない。勝算の見込みはあるのか」と詰問した、とある。しかし、最終的には了解し、「東亜永遠の平和を確立しもって帝国の光栄を保全せんことを期す」という日本帝国主義に基づく宣戦の詔書を発した。私たちは、前者の天皇の言葉から、天皇が、先ず以て「皇祖皇宗」の保持と帝国主義的戦争に「勝算」があるかどうかということに力点を置いていたことを知ることができる。この「皇祖皇宗」の保持ということは、戦後においても変わらないので、天皇とマッカーサーとの会見の通訳を務めた外交官の松井明の「手記」からも知ることができる。というのは、アメリカも天皇を利用した占領政策を行ったのであるが、その「手記」からは、天皇は憲法上「象徴」であるにもかかわらず、天皇制を共産主義の脅威から守るために、高度な政治的な働きかけをアメリカ側に行った可能性があることが指摘されているからである。このことは、天皇の側近も同じであった。新聞記事によれば、1945年8月29日、内大臣木戸幸一に「退位によって戦争責任者の連合国への引き渡しを取りやめることはできないだろうか」という言葉を漏らした天皇に対して、木戸は「天皇制が揺らぐことを懸念し、慎重な判断を求め」たとある。

 

 これらのことから、天皇や天皇制や天皇制国家支配上層は、大多数の被支配としての民衆・一般大衆を「戦争へと駆り立て家族や親族や友人を死に追いやる」ことがないようにすることを第一義としていなかったことを知ることができる。大多数の被支配としての民衆・一般大衆の幸福を第一義的に考えていなかったことを知ることができる。このことは、制度としての官僚・政治家等現政権の支配上層も同じである。

 

イ)1952年サンフランシスコ講和条約により日本の主権が回復して以降、天皇は、靖国参拝を行っていたが、富田朝彦元宮内庁長官のメモによると、1978年10月17日、靖国神社の松平永芳宮司がA級戦犯の14人を合祀するようになって以降は、「参拝しない」ことが「私の心だ」ということで、靖国参拝を行わなくなった、ということである。当時の統帥権者だった天皇自らが靖国神社参拝に対する考え方をこのように変えたにもかかわらず、ほんとうは戦争廃絶を目指すべく戦争責任の告白を行った日本キリスト教団や教会に所属しながら、状況論も持たず自覚もせず、また信仰・神学・教会の宣教における天皇制や国家論(国家の無化)に対する思想的な課題も持たず自覚もせず、ただメディア受けだけを狙って、恣意的独断的出鱈目な考えや発言にそのメディア的組織性の後光をかぶせ、得意になって、国家主義者として靖国神社参拝を行っている馬鹿げた似非使徒が、バルトの自然神学論を高校の倫理レベルの知識で行っていた冨岡幸一郎である。そして、それと同じ穴の狢が、この冨岡を評価している馬鹿げた似非使徒で国家主義者である佐藤優である。そしてまた、彼らと同じ穴の狢が、ほんとうはそうした冨岡や佐藤に対して根本的で包括的な批判を行わなければならないにもかかわらず、メディア受けをしていることはいいことだと即自的に評価し、佐藤を祭り上げて招きその言葉を拝聴する日本キリスト教団に所属する教会の指導者・上層たち等々である。教団や教会にそういう指導者・上層たちがいるということは、神性を本質とするイエス・キリストをのみ頭とすべき教団や教会にとって悲しむべきことではないだろうか……教団の戦争責任は一体どうなってしまったのだろうか……。

 

 

(2)吉本隆明「天皇制(論)の難しさ」(『信の構造3――吉本隆明全天皇制・宗教論集成』)
ア)いずれにしても、天皇制の思想的な課題は、戦争体験・天皇制体験を介した吉本によれば、何度も述べるように、次の点にある。
@本居宣長が、『古事記』にあらわれた8世紀以降の日本を問題にしたように、また天皇制に文化的な価値観(漢学的な美意識)を収斂させていった三島由紀夫のように、「歴史的に<天皇制>を問題とするとき、歴史時代的にこれを問題にしたらだめで歴史時代以前の視点を包括する眼(≪7,8世紀を起源とする天皇制以前にまで――すなわち、原日本・原日本人にまで時代を遡及して考察し追究していく眼≫)で問題にしなければ」、天皇制を相対化し無化することはできない。
A神であり人であり、尊ばれると同時に蔑まれた神人は、差別用語ではなく、非農耕民を総称した呼び方であり、そしてその非農耕民は村のはずれで、手厚く処遇された。この処遇からすれば、天皇も神人の一人であった。ただ天皇は、政治的には専制君主として権力を有していた。天皇族の祭儀は、それより古い南島(あるいは、人類史におけるアフリカ的段階・縄文的段階の原日本・原日本人)の祭儀に基づいたものであり、このように、「祭儀ひとつとっても、天皇族独自の祭儀はなかった」ということを根拠づけることができれば、天皇制の根拠を相対化し無化することができる。
B天皇制を相対化し無化していく課題は、日本においてまだ山の民と海の民と陸の民の相互変換が可能であった共同体の水準、「<法>が法以前の<宗教>的な<威力>であったときの共同体」の水準、「国家が国家以前の共同体」の水準であった時期にまで時間を遡及し鳥瞰図の時間軸を拡張させて考察し追究していくところにある。なぜならば、天皇制という「歴史時代の一国家の歴史は、千数百年」に過ぎず、「そういうものに、人類的にも生活的にも文化的にも価値を収斂させるわけにはいかない」からである。(『どこに思想の根拠をおくか 吉本隆明対談集』「思想の基準をめぐって」)。

 

イ)吉本は、山口昌男の「アフリカ的社会の王権の在り方」の普遍性とアジア的日本的な天皇制の固有性との「交錯するところで、天皇(制)の本体にできる限り近くまで肉薄しようとした試み」を行った赤坂憲雄の『王と天皇』について、「天皇(制)の内部構造」の論述(「中世以後の天皇(制)……の二重構造の……一種類について解明」した論述。興味関心のある方は276・277頁参照)に対して評価し、また「山口昌男のアフリカ社会の王権のあり方から導いた中心――周縁の考え方の影響下に論旨を進め、とてもいい場所まで出てきている。この著者はとても真摯で、この方法ではいちばん遠くまで行っている」と評価しながら、一方で赤坂の天皇制論の弱点は、方法としての時間――空間の指向性変容・構造的時空置換の不在にある、と述べている。同じように、吉本隆明・赤坂憲雄『天皇制の基層』「天皇制論の視座」において、吉本は、天皇制の問題を天皇制からはじめて天皇制で終わらせる赤坂の考察の仕方・方法の根本的な弱点は、その赤坂の場合、天皇制を相対化し無化していくという究極的包括的永続的な天皇制論における思想の課題を扱えないことを指摘している。このことを、吉本は、赤坂が、「アフリカ的という概念はアジア的という概念とおなじように、たんに地域(未開)の固有社会を指すのではなく、歴史の段階を指す普遍的な名称」であるということを認識・自覚していない点にあり、それゆえに、「本当の意味では(≪赤坂は、山口昌男の考察の仕方・方法から≫)すこしも訣別できていない」、と述べている。このように指摘する吉本と、赤坂や山口との紙一重の差異は、次のような吉本自身の言葉で言い表すことができる――「『古事記』や『日本書紀』に記述された天皇(制)神話や出自神話は<潜在的にアフリカ的な段階を含むアジア的な段階>の神話や伝承に属している……まだ不確定な要素がおおいが……一応日本神話や民俗のアフリカ的な段階を縄文期に、アジア的な段階を弥生期以後に当て」ると、「『記』や『紀』の天皇(制)は、アフリカ的な段階を潜在的に古層に含む(≪アフリカ的・縄文的段階を時間累積させている、連続性と断続性の構造における≫)アジア的段階の神話、出自伝承の一種だ」と言うことができる。

 

 吉本の歴史認識の方法は、次のようなものである(『アフリカ的段階について 史観の拡張』)。
@歴史の「普遍的な通則」は、「一般的に文明の外在史と精神の内在史」とが「矛盾のもとにある」という点に求められる。したがって、その歴史認識の方法は、その「通則を原動力として進歩(≪外在史≫)と掘り下げ(≪人類史における精神の内在史を、その母胎・母型・原型であるアフリカ的・縄文的段階にまで時間を遡及して考察し追究していくこと≫)を同時に実現してゆく」点にある。
Aマルクスのアジア的概念は、「未開、原始と古典古代をつなぐ仲介として折衷的に挿入されている」。そして、その概念は、『資本主義的生産に先行する諸形態』によれば、「いつも特殊な空間(地域)の概念がつきまとって」おり、「普遍的な概念としてではなく、西欧近代からみた除外の概念として」のものであった。したがって、吉本は、次のようにして、マルクスの読み替えを行ったのである。すなわち、アジア的概念が成立するためには、「プレ・アジア的(アフリカ的)原型という概念と一体でなくてはならない」・「そして段階という概念が成り立つためには、連続性と断続性とが二つとも設定できなくてはならない」、というようにである。
B人類史において、経済社会構成(経済的基盤)を農耕に置き・「自然」を原理としたアジア的段階という概念は、地域的な概念であると同時に、世界史的普遍性を有する概念でもある。したがって、人類史におけるアジア的段階においては、その地域が西欧であれ、どこであれ、その感じ方の様式・その考え方の様式・その行動の様式において<アジア的なもの>が世界普遍性として通用していた、ということである。また、西欧は速やかに経由したのであるが、西欧もアジア的段階を経由している、と言うことができる。したがってまた、西欧であれ、アジアであれ、どこであれ、人類史の母胎・母型・原型であるアフリカ的段階を経由し・その段階を時間累積させている、と言うことができる。この方法としての時間――空間の指向性変容・構造的時空置換において、はじめて西欧にもある樹木(自然)崇拝の名残りを、「連続性と断続性」の構造において説明し理解することができる。また、この時、この方法こそが、天皇制を扱う上で、根本的な誤謬や迷妄性の陥穽に陥らずに、アジア的段階の天皇制を相対化し無化することができるそれであることを認識することができる。

 

 フーコーが、普遍性(哲学・思想・革命・人間・社会の概念)の誕生の場であった「西欧の危機」を念頭において、禅思想を、その内部とアジアの外部としての西欧から「禅においては、精神性にまつわる一切の技術は、逆に個人を非個別化する―個性を破る傾向がある」と把握したことに対して、臨済禅の僧が、外部の観点を持たないまま、そのアジア的日本的な禅思想の直接的な言葉で、「からだと心とが一つになるという体験、自分とそとの世界とが一つになるという体験、それは世界的に普遍なものですね。禅が国際性を持ち世界性を持つということは、その点からも十分わかるわけですね」、と述べた時、「精神と自然との直接的な統一の段階」というものは、世界史・人類史のアジア的段階においてのみ、世界普遍性を持ち得たという外部からの把握ができ得ていないのである。この場合、臨在禅の僧は、根本的な誤謬と迷妄性の陥穽に陥っているのである。
 また「アジア的」段階にあった江戸期(地域日本)の離婚制度における男性の側の三行半と、女性の側の衣類や家具や持参金に対する財産権的な対抗措置という男女の平等性の在り方は、「アジア的」段階の前、すなわち血縁の氏族共同体を基礎とする「原始的」段階における、所有権や管理権はなかったとしても女性から女性への財産等の相続・継承という、また家族においては妻の自主性や自由の度合が大きかった「母系制」(祖父江孝男『文化人類学入門』)の遺制として、世界普遍性の中に位置づけることができる。したがって、江戸期の男女平等性は、個人原理に基づき明確に法制化された西欧近代の萌芽では決してなく、逆にプレ・アジア的段階・アフリカ的段階・縄文的段階の遺制として位置づけ得るのであって、その意味でそれは新しいことでも進歩的でも革新的でもない。また、人類史のアジア的段階における、自分の所属する村落が世界のすべてであるという閉じられた農耕村落共同体の在り方は、相互扶助の自然感情・意識を育むが、一方で未開の心性や「村八分」や「世間体」や、村落以外のことに対する無関心をはりつかせており、共同体至上意識がいつも個体性を越えていくという負の心性も有しているので、それらは人間個体を抑圧したり、自死に追い込んだり、共同体構成を中央集権化させたりする根拠ともなるものである。

 

 こうした吉本は、山口や赤坂の考察の在り方・方法に対して、「歴史の事象の記述は、一足とびにすべてをトポロジカルな同一性には還元できない。ウンター・クラッセンとしてのアフリカ的とかアジア的とか西欧的とか(≪「超」西欧的とか≫)いう普遍性に類別してしか同一化されえないのだ」、と根本的な批判を加えている。吉本は、次のように述べている――赤坂が山口のアフリカ的「王権論では一般論しか展開できないと批判しながら、すぐに『記』『紀』の天皇(制)神話のなかから虫メガネで拡大しなければ顕在化しない王殺しや貴種流離や外来王の記述を、無理にとりだし、輪郭をつけ<ほら日本の天皇(制)神話のなかにも普遍的な『王』の問題があるじゃないか>といっている西郷信綱や山口昌男から上野千鶴子にいたる外部主義者の手続きを追認しはじめている。わたしたちが地域社会から世界普遍性を虫メガネでとりだすこういう方法に飽きあきして不毛だと考えているのは、べつに『外部』をわきまえないからではない。そんな次元がすでに何の意味もないことを熟知し、……彼らと異なった次元に立っているから」である。西郷が「スサノヲノミコトが高天原から追放される神話に、『王』の追放と流浪の普遍性を見つけようとし、大林太良は新嘗祭や大嘗祭に『王』(天皇)の霊が死(殺)されまた再生する普遍性をとりだし、アマテラスの岩土隠れと扉開きの説話などに殺され王とその復活の姿の普遍性を見よう」としているのであるが、そのことは、「ただ日本の天皇(制)神話もまたアフリカ的な段階を潜在的に含んでいるという問題にしか過ぎない」、と。
 また、吉本は、次のようにも述べている――天皇制に対する、「アフリカとかアジアとかの王権」に対する、西欧の「民俗学的……構造主義的な理解」・「西欧の民俗学あるいは人類学の思想」における解釈の仕方は、外在的な「外側からの解釈」である。この方法、この解釈の仕方は、一面的部分的であり、「まちがっている」。この考え方の「日本の元祖は山口昌男」である。山口は、人類史的段階における「部族的な段階」でのアフリカ王権の在り方を、無媒介的に日本の天皇制に適用しているのだが、ほんとうは、日本の天皇制は人類史における「<アジア的>段階のディスポティズム」である。また、日本の天皇は「チベットの王」と似ているが、人類史的段階におけるアジア的な原始仏教的「インド的……ヒンズー的」な現人神・生き神様の「ダライ・ラマとはちが」っている。なぜならば、日本の天皇制は、確かに人類史における「<アジア的>段階のディスポティズム」ではあるが、日本の天皇は「仏教圏からはじまって」いるのではなくて、原日本・原日本人(縄文期)における「一種の部族的な、地域的な原始宗教からはじまっている」と言えるからである。このように、日本の天皇制は、人類史のアフリカ的段階(縄文的段階)における原始宗教からはじまっているという意味では、山口のアフリカ的王権説も通用する点があるとは言える。したがって、山口の外在的な「外側からの解釈」は、内在的な日本的特殊性・「体験的な天皇制、つまり、内部体験」を、「底のほうまでえぐる」方法を持たないから、その本質にまで届くような考察と追究をすることはできない、すなわちその方法では天皇制を相対化し無化することはできない、と。

 

 したがって、ほんとうは、人類史段階における西洋近代・「『外部』とはなにかをとくこと」が、人類史的段階におけるアジア的日本・「内部の民俗、習俗を解くことと同じこと」という方法が必要なのである。言い換えれば、現在的課題を扱うこと――すなわち、現在を止揚することは、人類史をアジア的段階の以前――すなわち、人類史の母胎・母型・原型としてのアフリカ的段階(縄文的段階)にまで時間を遡及して考察し追究していくことと同じことという方法(同在的方法)が必要なのである。