本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

エコロジー、テレビの読み方等々について

吉本隆明『超「20世紀論」』アスキーに基づく

 

 ここで吉本が語っていることは、<現在性>があることばかりですから、簡潔に整理してみました。
1)エコロジー
 西洋近代、科学主義の対極にある反文明主義、環境主義としてのエコロジーの根本的な誤謬は、進歩・発達を不可避的とする自然史の一部である世界史・人類史の自然史的過程に対して自覚的でない点にある。すなわち、科学・技術の発達とその知識の増大、そのことによる生活の利便性の向上は不可避な事柄に属している。したがって、科学的な問題や技術的な問題は、それ自体において解決の方途を探求していく以外にない。しかし、エコロジストは、天然自然の方が安全だから出来得る限り、科学や文明の発達する以前のアジア的段階の「農耕文化」とか原始未開段階の「狩猟文化」の方がいい、と主張する。しかし、自然は人間に恩恵をもたらすと同時に災害をももたらす。人間は、天然自然の恩恵を最大限に利用し、自然災害を最小限にとどめるために、科学・技術、文明を発達させてきた。
 したがって、吉本は次のように語ります――たとえば、「カップ麺のカップには環境ホルモンが含まれていて有害だ」とエコロジストたちはいいますが、建物にだって有害な化学物質が使われています」。したがって、安全性確保のためには、科学的根拠に基づくその量を問題としなければならない。なぜなら、例えば「金属性の化合物であるミネラルは、生体反応に不可欠な触媒です。これは、微量であれば有益ですが、ある量を越すと有害」だからである。文明の発達がもたらす「有益性」や「利便性」は、必ず危険性を伴っているので、エコロジストたちはそういう危険性を避けようとするのであるが、それは部分を全体とする「人間性を見誤」った考え方・考えである。なぜなら、人間は、そうした安全性を求めると同時に、わざわざけわしい登山等々の危険な冒険を目指す「人間性」をも併せ持っているからである。
2)佐高信、筑紫哲也、本田勝一、椎名誠、落合恵子編集「週刊金曜日」(この勧進元は戦後日本の市民主義の草分けである久野収という)の別冊ブックレット『買ってはいけない』について 
  「『この商品は買ってはいけない』という際どいことをいうと、売れちゃうんですね。そこは、この人たちの商売のうまいところです」。このセンセーショナリズムは、「本当二分、嘘八分」である。これは、一般大衆・一般市民の「恐怖心をあおる」やり方であって、その主調音は「真面目な無責任さ」にある。なぜなら、その商品の危険さを証明するための、科学的実証的な研究結果の明確な報告も、その危険を解決したり回避したりする方途の報告も提示していないからである。また、科学的実証的に、人間にとって危険な摂取「量」を明確に提示しないからである。
3)西洋の理性性と日本の情緒性の根拠
 胎乳児期から1歳未満における母親との関係の在り方が、子供の無意識の核の形成に関与する。このことを前提に、吉本は次のように語っています。割礼の習慣・儀式は、原始未開の社会にもあったが、「フロイトの解釈によれば、それは性的な去勢」、「慈愛に満ちた母子間の愛の暴力的、強制的」切断である。このことは、その子供に痛みを伴う「物理的なキズ」を負わさせることであるが、それだけでなく、その子供の無意識の核に「心理的なキズ」を負わさせることでもある。したがって、その場合、その子供の理性性は発達させることができるが、情緒性は後退させることになる。ここに、理性・思惟中心の理知的な西洋型思考様式の根拠がある。それに対して、日本の場合(西洋型の子供の育て方をしない場合)、胎乳児期から1歳未満までの子供にとっては「母親が全世界である」から、「慈愛に満ちた育て方」の度合に応じて子供の情緒性を発達させることができる。したがって、「慈愛に満ちた母親に育てられたならば、その母親に教養や知識があろうがなかろうが、……感情豊かで、情緒豊かな子供」が育つ。したがってまた、「精神に異常をきたす子供」には「絶対になりません」。
4)「超資本主義」・消費資本主義・「消費、消費者本位」の社会においては、浅田彰のいう、エリートと大衆、という二分法は通用しない
 「消費、消費者本位」の消費資本主義の社会においては、生産資本主義の段階の考え方に基づく「社会が発達し、経済的に豊かになるにつれ、人間の知的レベルも高まる」から、純文学「も盛んになる、という考え方は通用しなくなっている。情報科学や情報技術の発達した高度情報社会下で生活者大衆は、知的大衆へと大きな変容を受けてしまった。こういう状況下において、「純文学が廃れ、大衆文学、推理小説が盛ん」という現象が起こっている、純文学と大衆文学、エリートと大衆、という二分法が通用しなくなっている。すなわち、文学は「多層化」しているし、大衆も知的大衆化して「多層化」している。 「消費、消費者本位」の社会が、純文学を求めず大衆文学等を求め支えている以上、純文学は、廃れるほかはない。出版社も商業資本であるから、当然売れるものの方に目を向けざるを得なくなる。
5)吉本の進歩主義批判
 吉本は、ニュースキャスターの久米宏をとりあげて、例え話で語っています――ここに、同じ程度の悪事を働いた者がいた。一方の悪党は、自分が悪党であることを認め公言しているが、他方の悪党は自分が善人で正義漢であることを強調している。この場合に、どちらがほんとうの悪党か? 「やっぱり後者でしょう」。吉本(誰であれ)は、この後者の、自分をいつも善人の側・正義の側・教養のある側に置いて発言している「自己欺瞞」と「社会的欺瞞」に満ちた進歩主義者を、「いい加減な進歩性」を持った進歩主義者と批判しています。スターリンも、ヒトラーも、日本の軍部も、政権を掌握していた時、政権に都合のいい情報ばかりを流して民衆をだまし、そのお裏では「さんざん悪いことをしていた」。スターリンは、「人類の教師」・「道徳の教師」と言い・書きながら、「平気で、かつての仲間や農民を大量に粛清」した。
 筑紫哲也については、「知識を殺せない」でいるが、「テレビというメディアの場合は、知識を殺した方がいい(≪自然的な知の上昇過程から意識的に下降していくべきである≫)」、と語っています。なぜなら、「インテリぶっても、その限界性やウソ臭さが自然に画面に出」てしまうからである。
 小宮悦子、草野満代、安藤優子たちは、「エリート意識を殺していない」・「いきっぱなしで、帰ってくる段階」・過程を持っていない、と語っています。すなわち、彼女たちは、そのエリート意識・その知識の自然過程を上昇していくだけで、そこから非エリート・非知の側に意識的下降してくる過程を持っていない、ということです。言い換えれば、「自己相対化」の視座を持っていない、ということです。
 「究極的な報道性」について、吉本は、それは、「多様な視聴者が、多様な受け止め方ができる」報道の在り方にある、と語っています。しかし、日本の報道の実態は、消費税増税論議の時も一般市民・一般大衆の側に立たず増税推進報道に向かい、今回の特定秘密保護法の場合も、一般市民・一般大衆の側に立たずメディア側の利害擁護のための報道を目指し、センセーショナリズムに基づいて小泉純一郎や小泉進次郎の映像化と追っかけ報道に専念しています。
6)「朝まで生テレビ」について 
 「あの論議を聞いている人たちは、床屋談義的な浅薄な議論がシャクにさわって、『俺だったら、こんなバカなことはいわねえ』とか、『この野郎!』とか、だんだんイライラしてくる」にちがいない、と吉本は語っていますが、吉本だけでなく、誰であれイラついてくるでしょう。吉本は、田原総一郎の「見識の限界」について、田原の田中角栄批判を例にして、こう語っています――田原の田中角栄批判は、「金権政治批判」と「根拠地批判」(地元との繋がりと地方のインフラ整備)とである。そうした田原のインタビューに対して、田中角栄は、「自分は経済や財政の専門家ではないし、役人出身でもないけれど、役人たちが見通しがつかない問題について質問してくれば、即座に答えることができる。それが、私の政治家としての特徴だ」と答えている。ほんとうは、ここに、田中が政治家として優秀な点がある。また、田中だけが、アメリカとも中国とも、対等に外交交渉ができた政治家である。田中は、そうした「器量の大きい」根拠地を持った「アジア型の最後の政治家」(中央政府は見放しても、故郷は見放さず保護する)である。しかし、アメリカ政府にとって煙たい政治家であっから、アメリカ政府は「コーチャン証言」を通して田中を「失脚させた」にちがいない。田中をこのように評価できない田原の見識は、ほんとうは劣っている。
7)エリート意識が抜けない知識人
 吉本によれば、西部邁、柄谷行人、浅田彰、蓮見重彦たちは、「エリート意識が抜けず」、知識のおける思想の問題、知識の往還の問題を持たない知識人と語っています。したがって、吉本が、柄谷行人・浅田彰・蓮見重彦たちを「知の三バカ」という場合、それは、あくまでも上記のことを意味しています。すなわち、一方通行的に知識の頂へと上昇して行く知識の自然過程しか持たない知識人、ということを意味しています。 
 さて、吉本の大衆原像や知識人論や自立論等に対して異論を唱えたのは、『終焉をめぐって』(福武書店)を著した柄谷行人です。柄谷は、吉本だけでなく、ミシェル・フーコーの「知=権力」論も時代錯誤だとして、知識人という言葉は死語ではないが死語に等しいとしながら、「知識人を攻撃し嘲笑する言葉だけはあいかわらず続いている」と述べています。そして、吉本やフーコーのような知識人は、「知識人をどこかに想定しそれを批判することで自らを意味あらしめようとするタイプ」と規定して、「知識人はその最初から、『知』に対して否定的であり、その外部に生活、大衆、常識、あるいはイノセンスを想定している」と述べています。すなわち、柄谷は、自分のような知識の頂を究めようとする知識人こそが、「知性」ある本来的な知識人である、と言うわけです。いわば、それは、24時間の現実的な生活的日常から「遊離」した、25時間目に想定される非日常、すなわち知識の自然的な上昇過程・観念的日常を生きる知識人のことです。したがって、柄谷は、「大衆から遊離しないような『知』があるだろうか。知は、大衆=自然と遊離しているがゆえに、知である」、と述べています 。「吉本隆明は、知の課題は、知の頂を極めそこから『非知』に向かって静かに着地することだといっている」。「しかし、(中略)知識人は大衆の自己疎外態であり、それゆえ大衆=自然=無知にたどりつくことが知の課題である、というような円環はロマン派的なものだ」、と述べています。柄谷の「知識人は大衆の自己疎外態」という言い方は首肯できます。しかし柄谷は、吉本のいう「非知」を、いつのまにか「無知」と同一化してしまっています。ここに、知識の総体的構造なき・知識の往還なき、知識の部分を全体とする「大衆から遊離」した「知性」ある本来的な知識人である柄谷の知識の在り方をみることができます。確かに吉本自身、非知といっても無知といってもいいが、という言い方をしている場合もあります。また、吉本は、無知に静に着地できることが理想であるとも述べています。しかし、いずれにせよ、知識の課題は、柄谷のいう一方通行的な知識の上昇過程・知識の自然過程にあるのではなく、その知識の頂から再び非知へと意識的に下降してくるその知識の総体的構造・知識の往還にあるわけです。したがって、この知識の総体的構造・知識の往還は、大衆迎合や大衆同化や大衆啓蒙とは違うものと言えるでしょう。すなわち、それは、その知識(観念)の、自立性、リアリティの獲得と反体制性の獲得を目指すものと言えるでしょう。
8)教条的市民主義者の弱点
 日本の左翼的知識人で市民主義の草分けは、「一人は久野収」で、「もう一人は丸山眞男」である。また、「久野収の小型版」の佐高信は、「評価」の対象外である。丸山は、「日本の文化的深層」に「分け入った市民主義者の典型」である。しかし、近代主義者で進歩主義者の久野は、そうはしなかった。そして、両者の共通性は、時代的制約から共産党を「神」として信仰し、また共産党を批判する理念を持たなかったから共産党を批判しなかった点にある。
9)科学的領域と非科学的領域の境界の問題
 大槻義彦のいう科学は、「生命科学や遺伝子生物学などが発達する以前の古い科学」のことである。大槻の問題点は、「科学にはまだ分からないこと」がある、「世の中には不思議な現象がある」という意味ではなくて、「遺伝的に……異常に敏感な感覚を持った人」がいることに対して、最初から「インチキだ」と否定してしまう点にある。本当は、科学者は、科学と非科学との境界領域の問題を「考察するに値するもの」として扱う必要がある。すなわち、科学における思想の問題として、その科学において、科学と非科学を架橋する必要がある。中上健次と角川春樹の対談『俳句の時代』(角川書店)で、角川は「時どき、自分の中からバッと古語が飛び出した俳句が生まれる。飛び出した古語が自分で知らないことがある、つまり知識としては」と言い、中上は「短編でも長編でも(中略)神がかりみたいになって、言葉が出る」と言っています。「ウソだ」と思えてしまいますが、ほんとうにそういうことはあるわけです。したがって、科学は、このようなことを「ウソだ」とか「インチキだ」とか、と言って切り捨ててしまってはいけないわけで、ほんとうは、科学は、その非科学的とも思えるその事実と科学とを架橋する必要があると思います。そこに、科学における思想の問題があるからです。