ほんとうの祈りとは
神の側の真実=主格的属格としての「イエスの信仰」にのみ信頼し固執するほんとうの祈りついて、バルトは次のように述べています。私のような不信仰で無力な者は、ほんとうに救われます。
マルコ福音書の「信じます。不信仰な私を、お助け下さい」・「信じます。信仰のないわたしをお助け下さい」。イエス・キリストにおける神から遠ざかり遠ざかり続けている、また罪を新たな罪を犯し続けている私が、無神性・不信仰・真実の罪の只中にある私が、そして「私たちが神に向かって語る。『ああ……!』というこの小さな嘆息」、それは、「すべての祈りの源」である。「そこにはただ、神の子の全く素直な赦しがあるだけである。あなたが祈れない時、この赦しを用いるのが、あなたのなすべきことである」。これは、一方通行的に信に上昇していく往相的な言葉(祈り)ではなく、まさしく不信をそのあるがままに包括し止揚した・克服した、信における還相的な言葉(祈り)でしょう。ここに、個・対(男女・夫婦・家族)・共同性を存在様式とする人間における、全人間・全世界・全人類における、ほんとうの祈りがある、と言えるでしょう。私は、このバルトを首肯します。