本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

吉本隆明にとっての「新約聖書」――『読書の方法 なにを、どう読むか』光文社

 吉本にとって、「新約聖書」は思想としての書物であり、その作者は「人類の生んだ最大の思想家の一人」である。吉本が「新約聖書」を読んだ時期は、「敗戦直後の混迷した精神状態」の只中で、吉本が「すべてを白眼視」し、「現実の社会的動きに苛立って」いた時期である。吉本は、次のように書いている――「いまおもうと、自分がコッケイであり、悲しくもあるが、富士見坂の教会などに行って、牧師の説教をきいたりしたこともあった」。しかし、「だめなのだ。彼らは、『新約聖書』の理解を、まったく、まちがっているとしかおもえなかった。綺麗事じゃないか。『新約聖書』なんて、そんなものじゃないよ、という抗議を、こころのなかで何度もあげた」。「わたしは、その時も、いまも、『新約聖書』を理解した日本の文学作品としては、太宰治の『駈込み訴へ』が、最上のものではないかとかんがえている。芥川龍之介の『西方の人』は、太宰の『駈込み訴へ』一篇に及ばないのである」。
 私が、この文章を引用したのは、牧師の説教への吉本の「『新約聖書』なんて、そんなものじゃないよ、という抗議」・「こころのなかで何度もあげた」叫びに対して、また吉本とは違った意味でのそうした叫びをあげている人たちに対して、そしてまた不信や非キリスト者や非知からの叫びに対して、根本的かつ究極的な終末論的限界の自覚の下で、あるいは吉本が述べているように、人間には他者からはどうしても窺い知ることのできない人間的意識(対自的意識・言語の自己表出)がることの自覚の下で、またバルトが述べているように、「一体、誰が誰を知っているのであろうか」、誰が誰を知ることができるのであろうかという人間の対自的意識があることの自覚の下で、納得させることはできないにしても、時流や時勢に流されず、人間論や人間学的な認識論や哲学原理や世界観の盛衰に左右されず、あくまでもイエス・キリストの啓示の出来事=啓示の実在を第一次的なものとして、聖書の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義の歴史性(時間的連続性)に連帯した聖書理解をとおして、誰にも媚びることなく真摯に正直に素直に答えていくことが重要で大切なことだろう、と考えるからです。バルトの場合は、神学における思想、「イエスの信仰」の主格的属格理解(信仰・神学)に信頼し固執する認識方法および概念構成で答えている、と言えるでしょう。
 それに対して小泉健は、ボーレンの「神律的相互関係」の概念に依拠して、「聖霊が説教者に言葉を与え、語ることへと導く。説教者は聖霊の言葉を伝え、聖霊の言葉に導く」、と直截的・断定的に聖霊や聖霊の言葉を実体化させて述べているのですが、すなわち聖霊や聖霊の言葉を、神学者・説教者の自由事項として述べているのですが、これでは、その聖霊や聖霊の言葉は、神学者・説教者・彼らの説教の正当化のためだけの概念でしかなくなってしまうと言えるでしょう。神学者や説教者は、ドストエフスキーの終末論や小川国夫の「保留」の思惟や概念の質の良さを見習うべきだと思います。
 さて、吉本は、ヴェイユにおける「信」と「不信」の弁証法について、『甦るヴェイユ』で次のように述べている――「17世紀のイギリスの詩人ジョージ・ハーバートの詩『愛』の言葉を導きとして体験した入眠中の触神・見神」・キリストの顕現に対して、ヴェイユは、「なによりも入眠幻覚と解釈することを拒んで、キリストによる触神・見神の如実性を少しも疑っていない。わたしたちはヴェイユの細心な『信』と『無信』の弁証のひだがあらわれてくるのに立ち会っている」。ヴェイユの「触神・見神」・キリストの顕現とは、次のようなものです――「『小さな花』では、福音書の中の軌跡と同じように、ほかのことよりもキリストの出現物語に、わたくしは反撥を感じました」。そうした「わたくしはそれ(≪『愛』の詩≫)をただ美しい詩として暗誦しているつもりでしたが、知らず知らずに、この暗誦は祈りのような力をもっていました」。その時、「キリストが突然わたくしをとらえて下さいましたときは」「キリスト御自身が降って、わたくしが御手にとらえられました」時は、「感覚も想像も少しもはたきませんでした。わたくしは苦しみ(≪「慢性の肉体的苦痛・頭痛」・「生命が根こそぎにされる不幸」→「精神」的「社会的」不幸≫)を通じて、愛する人の顔のほほえみに読まれたものに似た愛の現存を感じた」。

 

       愛
  愛が私に腕をひろげていた。けれども私の悪い魂は罪に汚れて、しりぞいた。
  細心な愛はこれを見て、私ははいってきたときからおずおずしていたのに、
  私のところへ来て、何か足りないものがあるかと、やさしくたずねた。
  「ありますとも。この場所にふさわしい客がいません」と私は言った。
  ところが愛は言った、「それはおまえだよ。」
  「私ですって。この心なしの、忘恩の私ですって。やさしい友よ、私はあなたの方をみることもできない
のです。」
  愛はほほえみながら私の腕をとって言う、「私のほかに誰がおまえに目を注ぐだろうか。」
  「主よ、その通りです。けれども私はその目を汚しました。恥ずべき私は私にふさわしい処へ行けばよ
  いのです。」
  「おまえは誰が罪を背負おうとしているのか知らないのか。」
  「やさしい友よ、私にあなたの御用をさせて下さい。」
  「坐って、私の宴を味わうがよい」と愛は言った。そこで私は坐り、そして食べた。(『甦るヴェイユ』JIC
  C出版局より)

 

 ここで「愛」はキリストであり、私はヴェイユです。愛からしりぞく無信に対して、イエス・キリストは、主として・神性を本質とするイエス・キリストとして顕現しています。そして、神は、イエス・キリストにおいて、罪に汚れた私(私たち)と共にい給う、ということが知らされます、信仰させられます。ヴェイユは、その後も洗礼を拒み続けたとしてもです。イエス・キリストの方からやってくる、イエス・キリストと私(私たち)との出会い(信仰体験)はある、と私は思います。私は、西洋近代を、そして現在を生きていますが、その事柄を、私は、素直に承認します。