本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

吉本隆明の言語論について一つ

 『日本語のゆくえ』光文社に基づいて簡潔に述べれば、次のように言うことができます。
 言語とは、「自己表出を縦糸とすれば、指示表出を横糸とする織物」である。そして、自分とほんとうの考え・ほんとうの世界・「理想を願望する自分」とを架橋する度合の「豊富」さが、「自己表出」の本質であり、「芸術的価値」の本質である。すなわち、芸術的価値は、この「自己表出に依存」する。したがって、芸術的価値は、労働時間量の多少で価値が決定される経済的価値(文学に敷衍すれば、推敲時間量の多少に依拠する「推敲価値」)とは異なっている。自己表出は、コミュニケーションを目的としない、「内的発語」、「内心で」「自分が自分に問うという問い方」、自分が自分に言葉を発することを本質としている。したがって、文学の物語性は、間接的に、指示表出として芸術的価値に関与する。この指示表出は、耳目等の感覚からやってくる表現のことで、長編小説であれば「物語的な起伏」・物語性としてある。詩でいえば、「場面選択」・「場面転換」・「比喩」の問題としてある。このことについて、吉本は、島崎藤村の『若菜集』「初恋」四行詩の二聯目を例にして、次のように述べています。

 

  やさしく白き手をのべて
  林檎をわれにあたへしは
  薄紅の秋の実に
  人こひ初めしはじめなり

 

この二行目の「林檎」を三行目で「薄紅の秋の実に」という比喩を使って場面転換させると同時に、その比喩は、四行目の「『人こひ初めしはじめなり』という、自分が恋するようになった女の人」を導き出すそれとして使われている。また、品詞の区別でいえば、自己表出の度合が強いのは「感動詞」>「助詞」>「助動詞」等で、指示表出の度合の強いのは「名詞」>「代名詞」等である。簡潔に整理すれば、このように、吉本は述べています。
 また、吉本は、『源氏物語』について、次のように述べています――『源氏物語』が主人公・光源氏の男女関係の繰り返しであるという側面においては「退屈」な物語であるにもかかわらず、「日本の国文学者も外国の研究家も、『源氏物語』について『退屈だ』」と言わないから、すなわち「みな一様に、いいところだけを取り上げて論うのが通例になっている」から、それでは芸術言語論から言えば、批評にならない。もちろん、一方で、『源氏物語』は、文学史的にではなく、芸術言語論の表現転移論(文体論)から言えば、「作者の人間像」と「作品の主人公の像」、「作品の主人公が言うことや行うこと」と「作者の考え」、「作者が解説する地の文」と「作者みずからの考え方・感覚」、が意識的に明瞭に区別されているから、「近代小説の条件をすべて兼ね備えている」し「現代性」がある。ここでは、平安中期に成立した『源氏物語』は、「現代の作品」と呼んでもいい「現代性」を獲得している。これは、『源氏物語』の歴史的現存性と呼んでもいいでしょう。ヨハネ8・7−9の「イエスは身を起こして言われた。『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女(《姦通の女》)に石を投げなさい。』(中略)これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った」――この人間の内面の普遍性に届く言葉の水準・思想性は、「現代性」を獲得しているのではないでしょうか。また、『源氏物語』、物語性も優れている――「物語が進むにつれ、華やかだった光源氏が年老い落魄していく」と、「物語のなかにも、いかにも春と夏が過ぎて、秋の気配を感じさせるような季節感が漂ってくる」。吉本は、「表出史の概念」について、次のように述べています。

 

  ひとつの作品は、ひとりの作家をもっている。ある個性的な、もっとも類を拒絶した中心的な思想をどこかに秘しているひとりの作家を。そして、ひとりの作家は、かれにとってももっとも必然的な環境や生活をもち、その生活、その環境は中心的なところで一回かぎりの、かれだけしか体験したことのない核をかくしている。まだあるのだ。あるひとつの生活、ひとつの環境は、もっとも必然的にある時代、ひとつの社会、そしてある支配の形態のなかに在り、その中心的な部分は、けっして他の時代、他の社会、他の支配からはうかがうことのできない秘められた時代性の殻をもつ。
  このようにして、ある時代、ある社会、ある支配形態の下でのひとつの作品は、たんに異なった時代のちがった社会の他の作品にたいしてばかりでなく、同じ時代、同じ社会、同じ支配の下での他の作品にたいして決定的に異質な中心をもっている。そればかりでなく、おなじひとりの作家にとってさえ、あるひとつの作品は、べつのひとつの作品とまったく異なっている。言語の指示表出の中心がこれに対応する。言語の指示表出は外皮では対他的関係にありながら中心で孤立している。
  しかし、これにたいしては、おなじ論拠からまったく相反する結論にたっすることもできる。つまり、あるひとつの作品は、たんにおなじ時代のおなじ社会のおなじ個性がうんだ作品にたいしてではなく、異なった時代の異なった社会の異なった個性にたいして決定的な類似性や共通性の中心をもっているというように。この類似性や共通性の中心は、言語の自己表出の歴史として時間的な連続性をなすととかんがえられる。言語の自己表出性は、外皮では対他的な関係を拒絶しながらその中心で連帯している(引用はすべて、『言語にとって美とはなにか』)。

 

 さて、文芸批評家の吉本は、『悲劇の解読』の「あとがき」で、「わたし」にとって、「事実的世界における生の体験を(言葉の体験を含めて)投入することができる唯一の場所」であり・「思想、理念、感性を解放できる……快楽原則に叶う」「作家論」は、「愉楽を感じながらできる」「どうやってもよいと考えている唯一の開かれた領域」である、と述べています。また、人間の存在様式が個・対・共同性にあるとすれば、「生の体験のさまざまな次元の重さ」は、「作品をたどる言語体験を凌駕する」という契機に遭遇すれば、「作品の批評を言葉からはじめるという戒律は自分自身から破られるにきまっている」、と述べています。すなわち、「作家論と作品論を混同するのは不当だといった類のたわ言は、文学と文芸批評を稠蜜な知的な探求の道具的存在にしてしまった者たちのいい草」であって、日本では、そうした「批評的な厳密さなどが口にされているのはただ知的な優越の誇示としてのみである」、と述べています。
 上記のことについて、吉本は蓮見重彦と対談しているのですが、その対談についても、近いうちに簡潔に整理してみたいと思います。