本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

私たちにとって、キリストにある自由とは? 神の子供となるとは?

 先ず以て、キリストにある自由とは、近代以降における、人間論や人間学的概念における、無媒介的な、自由な自己意識の無限性や人間に内在する神的本質という概念ではないでしょう。また、観念的な法的・政治的な自由という概念でもないでしょう。バルトは、神学における思想において、他在であって自在というヘーゲル哲学における自由の概念を包括し止揚するために、イエス・キリストにおける神は、「存在」上、「認識」上、神と人間との無限の質的差異において、また「自由」・「主権」において、そしてまた神性・単一性・永遠性において、三位一体の神として自己啓示する、すなわち「自由」・「主権」は、その神自身においてのみ「実在であり真理」である、と述べています。言い換えれば、人間における自由の概念は、あくまでも、啓示の出来事と信仰の出来事に基づくその啓示認識、その啓示認識に依拠した啓示の比論を通してのみ得られる概念である、と述べています。すなわち、バルトは、多くの哲学的神学を求めるヘーゲル主義者のエーバーハルト・ユンゲルのように、神と人間・神学と人間学との混淆・共働に基づいた啓示認識に依拠した存在の比論(感覚や知識を内容とする経験的普遍)の直接性を通して自由の概念を得てはいないのです。いわば、バルトの場合は、神と人間との無限の質的差異の下での媒介性があるのです。近代以降の神学の認識方法および概念構成においては、そうしない場合、すぐに、不可避的に、フォイエルバッハの宗教批判の対象そのもの・ハイデッガーの批判した「存在者レベルでの神への信仰」そのものに直通していくからです。このバルトのヘーゲル哲学を紙一重で超える超え方に、バルトの神学における思想があるわけです。
 さて、イエスが「聖霊の特別な働きとして約束」したものは、「慰め主」としての霊と「真理の御霊」ですが、聖霊は、聖書の中の「キリスト教原理を、覆いをとって明らかにする」・「キリストについて語ることができる能力」授与(ヨハネ一四・二六)であり、「上から」の「よき賜物」であす。この聖霊の注ぎ・注出により「聖霊を持つ」ということは、「キリストにおいて起こった和解にあずかること」であり、「キリストと共に、死から生命への」方向転換におかれるということです。この二つの方向転換において「イエス・キリストにあっての神の啓示の要素としての霊の本質」は、
1)「キリストにある自由」を意味しています。ここで、「キリストにある自由」とは、「キリストの奴隷」となることです。「キリストの奴隷」になるということは、ベタニアのマリアにおけるイエスに対する「全面献身」を原型とするということです。そのことは、私たち人間が、その存在・その思惟・その実践において、神の側の真実=主格的属格としての「イエスの信仰」=啓示の客観的現実性にのみ信頼し固執することを意味しています。この聖霊が、教会を「み言葉の奉仕」へと向かわせるわけです。また、
2)「聖霊はみ子の霊であり、それ故、子たる身分を授ける霊である」わけですから、私たちは「聖霊を受けることによって」、「イエス・キリストが神の子であるという概念」を根拠として、私たちは「神の子供」・「世つぎ」・「神の家族」であり、「『アバ、父よ』と呼ぶ」(ローマ八・一五、ガラテヤ四・五)ことができる、というわけです。そしてまた、「和解者が神の子であるがゆえに、……和解、啓示」の受領者たちは、受領者と授与者との無限の質的差異の下において、「神の子供」なのです。
 この記事の最初に述べた事柄に戻りますが、バルトにおいてはこれらの認識は、神と人間・神学と人間学との混淆・共働に基づく人間の恣意的・主観的な啓示認識の直接性に依拠したそれではなくて、あくまでもイエス・キリストにおける啓示の出来事と信仰の出来事に基づく人間の啓示認識、それに依拠した啓示の比論を通して得られた人間の自己認識なのです。(引用はすべて、『教会教義学 神の言葉』等によります)