本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

吉本隆明「宗教と自立」(『敗北の構造』)について

 ほんとうは、キリスト教の神学者や牧師や著述家は、正当性のある根本的なフォイエルバッハやマルクスの宗教・キリスト教批判に、ニーチェの宗教・キリスト教批判に、また、ブルトマン(その学派)に対する「『今日まさにこのマールブルクでは、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか』」というハイデッガーの揶揄・批判に、そして吉本の次のような批判に単純に根本的に答える必要があるわけです。しかし、キリスト教の神学者や牧師や著述家は、神と人間・神学と人間学との混淆・共働を声高に叫ぶだけで、誰一人として、それらの正当性のある根本的な揶揄・批判に対して、単純にしかし根本的に答えてはいません。ただ、口先だけで、自分の神学や教会の共同性は開かれていると声高に叫んでいるだけです。これでは、何も語らないのと・答えないのと同じです。「無神論的宗教批判との対決は、人間論のレベルと哲学的論証によって為さ」なければならないというパンネンベルクも、何も語らないのと・答えないのと同じです。ただ、その中でバルトだけが、神学者として、教会の宣教の現場において説教をする牧師として、神学における思想家として、単純にしかし根本的に答えることをしました。しかし、何度も言いますが、自然神学の系譜に属する「何らかの抽象でもって始められ、何らかの空論に終わるところの大学者の神学」者やそれに類した牧師・著述家たちは誰一人として、そのことを理解していませんし、理解しようともしません。これが、全キリスト教の現状なわけです。この今こそ、私たちは、たとえ拙くとも、また自分なりにであれ、信徒も共に考え発言すべき時でしょう。バルトも、次のように述べています――「教義学者(≪教授や牧師や著述家≫)は、信仰者としても、知識を持つ者としても、神がここでなし給うことに関しては、教会の誰か一人の会員よりも、よりよい状況にあるわけではない」。彼らは、先の正当性のある根本的な批判に対して単純にしかし根本的に答えることもせず、また平然と根本的な誤謬に「普遍性や組織性の後光をかぶせて語」っていることが多々あるのです。したがって、「教授でないものも、牧師でないものも、彼らの教授や牧師(≪や著述家≫)の神学が悪しき神学でなく、良き神学であるということに対して、共同の責任」を負っている、と。
 さて、吉本は、文芸批評家・思想家として、先ずマタイは偉大な「すぐれた」世界的な「思想家」である、と述べています。それは、その思想が地域性と時間性を超えた水準にある、という意味です。マタイは、古典古代の哲学(人間学)の後追い知識・信仰・神学においてではなく、純粋にその信仰・その神学において、吉本にそう批評させている点が重要でしょう。地域性を超えるとは、宗教の初源性は、村落共同体を支配している地域的な「迷信」・「掟」・「習慣」・「祭り」、すなわち「土俗宗教」にありますから、その土俗性を打ち破る・止揚する・克服するということ、すなわち人間の観念や現実に対して、その普遍性に切り込んでいく・異議申し立てをする・否定する水準の言葉・世界普遍性の水準を保有する、ということでしょう。
 吉本は、次のようなマタイ伝の例示をしています。「だれかがあなたの右の頬をうつなら」我慢しなさいではなくて、「左の頬をも向けなさい」という拡張の仕方は、「無抵抗主義……を、はるかえ超える」。「姦通」の問題は、他人の妻と関係してはならない、あるいは他人の夫と姦通してはならない、という社会倫理の問題であるけれども、聖書は「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」と人間の内面性の問題に拡張していく。最も重要な二つの掟のうちの一つである「隣人を自分のように愛しなさい」という第二の掟を守っていると答えた金持ちの青年に対して、イエスは、「持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と掟の拡張をしていく。これらの言葉は、自己欺瞞と偽善に満ちた市民的観点・市民的常識・市民的倫理を超えている。いずれにせよ、ユダヤ的律法の「内面化」による掟の拡張によって、原始キリスト教は世界普遍性を獲得している。その場合、単に地域性を超えているだけでなく、時間性をも超えて現在性を獲得している。また、その超え方は、すべての優れた世界思想がそうであるように、単純で根本的である。それは、党派的思想・党派性の問題の混在である。この問題は世界的な宗教の問題だけではない。世界的思想一般にもある問題である。フーコーが、宗教化・教条主義化・倫理化されたイデオロギーは、その啓蒙において他者に対して他律的な二者択一の倫理(善悪の判断)・「賛成」か「反対」かを強いるが、それは〈啓蒙の恐喝?〉であるから、「単純で権威的」で「他律性」を強いる「二者択一の形式で提出されるようなすべて」を、その存在・その思考・その実践において拒否して、新たな主体や自由や価値の構成に向かったのは、党派的思想・党派性の止揚を目指したからなのです。吉本は、「人間は、どんな社会でも具体的に生き、かつ生活しという場合には、……相対的に生き(中略)相対的感情で生き(中略)相対思想で生き(中略)相対生活で生きている……。そうだからこそ逆に絶対思想(≪党派的思想・党派性≫)を生みだすとか、それにひかれるということがありうる」、と述べています。。ここで、先の、マタイは偉大な「すぐれた」世界的な「思想家」である、に戻りますが、吉本は、原始キリスト教は、絶対思想(≪党派的思想・党派性≫)の課題に自覚的でないから、党派的思想を払拭できていない、と述べています。それだけでなく、吉本は、時間性も超えて現在性を獲得している、とも述べています。なぜなら、マタイ、原始キリスト教は、現存する偉大な優れた世界思想も、その党派的思想・党派性を止揚しそこから超出でき得ていないけれども、思想にとって重要なその党派的思想・党派性の止揚とそこからの超出の普遍的な課題を提示しているからです。
 さて、そのような絶対思想を生み出し他者と対峙する場合、本人自身がそのように「絶対的に生きられているかどうか」、また「真理はいずれにあるのか」という問題が生じる。したがって、絶対思想(党派的思想・党派性)は、その思想の認識方法および概念構成自体において、またその共同性の構成自体において、「自らの相対性」視座・自己相対化視座(吉本の場合は、思想にとっての普遍的な価値基準である大衆原像、すなわち時代水準によって変容する大衆像と大衆的課題の、自己思想への繰り込み)を持っている必要がある、と吉本は述べるわけです。すなわち、「自らの相対性」視座・自己相対化視座をそれ自体に有した思想・その思想の認識方法および概念構成や誰に対しても完全に開かれた共同性は、「絶対思想あるいは絶対感情と、相対的に具体的に生きている自分自身との矛盾」・空隙を包括し架橋する課題を、尖端的な世界思想(知識・神学)の頂きから再び意識的・自覚的に非知識へと下降する過程において扱うところに成立する、ということでしょう。吉本は、その課題に対して、偉大な世界思想一般と同じように、原始キリスト教・「マタイ伝の主人公は答えていない」、すなわち、それでは思想として「<自立>できない」、と述べています。ここに、偉大な世界思想一般・原始キリスト教の問題がある、と述べています。言い換えれば、思想が思想として自立できるためには、党派的思想・党派性を止揚・克服しなければならない、と述べています。そのためには、その党派的思想を止揚・克服できる客観的規準が必要である、と述べています。吉本にとって、それは、関係の絶対性、というものです。この関係の絶対性の概念は、次のように言うことができると思います。
1)人間は、生理過程の絶対的矛盾として観念(という概念)を生み出しました。そうしていったん生み出されたその観念世界は、自己増殖し、「宗教を生み、法律を生み、国家を生み、制度を生み」等様々な観念諸形態を生み出しました。そして、吉本は、その観念の世界は、人間の存在様式の三構造においてある、と述べています。それは、
2)第一に、人間が、個体として、自己が自己に関係する「個としての観念の世界」のことです。自分が自分と対話したり・自分が興味関心のあることを考えたりする時間は、「自分自身の世界」・個の世界の「形成」と「拡張」の時間を持っている、と言うことができます。第二に、その個体が、他の一人の個体と関係する「対・性」としての世界のことです。それは、その個体が、夫婦や「家族」や「恋人」として現れざるを得ない世界のことです。したがって、このことから、吉本は、先ほどの原始キリスト教における「姦淫するな」の掟は、人間の個体が他の一人の個体と関係する世界でのみ通用する真理であって、個の世界や共同性の世界にまで拡張したら、真理として成立しないので、党派的思想・党派性の問題を払拭することはできない、と述べています。すなわち、原始キリスト教には、そうしたことに対する無自覚がある、と述べています。第三に、原型として三人以上で構成される社会や法や国家や制度、職場での労働組合の共同性や集団性をつくった人間の個体の、そうした共同の観念・観念の共同性の世界のことです。人間の個体にとって、その世界は、身体を観念化してしか・観念を身体としてしか参加できないわけです。ほんとうはそれらを疎外したのはこちら側・価値そのものとしての個体にあるにもかかわらず、第一義的な価値性を共同の<規範>・共同の<規則>・法・政治的国家・制度に移行させそれらに従うという場合、その個体は、そこでは共同的な意識・観念として参加しているわけです。例えば、自分は百姓だから土地を手離したくないという要求と闘いを行使しても、国家に強制収容され、それは理不尽なことだと感情し考えても最終的に強制的に諦めさせられるのは、そうした共同の幻想が介在し、そうした共同の幻想にその個体が共同的な意識・観念として参加しているからです。
3)党派的思想・党派的共同性を超える自立的思想・誰に対しても完全に開かれた共同性にとっての普遍的な価値は、社会的存在の自然規定である大衆原像、すなわち社会構成・支配構成・文明・文化の時代水準によって変容していく大衆像と大衆的課題を、自らの思想・共同性にたえず繰り込んでいく点にある、ということです。この時、その思想・共同性は、そのリアリティを獲得できるのであり、反体制的でもあり得るわけです。また、ここにおいては、知識が世界的な尖端的知識にまで知識的に上昇していくことは、知識の自然過程でしかないですから、それは、知識のとって価値的な意識的自覚的過程ではなく、意味的過程である、ということです。したがって、この大衆原像の繰り込みにおける自立的な思想は、時勢や時流との同化・迎合、大衆同化・大衆迎合・大衆啓蒙とは全く違うわけです。
これらのことが、吉本の言う「たれがどう考えようと真理は真理である」という思想の構成の可能性という意味です。
 ただバルトだけが、その信仰・その神学の認識方法および概念構成・その教会共同の構成それ自体において、世界的思想家からする正当性のある根本的な揶揄・批判に対して、単純にしかし根本的に答えました。それは、次の事柄のことです。
1)神と人間との無限の質的差異――「神は天にいまし、汝は地に在り」。私にとっては、この神とこの人間との関係、ないしはこの人間と神との関係が聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である (『ローマ書』)。
2)神の側の真実=主格的属格としての「イエスの信仰」=啓示の客観的現実性のみ信頼し固執する信仰・神学 (『福音と律法』)――イエス・キリストにおける完了された究極的包括的総体的永遠的救済(史)、神学における思想の往還、知識的神学的教義学的頂からの意識的下降による「町や村や料理屋や宿屋の人間の現実的生活」・「貧しい、低きにいる民」・多くの被支配としての一般大衆・一般市民の像構成とその課題の包括、そのあるがままでの不信・非知に対する信・神学・教会の共同性の完全な開放性
3)「聖霊は、人間精神と同一ではない」・「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」 (『教義学要綱』)。人間の自由な自己意識の無限性(人間に内在する神的本質)および神と人間・神学と人間学との混淆・共働への批判
4)イエス・キリストにおける啓示の出来事とあくまでもその都度の神の自由な決断による聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく人間の啓示認識、それに依拠した啓示の比論を通した人間の自己認識、聖書証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」の時間的連続性との連帯
5)神の隠蔽性・秘義性、神の不把握性、終末論的限界、の概念
6)、神の側の真実=神の自己啓示 =イエス ・キリストの出来事=啓示の実在 =神の自己認識 ・自己理解 ・自己規定 =啓示の真理 、永遠 =超歴史 =啓示の時間 =救済史は 、常に 、人間が人間的に所有する人間の啓示認識 ・概念 ・教義 、人間の自己認識 ・自己理解 ・自己規定 、人間の時間 ・歴史の 、彼岸 ・外にある、という概念構成