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臓器移植の問題点

吉本隆明『超「20」世紀論 下』アスキーおよび吉本隆明ほか著『私は臓器を提供しない』洋泉社に基づく

 

 平成9年10月16日臓器移植法施行に伴った臓器移植について、吉本は、次のように述べています。
臓器移植に対する根本的な前提・原則
1)人間の精神には、身体の「感覚や運動を司る『動物器官』」・「大脳の感覚的な受容を第一義として」発達し・多様化し・変化する部分がある。この感覚に関わる精神の部分は、外界の変化、情報科学や情報工学の発達、その知識の増大・拡大や生活の利便性の増大・拡大によって、発達し・多様化し・変化する。また一方で、人間の精神には、内臓・臓器によって変化する・変化させられる心・精神の部分がある。この臓器(心臓・肺・胃等)に関わる心・精神の部分は、情報科学や情報工学の発達、その知識の増大・拡大や生活の利便性の増大・拡大によっても発達・変化しない。すなわち、人間の「心情」・「性格や資質」は、内臓・臓器の変化によって第一義的に変化する心・精神の部分である。古典・古代、ギリシャ・ローマ時代から人間の「資質、人間性……はそれほど変化」していない。この後者の事柄を考えた場合、臓器移植によって、その人の性格や資質を変えてしまう危険性がある。そうした臓器移植に伴う本質的な論議をしないまま、すなわち当事者と家族が、そうした臓器移植によってその人が「どうなるのかということについて確証が少しも得られていない」まま、またそうした移植後の追跡調査もなされないまま、そして「実証的な例」もなく・「検討もされていない」まま行われる臓器移植は、「危険な、未知数の問題をはらんでいる」。
2)まず、人間は自分の死を体験することはできない。また、死後に最後まで残るのは聴覚であり、臨死体験においても人間の五感のうち「聴覚」は「最後まで残」っていて、聴覚が視覚へ転化することで、当事者が上方から医療関係者の動きを眺める、ということはあり得る。ということは、臨死体験におけるイメージ形成は、聴覚によっている、ということができる。とすれば、すなわちまだ聴覚が残っている場合、上方から、自分の臓器が摘出されている場面を眺めるということはあり得ることである。このことは、恐ろしいことである。また、人間の五感のうち、「視覚は比較的新しい感覚で、五感は原始時代には未分化だったと考えられる」。したがって、古代遺跡の紋様の成立は、古代人の「未分化な感覚」に根拠がある、と考えられる。現代でも、そうした「未分化な感覚を持っている人がいる」。あるいは、「修練すれば、そうした能力を持てるようになる」とも考えられる。こうしたことを、科学における思想を持たずに、ただ単に科学を全体とすることで・絶太化することで「ウソだと決めつけてしまう……科学は古い」。
3)吉本は、「全細胞が死滅した状態」・「全細胞が死滅したときが死だ」と言ったフーコーの死の概念は、「疑問の余地のない死」の概念規定である、と述べています。死は、心臓死とか脳死とかの「点としては表せない」、時間的に「徐々に進行するプロセスであり、領域」である。したがって、現在の医者や厚労省や法律家の死の判定は、「死の本当の判定にはなりえない」。
4)個人の死と臓器移植の問題は、個別的に対処する以外にない。
臓器移植と人間の死
1)人間の死の判定基準としては、究極的には、第一に、全細胞が死滅するという「疑問の余地のない死」にある、第二には、例えば長い間人工呼吸器を付けて延命している人がいて、その人に愛情を身心ともに尽くした夫婦・肉親が「精一杯、手は尽くした、もういいです」と医者に人工呼吸器を外してもらう場合にある。
2)吉本は、加賀乙彦の、脳死は人の死であるが、「移植情報は誰でもアクセスできるようにすべきなのに、……国民に開示されていない」という考え方について、それは、「ウソ」の考え方である、と述べています。まず、本質的・究極的には、脳死は人の死ではない。そのような相対的な考えを全体化・絶対化して論じる場合、そのウソを隠蔽するために、さらに臓器移植情報の国民への開示を声高に叫ぶことになり、「一番悪いウソ」の典型である。なぜなら、先ず加賀は、人間の存在様式を均一化して論じている点に誤謬があるからである。また、夫婦・肉親の死の問題を、「国民に開示」されたい家族がいるわけがないからである。
 その加賀は、連合赤軍の「あさま山荘」リンチ殺人事件に関して、かつて「あれは精神的に異常な集団がやった事件」であると述べたことに対して、人間は「追い詰められた」場合、リンチも「やりかねないもの」である・「進歩主義者たちは、そういう人間性について無知」で「きれいごと……を吐く」・「市民主義者がよくやる典型的なごまかし」・「そして、……けっこう世間」的には「通用」してしまう事態、ほんとうはそのことは「困ったもの」である、と吉本は批判をしています。直近の例で言えば、猪瀬都知事が、いつも正義漢ぶって最後はオリンピック招致まで勝ち取ったその分だけ、さらに追い詰められて、辻褄が合わないことを脂汗を流しながら答弁するという、常識的には惨めで耐えられない恥さらしなことをやってしまうことも、人間はやってしまう存在である。
3)日本宗教連盟は、臓器移植法について、「人の生と死」は「宗教的、哲学的な問題」であるから、「参院で審議を尽くすべきだった」とコメントしていたことに対して、吉本は次のように批判しています。まず、日本宗教連盟は、人間の存在様式について全く無知をさらけ出しています。哲学は、個体性に関わる領域の問題であり、参議院は観念的な政治的共同性に関わる領域の問題です。そこには位相差があって、地続きではない。また、宗教家であるなら、「人の生と死」について答えられなければならない。それに答えられない宗教家は、<似非>宗教家である。仏教の解体を行った親鸞は、宗教家であり思想家でもある――このことは、親鸞が、思想の往還によって、信と不信、知と非知、仏教と非仏教とを架橋したことを意味しています。親鸞の信は、不信をそのあるがままで包摂しており、したがってその信は、不信に対してそのあるがままで完全に開かれていることを意味しています。その親鸞は、人はいつ・どのように死ぬか分からないから「死は不定」である、と認識しています。したがって、「おのずから」「弥陀の本願の光明」に包摂された一念だけでいい、と述べています。臨終時の念仏の重視も自力作善も駄目だ、念仏の多少も救いには無関係である。したがってまた、死とは、「生と死の中間時の『正定聚』」の境位の世界で、その場所は、生も死も、現世も浄土も、物事のすべてが見渡せる世界である、と認識しています。吉本にとっても、その還相の眼・視線――それは、「思想の原点」です。
4)現在の日本の社会は、人間関係等を含めて複雑化し、その分その複雑化した社会で生活する私たちは、誰であれ、無意識領域で死に遭遇する不安を増大させています。したがって、若者たちにとっても、死が日常性から遠いからといって、無意識領域に入ってくる「死に対する不安」がなくなったわけではない。その空隙を軽薄に埋めることを心得ているのが新興宗教である。その軽薄な「死後の世界」が無意識の不安を生きている若者を捕えるところに、新興宗教の興隆がある。死の問題だけに限って言っても、新聞記事やテレビのニュース映像等によって、日常的に電車に乗っていても・街中を歩いていても、いつなんどき刃物を持った狂乱者に殺傷されるか分からないという不安が意識領域でなくとも無意識領域に刷り込まれていく、日常的に多くの自転車や自動車の運転の在り方の状態を見ていると、いつなんどき自転車関連事故死や自動車関連事故死に遭遇するかもしれない、という不安が意識領域でなくとも無意識領域に刷り込まれていく、近い将来やってくるであろう首都圏直下型地震の情報が流されれば、いつなんどき地震による死に遭遇するかもしれない、という不安が意識領域でなくとも無意識領域に刷り込まれていく。
5)ドナー(臓器提供者)がレシピエント(臓器受領患者)を自分の意志で決定できない点に、臓器移植法の問題がある。ほんとうは、最低限、社会的にではなく、個別的に、近親を含めた両者の詳細な話し合いによる相互了解・相互承認が必要である。
6)理想的死に方については、吉本にとっては、「自然死的」なマルクスの死に方が一番いい――マルクスは、「椅子に座って話をしている最中、急に話をしなくなって、眠っているのかと思ったら死んでいた」。キリスト者としての理想的な死に方については、私にとって、バルトの死に方が一番いい――「イエス・キリストの名のみ」ということを「最後の言葉」として残したバルトは、「60年来真実に結ばれてきた友人のエドゥアルト・トゥルナイゼン」と電話で語りあったその「夜半のある時点に、誰にも気づかれずに死んでいた。彼は眠っているかのように横たわっていた。手は自然に、夕べの祈りの形に組まれたままだった」。