本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

カトリック作家・小川国夫と吉本隆明の<対談>小論

『<信>の構造「対話篇」非知へ』春秋社による――
 吉本が、信仰の観点から言ってもキリストの実在はたいして重要ではない、と述べたことに対して、文学的な正直さ素直さをもって小川は吉本に媚びることなく、「いや、問題です」、と答えています。そして、「自分を神だと言」った「神性」を本質とするイエスを「信じられなければ、宗教(≪信仰≫ではない)」とすれば、キリスト教「宗教(≪信仰≫)とは一体何かという根本的な問いになってきます。これがキリストが投げかけている問題ですね。ですから(≪人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍から言えば≫)信じられないことであるけれども、私は、保留しているわけです。そういうことを私たちの常識で腑分けしまってはならない、(≪終末論的にではあるが≫)やがて意味をあらわすであろうと思うんです」とも答えています。。この小川の言葉は、「ただ万人を憐み、万人万物を解する神様ばかりが、われわれを憐んで下さる」、「神さまは万人を裁いて、万人を赦され」、「最後の日にやって来て」、「……われわれに、御手を伸ばされる。その時こそ何もかも合点が行く!……誰も彼も合点が行く」。「主よ、汝の王国の来たらんことを」、というドストエフスキーの『罪と罰』の言葉と同じ位相のものであると言えるでしょう。また、作家である小川の「保留」の言葉は、神学者で牧師で思想家のバルトにおいては、その「超自然な神学」・信仰の認識方法および概念構成を意味していると言えると思います。
 吉本は『甦るヴェイユ』で次のように述べていますが、それは、キリスト者にとっても考えるべき非常に重要な事柄だと思います――『信仰者やイデオロジストの群れにいるものが、「信」を「不信」よりも上位なものとおもいちがえて、知らずしらず創造や懐疑の労を一切すてて、じぶんは何者でもないないのに、ひとをみくだした与太話にふけりはじめる。その瞬間から一切の「信」は滅亡にむかう。ヴェイユはこの「信」と「不信」の弁証法を徹底してつきつめている。宗教や理念では「信」は「不信」よりも下位にあるものだとしらない「信」は、すべて無意義か、無意味にむかっているのだ。ヴェイユは、それをまぬがれるまでつきつめている』。
 神学者・寺園喜基は、「平和に関するバルトの書簡」を私訳しています。そして、私の理解によれば、バルトの根本的な主張は次のとおりです――、バルトの平和の概念は包括的な救済概念と同じです。その救済概念は、「この世の神との和解」、「人間相互間の和解を直接その内に包含している和解」です。「神ご自身によって、イエス・キリストの歴史において、その生涯と死において、すでに完成され、死人からの復活においてすでに啓示されているような、和解」です。したがって、私たち人間によって初めて「完成されねばならないような和解」ではなくて、神の側の真実として「神ご自身によって確立された和解」です。「イエス・キリストにおいては神と人間が、しかしまた人間とその隣人が平和的」なのであり、「敵としてではなく、忠実な同伴者、仲間として、共にある」わけです。イエス・キリストにおいて平和は、「神ご自身が世界史のまっただ中に創造し見えるものとして下さった現実性」です。「この贈り物はただ、われわれがこれを受けとることを待っている」。したがって、私たちが「この事実に向かって、眼と耳を閉ざして生きているということが、悲惨」なわけです。そうした中で、私たちは「平和は戦争より善いものであるということを」くりかえし「断言せねば」ならないのですが、民族国家が存在する限り「それらのことは究極的に何の助けをももたらさない」ことは「明白」です。したがって、世界が必要としている革命的認識は、「世界はイエス・キリストにおける神の愛によってすでに解放された世界である」ことに信頼し固執して、「世界の救いを何かある国家的、政治的、経済的または道徳的な諸原理や理念や体制の内に求めようとしない」ところにある、というわけです。したがってまた、キリスト者とキリスト教会の責務は、神の側の真実である主格的属格としての「イエスの信仰」(福音)啓示の客観的現実性を宣べ伝えていくことにあるわけです。したがって、バルトは、この書簡を、信と不信・キリスト者と非キリスト者・知と非知とを架橋しその枠組みを取り除いたところで書いているわけです。バルトがイエス・キリスト「を信じる」・イエス・キリスト「に対する信仰のみを残した」ということを語る場合、主格的属格理解におけるイエス・キリストのもとで、また彼とともに、「これからは神の義、神の子の義、神自身の義をまとっている者として生きることを許される」のであるから、その感謝の応答として、またその告白・証し・宣べ伝えとして、「イエス・キリストが信じる信仰による神の義」にのみ信頼し固執することをのみ残した、ということなのです。そしてもちろんそれは、「生命の御霊の法則」・「汝斯く斯くならん」という約束のもとにおいてです。
 しかし訳者の寺園は、「イエスの信仰」を目的格的属格として理解しているために、ただ往相的な一方通行の信の上昇過程の場所からのみ、諸民族は「イエスキリストを信ずる信仰へと呼びかけられている」のであるから、諸民族をその希望である「イエス・キリストを信ずる信仰へと呼び出す」ところに、キリスト者とキリスト教会の責務がある、と理解してしまうのです。目的格的属格理解の場合は、寺園のように、一方通行的な信の上昇過程の場所しか持たないから、常に自分を信の立場にお
いて思惟し発言してしまうわけです。「信」と「不信」の啓示の弁証法を持たないのです。だから、橋爪に、正当性のある語り方で「『信仰の立場』を後ろに隠して、どこか押しつけがましく」、「上から目線で教えをたれる」と言われてしまうのです。この寺園に対して、バルトは、すべてのキリスト者とすべてのキリスト教会を含めて、諸民族は「イエス・キリストが信ずる信仰による神の義」にのみ信頼するように「呼びかけられている」のであるから、キリスト者やキリスト教会や諸民族は、徹頭徹尾全面的に、天然自然や人間的自然の一切に左右されない、全人間・全世界・全人類の救済・平和の希望である神の側の真実であるイエス・キリストにおける啓示の客観的現実性にのみ信頼し固執していいのだ、と宣べ伝えるところにキリスト者とキリスト教会の責務がある、と述べているのです。